時よ止まれ

 手負いの獣ほど恐ろしいものはない。
 それは知っていたはずだった。しかし、知っているのとそれを警戒するのとではまた違うのだと、鯉登は杉元を通して知った。
 しかし、知った時にはもう既に遅く、身体を穴だらけにした杉元に銃口を向けているだけで有利と考えたこと自体が浅はかで、気づいた時には胸にナイフで貫通するほどの深々とした傷を与えられていた。
 その時、月島の声が聞こえたと思ったがもはや身体に力が入ることも無く、情けなくも杉元に完敗した挙句、重傷を負った鯉登だった。
 そんな大泊からの帰りの船の中、父が艦長を務める船内にて、ハンモックに吊るされながら、うとうとと眠り胸の傷の痛みに耐えていた。
 悔しいと思う。そして、心底に情けない。
 何処までも甘ちゃんな自分が恥ずかしいとも思う。あの時、もっと違う形で行動できていたら、こんな屈辱的な傷は追わなかっただろう。現に、鶴見は一度も見舞いに来てくれない。
 その代わり、月島は毎日のように、まるで傍に居るのが義務のようにして、鯉登が目を覚ますと居なかったことがないくらいに、寄り添っていてくれる。
 そのことが嬉しく、そして少しだけ悲しかった。あの時、もう少し早く月島の注意を聞いていたならば、そう思うと、月島に申し訳が立たないのだ。
 傷は、少しずつは癒えているのだろうが船医の話だとかなり重傷を負っているらしく、絶対安静らしい。
 確かに、身体に力が入らない。立ち上がろうとしても、自分独りでは立つことさえもままならない。食べ物がのどを通るわけでもなく、月島が持って来てくれる粥にも満たないコメの汁のようなもので生命を繋いでいる状態で、それも月島がスプーンで掬って食べさせてくれるから食べられるのであって、自分では食べることもできない。
 そんな日々を送っていたある航海の夜。
 ふと眼が覚めた鯉登は、丸窓の外から月光が降り注いでいたことで今が夜だと知ることができた。 それに、船内も静かだ。この時間だと、月島はきっと別室で眠っていることだろう。
 しかし、のどが渇いた。水が飲みたいが、自分では動くことができない。鯉登は、無意識のうちに想い人の名を呼んでいた
「……月島、月島!」
 だが、ほんの小さな声しか出ず、これでは月島どころか誰も気づいてくれない。
 困ったことになったと考えを巡らせていると、何故分かったのだろう月島が小さなノック音と共に部屋に入って来たのだ。
 そして鯉登が起きているのが分かったのだろう、すぐに傍らへ寄ってきてくれ、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「何故か呼ばれている気がして来てみましたが、だいぶ熱が出てますね……顔が赤い」
 そう言った月島の手が額に宛がわれると、その冷たさが気持ちよくつい目を瞑ってしまう。
「そうだな、熱くてたまらない。月島、のどが渇いた。水を……」
「水ですね。分かりました、ちょっと待っててください。すぐに取ってきます」
 だがしかし、月島の手は気持ちイイ。離れて欲しくなくて、思わずじっと月島を見つめてしまうとその視線に気づいたらしい。
 もう片方の手が頬を包み込み、そのごつごつとした手のひらから冷気が伝わってきて、思わず擦り寄ってしまうとごぐっと月島ののどが鳴ったのが分かった。
「はあっ……冷たくて気持ちイイ。いいな、月島の手は。いつもは私の方が冷たい手をしているのに、なんだか不思議だ」
「あの、水は……」
「もうちょっとくらいいいだろう。お前の手を堪能させてくれても。私たちは交際してるんだぞ。恋人が高熱を発していたらお前ならどうする?」
「……冷やして差し上げます」
「ん、いい返事だ」
 だがしかし、すぐに月島の手は温まってしまい、それでも離れて欲しくなかった鯉登だが、だんだんとまた自分の意識が遠くへ沈んでいくのが分かった。
 鎮痛剤の中に睡眠薬も少量だが含まれていると船医が言っていた。その所為だろう。
「つき、しま……」
 そのまま鯉登の意識は、がくんと暗闇へと落っこちていった。
 次に眼が覚めても未だ夜で、月島の姿が無い。何処かへ行ってしまったようだ。自分は水が欲しいと言ったのに。
 そんな文句が口から漏れ出そうになると、ふと下に黒いものが見え、目を凝らして見てみるとそれは月島で、床に座り込んで手には水の入ったグラスを持っている。そしてそのまま、眠っているようだ。
 鯉登は動かすのさえ億劫な腕を上げ、手で月島の軍帽を引っ掻いた。
「月島、月島起きろ。水をくれ」
「ん……あ、ああ。起きましたか。なかなか起きてくれないものでつい。すみません、水ですね」
 しかし、今の鯉登に起き上がるのは難しく思えた。他の人間なら容赦なく、介護有でも身体を起こされるのだが、月島はそうしない。
 つい甘えたが発動してしまい、じっと月島を見た後、こう言って誘ってみた。
「月島、私が起き上がれないことは知っているな? 水は、口移しで頼む」
「くちっ……?」
「そうだ、口移しだ。なんだ、接吻など何度も交わしているだろう。それの延長だ。頼む」
 自分の顔が赤くなっているのを感じながら、鯉登がじっと待っていると、ノロノロと月島が腰を上げ、そして屈みこんでくる。
