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十六歳

《葵side》


「もう少し待っててね」
 兄さんはそう言ってフライパンに油を引くと、慣れた手つきで溶いた卵を注いでいった。卵の焦げる音がジュッと軽やかにあたりに響く。
 そんなときだった。プルルルル、とリビングの電話が鳴って。
「葵、悪いんだけど。今ちょっと手が離せないから出てくれる?」
「……ん。わかった」
 言われて立ち上がり、子機を取る。
「はい。一条ですけど」
 変なセールスだったらソッコーで切ってやろ。そう思っていたのに——聞こえてきたのは、よく知った低い声で。
『俺だ』
「……ッ!」
 ひゅっ、と息が止まりそうになった。
 ——父さんだ。
『葵か?』
「ッ……はい、葵です。おはようございます」
 そう返した声は少し震えていて、父さんに変に思われやしないだろうかと不安になった。
『雅也はどうした』
「今ちょっと手が離せないので。代わりにおれが聞きますが」
 そう言い終わるか言い終わらないかのうちに、淡々と用件だけが告げられる。
『……今日の夕方に戻る。そう雅也に伝えておけ』
「わかりました」
 そう告げるとすぐにがちゃん、と電話が切れて。おれは受話口に耳を当てたままツー、ツー、ツーと流れ続ける音をしばらく聞いていたが、やがて子機をカシャンと台へ投げ置くと、チッと大きく舌を打った。
 ——帰ってくんのかよ、あのクソ親父。
 ふっと甦るのは去年の記憶だった。吐いて漏らして、兄さんにはさんざん迷惑をかけた。それに——ずっと隠していたリストカット癖も、とうとうバレてしまって。……クソ、思い返すだけで死にたくなってくる。
 今年もおれ、ああなるんだろうか。そう思うとたまらなく不安だった。

   *

「やったぁっ! お父さま帰ってくるの? おみやげ買ってきてくれるかなぁ?」
 父さんが帰ってくると知ってはしゃいでいるのはガキだけだった。……ほんとのんきでいいよな、ガキって。
 おれはといえば父さんのあの一報を受けてから一気に食欲がなくなり、兄さんが作ってくれた卵焼きになかなか手をつけられずにいるっていうのに。
「ねえねえお兄ちゃん、朝ごはんまだぁ?」
 キッチンに立つ兄さんのTシャツの裾を引っ張りながら、そう問いかけるガキ。
「もう少しでできるよ、待っててね」
 そしてその頭をぽんと撫でて、ふんわりと笑う兄さん。
「……」
 食欲が、ない。
 おれは皿を持って立ち上がると、棚からラップを取り出した。すぐに兄さんが気づいて「あれ」とおれを振り返る。
「食欲ない?」
「……ごめん。また腹が減ったら食べる」
「それはぜんぜんいいけど。……ねえ、大丈夫?」
 そう言って兄さんが心配そうにおれの瞳を覗き込んだ。それが恥ずかしくて、ついふいっと目を逸らしてしまう。
 ——だってだせぇじゃん。もう十六なのに、父さんが帰ってくるって聞いただけでこんなにメンタルやられてるなんて。
「……大丈夫」
 そう言って皿をラップで覆い、立ち去ろうとした。
「葵お兄ちゃんどうしたの〜? お腹いたいの?」
 ……しかし。
 兄さんのTシャツの裾をつかんでいたガキが、そう言いながらてとてととおれのほうへ駆け寄ってきたかと思えば。
「お父さま帰ってきたら、いたいのいたいの飛んでけ〜してもらう?」
「……ッ」
 きょとんと首を傾げながら、そうなんの気なしに言い放ったのだった。そのいかにも子どもらしいあどけない表情が、甘えたような舌足らずな口調が——すべてが憎くて憎くて仕方なかった。
 ぎゅっと手のひらを握ると、痛いくらいに爪が食い込んだ。
「ッ……おれは、そういうのないの」
 いたいのいたいの飛んでけなんておれ、生まれてからただの一度も父さんからしてもらったことないけど。むしろいつも殴られたり蹴られたり、痛い目にばっか遭わされてるんだけど。
「なんで〜? りか、お腹が痛いときね、よくお父さまにいたいのいたいの飛んでけ〜してもらうよ? そしたらね、すぐ痛いの治るの!」
「…………」
 腹の底から脳のてっぺんを、怒りに似たどす黒いなにかが突き抜けていくのを感じる。
 そういえばこいつは父さんに甘やかされてるんだっけ。父さんからも兄さんからも愛されて、ぬくぬく育ってるんだっけ。
 なんで? なあ、なんでおれだけ……。

   *

 自室へ戻り、しばらくベッドの上で丸まって過ごしていたが、気分はよくなるどころか沈む一方だった。
 気がつくと薬に手が伸びていたし、腕も切っていた。流れ続ける血を放っておいたらいつの間にか傷口の上で乾いて固まってしまって、それをウェットティッシュで拭うと水分がしみていやに痛んだ。
 ——クソ、早く効けよ薬……。
 テーブルの上には飲み干した薬の箱と、空になったシートが乱雑に散らばっていた。よくある市販の頭痛薬だが、含まれている成分がかなりのクセモノで、大量に飲めば脳がふわふわして現実の痛みが少しだけ遠のいていくのだ。
 ベッドに体を投げ出し、目を瞑る。
 コンコンコン、とノックの音が聞こえてきたのはそんなときだった。
「葵、父さん帰ってきた。もう夜ごはんできてるから下においで」

   *

 リビングのドアの前に立つと、中からきゃっきゃっと楽しげにはしゃぐガキの声が聞こえてきていっそう気分が沈んだ。
 そっとドアを開け、中に入る。リビングにはおれ以外すでに揃っていたが、なにやら楽しげに話し込んでいるようでだれもおれが入ってきたことに気づいていない。
「お父さまありがとう! お人形さんうれしい! りか、この子ちゃんと大事にするっ」
 リビングの中心では、人形を抱えたガキがくるくると踊るように回り、はしゃいでいた。兄さんはもちろん、機嫌がいいのか珍しく父さんまで笑っていて、その様子はまるで温かな家庭、一家団欒そのものだった。
「……」
 父さんがおれの前であんなに穏やかに笑ったことがあっただろうか。そう思い、気づく。……ああ、そうか。おれさえいなければ、この家はこんなに温かなんだ。
「父さんお帰りなさい、お疲れ様です」
 本当はそのまま自室に逃げ帰りたかった。でも兄さんに呼ばれている手前、姿を見せなければならないから仕方なかった。
「ああ、……葵か」
 そう言った父さんの顔から、スッとさっきまで浮かんでいた穏やかな笑みが消えて。代わりに射すくめるような、冷えた瞳がおれを捉えた。
 ——なあ、おれもう消えていい?

 あとはもうすべて衝動だった。
 ちょっとトイレ、そう呟いてリビングを出ると、自室に置いてあった財布、そして煙草とライターを引っつかみ、家を飛び出していた。
 スマートフォンは持ってこなかった。おれがいないことに気づいたら、すぐに兄さんが電話してくるとだろうと思ったから。
 でも行くあてなんてない。とりあえず駅のほうまで歩いてみようと、ふらふらと足を動かす。
 今さらになって薬が効いてきたようだった。視界がぐらぐらと揺れて足元がおぼつかない。まるで酔っ払いだった。ああ、頭が、目の前が、ぼんやりと霞んでくる……。
 
 
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