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二十二歳

 天井から降り注ぐ人工の光と、電子カルテの青っぽい光と。聞き慣れたモニタの音に包まれながら、飲みかけの缶コーヒーを手に取る。
 明け方。
 温かかったはずのコーヒーは、とうの昔に冷めていて、口に含んでも粉っぽい苦みが舌をざらつかせるばかりだ。
(あー……飯っていつ食ったっけなぁ…………)
 夕べ、出勤がてらにコンビニで買ったビタミン入りのゼリーを吸い込んだところまでは覚えている。いつもだったらサンドイッチかなにか、多少は腹にたまりそうなものを買って食べていたはずなのに、たしか食欲がなくて、それくらいしか入りそうになかったのだ。そのあと、なんとなく二、三回、空腹を覚えたような気もしたが、搬送やらコールやらが鳴り止まず、もはやそれどころではなくなっていた。
 けれど、波と波の間、僅かではあったが飲み物を買いにいけるくらいの時間ができて。裏口を出てすぐ、暗やみにぼうっと白い灯を投げかけている、小さな自販機の前に立ったのだが——缶コーヒーが欲しかったはずなのに、なかなかそのボタンを探し出せずに、三十秒ほど立ち尽くしてしまった。そして立ち尽くしながら、あぁ、俺かなり参ってるなぁと、どこまでも他人事のように思っていた。
「…………ぅあ、」
 胸ポケットに入れているPHSが鳴った気がして、ふにゃふにゃの、声とも呼べない声を発しながらもすぐに取る。でも、なにも映っていない。鳴ってなんていなかったのだ。
(幻聴、か。やばいな……)
 うすく笑いながら、ポケットの中にPHSを戻そうとする。が、よく知った音が手の中から鳴り始めて、指が先に反応した。
「はい一条です」
 指につられて声もついてきた。
 がらんとしたステーションの底に、自分の声だけがはっきりと鳴り渡っていくような気がする。

「わかりました。すぐ行きます」


   *

 処置室のドアが開いて、向こう側から、ストレッチャーが滑り込んでくる。
 ガラガラと床の軋む音。声と声、重なり合う足音。全てが混ざり合って、処置室いっぱいにざわめきがうねっていた。
 それから——だれかの汗の臭いと、それを掻き消すように立ち込める鉄っぽい臭い。
 そんな中でも俺の耳は隊員の声をはっきりと捉えていた。
「××八重子さん、八十五歳の方です。ADLは全介助。明け方、オムツ内に大量に下血しているのを施設の職員が発見したそうです。バイタルはこちらに」
 隊員がモニタを差し出した。
「BP62の28、HRは130台で不整。SpO₂は波形が出ません。末梢、ほぼ触れません。…………」
 隊員の声は淡々としていたが、ところどころに疲れとも読み取れる微かな乱れがあった。
 寒い朝、ぎりぎりの現場。
 俺は頷きつつ、ストレッチャーの脇に回り込んだ。
 ——顔は灰色がかっていて、目は閉じたまま。顎がやや上がり、喉元の皮膚が沈んでいる。口の端には、まだ乾ききらない血の筋。
 腹部は軽く膨らみ、オムツのすきまからは、腐臭の混ざった鉄の臭いが立ち上っている。
(……末梢、流れてない)
 右手を取り、甲に視線を落とす。
 皮膚は冷たく、乾いていた。血管は沈んで、指先は蝋のように白い。
 それでも、俺は手を動かす。
「18G……いや、20Gでいく。前腕は見えないな。右手甲。生食スタンバイ」
 そう言いながらアルコール綿を手に取った。微かな揮発臭が立ち上る。
 ほとんど反射だった。
 細く沈んだ血管を探し、針先を当てる。針を立て、静かに角度をつける。ちくり、と穿刺の感覚。……返血はない。
(だめか)
 ほんの数ミリ、角度を変えて、針先を押し込んだ。
 ……じわ、と赤が返ってくる。
「通った。固定お願い、生食つなぐ。動脈採血も回して、ABG。あとクロスマッチも」
 看護師が頷いて、すばやくテープを取り出す。
 ずき、ずき、と腹に痛みが走った。ずっと前から感じていた痛みが、徐々に形を持ち始めていた。
(まずいな、腹が…………)
 ルートの中に、生食が流れ込んでいく。
 でも、それが体のどこまで届いているのかは、もうだれにもわからない。
 患者の胸は、浅く、小刻みに上下している。
 ——苦しみに悶える命の前では、俺の痛みなど、ただのノイズに過ぎなかった。

