十七歳
闇の中に街灯の灯 が白く、ぽつねんと浮かび上がっている。
午前一時。
ときどき笑い声がどこからか大げさに湧き上がっては、静かにこの夜のネオン街を吹き抜けていく。
そしてそのネオン街の外れに佇む小さな公園と、その縁 を取り囲むように植わったツツジの低木。二日ほど続いた大雨のせいだろう、白いツツジのほとんどはくしゃくしゃに萎み、枯れ落ちたそれが茂みの上にぽつりぽつりと散らばっていた。そして、その中にコンドームがひとつ――使い終わってそのまま、誰かがぽいっと投げ捨てていったのだろう――生々しくも中身 の入ったそれが落ちているのに気がついて、とにかく不快で、気がふさいで仕方なかった。
誰もいない公園。
そろそろひとりベンチに座り続けるのにも飽きてきた。かといって、このまま家に帰るわけにもいかないし。
「…………」
いや、別になにかあったってわけじゃないんだ。ただ、なんとなく家に帰るのが怖くて――そう、言うなれば、ずっと家というもの、それ自体から目を背け続けている。
おれはポケットからライターを取り出すと、指の腹でヂリッ、ヂリッとやすりを押し込んで火を熾 した。そして咥えた煙草の先を翳し、ゆっくり息を吸い込むと、吸い込んだ息を一、二秒、しばらく肺の中に留めてからふうっと息を吐いた。そして巻紙の端がほろり、ほろりと雪のように溶けてゆく様を、ぼんやりと眺めていたときだった。
どこからか――でも、きっとそう遠くない場所から、誰か言い争っているような声が聞こえてきて。
中年の男と、若い女だろうか。男の責め立てるような荒々しい声と、女の今にも泣き出しそうに震えた小さな声。
だからといって別に助けてやろうなんて思ったわけじゃないし、ていうかそもそも変なトラブルに巻き込まれるのだけは御免だし。なのに――なのにそう、気がつくとおれは立ち上がり、声のするほうへゆっくりと歩き出していた。……魔がさした、とでも言うべきか。
誘 われるように入り込んだ暗い路地裏。
やはりというかなんというか、そこには中年の男と、おれとそう年の変わらなさそうな若い女がいて、なにやら諍っている様子だった。
仕事の帰りなのだろう、男はくたびれた紺のスーツを着て、片手には大きなビジネス鞄を提げていたが、女のほうは黒いヒラヒラの、コスプレみたいな変なワンピースを着ていた。言ってしまえばまぁ、いかにも といった組み合わせだった。
「ふざけるなよお前、今まで人から巻き上げるだけ巻き上げておいてよぉ、それではい今日で終わりです、はいくらなんでもねぇだろ? なぁ」
「そ、そんなこと言ったって最初に約束を破ったのはそっちじゃないですか……! それ以上しつこくつきまとうならあたし、ケーサツ行きますよ……!」
「――は?」
ケーサツ、という言葉に逆上したのだろう、男の纏う空気が一瞬でぴりっと張りつめたのがわかった。そして男が女の頬めがけて拳を振りかぶった――その瞬間。
カシャリ、と路地の静けさにそぐわぬシャッター音が鳴り響く。男は拳を振りかぶったまま驚いたようにきょろきょろとあたりを見回し、女はそんな男の様子を怯えたように見つめている。
「おじさんさぁ、女の子そーやって脅すのやめたほうがいいよ」
おれはそう言ってつかつかと男に歩み寄ると、そいつの目の前にスマートフォンの画面を突きつけて「これさ」と続けた。そこには今しがたおれの撮った写真が――男が女に拳を振りかぶっている場面が、でかでかと写し出されていた。
「ネットにばら撒かれたくなかったらさっさと消えろよ」
「なっ……誰だよお前、やんのか? あ?」
「いーのかなぁ、そんなこと悠長に言ってて。最近のカメラって性能いいからさ、あんたの社員証 もばっちり映ってるんだけど」
そう言うと男ははっとしたように己の胸元を見、分が悪いと悟ったのだろうか、そのままなにも言わず走り去っていった。
やれやれと息をつき、ポケットにスマートフォンを突っ込んでおれも立ち去ろうとする。――しかし。
