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 夜。十二時を少し過ぎて、カチャリと静かに玄関のドアの開く音がした。すぐにあきらの「ただいま」という声が聞こえてくるものだと思っていたけれど、一向に聞こえてこない。もしかして……、と嫌な予感がして、私は玄関に向かった。
「晃?」
 明かりはついておらず、玄関は暗い。しかし小上がりに人の気配がある。……晃だ。蹲っている。
その体が震えているのが、暗がりでもはっきりとわかった。
「どうしたの、」
 そう声をかけた瞬間だった。
 びしゃびしゃびしゃっ、と水音。暗がりの中、よく見えないけれど、床に飛び散ったそれが窓から差す月明かりに照っているのが見える。晃の嘔吐の跡だった。
「ちょっと、晃。……晃」
「っ、う、……ごめ、汚した」
「そういうのいいから。どうしたの、どこか悪い
の?」
 晃はお酒を飲む仕事をしているけれど、酔って吐いたことなんて今まで一度もなかった。それに近づいてみても今日の晃からはお酒の臭いはしない。今日はあまり飲んでいないのだろう。お酒ではないとすれば、考えられるのは体調が悪いこと、それくらいだけれど。
「……なんでもない」
「なんでもないなら吐くわけないでしょ、ちゃんと教えて」
「ほんと、……なんでも、ない」
 嘘だ。私じゃなくてもわかる。それくらい今日
の晃の嘘は酷い。
「どうして嘘つくの、晃」
「…………」
 晃は俯き、黙っていた。
 けれど、ふっと急に立ち上がり、私を押して退かしたかと思うとそのまま家の中へバタバタと駆けていった。晃はいつだって私に優しい。こんな手荒な扱い、いつもだったら絶対にしないのに。
 まだ気分が悪いのかな。ますます心配になって
きた。
 案の定、晃はトイレの中だった。床にしゃがみこみ、首を垂れ、ふうふうと苦しげに息をしている。ドアを閉める余裕もなかったのだろう、その姿は廊下から丸見えになっている。
「大丈夫? ……じゃないよね。私、お水もって
くる」
 震えている背中をそっと撫で、そう声をかけ、トイレを離れてリビングに向かう。コップに水を注いでいる最中、抑えきれなかったのか、げうっ、げろろろろっ、と酷い嘔吐き声がトイレの中から聞こえてきた。かわいそうに、かなり気分が悪いらしい。
 でも、どうしてだろう。晃の弱っている姿を見ると、なんだか愛しいと思ってしまう。たとえ他の人が同じ状況に置かれていたとしても、きっとそんなことは思わないのに。母性本能というやっだろうか。胸がぎゅっとなって、いてもたってもいられなくなって、守ってあげたくなるのだ。
 お水をコップに汲んでトイレに戻る。晃はぐったりとしていたけれど、私が来たのに気づくと「……ゆうさん」と呟いて、バツが悪そうに俯いた。
「はい、お水」
 そう言ってコップを渡す。私は晃の後ろにしゃ
がみ、ゆっくり背中をさすった。
「まだ吐きそう?」
「……わかんない」
「お腹の風邪かな。それとも食あたり?」
 ううん、と晃は力なく首を横に振った。
 どうしてはっきりと否定できるのだろう? その疑問はすぐに解けた。なにげなく覗いた便器の中、水面に、白い塊の浮いた吐物が見えたからだった。
 ……まさか。
「晃、薬飲んだの」
 ハッとして晃の腕を取った。分厚いトレーナーの袖に阻まれているけれど、わかる。晃、切ったんだ。
 しまった。最近は病状が安定して自傷することも少なくなっていたから油断していた。
「見るよ、いいね?」
私にバレたとわかると晃は人形のように固まってしまった。怯えているのだ。仕方がない。晃の過去や受けてきた仕打ちを思えば、そうなるのも頷ける。
 袖を控ると鮮烈な刺青が現れた。見慣れているので驚きはしないけれど、問題はその下だった。
皮膚が鋭い刃物で切りつけられたようにズタズタに裂けている。脂肪が見えていないだけマシだけれど、こりゃまた深くやったな、と少し呆れてしまった。
「……ご、ごめんなさい、おれ……また、」
 ひゅっ、ひゅっ、と引き攣ったような呼吸音が耳をつく。まずい、このままだと過呼吸を起こしかねない。
「いいよ、私がなんとも思わないの知ってるでしょ? 心配も同情もしないよ。だから気にしな
い」
「……でも、」
「晃。私の目、ちゃんと見て」
 そう言うと晃は全身をカタカタと震わせながらも覗くように私の目を見た。
「いい子いい子。ほら、おいで」
 腕を広げてみせると晃はわっと弾かれたように泣いて、私の胸に縋りついてきた。胸が晃の涙や涎で濡れていくのがわかるけれど、不快ではなかった。
 いや……、むしろ心地いい。