   *

 カンファ室の暖房は、妙に効きすぎていた。
 でも、だれも温度を変えようとしない。もしかして暑いと感じているのは俺だけなのか。
 椅子は既に埋まっていて、若い医者はみんな壁ぎわに立っている。俺もその中にいて、スライドに映し出されたCTやFASTを、知らない国のニュースでも眺めるような気分でぼんやりと眺めていた。
「じゃあ、最初の症例いきます」
 話し始めたのは同期だった。いつも死んだ魚のような目をしているのに、今日は少しだけ血の気がある。よかったな、と安心したのも束の間。
(やばい。眠い。…………このまま瞬きしたら、終わる)
 瞼の裏で、プロジェクタの光が滲んでいた。腕を組むふりをして、肘の内側に爪を立てる。
「七十四歳、男性。搬送時CPA。現場蘇生でVFからROSC。CTで心タンポナーデ疑い、——」
 モニタにはFASTが映し出されていた。滲んだ心嚢液が、じわじわと黒い影を広げている。
 目に刺さるようなその白と黒が、脳の回路を断ち切ろうとしていた。
 “眠気”というより、感覚としては“断線”に近い。
 意識の芯が、遠ざかっていく。
「……心嚢穿刺後にVFが再発、ショック後にアドレナリン……」
 まだ聞こえているつもりだった。
 でも次の瞬間、足のつま先から頭のてっぺんまで、一気に力が抜けた。
 ——ゴンッ。
 鈍い音が、カンファ室の空気を震わせる。
 それが俺の頭と壁とがぶつかった音だったと気づいたのは、ややあってからだった。
「……っ、すみません、大丈夫です、ほんとすみません……!」
 慌てて立ち上がると血圧が下がったのか酷いめまいを覚えた。視界が白く滲む。
 ぐらつく体を支えてくれたのは、隣にいた先輩だった。
「……一条先生、大丈夫? マジで」
 その声は、怒っても、呆れてもいなかった。ただ——“死ぬなよ”って、そう静かに言っていた。

 カンファが終わっても、俺はしばらく椅子に座ったままだった。
 頭には熱が、腹には吐き気が渦巻いていた。
 それでも、他のスタッフが心配して近づいてくるたびに「大丈夫です、大丈夫です」と、まるで壊れたロボットみたいに繰り返していた。

   *

「いやぁ、一条先生がぶっ倒れたときはマジでどうしようかと思ったよ。もうちょっとでRRSコールするところだった」
「もー、それは嘘でしょう。…………でも、本当に申し訳なかったです」
「いや、気にすんな。直明けだったんでしょ? しかも、昨夜は搬送けっこう多かったって聞いたよ」
 俺は棚をぼんやり眺めながら、なにを食えばいいんだろうと考えていた。
 腹はもう減っていなかった。むしろ痛みが増していて、歩くたびに吐き気が込み上げてくる。
 十二時より少し前。院内のコンビニは、まだ空いている。俺と先輩は、救外の波と波の間に昼食を買いにきていた。
「一条先生、決まらない?」
 先輩は缶コーヒーと弁当、それからおにぎりをふたつ小脇に抱えていた。
 俺はなんとか笑ってごまかしながら、いつものビタミン入りのゼリー飲料を手に取った。——気づけば、毎日こればっかだ。
 レジを終え、スタッフルームに戻る。
 先輩はだれかの持ってきたお土産をつまみながら、ちまちまとゼリー飲料を啜る俺を訝しげに見ていた。
 そして、ふいに言った。
「……さっき、カンファ室でちょっと思ったんだけど」
 そして立ち上がり、棚の上をごそごそと探す。「あったあった」と彼が手に取ったのは、消エタと体温計だった。
「はい、測って」
「えっ、いや、熱なんてないですって」
「いいから」
 強い口調に、さすがに逆らえなかった。消エタで体温計を拭い、スクラブの下から差し込む。
 音が鳴った。
「いくつだった?」
「……えーと……いや、その……あっ」
 ごまかす前に、体温計を奪われた。
 先輩は画面を見つめ、「……やっぱりか」と呟く。
「三十七度八分。——とりあえず帰れ。家に検査キットある?」
「……あります。けど、」
「けど?」
「感染性じゃ、ないので」
 そう言った瞬間、先輩の顔が曇った。たぶん、俺が隠そうとしていることの半分くらいが、もうバレているんだと思う。
「どうしてそう言い切れる?」
「ずっと腹が痛くて。ああ……でも、処置中なんかは痛くなくなるんです。なので、大丈夫です」
 まだ半分も飲んでいないゼリー飲料が、胃の中で暴れ回っていた。重たい汗が額に滲む。

