十七歳
四月。柔らかい風に吹かれてひとつ、またひとつと桜の花が舞い落ちる。見上げれば空を突き刺すように伸びた枝々の半分ほどが青く芽吹きつつあって、春というより夏の兆しではあったが、だだっ広いホールの中心、クラス替えの掲示の前でわあわあと群れる生徒たちの騒がしさがしっかりと春の訪れを告げていた。
「あ、いた! 葵」
とんとん、と後ろから肩を叩かれる。よく知った、ゆるく伸びた声。安田だった。
「おー、久しぶりじゃん。どうだった、クラス」
「それがさ、人いっぱいでまだ見てないの。前に進もうとしても押し戻されちゃって。ほら、僕この体型だから」
「それ体型じゃなくてお前がただトロいだけから。……おれ見てきてやるから待ってて」
ていうかお前そんな太ってないだろ。そう言おうとしてやめた。おれにとってはフォローのつもりでも、相手にとってはそうじゃないってこともあるし。だからおれは悪いことはもちろん、いいことでだって見た目のことで相手になにかを言うことは決してしない。
——なぜならおれがそうだから。
たとえばおれは、いくら相手がおれを褒めてくれているつもりでも、顔のことを言われるのが本当に嫌いだ。
こんな顔、自分じゃどこがいいのかぜんぜんわかんないけど、よくかっこいいねって言ってもらえることがある。いつも笑って済ませるけど、そういうとき常に内心はバクバクだ。
そして自分の中に流れる血を、この汚れた血を、早く拒絶したくて仕方がなくなる。……
人並みを掻き分け、掲示を見上げる。自分の名前はすぐに見つかった。
一条葵。三年一組。
でも一組のメンバーを上から下まで目で追っていっても安田の名前はなかった。ちぇっ、と小さく舌を打つ。一、二年はいっしょだったのに。とうとう離れたか。
安田の名前は掲示の右下にあった。安田雄一郎。三年十組。しかも出席番号はいちばん最後。三年は十クラスまでしかないから、つまり安田は学年でいちばん最後ってことになる。うーわ、なんか卒業式いろいろやらされそうで大変だな。
また人並みを掻き分けて戻る。安田は桜の幹に凭れて立っていた。そしておれに気づくと顔を上げ、「どうだった」と尋ねる。
「おれ一組でお前は十組。しかもお前は出席番号ビリ。卒業式がんばれよ」
「まじかぁ。やだな」
教室には既に二十人ほどの生徒がいた。クラス替えの当日といえど三年ともなればもうグループが出来上がっているのが当たり前で、楽しげな笑い声に混じって叫声や、手を叩く音なんかが弾けるように鳴り渡っていた。
おれはそのざわめきの中をなるべく目立たないよう静かに歩き抜けると、黒板に貼り出された座席表にちらりと目をやって自分の席に着いた。
窓のそば、前から数えて四つ目の席だった。そう悪くはない。
——疲れたな。
頬杖をつき、ぼんやりと窓の外を眺める。
新しいことが始まるときはいつもこうだ。刺激が多すぎて、特になにかしたってわけでもないのに酷く疲弊する。
早く帰りたいって思うけど、別にあの家に帰りたいってわけでもない。家にいても学校にいてもだめなんだ。いつも胸のどこかがざわざわしていて、ずっと息が苦しくて。
俯き、時が過ぎるのをただ待っていた。そんなときだった。
「てかさ、あれやばくね? 昨日の夜やってたやつ。ふつーに区内でビビったんだけど」
ふと流れ聞こえた声に、思わず耳を塞ぎたくなった。
「あー、あれか。おっさんが若い女の家に忍び込んで次々レイプしてったってやつ?」
「そーそー、俺らもドーテー拗らせすぎてああなったらどーするよ」
「ハハッ、どーしよそれ否定できねぇ」
——やめてくれ。それ以上は聞きたくない。
トク、トク、と脈が耳元で打っている。それがだんだん膨らんで、大きくなって、頭の中を砂嵐がザーッと……おれの思考を、覆い尽くしていく。
「…………っ、は」
頭を抱えるようにして机に突っ伏し、祈るような思いでチャイムを待つ。それから二、三秒と経たないうちに朝礼の始まりを告げるチャイムが鳴って、あんなに騒がしかった教室も少しずつ静けさを取り戻していった。
