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十七歳

 鈍色の空から降り注ぐ小雨がタクシーのヘッドライトに白く浮かび上がって、それが眩しくて、おれは思わず目を細めた。
 ガードレールの脇に、女の呼び止めたタクシーが停まっている。雨で窓ガラスが煙っていてうっすらとしか車内は見えないが、中には白髪の、初老と思しき男のドライバーが座っていた。
「とりあえず……、このまままっすぐお願いします。近くなってきたらまた言うので」
 タクシーに乗り込み、そう淡々とドライバーに告げる女の振舞いは、なんというか妙にこなれていて、大人びて見えた。

 ——あのあと。歩き出した女の後を追い、大通りへ出ようとしたところでぽつりぽつりと雨が降り出した。
「雨かぁ……」
 そう呟いて女はゆっくりと、大きな瞳を庇うように手のひらで目元を覆い、続けた。
「あたしの家ここから一駅だからそんなに遠くないんだけど、面倒だからタクシーで行こう。大通りだからすぐ捕まると思う」
 女の言う通りタクシーはすぐに捕まった。そしておれたちを乗せたタクシーは静かに夜の街を走り、おれは窓の外、街のネオンが雨に滲んでいくのを、どこか穏やかな気持ちで眺めていた。

   *

 ——初めて会う気がしないね。
 おれがそう言ったのか。それとも彼女がそう言った? もうそれすら分からなくなっていた。
 脈がトクトクと速く、耳元で打っている。呼吸が上ずっている。一筋の汗が、つうっと重く背中を伝う。
 まるで過換気を起こしたときみたいだけど、そうじゃない。
 壁かけの時計は二時を指している。
 その下でカーテンが夜風に靡いている。紺色の、見るからに高価たかそうなジャガード織のカーテンだった。そして今おれが腰かけているのは——これはたぶんカリモクの、黒い本革のソファ。
 女の住処は都会の一等地に建つマンションの最上階にあった。それもかなり広く、今いるリビングだけでも二十畳はあるように思う。
「どーしたの。もしかして緊張してる?」
「……してる」
「えー。なんで」
 茉莉花はキッチンに立ち、冷蔵庫から取り出した紙パックのアイスティーをグラスに注ぎながら柔らかく尋ねた。
「……だっておれ、女の家に上がったことない」
 そう返すと茉莉花は「えっ」と驚いたように声を上げ、アイスティーを注ぐ手を止めておれを見た。
「嘘、すごいびっくりなんだけど。もっと遊んでそうに見えた」
 ——白い蛍光灯の下で、改めて、彼女を見た。
 耳の上でふたつに結われた髪は胸まで届くほどの長さで、公園で見たときには気がつかなかったが、両耳にそれぞれ数え切れないほどのピアスが開いている。ワンピースの短い裾から覗く太ももは病的に白く、骨の形が透けて見えるほど細い。
「お待たせ」
 そしてそう言っておれの前にグラスを置いた手、その甲の人差し指と中指の付け根に、赤い大きな胼胝たこがあるのに気がついてドキリとした。
「……すげーいいマンションだけど、ひとり?」
 そんなはずはないと思いながら聞いた。おれたち以外にだれの気配もなかったからだった。
「んーん。パパと暮らしてるけど、帰ってこないんだ。出張ばっかり」
「……パパってどっちの?」
 冗談めかして尋ねれば、茉莉花は楽しげに声を上げて笑った。
「あははっ、ちゃんと血の繋がったパパだよ。ママは小さい頃に死んじゃっていないけど」
「ふーん、そっか。ならおれんちと同じだ」
「え。葵くんもなんだ」
 水滴の滲み始めたグラスを手に取り、ひと口、アイスティーを啜る。味がするはずなのに、なぜだろう、なにも感じない。
 女の家に上がるのが初めてだったってこともあるけど、それ以上におれをドキドキさせているのは “運命” なんていう、おれには似つかわしくない、ロマンチックな確信だった。
 ——似てるな、と。そう感じた。
 境遇も、内に抱えている寂しさも。
 初めて会う気がしないなと、改めて、本当にそう思った。

   *

 白いリネンの上で、おれは仰向けになっていた。
 頭の横には茉莉花の愛らしい容貌かおがあり、胸から脚にかけて、上からのしかかっているのは、彼女の体の柔らかな重みだった。
「あたしたち、きっと合うと思うんだよね」
「……初めて会ったのに?」
「初めて会ったから、だよ」
 茉莉花が笑った。ふふふと笑って、おれの胸にキスをする。細く白い指が頰へ伸びてきた。
「……嫌じゃない?」
「嫌じゃない。けど、」
「けど?」
「……初めてだから。わかんない」
 そう言っても、彼女は今度は驚かなかった。

「なあ。今からおれがなに言っても引かない?」


 .
 .
 .

「っ、ぅえッ、ごぶっ……んぅっ、ぇッ、」
「大丈夫? ごめんね無理させちゃったね、ほんとごめん、」
「いや、おまえわるくない、おれがわるい…………」
 床に手をつき、しゃがみ込み、便器に向かってげーげーと嘔吐き続けるおれの背中を茉莉花がさすっている。
 ——なにがどうしてこうなったんだっけ?
 考えに耽る間もなく、ばしゃばしゃっと胃液を吐き戻す。それから二、三秒と経たないうちにまた胃の底が震え、ごぼりと喉が鳴って吐いた。
 喉が酸で焼けている。苦しいというより痛かった。目の端に涙が滲む。
 考えるまでもなかった。昔から性的なもの、性的なこと全て——そう、自慰ですら苦手だったから。セックスなんてもってのほか、しなくていいならなるべくしたくないし。だから白い体液を自分が、合成ゴム越しにとはいえ女の内に放った瞬間、強い眩暈を覚え、吐き気がしたのだ。
「っ、はー、はー、っ、ふ……はぁ、はぁっ、」
「……落ち着いた?」
「っふ、はぁ…………うん、おちついた、と思う、」
「お水もってくるね」
 喉の奥に酸と、アイスティーの香りが残っている。
 水の入ったグラスを彼女から受け取って口をゆすぎ、続けてひと口、またひと口と飲み込むと、だいぶ楽になった。
「寒いよね。リビング行こう。立てる?」
「……ん、」
 情けない。
 彼女に支えられてリビングに戻り、促されるままソファに腰かける。彼女がどこからかブランケットを持ってきて、半裸のおれの肩にそっと掛けてくれた。
「ごめんね、あの、まさか吐いちゃうくらいだめだって、思ってなくて」
「いや、おれもそう思ってるから気にすんな。ほんとに。ごめん」
 互いの心音すら届いてしまいそうなほどに、おれたちは深く、ただ黙していた。
 テーブルの上の、飲み残しの一杯のアイスティー。すっかり氷は溶け切って、グラスのおもてには水滴すら滲まない。
 そんな永久にも続きそうな沈黙を打ち破ったのは、どこか掠れた、おれの声だった。
「——あのさ。さっきおれがベッドの上で言ったこと、あれは本当におれの一部でしかなかったんだ。だから……大丈夫、おれは初めてがおまえとで、本当によかったと思ってるよ」
 俯いて、そう小さく言えば、彼女は哀しげに、でも少し笑った。
 
 
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