「あのなぁ、お前……そんな顔色してなにが『大丈夫です』だ? 信じられるか。本当はもうわかってんだろ」


   *

 歩くたびに腹が重たく疼いた。
 明け方から続いている鈍い痛みも、つきつきと、変わらずその形を保ち続けている。
「……っ」
 エレベーターの前。立ち止まると気持ち悪さが込み上げてきて、思わず壁に手をついた。
「おい。大丈夫って顔じゃねぇな、お前」
 先輩の声が、近くて、遠い。
「だから、大丈夫ですって……」
 気を抜くと、ずるずるとしゃがみ込んでしまいそうになる。
「いいよ、寄りかかって」
「……すみません、」
 ああ、恥ずかしい。先輩の肩に寄りかかりながら、顔を伏せた。
 そのまま引きずられるような形でエレベーターに乗り込み、二階へ。脳外、神内、心外、循内……外来の人波を行き過ぎながら、歩く。しかし。
「…………あの、いちばん近いトイレってどこでしたっけ」
 歩きながら、ふっと、そんな情けない声が漏れて。胃の中身が迫り上がってくるのを感じて思わず口元に手をやると、「おわ、マジか」と先輩が呟いた。
「こっちだ、近いぞ。がんばれ」
 促されるがまま急ぎ足で医局へ続く廊下を渡り、トイレに駆け込む。
 しゃがんだ瞬間、さっき飲み込んだばかりのゼリーが音もなく出てきた。酸と、それから甘みの混じった、なんとも言い表しがたい味。
「っ、はー……はぁ、はぁ、はぁっ……」
 もともと吐くものがそうなかったのもあって、嘔吐は一回で終わった。胸を撫で、呼吸を整えながらゆっくり立ち上がる。
 廊下に出ると、先輩がOS-1のペットボトルを片手に立っていた。近くの自販機で買っておいてくれたらしい。「飲めそう?」と聞かれて、頷くとキャップを開けて渡してくれた。
「本当に、すみません、なにからなにまで……今度、お礼させてください」
「いいよ。俺じゃなくて後輩に返せば」
 俺はあいまいに頷いた。そして、こくりとひと口、ペットボトルを飲む。……あれ、OS-1ってこんな甘かったっけ。ずっと前に飲んだときはしょっぱかったような覚えがあるのに。改良されたのか。
「……これ、けっこうおいしいんですね」
 思わずそう零すと、先輩が顔を顰めて言った。
「なに言ってんだお前、脱水だ脱水。いつもさんざん外来で言ってるだろ。胃腸炎とか、熱中症とか」
「…………あぁ」
 どうしちゃったんだろ、俺。わかってるはずなのにわからなかった。あとたぶんマジかよって思われた。どうしたらいいんだ。
 回らない頭でぐるぐる考えながら、それでも抱えられるようにして歩く。そうしてなんとか外科の受付まで辿り着いた。
「大丈夫、大丈夫ですから……」
 受付やトリアージの間、そう本気で繰り返す声が、もはや自分でも空々しく感じられるほどだった。そして、そんな言い訳のような抵抗も虚しく、あれよあれよという間に診察室にぶち込まれた。
 中には外科の医長がいた。たしか前に合同カンファで喋っているのを見たような覚えがある。少し早口で、でも、だれよりもまっすぐに医療と向き合っている、外科そのものみたいな人。
「ここ痛い? ……うん、痛いね」
 右下腹部に指が沈んだ瞬間、胃の奥がひっくり返るような鋭い痛みが走った。俺は診察台に横になったまま、医長の横顔と、カルテに浮かんでいく文字を眺めていた。

 McBurney ++
 Blumberg +

 まるで他人の身体の情報を読んでいるような、どこか遠い感覚だった。
「んー……熱は微妙だけど、脈速いし、顔色も悪いな。採血とCT。炎症とfree air確認しよう。……虫垂、穿孔してるかもしれん」
 その意味を反芻して、ぽつりと漏れた。
「……でも、ここまで歩いてきたんですけど」
 医長は小さく笑って肩をすくめた。
「穿孔したからってすぐ倒れるわけじゃないよ。ゆっくり進む人もいる。むしろ、仕事しながら我慢してたほうがよっぽど危ない」
 まるで怒られているようだった。事実そうなのだろう。でも、言い返す理由なんてない。
 呻くように息を吐いて、爪の先で、もう片方の腕を強く握った。