「……あ、あの」
気がつくと女が、そう呟いておれの裾を引いていた。
「ん?」
「あの……、ありがとう。助けてくれて」
「あー、別に。いいよ気にしなくて。……ま、でもこれに懲りたら少しは相手を見る目を養うことだね。ああいう面倒そうなタイプのやつは、これから相手にしちゃだめだよ」
それじゃ、そう言って今度こそ本当に立ち去ろうとした、……のだが。
ぐいっと裾を引っ張られて、それがあまりにも急で危うく後ろにひっくり返るところだった。なに、と思わず発した言葉は低く、自分でも酷く不機嫌そうだなと思った。
「……待って! ねえ、」
そう言われ、振り返る。
そこには女がいて、――赤く潤んだ瞳で、どこか悲しそうにおれを見つめ、立ち尽くしていた。
*
気がつけば、おれたちは二人、吸い込まれるように街へと歩き出していた。
夜の高速をひた走る車のエンジン音。ときどきゴーッと遠く、トラックだろうか、タイヤがアスファルトを滑る大きな音がする。あとは酔っ払いのわーだとかきゃーだとか、そんな頭の悪そうな喚き声ばかり。
そして――こう言っちゃ悪いが、おれの目の前にも、そんな頭の悪そうな女が一人。
耳の上で二つに結われた黒い髪。その結び目にはそれぞれ大きな黒いリボンの飾りがくくりつけられていて、まっすぐに切り揃えられた長い前髪の下には、わざとらしいくらい大きな黒い瞳があった。そしてその縁を囲うように塗り立てられたピンク色のアイシャドウと、唇の中心から全体へ、濡れたように広がる赤い口紅がシルクのような白い肌によく映えて、どこか病的な雰囲気を醸し出していた。
枯れ噴水の縁に腰かけて女が、ねえ、とおれの顔を覗き込んで言った。その大きな黒い瞳の縁、瞼のおもて、塗り立てられたピンク色のアイシャドウが、街の灯をきらきらと鉱石のように照り返している。
「名前。なんていうの」
「……葵」
「アオイくんかぁ。いい名前だね」
そう言って女はにこりと笑った。小さな唇のすきまから白い八重歯が零れるように覗いた。年のころはおれとそう変わらないだろうが、なんとなく、その笑顔から抱くのはそれよりももっと幼いイメージだった。
「あんたは」
「マリカ」
「ふーん。それ、どういう字」
尋ねれば、女はふしぎそうに首を傾げた。その様子を見て、しくじったかと少し焦った。
「……おれ、なんか変なこと聞いた」
「ううん別に。ただね、びっくりしたの。初めて聞かれたから。ほら、こういうとこにいる子って、みんな相手のこと深く知りたがらないでしょ」
「ふーん……そういうもんなんだ。でもさ、不便だろ。どういう字か知らなきゃ、相手のこと呼ぶとき頭ん中でずっとカタカナのまんまだ」
そう返せば、女はじっとおれの目を見て「アオイくんっておもしろいねぇ」と呟いた。そして「こういうとこにはあんまいないタイプだ」と、褒めているのか貶しているのかよくわからない、それでもどこか楽しげな表情で笑った。
「あのね、マリカってね、草かんむりに……えーっと、なんて言ったらいいんだろう」
「……もしかして茉莉花 って書く?」
「そう! 知ってるんだ、すごい、アオイくんって頭いいんだねぇ」
以前どこかでそういう名前の酒が売っているのを見てたまたま知っていただけなのだが、もちろんそれは言わずに「別に」とだけ呟いておく。
「ねぇねぇ、アオイくんは? どうやって書くの?」
「おれは……草かんむりの下に、発みたいな字……出発の発。それで葵」
「あー、わかったわかった。三つ葵の葵だ、徳川の」
「なんで真っ先にそれ出てくんの。渋すぎだろ」
前言撤回。
女は――茉莉花は、しばらく話してみて分かったが、その頭の悪そうな見た目からは想像がつかないほど利発だった。
「葵くんっていくつ?」
「……十七」
「おー、同い年だ。あたしも十七だよ」
「でもおれ早生まれだよ」
「あたしも早生まれ。葵くん高三?」
「そう」