(ふふ、かわいい。私しか知らない、私だけの晃)


   *

「……ごめん、さっき。また変なとこ見せた」
「はいはい、謝らないって約束でしょ」
「そうだった。……ありがとう」
 晃は毛布にくるまったままソファに横になっている。先ほどのことを恥ずかしく思っているのかなかなか顔を見せてくれないけれど、そんな態度もいじらしい。
「言いたくなかったら別にいいけどさ、なにがあった?」
 フラッシュバックを起こしてしまう可能性もあるからこういうことはあまり聞かないほうがいいけれど、今の晃の様子を見る限り、もう大丈夫そうだと思ってそう聞いた。
「ん……帰りにさ、コンビニ寄ったんだ。ほら、行きに頼まれてたでしょ、切手。……あ、ごめんそういえば買ってこれなかった」
「ああ、別に大丈夫だよ。急ぎじゃなかったし。
それで?」
「うん。……行ったら、親子かな。店の入り口の前に若い女の人と、小さい男の子がいて。女の人が男の子を大きな声で叱ってて、その時点であ、もうだめかもって思ったんだけど、……そしたら、」
「あー、わかったわかった。いいよ、それ以上は」
「……ん」
 そこで見るか聞くかしてしまったのだろう。なにかトラウマを挟る言動を。
 よくあることだった。朝、晃が起きてこなくて、寝室を覗いてみるとつけっぱなしのテレビに映っていた虐待のニュース映像でフラッシュバックを起こして嘔吐していたり、過呼吸になっていたり。
 本人いわく「大丈夫なときは大丈夫」らしいから、今日は大丈夫じゃない日だったのだろう。
「辛かったね。話してくれてありがとう」
「……ん」
 晃は頭まで被っていた毛布を少し下にずらし、遠慮がちに私を見た。
「どうしたの、晃」
「……美有さん」
「なぁに」
「…………美有さん」
「どうしたの。甘えたくなっちゃった?」
 冗談のつもりだった。しかし、否定されないところを見ると、どうやらそういうことだったらしい。ああ、かわいい。愛おしい。思わず口元が緩んでしまう。
 ソファに腰かけた私の腿に晃が頭をすり寄せてきたので、そのまま腿に頭を乗せてあげる。甘い栗色の髪がさらりと滴り、彼の白い耳朶を隠した。なにやらいけないことをしているような感覚に陥る。……だって、晃が美しいから。まるでローマの彫刻のように。美しくて、儚くて。
「寝ていいよ、疲れたね」
「……うん」
「私がずっとそばにいてあげる」
 そう言って瞼をそっと手で覆うと、晃はすぐに寝息を立ててしまった。眠ると晃の顔はあどけない少年のようになる。出会ったあのころの表情よりもうんと幼くなるのだ。

 そして、こんな時間が永遠に続けばいいのにと、私は本気で祈るのだった。永遠など在りはしないのだと、わかってはいても。……
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