◆プロローグ◆ようこそ『ASTERISK』へ
パチ、パチ、と夜の闇に火花が爆ぜる。
離れた大通りでは、「火事だ!」と叫ぶ人々の怒号と、近づいてくるパトカーや消防車のサイレンがけたたましく鳴り響いていた。そんな喧騒を背に、薄暗い歩道を一本のタバコを吹かしながら歩く男がいた。
身にまとっているのは、夜の街には酷く不釣り合いな、汚れのない白衣。男は騒ぎに目もくれず、野次馬の流れとは真逆の方向へと淡々と足を進めていく。
雑居ビルの一角。薄暗く古い階段を登り、錆びついたシャッターを押し上げ、重い鉄の扉を開ける。
「遅いよ!塁君!待ちくたびれたんだから!」
部屋に入った途端、中から白衣を着た小柄な少女が、頬をこれでもかと膨らませて怒鳴りつけてきた。塁と呼ばれた男は、背後の扉とシャッターを厳重に閉め、やれやれと肩をすくめる。
「すみません。相手があの異端者ですから、少し時間がかかっちゃいました」
平謝りしながら、塁は白衣のポケットから一通の茶封筒を取り出し、少女へと手渡した。少女はそれを、まるで世界一の宝物でも扱うかのように、目を輝かせて嬉しそうに受け取る。
封筒を逆さにすると、中からチリンと硬質な音を立てて滑り落ちたのは――5枚の『Bチップ』。
そして、そのチップの持ち主たちの顔写真と経歴が書かれた、5枚の書類だった。
「さぁ!始めよう!早く生まれ直させてあげるからねぇ」
少女は恍惚とした笑みを浮かべ、おもむろに大型パソコンのドライブへチップを差し込み、素早い手つきでキーボードを叩き始めた。画面の光が、少女の歪んだ歓喜を青白く照らし出す。
後ろでそれを見つめていた塁は、タバコの煙を吐き出しながら、低く冷めた声を漏らした。
「生まれ直させる、ね……。神にでもなったつもりですか?」
「神なんていないよ。いるのは私達、科学者だけだよ!」
少女は画面から目を離さず、傲然と、そして自慢げに言い放った。
*
(……ん……)
ゆっくりと、意識の底から這い上がるようにして、目が覚めた。
最初に見えたのは、見慣れない天井だった。いや、天井ではない。目の前にあるのは、滑らかな湾曲を描く透明なガラス。自分は今、何か細長いカプセルのようなものの中に横たえられている。
状況を把握しようと手を動かすと、コツン、と指先が硬いガラスに当たった。その音に気づいたのか、ガラスの向こう側から、タバコを咥えた男がひょっこりと覗き込んできた。
「お? 起きたか」
――誰だ、こいつ…ここ…どこだ…?
シュー、と気圧が変わる音がして、ガラスの蓋が滑るように開いた。途端に肌をなでる空気がふっと軽く感じられる。
侑李は上体を起こし、自分の手や足、身体のあちこちに異常がないかを確認する。
「どっか痛いところはないか?自分の名前言えるか?」
無遠慮に話しかけてくる男に、侑李は怪訝そうな視線を向けた。喉を鳴らし、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「俺は……しのみや……四ノ宮 侑李」
そう答えてから、ようやく目の前の男の「異様さ」に気がついた。
男の頬のあたりには、鈍い鈍色に光る『鱗』がある。さらに男が少し身体を動かした拍子に、背後から太く長い、爬虫類のような尻尾がのぞいた。
――トカゲ…いや…何かの爬虫類…?
侑李は視線を落とし、自分が今さっきまで寝ていたカプセル型のベッドを見る。見たこともない超高度な機材。いや、違う。見たことはないはずなのに、どこか既視感がある。……まるで、ゲームの世界に出てくる近未来のコールドスリープマシンのような…。
「……身体は…痛くない」
そう答えると、爬虫類男は満足そうに短く息を吐いた。
「なら問題ないな。んーと……ひとまずこれに着替えろ。もうすぐチビが来る」
バサリ、と無造作に軽い衣服を投げ渡される。それを反射的に受け止めながら、侑李は自分の胸の内に、奇妙な違和感を覚えていた。
(なんだ……? なんで俺は、こんなに冷静なんだ?)
普通なら、こんな異常事態パニックになって喚き散らしてもおかしくないはずだ。なのに、心臓の鼓動は驚くほど一定で、冷徹なまでに現状を分析しようとしている。服を着替え終えた、その時だった。
――バーーーーン!!
「ようこそ!ASTERISKへ!」
勢いよく扉が開いたかと思うと、小さな影が猛スピードで飛び込んできて、侑李の身体に思い切り抱き着いてきた。
小柄な少女。だが、その頭頂部にはピコピコと動く猫耳があり、お尻からはしなやかな尻尾が生えている。白衣を着た、猫の獣人の少女。
「……ASTERISK?」
侑李が怪訝そうに首を傾げると、猫耳の少女は抱き着いたまま、きゅるんとした瞳で侑李を見上げて微笑んだ。
「そう!君を構築した世界。ここはASTERISK!今日から、君の家になる場所だよ!」
少女は満足そうに身体を離すと、嬉しそうにくるくるとその場ではしゃぎ回り始めた。後ろでそれを見ていた爬虫類男が、呆れたように頭をかく。
「いや、まだ本人が決めてないでしょ」
繰り広げられる奇妙なやり取りを、侑李はただ見つめていた。
俺は、四ノ宮 侑李。どんなに脳の引き出しを探っても、出てくるのはその名前だけだ。
親の顔も、通っていた学校も、自分がどんな人生を送ってきたかも、何一つ思い出せない。
なのに――記憶が消えていることに対して、恐怖も、疑問も、全く湧いてこないのはなぜだ。自分の内側にある底知れない不気味さに、侑李が思考を巡らせていると、爬虫類男が顎で出口を指した。
「ほら、付いてこい。これからのこと説明してやる」
「……あ、ああ」
侑李は小さく頷き、歩き出した2人の背中を追って、一歩踏み出す。
かつて生前の彼が待ち望んでいた『ASTERISK』とは全く違う、酷くリアルで残酷な電子世界の中へと。