十六歳
《雅也side》
りかの担任から迎えにきてくれと連絡があって行ってみれば、昼に気分が悪いと訴え、熱はないが念のため早退させるとのことだった。
「お兄ちゃん!」
りかは養護教諭らしき女性に連れられて、廊下で俺の姿を見るなりぎゅっと抱きついてきた。思っていたより顔色がよくて安心した。この調子なら、家でゆっくり休めばじきに回復するだろう。
「どうも。妹がお世話になりました」
りかを車に乗せて家まで帰って、驚いた。まだ学校にいるはずの葵が、リビングのソファの上で横になって眠っていたのだ。
時計を見れば、まだ十二時を少し過ぎたころ。いくらなんでも帰ってくるのが早すぎる。
「……ぁ、兄さん」
足音で目を覚ましたのだろう、葵ははっとしたように起き上がったが、俺とりかの姿を見るなり立ち上がってリビングを出ていってしまった。とりあえずりかをソファに寝かせて、葵のあとを追う。
「おまえ、どうしたの。今日って帰るの早い日だっけ?」
尋ねながら、たしかそうではなかったはずだと考える。
「……いや」
「じゃあ早退? 具合でも悪いの」
そういえば朝から少し辛そうにしていたし、今だって顔色が悪い。りかのほうがまだマシなんじゃないかと思うほどに。
「……あいつも早退? ガキでもさすがにまだ学校にいる時間だよな」
「うん、そう。気分が悪いらしいって学校から連絡あって、さっき迎えにいってきたの。……って、まず俺の質問に答えろよ」
軽く茶化してそう聞くも、葵は答えなかった。
「おれはいいから、あのガキのそばにいてやれば」
ひらりと手を振って、葵はそのまま二階へ上がっていってしまった。その目がどこか寂しそうだったのを俺は見逃さなかったが、かといって追求できるわけでもなく、再びリビングに戻ってりかに声を掛けた。
「りか、なんか欲しいものある? ジュースでもなんでもいいよ」
「うーん……お水がいい」
「お水でいいの? ちょっと待っててね」
蓋つきのコップに水を注いで、ストローをさして渡してやる。りかはありがとうと小さく呟いて水を飲み、しばらくはぼんやりとテレビを眺めていたが、やがて疲れてきたのかすうすうと寝息を立て始めてしまった。
りかも寝たことだし一回、葵の様子を見にいってみるか。
先ほどのあの、瞳に湛えられたどこか寂しそうな色が気になって仕方ない。ついでに飲みものでも渡してやるかとタンブラーにポカリを入れて、リビングを出ようとした。
そのときちょうど、葵が入ってきた。
ふらふらとおぼつかない足取りで、手で壁を伝いながら歩いている。
——さっきより明らかに酷くなってるだろ、これ。もしかしたら熱でもあるのかもしれない。
「どうしたの」
「……んーん、」
なんでもない、そう掠れた声で呟くが、その顔は真っ白だ。ふらり、ふらりと足を踏み出して葵は、立っているのも辛いのだろう、力が抜けたようにずるずるとキッチンの壁に凭れた。
「ちょっと。大丈夫なの」
別のタンブラーに水を注いで渡してやろうとしたが、葵は俯いたまま一向に受け取ろうとしない。
なんだか様子が変だ。具合が悪いにしても、ちょっと異常。呂律も回ってないし。
「飲むのキツい? とりあえずここ座ろうか。ゆっくりでいいから」
「っ、……ん」
体を支えて床に座らせる間、葵はふ、ふ、と苦しげに息を吐いていた。よく見れば泣いたあとのように目元が赤く腫れている。それに、やはり体が熱い。熱があるらしい。
弟の、こんなボロボロに弱った姿を見るのは久々だ。
「おまえたぶんすごい熱だよ。……もう、なんでこんな酷くなる前に言わないかな」
昔から葵は、我慢しすぎるところがあった。もうどうしようもないというところまで耐えて、耐え続けて、壊れてしまう。だから、壊れる前に甘やかしてやるのが俺の役目だった。それが最近なかなかうまくいかなくなったと思ったらこれだ。