「そっかぁ。あたしバカでさ、勉強ついていけなくて高校やめちゃって、今ニートなんだ」
よいしょと両腕を伸ばし、長い爪先の向こうに広がる夜空を見つめながら彼女は言った。おれはどう返そうか少し迷って、しばらく間を空けてから「でも」と切り出した。
「言うほどバカじゃないと思うけどな。たしかに見た目はバカっぽいけど」
「ひどーい。へへ、でも嬉しいな。葵くんって優しいね」
そう言われてどきりとする。優しいなんて言われたのはそういえば、思えばずっと久々のことのような気がする。それも、おれにそう言ってくれるのは兄さんだけだった。それ以外からは冷たいとか、なに考えてるかよく分かんないとか、そんな言葉ばっかり。……まぁ、そう言われても仕方ないような態度ばっかり取ってるおれが悪いんだけど。
「でもさ、そう言う葵くんはほんとに頭よさそう。高校どこなの?」
「……碧朋 ってわかる?」
「わかる! 碧朋高校でしょ! えー、なに、めちゃくちゃ頭いいんじゃん」
――学校法人碧朋学園。百年だったか二百年だったか忘れたが、うんと昔に創立された古くさい――否、伝統ある学園で、東京を中心に県を跨いで下は幼稚園、上は大学まで、たしか十二の教育機関を設置していたはずだ。おれが通っているのはその中でも最も有名な碧朋高校という中高一貫の男子校で、おれも兄さんも、というかうちの家系の男は代々みんなそこに通っている。
「碧朋ってさ、あれでしょ、制服あるけど私服で登校してもオッケーなんだよね。みんな頭いいから、それで風紀が乱れることもないし」
「ん、まぁ。オッケーっていうか黙認って感じだけど」
たしかに碧朋の生徒のほとんどは私服で登校している。指定の学ランはあるが、着ているやつはほとんどいない。かくいうおれもそうだ。
生徒の自主性を重んじるという校風のもといろいろな違反が黙認されているわけだが、前に一度、休み明けにいきなり髪をピンクに染めて登校してきたやつがいてもスルーだったときは、さすがにまじかよって思ったけど。
「……詳しいじゃん」
「あたしの幼なじみも碧朋なんだ。同い年だから、もしかしたら葵くんも知ってるかもね」
「ふーん」
それ以上はなにも聞かなかった。そんなおれたちの間を、さあっと風が吹き過ぎてゆく。
彼女はその風に向き合うようにふらりと立ち上がると、長い前髪を甘く風に靡かせ、赤い唇を小さく、いたずらっぽく動かして言った。
「ねえ、葵くん。あたしの家、来ない」
午前一時。
ときどき笑い声がどこからか大げさに湧き上がっては、静かにこの夜のネオン街を吹き抜けていく。
そしてそのネオン街の外れに佇む小さな公園と、その
誰もいない公園。
そろそろひとりベンチに座り続けるのにも飽きてきた。かといって、このまま家に帰るわけにもいかないし。
「…………」
いや、別になにかあったってわけじゃないんだ。ただ、なんとなく家に帰るのが怖くて――そう、言うなれば、ずっと家というもの、それ自体から目を背け続けている。
おれはポケットからライターを取り出すと、指の腹でヂリッ、ヂリッとやすりを押し込んで火を
どこからか――でも、きっとそう遠くない場所から、誰か言い争っているような声が聞こえてきて。
中年の男と、若い女だろうか。男の責め立てるような荒々しい声と、女の今にも泣き出しそうに震えた小さな声。
だからといって別に助けてやろうなんて思ったわけじゃないし、ていうかそもそも変なトラブルに巻き込まれるのだけは御免だし。なのに――なのにそう、気がつくとおれは立ち上がり、声のするほうへゆっくりと歩き出していた。……魔がさした、とでも言うべきか。
やはりというかなんというか、そこには中年の男と、おれとそう年の変わらなさそうな若い女がいて、なにやら諍っている様子だった。
仕事の帰りなのだろう、男はくたびれた紺のスーツを着て、片手には大きなビジネス鞄を提げていたが、女のほうは黒いヒラヒラの、コスプレみたいな変なワンピースを着ていた。言ってしまえばまぁ、