 未だ水を口に含んではいない。だが、そのまま月島は近づいてきて、唇に軽い口づけが落とされる。
 すると、ふわっとした柔らかい唇の感触がして、次いで月島の味も感じる。相変わらず、優しい味だと思う。
 そのまま唇を吸われ、顔が離れていって徐に月島が水を煽ったと思ったら間髪入れず、口づけられ、口を開くとこぽこぽと冷たい水が咥内へと流れ込んでくる。
 その月島の味のする水を、のどを鳴らして飲み下す鯉登だ。冷たい水がのどを通るのが気持ちイイ。
 それに、これはなかなか贅沢な水の補給の方法だ。月島と何度も口づけることができるのは嬉しい。理由はいくつあったって、不自由はしないものだ。
 そのまま何度も唇を合わせ、水を飲ませてもらいグラスが空くと、月島が屈みこんでグラスを床へと置き、ずいっと至近距離で見つめてきて、鯉登も見ると見つめ合いになり、月島の顔が苦しそうに歪む。
「あなたが胸を刺された時……心臓が止まるかと思った。このまま死んでしまうのか、あんな場所で、あんな死に方で、そう思うと、胸が張り裂けそうでした。生きていて、良かった……音之進……」
「月島……」
 こんな言葉は初めて聞く。月島の心からの本音だろうそれに、鯉登は涙が滲んでくるのが分かった。
「そんなに簡単には死なんさ。お前がいてくれる、なにも怖くない。だが、情けないとは思う。それに、恥ずかしい。やはり私は、何も分かっていないボンボンの坊ちゃんだ」
「……そうですね」
「おいっ! そこは否定しろ! お前まで私をボンボンと呼ぶのか」
「あの山猫と一緒にしないでください。私は……ただ、もっと自分を大切にしてくださいと言いたいんです。もっと危機管理能力を高めて……」
「分かっている! ……だが、本当には分かっていないから、こうなったんだろうな」
 深く溜息を吐くと、そっと月島が動き、ハンモックごとぎゅっと抱きしめられてしまい、胸の傷が少し痛んだが、久しぶりの熱い抱擁の心地よさについ、目を瞑ってしまう。
「久しぶりだな、こうして抱きしめてくれるのは。前はよく人目を気にしながらでも抱き寄せてくれていたのに」
 するとさらにきつく抱きしめられ、思わず息が止まる。
「これでも、我慢していたんですよ。あなたに触れるのは、あなたのことを許してからと決めていましたから。もっと考えて行動してください。今のあなたでは生き残れない。私はあなたに、生きてもらいたい。こんな気持ち、初めてです……あなたが、私の初めてをことごとく奪っていく、そんな相手に出逢えたことこそがきっと、私の救いなんだと……」
 言葉は続かず、その代わりに、ぎゅううっと月島の腕に力が籠められる。さすがに、傷に響くのかひどい痛みが鯉登に襲い掛かる。
「いた、痛いっ! 痛いぞ月島! 少しは加減しろ!」
 するとすぐに拘束が解け、困り顔の月島が顔を覗き込んでくる。
「え、あ、ああ。すみません。つい……でも、もっと賢くはなってくださいね。あなたは頭はいいが行動がそれについていっていない」
「はは、手厳しいな。だが、お前の言うとおりだ。私はまだまだだな。お前にも追いついていない。私はお前の上司なのに、弱いままだ。……情けない」
「鯉登少尉殿……接吻をしてもいいですか。あなたに、触れたい」
 その言葉に、一気に顔に熱が集まってくる。こんなことを口に出す月島の珍しさに、動揺が隠せない。
 いつも強請るのは鯉登の方で、てっきり月島はいやいや付き合ってくれているんだとばかり思っていたのに、そうではなかった。
 そのことが、鯉登の心をふわふわと甘い気分へと押し上げていく。
「接吻、してくれるのか。嬉しいな。さっきもしたが……奇遇だな、私も未だ足りないと思っていたところだ。……してくれ、月島」
「音之進……」
 ふわりと重なる二人の唇。その甘い口づけに、鯉登は暫し酔った。
 触れるだけのそれは、いつしか啄むような口づけに変わり、互いの唇をひたすらに吸っては、舌を出してちろちろと舐め合ったりと、まるで遊びのような口づけを繰り返す。
 そのうちにだんだんと深いものになっていって、鯉登が誘うように舌を伸ばすとそれを月島の舌が絡め取り、互いの舌に乗った唾液を啜り飲み合う。
「ん、んんっ、は、はっ……んンッ、つき、しまっ……!」
「音之進っ……」
 一度唇が離れると、汗をかいて額に張り付いた前髪を、月島の指先が払ってくれ、その優しさに対して笑むと、また口づけが降ってくる。
 どれを取っても優しいと思える。
 この甘い時間が終わるのが、心底に惜しい。いつまででも続けばと思うほど、その願いからいつも遠ざかっているような気がするのだ。
 月島と居る時間だけ、一日二十四時間が三十時間くらいになれば、満足できるのだろうか。
 時間はそんなに甘くない。そして、立場も環境も鯉登と月島に優しくない。
 早く傷を治して、月島と居る時間を増やさなければ、この不満は一生解決しないだろう。早く、早く早く。
 けれど今だけ、時よ止まれ。

Fin.
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