ああ、もっと早くちゃんと気づいてやればよかった。
「っ、ふ、ぅ、……っ、ぅう、」
葵の目から、大粒の涙がぽろぽろと溢れる。きつく唇を噛んで泣くのを堪えているようだが、涙は止まらなかった。
「辛いねぇ。なにが辛いかお兄ちゃんに言ってみな」
しゃがんでいる俺の胸元に頭を寄せて、葵はぐずぐずと泣いていた。
「っ、ぅ、やだ、やだぁ、」
「なにがやなの」
「あいつ、やだ……っ」
……あいつ、とは考えるまでもなくりかのことだろう。たしかに葵はりかを嫌っていた。親の仇かってくらいりかを目の敵にしていた。でも、俺にはいつもそれがどうしてかわからなかった。
「どういうところが嫌なのかさ、お兄ちゃんに教えてくれる?」
「っ、ぅう、……っふ、ん、ぅ」
「なに言っても怒らないから」
ぐりぐりと俺の胸に頭を押しつけ、全身で泣いている。まるで小さな子どもだった。
「ふ、う……っは、は、はぁ、はぁっ、」
ああ、まずい。いくらなんでも呼吸が速すぎる。
「あー、ごめんね。いきなり聞きすぎたよね。ちょっとゆっくり息しようか」
「っ……ひ、ひぅ、っひゅ、ひゅ、」
「あーあー、大丈夫だから。ゆっくりゆっくり」
とんとんとん、と背中を撫でるも一向に治まらないどころか、激しく肩を上下させ、ひたすら荒い呼吸を繰り返している。
葵は泣くのが下手だ。泣くと父さんに叩かれるから、幼いころから人に涙を見せないよう努力してきたのだと思う。そのせいで、どうも上手に泣けないらしい。泣いているうちに軽いパニックに陥ってしまうらしかった。
「ふ、ぅ、っく、……ぅ、ゔ、ぇえッ、」
「ちょっと待て。え、吐く?」
ひゅうひゅうと苦しげな音の中に湿った気配を感じて、思わずそう声を掛けた。……が、間に合わない。
「っ、! んぅ、ぶ、ぇッ……」
ごぽごぽごぽっと水っぽい音が鳴り、薄い唇のあいだから勢いよく流れ出た吐物が葵のグレーのスウェットを、その体を支えている俺の腕を汚し、やがて床にまで滴った。
ツンと広がる酸の臭い。その中に混じった、どこか薬っぽい変な臭い。よく見ると、溶けかけた丸い粒が大量に吐物の中に混じっていた。……なんだ、これ。
「っひ、ぁ、ごめ、ごめんなさい」
服や床を汚してしまい焦っているのだろう、葵の体はかわいそうなくらいに震えていた。
「いいよいいよ、大丈夫だから。とりあえずゆっくり息して」
「ごめ、んなさい、吐く、つもりじゃ、」
もともと白かった葵の顔から、さっと血の気が引いていく。
「おれ、片づける、片づけるから、」
「いいっていいって。具合が悪いんだから仕方ないし、俺ぜんぜん気にしないよ」
「でも、」
「いいから、気にしないの。……ね、まだ出そう?」
聞くと、葵は力なく首を横に振った。ひ、ひ、と掠れた声が細く喉の奥から漏れ、まだ苦しそうだ。
「……ごめん、なさい、」
葵はぎゅっと俺のトレーナーの裾を引っ張り、再びすんすんと泣き始めた。まるで赤ん坊だ。小さいころだって甘えてくることはあったが、こうやって縋るように泣きつかれたことは一度だってない。
「どうしちゃったの。今日めっちゃ甘えただね」
いつもこれくらいわかりやすかったらいいのに、とふっと思った。ここ二年、葵は俺に対してもりかに対してもずっとツンツンしていて、まあ、かわいい弟のことだからそんな姿さえ愛しいのだけど——ときどき寂しかった。
「……兄さん、兄さん、ッ」
葵は俺の服をぎゅっと握ると、俯いたままそう呼んだ。
「どうしたの」
「おれ、……い、よね」
「ん?」
今にも消え入りそうな、か細い声。思わず聞き返すと葵はぽつりと呟いた。
「おれなんか、いらない、よね」
「なんでそんなこと言うの。おまえは俺の大事な弟だよ」
いったいどうして葵がそんなことを言うのかがわからなかった。いらないわけがないだろう。たったひとりの、大事な弟なんだから。