「ふざけるなよお前、今まで人から巻き上げるだけ巻き上げておいてよぉ、それではい今日で終わりです、はいくらなんでもねぇだろ? なぁ」
「そ、そんなこと言ったって最初に約束を破ったのはそっちじゃないですか……! それ以上しつこくつきまとうならあたし、ケーサツ行きますよ……!」
「――は?」
ケーサツ、という言葉に逆上したのだろう、男の纏う空気が一瞬でぴりっと張りつめたのがわかった。そして男が女の頬めがけて拳を振りかぶった――その瞬間。
カシャリ、と路地の静けさにそぐわぬシャッター音が鳴り響く。男は拳を振りかぶったまま驚いたようにきょろきょろとあたりを見回し、女はそんな男の様子を怯えたように見つめている。
「おじさんさぁ、女の子そーやって脅すのやめたほうがいいよ」
おれはそう言ってつかつかと男に歩み寄ると、そいつの目の前にスマートフォンの画面を突きつけて「これさ」と続けた。そこには今しがたおれの撮った写真が――男が女に拳を振りかぶっている場面が、でかでかと写し出されていた。
「ネットにばら撒かれたくなかったらさっさと消えろよ」
「なっ……誰だよお前、やんのか? あ?」
「いーのかなぁ、そんなこと悠長に言ってて。最近のカメラって性能いいからさ、あんたの
そう言うと男ははっとしたように己の胸元を見、分が悪いと悟ったのだろうか、そのままなにも言わず走り去っていった。
やれやれと息をつき、ポケットにスマートフォンを突っ込んでおれも立ち去ろうとする。――しかし。
「……あ、あの」
気がつくと女が、そう呟いておれの裾を引いていた。
「ん?」
「あの……、ありがとう。助けてくれて」
「あー、別に。いいよ気にしなくて。……ま、でもこれに懲りたら少しは相手を見る目を養うことだね。ああいう面倒そうなタイプのやつは、これから相手にしちゃだめだよ」
それじゃ、そう言って今度こそ本当に立ち去ろうとした、……のだが。
ぐいっと裾を引っ張られて、それがあまりにも急で危うく後ろにひっくり返るところだった。なに、と思わず発した言葉は低く、自分でも酷く不機嫌そうだなと思った。
「……待って! ねえ、」
そう言われ、振り返る。
そこには女がいて、――赤く潤んだ瞳で、どこか悲しそうにおれを見つめ、立ち尽くしていた。
*
気がつけば、おれたちは二人、吸い込まれるように街へと歩き出していた。
夜の高速をひた走る車のエンジン音。ときどきゴーッと遠く、トラックだろうか、タイヤがアスファルトを滑る大きな音がする。あとは酔っ払いのわーだとかきゃーだとか、そんな頭の悪そうな喚き声ばかり。
そして――こう言っちゃ悪いが、おれの目の前にも、そんな頭の悪そうな女が一人。
耳の上で二つに結われた黒い髪。その結び目にはそれぞれ大きな黒いリボンの飾りがくくりつけられていて、まっすぐに切り揃えられた長い前髪の下には、わざとらしいくらい大きな黒い瞳があった。そしてその縁を囲うように塗り立てられたピンク色のアイシャドウと、唇の中心から全体へ、濡れたように広がる赤い口紅がシルクのような白い肌によく映えて、どこか病的な雰囲気を醸し出していた。
枯れ噴水の縁に腰かけて女が、ねえ、とおれの顔を覗き込んで言った。その大きな黒い瞳の縁、瞼のおもて、塗り立てられたピンク色のアイシャドウが、街の灯をきらきらと鉱石のように照り返している。
「名前。なんていうの」
「……葵」
「アオイくんかぁ。いい名前だね」
そう言って女はにこりと笑った。小さな唇のすきまから白い八重歯が零れるように覗いた。年のころはおれとそう変わらないだろうが、なんとなく、その笑顔から抱くのはそれよりももっと幼いイメージだった。
「あんたは」
「マリカ」
「ふーん。それ、どういう字」
尋ねれば、女はふしぎそうに首を傾げた。その様子を見て、しくじったかと少し焦った。
「……おれ、なんか変なこと聞いた」