 天井の白い灯は眩しいほど明るいのに、頭は霧がかったままで、どこにも焦点が合わない。
 採血が終わり、処置室のベッドに横になったまま、点滴が落ちる冷たさをぼんやりと腕に感じている。
(……急に抜けてきたけど、外来、回ってるんだろうか)
 きっとあの先輩がうまくやってくれているはずだと、そう思う。
 ——でも、それでも気がかりだった。
 人が足りない。いつだって足りていない。そういう場所で、ずっと走り続けてきたのだ。今だって、体のどこかが勝手に立ち上がろうとしている。……
 そんなふうに、ぐるぐると、考えていたときだった。
 胸ポケットでPHSが震えた。反射で取り出し、ボタンを押す。
「はい、一条です」
 一、二秒の無音。そのあとに、聞き慣れたざわめき。ERの音。電話口は受付の女の子だった。早口で、でも少し震えていた。
「一条先生、今……搬送が来たんですけど、たぶん弟さんです。一条葵さん。二十二歳、男性。OD疑いで、ストレッチャーです。今、処置室に向かってます」
 意味が、わからなかった。
「…………え?」
 でも——脳が言葉を咀嚼し、意味を理解した瞬間。全身の血が逆立って、ちかちかと、白むようなめまいを覚えた。どこからか「CT空きましたよー」と声が飛んだが、もう耳に入らなかった。
 腹の痛みも、点滴の冷たさも外の音も——全てが、遠ざかっていく。
(葵? なんで? なんで今、ここに……?)
 呼吸が速くなる。手が、足が、痺れる。
 それでも、行かなきゃと思った。
 力を込めて体を起こす。立とうとする。が、足がもつれ、体が崩れかけた。すかさず看護師が支えてくれる。
「先生、無理しないでください! CT——」
「処置室、行きます。すみません」
 床がほんの少し傾いて見えた。でも、足は前へ歩き出していた。

 ドアの向こう——葵が俺を呼ぶ声が、たしかに聞こえた気がしたのだ。


   *

 スタッフの制止を振り切り、処置室に入る。瞬間、体の芯がすっと冷えたような気がした。
 音は、いつもと変わらない。アラーム、コール、だれかがなにか言ってる声。
 でも、俺の目に映るのは——ベッドの上の葵だけだった。
 グレーのスウェット。
 あいつがいつも着てる、ちょっと襟の伸びたやつ。
 でも、それを着て横たわる体は、あまりにも静かで、色がなかった。
 呼びかけに微かに瞼が動く。けど、焦点はどこにも合っていない。
 唇は乾ききって、割れていた。
 それでも、よく知ったスタッフたちが、ルーティンのように手を動かしている。
 まるで、これが“日常”であるかのように。
「左、18Gでサーフロ入れて。採血もそこから。右はVBG出すから、ガス用シリンジで」
 指示を出しているのは、あの先輩だった。
「紫と赤、出しといて。あと薬物スクリーニングも回す」
 いつもの落ち着いた声。迷いはない。
 その間にもバイタルが繰り返しチェックされ、モニタリングが整っていく。
「血糖106。BT36.8、BP110の70、HR108、SpO₂ 95% RA」
 看護師が左の静脈を探る。18Gがスムーズに入った。逆血を確認し、すぐにシリンジに付け替えて採血を始める。紫、赤と順にチューブが手渡され、それぞれ慎重に分注されていった。
 自分の手足の動きだけがワンテンポ遅れている。心拍数が上がっているのが自分でもわかるのに、声が出ない。動けない。
 そう思っていたときだった。——先輩が、俺に気づいて叫んだ。
「一条!? なんでお前ここいんの!?」
 先輩の声は、怒鳴り声じゃなかった。でも、まっすぐで、鋭かった。
「え、……いや、弟が、だから、」
 うまく言葉が出てこない。先輩がため息をつく。
「お前、今、患者なんだよな? 腹痛で、点滴が入ってて、CT回す予定だったやつだよな?」
「でも、俺……弟が……」
「知ってるよ。でも、今、お前は“患者”。腹痛で、点滴が入ってて、CT回す予定の。兄貴としてここに立つことはできても、医者としてこの子を診られるコンディションじゃないだろ?」
 言われて、目頭が熱くなる。
 悔しかった。でも、言われた通りだった。
 今の俺は、ただ腹を押さえて立っているだけのやつでしかなかった。
「…………っ、すみません」
 それだけ言って、処置室を出た。
 足がもつれて、ドアの外で倒れ込みそうになった。壁に背を預ける。もう腹がどうとかいう感覚すらあいまいだった。痛みが、でも、たしかに腹の奥にある。
 そうだ——俺は、腹を壊してる。ただの患者だった。
 処置室の向こうから、先輩の低い声がまた響く。
「じゃあ続けるよ。1号、ソリタで。バイタルは、今だけ五分ごと」
 声は落ち着いていた。
 現場は、俺がいてもいなくても回る。……むしろ、いないほうがいいときもある。
 アラームが鳴っている。足音と、声と。エレベーターの到着を告げる音が、重なって、鳴り渡る。
 ぜんぶが、遠い。
 遠いのに——なぜか、俺を呼ぶりかの声だけがはっきりと聞こえている。
「雅也くん!」
 声のするほうを向く。非常口の灯りに照らされて、りかが立っていた。
「……りか」
 頬が赤い。冬なのに、コートも着ずに飛び出してきたのか、制服のままだった。
「ごめん、私、どうしたらいいかわからなくて……雅也くんも父さまも仕事だし。だから、救急車、呼んじゃった」
 りかの目は赤く、頬よりずっと腫れていた。当たり前だ。不安だったろう。こんなときに、ひとりで。なにもかも判断させてしまった。
「……いや、むしろ呼んでくれてよかった。ありがとう。ひとりで怖い思いさせて、本当にごめんな。父さんには俺から連絡しとく。帰りは……」
「ううん、いいの」
 言いかけて、遮られた。「それより」と呟いたりかの目は、どう見ても、俺の腕に繋がった輸液バッグに向けられている。
「雅也くん、それ、どうしたの……」
 俺なんかよりずっと冷静なトーンだった。……でも、わかってる。この子が優しい子で、俺を心配させたくないからこうして気丈に振る舞ってくれてるんだってことくらい。
 ——だからこそ、嘘はつけなかった。
「……虫垂炎。穴あいてるかもって」
「え? 嘘、なんで」
 僅かにりかの声が震えた。
「なんでかな……気づいたら腹が痛かった。でも、葵が運ばれてきてさ」
「はぁ…………そっか。バカだね、ふたりとも」
 そう呆れたように言いながらも、りかは少し笑って。そして、どこか悲しそうな顔で、ゆっくりと、俺の肩を撫でたのだった。