「どうしていらないなんて思ったの。なにか心配だったり不安だったりするならお兄ちゃんに言ってみな? かわいい弟のためなら俺、なんでもしてやるよ」
「っ、ぅう、……ひっく、ぅ、」
なるべく穏やかなトーンでゆっくり尋ねたつもりだが、葵は泣きじゃくるばかりで、とても会話なんてできるような状況じゃなかった。落ち着いたと思ったのに、再びえずき始めてしまう。
「——んぅ、ッ、げ、げぇッ」
「あーあー、まだ気持ち悪いか。袋もってくるから待ってて」
服についた吐物をなる床に落とさないよう気をつけながら立ち、リビングの棚から袋を取り出す。
「お待たせ。吐ける?」
口元に袋を添えてやると、葵は音もなく一度、二度と続けて嘔吐した。ドサ、ドサ、と袋の底に落ちていく吐物の量はそう多くなく、ほとんど水分だけだ。
「ひぐッ、……う、ぅうっ、」
「しんどいね」
「っ、ん」
こくりと頷く、そんな動作さえ弱々しくていつもの葵らしくなく、いくら熱があるとはいえなんだか妙だと感じて——ふ、と気づく。
さっき葵が吐いていた、あの溶けかけた変な粒。あれはもしかして、薬かなにかじゃないのか。……それも一錠や二錠ではなく、大量の。
もしそうだとしたらこの葵のおかしな様子にも合点がいく。しかし、証拠はない。それに、証拠を探し出そうとする気もない。
——まだ、暴いていいかどうかわからないのだ。
もし暴かれることを葵が望んでいるのならいいが、きっとそうではない。俺が知ってしまったことによって傷つくようなら避けたいし、第一、情けない話だが俺にもまだ覚悟ができていないのだ。
葵が抱えている問題は、俺が思っているよりももっと深いのかもしれない。
かわいげのない俺の弟。
でも、俺にとっては大切で、なによりもかわいい弟。
おまえのためならなんでもしてやるよというのは紛うことなき本心だったけれど、それがちゃんと伝わっているのかどうかは、わからなかった。
りかの担任から迎えにきてくれと連絡があって行ってみれば、昼に気分が悪いと訴え、熱はないが念のため早退させるとのことだった。
「お兄ちゃん!」
りかは養護教諭らしき女性に連れられて、廊下で俺の姿を見るなりぎゅっと抱きついてきた。思っていたより顔色がよくて安心した。この調子なら、家でゆっくり休めばじきに回復するだろう。
「どうも。妹がお世話になりました」
りかを車に乗せて家まで帰って、驚いた。まだ学校にいるはずの葵が、リビングのソファの上で横になって眠っていたのだ。
時計を見れば、まだ十二時を少し過ぎたころ。いくらなんでも帰ってくるのが早すぎる。
「……ぁ、兄さん」
足音で目を覚ましたのだろう、葵ははっとしたように起き上がったが、俺とりかの姿を見るなり立ち上がってリビングを出ていってしまった。とりあえずりかをソファに寝かせて、葵のあとを追う。
「おまえ、どうしたの。今日って帰るの早い日だっけ?」
尋ねながら、たしかそうではなかったはずだと考える。
「……いや」
「じゃあ早退? 具合でも悪いの」
そういえば朝から少し辛そうにしていたし、今だって顔色が悪い。りかのほうがまだマシなんじゃないかと思うほどに。
「……あいつも早退? ガキでもさすがにまだ学校にいる時間だよな」
「うん、そう。気分が悪いらしいって学校から連絡あって、さっき迎えにいってきたの。……って、まず俺の質問に答えろよ」
軽く茶化してそう聞くも、葵は答えなかった。
「おれはいいから、あのガキのそばにいてやれば」
ひらりと手を振って、葵はそのまま二階へ上がっていってしまった。その目がどこか寂しそうだったのを俺は見逃さなかったが、かといって追求できるわけでもなく、再びリビングに戻ってりかに声を掛けた。
「りか、なんか欲しいものある? ジュースでもなんでもいいよ」
「うーん……お水がいい」
「お水でいいの? ちょっと待っててね」