「ううん別に。ただね、びっくりしたの。初めて聞かれたから。ほら、こういうとこにいる子って、みんな相手のこと深く知りたがらないでしょ」
「ふーん……そういうもんなんだ。でもさ、不便だろ。どういう字か知らなきゃ、相手のこと呼ぶとき頭ん中でずっとカタカナのまんまだ」
そう返せば、女はじっとおれの目を見て「アオイくんっておもしろいねぇ」と呟いた。そして「こういうとこにはあんまいないタイプだ」と、褒めているのか貶しているのかよくわからない、それでもどこか楽しげな表情で笑った。
「あのね、マリカってね、草かんむりに……えーっと、なんて言ったらいいんだろう」
「……もしかして
「そう! 知ってるんだ、すごい、アオイくんって頭いいんだねぇ」
以前どこかでそういう名前の酒が売っているのを見てたまたま知っていただけなのだが、もちろんそれは言わずに「別に」とだけ呟いておく。
「ねぇねぇ、アオイくんは? どうやって書くの?」
「おれは……草かんむりの下に、発みたいな字……出発の発。それで葵」
「あー、わかったわかった。三つ葵の葵だ、徳川の」
「なんで真っ先にそれ出てくんの。渋すぎだろ」
前言撤回。
女は――茉莉花は、しばらく話してみて分かったが、その頭の悪そうな見た目からは想像がつかないほど利発だった。
「葵くんっていくつ?」
「……十七」
「おー、同い年だ。あたしも十七だよ」
「でもおれ早生まれだよ」
「あたしも早生まれ。葵くん高三?」
「そう」
「そっかぁ。あたしバカでさ、勉強ついていけなくて高校やめちゃって、今ニートなんだ」
よいしょと両腕を伸ばし、長い爪先の向こうに広がる夜空を見つめながら彼女は言った。おれはどう返そうか少し迷って、しばらく間を空けてから「でも」と切り出した。
「言うほどバカじゃないと思うけどな。たしかに見た目はバカっぽいけど」
「ひどーい。へへ、でも嬉しいな。葵くんって優しいね」
そう言われてどきりとする。優しいなんて言われたのはそういえば、思えばずっと久々のことのような気がする。それも、おれにそう言ってくれるのは兄さんだけだった。それ以外からは冷たいとか、なに考えてるかよく分かんないとか、そんな言葉ばっかり。……まぁ、そう言われても仕方ないような態度ばっかり取ってるおれが悪いんだけど。
「でもさ、そう言う葵くんはほんとに頭よさそう。高校どこなの?」
「……
「わかる! 碧朋高校でしょ! えー、なに、めちゃくちゃ頭いいんじゃん」
――学校法人碧朋学園。百年だったか二百年だったか忘れたが、うんと昔に創立された古くさい――否、伝統ある学園で、東京を中心に県を跨いで下は幼稚園、上は大学まで、たしか十二の教育機関を設置していたはずだ。おれが通っているのはその中でも最も有名な碧朋高校という中高一貫の男子校で、おれも兄さんも、というかうちの家系の男は代々みんなそこに通っている。
「碧朋ってさ、あれでしょ、制服あるけど私服で登校してもオッケーなんだよね。みんな頭いいから、それで風紀が乱れることもないし」
「ん、まぁ。オッケーっていうか黙認って感じだけど」
たしかに碧朋の生徒のほとんどは私服で登校している。指定の学ランはあるが、着ているやつはほとんどいない。かくいうおれもそうだ。
生徒の自主性を重んじるという校風のもといろいろな違反が黙認されているわけだが、前に一度、休み明けにいきなり髪をピンクに染めて登校してきたやつがいてもスルーだったときは、さすがにまじかよって思ったけど。
「……詳しいじゃん」
「あたしの幼なじみも碧朋なんだ。同い年だから、もしかしたら葵くんも知ってるかもね」
「ふーん」
それ以上はなにも聞かなかった。そんなおれたちの間を、さあっと風が吹き過ぎてゆく。
彼女はその風に向き合うようにふらりと立ち上がると、長い前髪を甘く風に靡かせ、赤い唇を小さく、いたずらっぽく動かして言った。
「ねえ、葵くん。あたしの家、来ない」