   *

 夕方になって、ようやく熱が少し下がった。
 炎症反応は強く、白血球もCRPも跳ねていた。CTでは虫垂の穿孔が疑われ、腹腔内にはうっすらとfree airが描出されていた。
 手術はこのあと、準備が整い次第。
 そんな中、「葵が目を覚ました」とHCUから連絡が入った。
 点滴スタンドを握りながら、腹をかばうようにして歩く。鈍い痛みが腹の奥に響くが、それでも足は止まらなかった。
 詰所に声をかけ、スタッフに促されてカーテンをそっとくぐる。
 そこにいたのは、たしかに葵だった。
 でも——どこか違って見えた。
 目の焦点が定まっておらず、もともと細い体が、さらに痩けているように見える。
 枕元に立つと、葵がゆっくりと目を開けた。
「……兄さん……?」
 かすれた声だった。でも、たしかに俺を呼んだ。
 なにか言おうとして、手を伸ばしかける。が、自分の腕にぶら下がった輸液ラインを見て、思わずその動きを止める。
 代わりに、ひとつ息をついてから、切り出した。
「なあ。……お前、どんだけバカなんだよ」
 それだけで、葵の目からぽろぽろと涙が溢れた。声を殺して、顔をぐしゃぐしゃにしながら泣いている。
 なにが辛かったのか。どこが限界だったのか。
 それを今ここで問い詰めることはできない。
 でも、ただ生きていてくれたこと。こうして会えて、顔を見られたこと——それがなにより大きかった。
「ごめん、ごめん兄さん……おれ、りかから聞いた。兄さんがこんなときに……おれ、ほんとバカやって、ごめん…………」
 葵の号泣が、やがて啜り泣きに変わっていくまで、俺たちはずっと黙っていた。
 そして。
「……いいよ。俺は、お前が生きててくれればそれでいい」
 それが、ようやく口にできた言葉だった。
 葵は、うんとも言わず、ただ静かに頷いた。
 その頷きに、ようやく腹の奥から痛みが戻ってくる。
 ——ああ、そうだ。俺の炎症も、まだちゃんとそこにある。
 
 
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