蓋つきのコップに水を注いで、ストローをさして渡してやる。りかはありがとうと小さく呟いて水を飲み、しばらくはぼんやりとテレビを眺めていたが、やがて疲れてきたのかすうすうと寝息を立て始めてしまった。
りかも寝たことだし一回、葵の様子を見にいってみるか。
先ほどのあの、瞳に湛えられたどこか寂しそうな色が気になって仕方ない。ついでに飲みものでも渡してやるかとタンブラーにポカリを入れて、リビングを出ようとした。
そのときちょうど、葵が入ってきた。
ふらふらとおぼつかない足取りで、手で壁を伝いながら歩いている。
——さっきより明らかに酷くなってるだろ、これ。もしかしたら熱でもあるのかもしれない。
「どうしたの」
「……んーん、」
なんでもない、そう掠れた声で呟くが、その顔は真っ白だ。ふらり、ふらりと足を踏み出して葵は、立っているのも辛いのだろう、力が抜けたようにずるずるとキッチンの壁に凭れた。
「ちょっと。大丈夫なの」
別のタンブラーに水を注いで渡してやろうとしたが、葵は俯いたまま一向に受け取ろうとしない。
なんだか様子が変だ。具合が悪いにしても、ちょっと異常。呂律も回ってないし。
「飲むのキツい? とりあえずここ座ろうか。ゆっくりでいいから」
「っ、……ん」
体を支えて床に座らせる間、葵はふ、ふ、と苦しげに息を吐いていた。よく見れば泣いたあとのように目元が赤く腫れている。それに、やはり体が熱い。熱があるらしい。
弟の、こんなボロボロに弱った姿を見るのは久々だ。
「おまえたぶんすごい熱だよ。……もう、なんでこんな酷くなる前に言わないかな」
昔から葵は、我慢しすぎるところがあった。もうどうしようもないというところまで耐えて、耐え続けて、壊れてしまう。だから、壊れる前に甘やかしてやるのが俺の役目だった。それが最近なかなかうまくいかなくなったと思ったらこれだ。
ああ、もっと早くちゃんと気づいてやればよかった。
「っ、ふ、ぅ、……っ、ぅう、」
葵の目から、大粒の涙がぽろぽろと溢れる。きつく唇を噛んで泣くのを堪えているようだが、涙は止まらなかった。
「辛いねぇ。なにが辛いかお兄ちゃんに言ってみな」
しゃがんでいる俺の胸元に頭を寄せて、葵はぐずぐずと泣いていた。
「っ、ぅ、やだ、やだぁ、」
「なにがやなの」
「あいつ、やだ……っ」
……あいつ、とは考えるまでもなくりかのことだろう。たしかに葵はりかを嫌っていた。親の仇かってくらいりかを目の敵にしていた。でも、俺にはいつもそれがどうしてかわからなかった。
「どういうところが嫌なのかさ、お兄ちゃんに教えてくれる?」
「っ、ぅう、……っふ、ん、ぅ」
「なに言っても怒らないから」
ぐりぐりと俺の胸に頭を押しつけ、全身で泣いている。まるで小さな子どもだった。
「ふ、う……っは、は、はぁ、はぁっ、」
ああ、まずい。いくらなんでも呼吸が速すぎる。
「あー、ごめんね。いきなり聞きすぎたよね。ちょっとゆっくり息しようか」
「っ……ひ、ひぅ、っひゅ、ひゅ、」
「あーあー、大丈夫だから。ゆっくりゆっくり」
とんとんとん、と背中を撫でるも一向に治まらないどころか、激しく肩を上下させ、ひたすら荒い呼吸を繰り返している。
葵は泣くのが下手だ。泣くと父さんに叩かれるから、幼いころから人に涙を見せないよう努力してきたのだと思う。そのせいで、どうも上手に泣けないらしい。泣いているうちに軽いパニックに陥ってしまうらしかった。
「ふ、ぅ、っく、……ぅ、ゔ、ぇえッ、」
「ちょっと待て。え、吐く?」
ひゅうひゅうと苦しげな音の中に湿った気配を感じて、思わずそう声を掛けた。……が、間に合わない。
「っ、! んぅ、ぶ、ぇッ……」
ごぽごぽごぽっと水っぽい音が鳴り、薄い唇のあいだから勢いよく流れ出た吐物が葵のグレーのスウェットを、その体を支えている俺の腕を汚し、やがて床にまで滴った。
