十六歳
《雅也side》
夜中、なんとなく目が覚めて、水でも飲みにいこうかと自室を出たときだった。
どこからかうっ、と苦しげに呻く声が聞こえてきて。まさかと思い歩いて音のするほうへ近づいてみると、そのまさかだった。
鍵のかかったトイレの中からぉぇ、とえずく声が聞こえてきたかと思えば、どぼどぼっと重たい水音がして。
——あー、葵また吐いてるのか。
こうやって夜中に葵が吐いている音を耳にするのも、もはやそう珍しいことではなかった。はじめは腹の具合でも悪いのかと思いいちいち声を掛けていたのだが、そのたびに拒絶されるものだから、あまり話しかけないようにしてしまった。強がっているわけでもなんでもなく本当に嫌そうなのだ、俺に心配されるのが。
でも、俺は変わらず葵のことが心配だった。吐いているのも、ただ具合が悪いからというわけではないのだろう——そう、あの日、リビングで葵が泣きながら戻した日——俺は気づいてしまったのだ。
葵は、たぶんオーバードーズをしている。
「っ、……く、ぅ、うぅ」
嘔吐の音が落ち着いてきたかと思えば、聞こえてきたのはそんな、押し殺したような震えた声で。
ああ、泣いてるのか……かわいそうに。
本当は今すぐ抱きしめて、安心させてやりたい。
でも、葵は俺に弱った姿を見せることを望んではいないだろう。なんでもひとりで抱え込み、解決しようとする子だから。
この薄いドアの隔たりの向こうで苦しみ、泣いている弟がいるというのに、俺はなにもしてやれない。
ただの無力な兄だった。
*
朝。
そろそろ葵が起きてくるころだなとキーボードを打つ手を止め、キッチンに向かった。
ふわあ、と小さくあくびをする。レポートが立て込んでいるせいでなかなか眠れない日が続いていた。まだ開ききっていない瞼をこすり、キッチンのドアを開ける。
そして棚から卵をふたつ取り出し、今日の朝は卵焼きにしようか目玉焼きにしようか、そうのんきに鼻歌を歌いながら考えていたときだった。
ガチャリとドアの開く音がして、葵が静かにリビングに入ってきた。
「おはよう」
「……」
例によって返事はない。
葵はいつものグレーのスウェットに身を包んでいた。起きたばかりなのだろう、うしろ髪がところどころ跳ねているし、目元はぼんやりと潤んでいてまだ眠そうだ。
葵は棚からコップや箸を三つずつ取り出すと、ぽんぽんとテーブルの上に並べていった。そして椅子に座り、テーブルに肘をついてスマートフォンを弄り始める。
いつもとなにひとつ変わらない朝だった。
でも、よく見ると葵の足元はどことなくふらついてるし、肌もくすんでいてあまり具合がよくなさそうだ。……まあ、当たり前か。夜中かなり吐いてたみたいだし。
「ねえ、卵焼きと目玉焼きどっちがいい?」
でも俺はなんでもないといったふうにそう話しかける。すると葵は俯いたまま小さく呟いた。
「……卵焼き」
「おっけー、もう少し待っててね」
温めたフライパンに油を引き、溶いた卵をジュッと注ぐ。その瞬間だった。
プルルルル、と耳慣れた音が響いて。ああ、リビングの電話が鳴ったのだな、と思い手元を見つめるも、フライパンいっぱいに広がった卵は少しでも目を離せばすぐに焦げてしまいそうで。
「葵、悪いんだけど」
俺は卵をひっくり返すと、リビングを振り返った。
「今ちょっと手が離せないから出てくれる?」
「……ん。わかった」
葵は気だるげに立ち上がると、そう呟いて子機を取った。
「はい。一条ですけど」
いかにもやる気のなさそうな、ゆるく伸びた声だった。だが、その声色が、それから三秒と経たないうちに一転して。
「ッ……はい、葵です。おはようございます」
葵のそのいやに張りつめた受け答えを耳にして、すぐにその相手がだれなのか察してしまった。
——あー、父さんか。
「今ちょっと手が離せないので。代わりにおれが聞きますが」
葵ははい、はい、と続けて二回ほど相づちを打つと、「わかりました」とだけ呟いてカシャンと子機を置いた。そして、チッと大きく舌を打つ。
俺は巻き終わった卵焼きを皿に移しながら尋ねた。
「電話、父さんからだった?」
「そ。今日の夕方こっちに帰るって。……ったく、こんなんならしつこいセールスのがまだマシだったよ」
葵はそう吐き捨てるように言った。その忌々しげな表情を見て思う。……気丈に振る舞っているようだが、大丈夫なんだろうか。
そういえば、去年の今ごろだったっけ。父さんが帰ってくるやいなや、葵がよく吐いたり漏らしたりするようになって。精神的にもかなり参ってしまったようで、酷い日には腕をざっくり切って部屋じゅうを血まみれにしたこともあった。
あれから一年が経ったとはいえ、幼いころから胸に刻まれ続けてきた傷がそう易々と癒えるはずがない。……今年はどうなるだろうか。
なにか俺が葵にしてやれることはあるんだろうか。
