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十六歳

 ぐしゃぐしゃになった目元を手のひらで覆って、泣いているのをだれにも見られないように俯いて、おれは水谷に支えられたままふらふらと歩き続けた。
 そして促されるがままに入ったのは、駅のはずれに佇む小さなマンションの一室だった。ひっそりと水谷とだけ表札の出ているそこは、紛れもなく水谷の家で。
「ッ、ぇ……ぅえ、ッ、えぇッ」
「あーもう。おまえさ、吐くなら言えって」
 びちゃびちゃびちゃッ、と吐物がフローリングに叩きつけられる音がして、水谷が呆れたように息をつく。
「はっ、はっ、……んぅ、ぐ、ぅ」
「あー! ちょっと待て、袋もってくるから」
 バラバラと靴を脱ぎ捨て、水谷が廊下の奥へ駆けていく。支えがなくなっておれはずるずると床にしゃがみ込んだ。そのあいだにも胃の底から酸が上がってきて、ぐぶ、という濁った音とともに吐物がびたびたと床へ吐き出された。
「…………ッ」
 どうしよう、人んちで吐いた……それも水谷の家で。
 どろどろになった手や服、フローリングをぼんやりと見つめることしかできなかった。トクトクと胸が早鐘を打っている。恥ずかしさと申し訳なさが込み上げてきて胸が張り裂けそうだった。
 しゃがみ込んでいると、水谷がビニール袋とタオルを手に戻ってきた。
「まだ吐くか?」
 尋ねられて、首を横に振る。もう胃の中は空っぽだった。
「じゃあとりあえずこれで手ぇ拭いて、落ち着いたら風呂な」
「……わりぃ、」
 おれがそう呟くと水谷はガリガリと頭を掻いて「まー出ちまったもんは仕方ないけど」と続けた。
「おまえさ、こんな体調でどこ行くつもりだったの」
「……」
「まぁいいけど。今は気分どう?」
 さんざん吐いたおかげで気分はだいぶ楽になっていた。俯いたまま「もう大丈夫」と呟き、続ける。
「ここ片づけるから拭くもん貸して……あと消毒も、」
 そう言うと水谷は「あー、いいよ。気にしなくて」と小さく頭を掻きながら笑った。柔らかい笑みだった。水谷がおれにこんなふうに笑いかけるのは、そういえば今日が初めてだった。
「気分もう大丈夫ならさっさと風呂に行って。新しい服あとで貸してやるから、とりあえずその汚れたのぜんぶ脱いで」
「……わりぃ」
「いーって。なんかおまえがしおらしいと調子が狂うわ」
 服を脱ごうとするも、水分がぺったりと肌に張りついていて離れない。なんとか剥がすと「そのへん置いといて」と水谷がフローリングを指した。
「風呂は突き当たり右のドア入ってすぐ。タオルは棚にあるやつ適当に使って」
「……ん」
 ふらふらと廊下を歩き、浴室のドアを開ける。男のひとり暮らしだろうが、よく手入れのされたバスルームだった。壁や床すべてが白く、鏡もきれいに磨かれている。
 コックをひねり、シャワーを浴びる。冷え切っていた体をお湯で流すと、体の表面から内側へ徐々に熱が染み渡っていくようで心地よかった。ぼーっとしていると涙が溢れてきそうで、泣かないぞと固く胸の内で呟いていないとたちまち涙が溢れてきてしまいそうだった。

   *

 風呂から上がったころには体もすっかり温まって、気分もだいぶ楽になっていた。
 言われた通り、棚からタオルを取って髪を拭う。服はどうしよう、とあたりを見ると、バスマットの上に畳んだ服が置いてあるのを見つけて拾い上げた。
 長袖のトレーナーと短パンだったが、身につけてみるとどちらもおれには少し大きくて、袖や裾がわずかに余っている。おれだってそんなに小さいほうじゃないけど、そういえば水谷のほうがおれよりやや体格がいいような気がする。
 身につけた服からは、かすかにシトラスの匂いがした。うちじゃ兄さんが甘い匂いの洗剤ばかり好んで使うから、なんだか変な感じ。
 タオルを首に掛けたまま、リビングのドアを開ける。キッチンにいた水谷が、音に気づいて「早かったな」と振り返った。
「服、サイズどう?」
「ちょっとでかいけどいい感じ」
「ならよかった。じゃ、とりあえず座ってていいぞ」
 そこ、とリビングにある白いソファを指されて、おれはゆっくりと腰を下ろした。
 広い割に物の少ない家だった。リビングにはソファとテーブル、小さなテレビが置いてあるが、逆にそれ以外の物はほとんどない。
 ただ、ふと目をやったテレビボードの上にいくつか女物のコスメが置いてあるのを見つけて、なんとも言えない気分になった。きっと、よく家に遊びにくる女の恋人がいるのだろう。そういえばバスルームにはシャンプーやコンディショナーがふたつずつ置いてあったし、洗面台にはコップや歯ブラシなんかがそれぞれふたつずつ置いてあったっけ。
「紅茶。飲めるか?」
 キッチンにいた水谷が、白いカップを片手に戻ってきた。そしてカップをテーブルに置き、フローリングに腰を下ろしてそう尋ねた。いつも教壇の上で鋭く光を放つ切れ長の瞳も、今ばかりはどことなく優しかった。
「……さんきゅ」
 透き通るようなルビー色の紅茶だった。カップを口元まで持っていくと、フルーツの甘い香りがふわりと立ち上がった。こくりとひと口、まだ熱の冷め切っていない紅茶をすする。その瞬間、なぜだろう——胃の中心にぽっと火が灯って、それが血流に乗って体じゅうを緩やかに駆け巡って——それまで引っ込んでいたはずの涙が、また溢れて止まらなくなった。
「ッ、ひ、っく……ふ、ぅ、うぅ、」
「あーあー泣くなって、もう……」
 仕方ないな、と呟いて水谷が、おれの手にぐしゃりとティッシュを押しつけた。
「ほら拭け、顔ぐちゃぐちゃだぞ」
「……ッ、ふ……うぅ、う、」
 顔だけじゃない。心までぐちゃぐちゃだった。泣きすぎて頭も痛い。今さら遅いとわかっているのに、泣いているのを見られたくなくてティッシュでごしごしと目元を拭った。
 おれはソファに座ったまま膝に顔を埋め、すんすんと鼻をすすりながらしばらく縮こまっていた。そのあいだ水谷はなにも言わず、ただおれの背中をさすり続けてくれていた。
「…………」
 その手の大きさと温もりの中に、おれはどうしても兄さんの影を見出さずにはいられなかった。だって兄さんはおれが苦しいとき、いつもこんなふうに背中をさすってくれた。
 それを思い出すと寂しくなって、胸がぎゅっと痛んでどうしようもなかった。