ツンと広がる酸の臭い。その中に混じった、どこか薬っぽい変な臭い。よく見ると、溶けかけた丸い粒が大量に吐物の中に混じっていた。……なんだ、これ。
「っひ、ぁ、ごめ、ごめんなさい」
服や床を汚してしまい焦っているのだろう、葵の体はかわいそうなくらいに震えていた。
「いいよいいよ、大丈夫だから。とりあえずゆっくり息して」
「ごめ、んなさい、吐く、つもりじゃ、」
もともと白かった葵の顔から、さっと血の気が引いていく。
「おれ、片づける、片づけるから、」
「いいっていいって。具合が悪いんだから仕方ないし、俺ぜんぜん気にしないよ」
「でも、」
「いいから、気にしないの。……ね、まだ出そう?」
聞くと、葵は力なく首を横に振った。ひ、ひ、と掠れた声が細く喉の奥から漏れ、まだ苦しそうだ。
「……ごめん、なさい、」
葵はぎゅっと俺のトレーナーの裾を引っ張り、再びすんすんと泣き始めた。まるで赤ん坊だ。小さいころだって甘えてくることはあったが、こうやって縋るように泣きつかれたことは一度だってない。
「どうしちゃったの。今日めっちゃ甘えただね」
いつもこれくらいわかりやすかったらいいのに、とふっと思った。ここ二年、葵は俺に対してもりかに対してもずっとツンツンしていて、まあ、かわいい弟のことだからそんな姿さえ愛しいのだけど——ときどき寂しかった。
「……兄さん、兄さん、ッ」
葵は俺の服をぎゅっと握ると、俯いたままそう呼んだ。
「どうしたの」
「おれ、……い、よね」
「ん?」
今にも消え入りそうな、か細い声。思わず聞き返すと葵はぽつりと呟いた。
「おれなんか、いらない、よね」
「なんでそんなこと言うの。おまえは俺の大事な弟だよ」
いったいどうして葵がそんなことを言うのかがわからなかった。いらないわけがないだろう。たったひとりの、大事な弟なんだから。
「どうしていらないなんて思ったの。なにか心配だったり不安だったりするならお兄ちゃんに言ってみな? かわいい弟のためなら俺、なんでもしてやるよ」
「っ、ぅう、……ひっく、ぅ、」
なるべく穏やかなトーンでゆっくり尋ねたつもりだが、葵は泣きじゃくるばかりで、とても会話なんてできるような状況じゃなかった。落ち着いたと思ったのに、再びえずき始めてしまう。
「——んぅ、ッ、げ、げぇッ」
「あーあー、まだ気持ち悪いか。袋もってくるから待ってて」
服についた吐物をなる床に落とさないよう気をつけながら立ち、リビングの棚から袋を取り出す。
「お待たせ。吐ける?」
口元に袋を添えてやると、葵は音もなく一度、二度と続けて嘔吐した。ドサ、ドサ、と袋の底に落ちていく吐物の量はそう多くなく、ほとんど水分だけだ。
「ひぐッ、……う、ぅうっ、」
「しんどいね」
「っ、ん」
こくりと頷く、そんな動作さえ弱々しくていつもの葵らしくなく、いくら熱があるとはいえなんだか妙だと感じて——ふ、と気づく。
さっき葵が吐いていた、あの溶けかけた変な粒。あれはもしかして、薬かなにかじゃないのか。……それも一錠や二錠ではなく、大量の。
もしそうだとしたらこの葵のおかしな様子にも合点がいく。しかし、証拠はない。それに、証拠を探し出そうとする気もない。
——まだ、暴いていいかどうかわからないのだ。
もし暴かれることを葵が望んでいるのならいいが、きっとそうではない。俺が知ってしまったことによって傷つくようなら避けたいし、第一、情けない話だが俺にもまだ覚悟ができていないのだ。
葵が抱えている問題は、俺が思っているよりももっと深いのかもしれない。
かわいげのない俺の弟。
でも、俺にとっては大切で、なによりもかわいい弟。
おまえのためならなんでもしてやるよというのは紛うことなき本心だったけれど、それがちゃんと伝わっているのかどうかは、わからなかった。