夜中、なんとなく目が覚めて、水でも飲みにいこうかと自室を出たときだった。
どこからかうっ、と苦しげに呻く声が聞こえてきて。まさかと思い歩いて音のするほうへ近づいてみると、そのまさかだった。
鍵のかかったトイレの中からぉぇ、とえずく声が聞こえてきたかと思えば、どぼどぼっと重たい水音がして。
——あー、葵また吐いてるのか。
こうやって夜中に葵が吐いている音を耳にするのも、もはやそう珍しいことではなかった。はじめは腹の具合でも悪いのかと思いいちいち声を掛けていたのだが、そのたびに拒絶されるものだから、あまり話しかけないようにしてしまった。強がっているわけでもなんでもなく本当に嫌そうなのだ、俺に心配されるのが。
でも、俺は変わらず葵のことが心配だった。吐いているのも、ただ具合が悪いからというわけではないのだろう——そう、あの日、リビングで葵が泣きながら戻した日——俺は気づいてしまったのだ。
葵は、たぶんオーバードーズをしている。
「っ、……く、ぅ、うぅ」
嘔吐の音が落ち着いてきたかと思えば、聞こえてきたのはそんな、押し殺したような震えた声で。
ああ、泣いてるのか……かわいそうに。
本当は今すぐ抱きしめて、安心させてやりたい。
でも、葵は俺に弱った姿を見せることを望んではいないだろう。なんでもひとりで抱え込み、解決しようとする子だから。
この薄いドアの隔たりの向こうで苦しみ、泣いている弟がいるというのに、俺はなにもしてやれない。
ただの無力な兄だった。
*
朝。
そろそろ葵が起きてくるころだなとキーボードを打つ手を止め、キッチンに向かった。
ふわあ、と小さくあくびをする。レポートが立て込んでいるせいでなかなか眠れない日が続いていた。まだ開ききっていない瞼をこすり、キッチンのドアを開ける。
そして棚から卵をふたつ取り出し、今日の朝は卵焼きにしようか目玉焼きにしようか、そうのんきに鼻歌を歌いながら考えていたときだった。
ガチャリとドアの開く音がして、葵が静かにリビングに入ってきた。
「おはよう」
「……」
例によって返事はない。
葵はいつものグレーのスウェットに身を包んでいた。起きたばかりなのだろう、うしろ髪がところどころ跳ねているし、目元はぼんやりと潤んでいてまだ眠そうだ。
葵は棚からコップや箸を三つずつ取り出すと、ぽんぽんとテーブルの上に並べていった。そして椅子に座り、テーブルに肘をついてスマートフォンを弄り始める。
いつもとなにひとつ変わらない朝だった。
でも、よく見ると葵の足元はどことなくふらついてるし、肌もくすんでいてあまり具合がよくなさそうだ。……まあ、当たり前か。夜中かなり吐いてたみたいだし。
「ねえ、卵焼きと目玉焼きどっちがいい?」
でも俺はなんでもないといったふうにそう話しかける。すると葵は俯いたまま小さく呟いた。
「……卵焼き」
「おっけー、もう少し待っててね」
温めたフライパンに油を引き、溶いた卵をジュッと注ぐ。その瞬間だった。
プルルルル、と耳慣れた音が響いて。ああ、リビングの電話が鳴ったのだな、と思い手元を見つめるも、フライパンいっぱいに広がった卵は少しでも目を離せばすぐに焦げてしまいそうで。
「葵、悪いんだけど」
俺は卵をひっくり返すと、リビングを振り返った。
「今ちょっと手が離せないから出てくれる?」
「……ん。わかった」
葵は気だるげに立ち上がると、そう呟いて子機を取った。
「はい。一条ですけど」
いかにもやる気のなさそうな、ゆるく伸びた声だった。だが、その声色が、それから三秒と経たないうちに一転して。
「ッ……はい、葵です。おはようございます」
葵のそのいやに張りつめた受け答えを耳にして、すぐにその相手がだれなのか察してしまった。
——あー、父さんか。
「今ちょっと手が離せないので。代わりにおれが聞きますが」
葵ははい、はい、と続けて二回ほど相づちを打つと、「わかりました」とだけ呟いてカシャンと子機を置いた。そして、チッと大きく舌を打つ。
俺は巻き終わった卵焼きを皿に移しながら尋ねた。
「電話、父さんからだった?」
「そ。今日の夕方こっちに帰るって。……ったく、こんなんならしつこいセールスのがまだマシだったよ」
葵はそう吐き捨てるように言った。その忌々しげな表情を見て思う。……気丈に振る舞っているようだが、大丈夫なんだろうか。
そういえば、去年の今ごろだったっけ。父さんが帰ってくるやいなや、葵がよく吐いたり漏らしたりするようになって。精神的にもかなり参ってしまったようで、酷い日には腕をざっくり切って部屋じゅうを血まみれにしたこともあった。
あれから一年が経ったとはいえ、幼いころから胸に刻まれ続けてきた傷がそう易々と癒えるはずがない。……今年はどうなるだろうか。
なにか俺が葵にしてやれることはあるんだろうか。