   *

「……話、聞いてほしいなら聞くけど」
 ようやくおれの嗚咽が落ち着いてきたころ、水谷がぽつりと切り出した。
 おれは膝から顔を上げ、目を開けて少し笑った。水谷の不器用さがおかしくて、つい「下手かよ」と溢していた。先ほどまでのあの泣きたいくらいの胸の痛みは、知らないうちにどこかへ消えていた。
「そうやって言われて『辛いので話を聞いてください』って素直に言える男子高校生がどこにいるかよ」
「はぁ……ようやくいつもの調子に戻ったか。かわいくねぇな」
「なんだよ。どーせかわいくねぇよ、おれは」
 そう言ってそっぽを向くと水谷はやれやれといったふうにおれに向き直って、小さく「なにがあった」と尋ねた。
「……長くなるけどいい?」
「いいよ」
 テレビボードの上のデジタル時計がちょうど二十二時を示した。おれは少し俯いて折り曲げた膝の上に肘を置き、頬杖をつくと静かに話し始めた。

「…………おれさ、望まれて生まれた子どもじゃねぇの」
 そう言うと水谷はしばしの沈黙ののち、そうか、と呟いた。さして驚いてはいない様子だった。おれは構わず続けた。
「だから親父はずっとおれのこと憎んでて……おれが出来損ないなのもいけねぇんだけど、それでガキのころからさんざんな扱いだった。でも母さんはおれのこと愛してくれてた。だけどその母さんもおれがガキのころに死んで」
 思えば母さんが生きていたあのころがいちばんお幸せだった。そして、あのころ以上の幸せはきっともう訪れない——そんな予感に似た確信があった。
「おれは自分のこと不幸だなんて一ミリも思ってないし、むしろ恵まれてさえいると思う。親父はクソだけど衣食住なにひとつ不自由ない暮らしさせてくれてるし、それに優しい兄さんもいるしね。それでもこう……たまにもうどこにもいたくないなって思う、そんな夜がある。で、今日がたまたまそういう夜だったってわけ」
 ——こんな話、今まで一度だってだれかにしたことはない。それがなぜ今ここでするすると口をついて出てきたのだろう。ふしぎで仕方なかった。でも、こいつにならなにを話してもいいかなと、なんとなくそう思えたのだった。
「あぁ、それでおまえ腕切ったり薬飲んだりしてるの」
 だからそう言われても、驚きはしたものの「……そうだけど」と特に否定することもなく頷いていた。
「なんで、」
「服、左腕だけ血まみれだったろ。だからなんとなく。薬のほうは悪いけどゲロ見りゃ一発だった」
 あぁ、それもそうだよなと呟いてガリガリと頭を掻く。あのときは気分が悪くてそれどころじゃなくて、そこまで頭が回らなかった。そういえば家を出る前にかなり腕を切っていたし、薬もいつもより多く飲んだような覚えがある。
「んで、ついでにポケットからこれも出てきたんだけど」
 そう言って水谷がテーブルの上に置いたのは、くしゃくしゃに潰れた煙草の箱とライターだった。アイボリー色のピースに、使い込まれた水色の百円ライター。どちらも見覚えがある。
「よくもまぁ未成年でこんな強い煙草を……俺、今日は仕事じゃねぇからうるさくは言わねぇけど。もうやめろよ」
「…………」
「ていうか。俺さ、ずっとおまえのこと誤解してたわ」
 てっきり咎められると思っていたのに、思いがけないアクションに一瞬「……え」とたじろいだ。
「おまえのこと、もっとどうしようもないやつだと思ってた。授業いつも怠そうにしてんのも、頭いいからって調子に乗ってるんだろって。ずっとやなガキだと思ってた。でも違ったんだな。人より傷つきやすくて、生きるのに必死なだけだったんだ」
 そう言われるのは小っ恥ずかしかった。正直、外ではそういう「やなガキ」を進んで演じていた部分があったからだ。それは本当のおれがこんなにも惨めなやつだとだれにも知られたくないからで——その仮面が外れてしまった今、転がっているのはその惨めなどうしようもないおれだった。
「……さいあく。それがバレたらおれもうどうしようもないよ」
「いいだろ別に」
「よくない。おれプライド高いから」
 そう言うと水谷がふっと笑った。おれは膝を抱えると、小さく「……でも、おれも」と呟いた。
「ずっと誤解してた、あんたのこと。陰湿な教師だと思ってたけど、本当はこんな『やなガキ』のこと構わず助けてくれるいい人だったんだね」
「お〜……おまえけっこうあざといな」
「そういう返しがまず陰湿だよね」
 二、三秒ほどの短い沈黙が流れて。気がつくと、二人ほとんど同時にふっと吹き出していた。
 
 
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