机に突っ伏したまま、ほっと息をつく。かといって顔を上げる気力もない。そのまま目を瞑っているとガラリと扉の開く音がして、生徒たちの履く硬い上履きのゴム底とは違う、柔らかい足音が聞こえてきた。それが教室の中心で止んで、ああ、センコーが来たんだなと項垂れたまま思う。
「……おーいそこ、寝てるやつ。前から四番目。起きろよ〜」
ぜってーおれじゃん。うっせーなと舌打ちしたいのを堪えながらなんとか顔を上げ、驚く。
「えー、もう三年生なのでみなさん顔くらいは知ってるかと思いますが。今日から一組の担任になります、水谷俊輔です。どうぞよろしく」
*
バレーシューズの入った袋を片手に提げ、ふわあ、とあくびをしながら体育館へ向かう人波の中を歩く。
始業式さえ耐えれば今日は終わり。昼には家に帰れる。兄さんもガキもいないから、今日は久々にゆっくり家で過ごせるな——そう考えたところでいや、と思い直した。……今あの家に帰ったところでまともに休めるわけがないんだった。
でも昨日も一昨日もぜんぜん眠れなかったし、今日こそちゃんと寝ないとまずいかもな。寝不足が続いているせいかここ二、三日ずっと気分が悪くて常に貧血みたいに目の前が揺れてるし、気を抜くとふらふら倒れそうになるし。さいあくネカフェでもなんでもいいからひとりでゆっくり休めるところに行こう。……じゃないと積み重なった心労も相まって本当に倒れそうだ。
そんなことを考えながら歩いていたときだった。
「よ。元気?」
そう親しげに声を掛けられて振り向けば、つい先ほどまで教壇に立っていた担任の姿があった。
「……あー。おはよう、ございます」
声を掛けてもらえてうれしいのに、ついぶっきらぼうに返してしまう。でも水谷もそれをわかっているのか、特に気にする様子もなく続けた。
「お前どーしたの、今日。なんか調子悪そうじゃん」
「べつに」
「なになに、ハンコーキ?」
「違う。……あんま寝てなくて」
俯いてそう小さく言えば、水谷の眉尻がわずかに下がる。
「なんかあったの」
「……んーん。なんでもない」
かぶりを振ってそう答える。なんでもない、なんていうのは真っ赤な嘘だったけど、かといって本当のことを話すだけの気力もなかった。
いやああぁぁ、と泣き叫ぶ甲高い声。聞いているだけで心臓がバクバクと脈を打って、息ができなくて、耳元で鳴り続ける脈の音がうるさくて……、じっとりと汗の滲んだ手のひらを、力いっぱい握り込む。
「ごめんなさい、ごめんなさい、いい子にする、りかいい子にするからぁ……!」
だから叩かないでと縮こまり、頭を庇って震えるガキの姿はまるであの日々のおれだった。殴られ蹴られ、それでも耐え続けるしかなかった、あの日々のおれの。
——春休みが始まって三、四日ほど経ったころだったと思う。ある日の夕方、家に帰ると玄関の隅に見知らぬ黒いハイヒールが脱ぎ揃えられていた。
「葵くん、おかえりなさい。久しぶりだね」
そしてリビングにいた見知らぬ女が、そう言ってにっこりと笑いかけてきて。
あんただれ? 思わずそう返しそうになったけど、うれしそうにその女にくっついているガキの、その離れがたい姿を見てすぐに気がつき飲み込んだ。
「あー、っと。久しぶり、です。……小夜子さん」
肩のあたりでまっすぐに切り揃えられた明るいブラウンの髪。黒い透かし編みのワンピースの袖から覗く、折れそうに細い腕。彼女が髪を掻き上げると、長い爪の先に飾りつけられたビジューが窓から射し込む夕日を受け、きらりと鋭く照った。
ラベンダー色のアイシャドウのよく似合う、その小夜子という色白の女は、父さんの再婚の相手——つまりガキの実の母親に当たる人物だった。
最後に会ったのはもう三年ほど前になるだろうか。彼女に手を引かれてこの家にやって来たガキは今よりうんと小さくて、まだ背丈もおれの腰ほどしかなかったはずだ。
「もう浩也さん……葵くんたちのお父さんにはお話ししてあるんだけどね。私、またこのおうちに居させてもらうことになったの」
よろしくね、と目尻を垂れさせて笑う彼女の、黒い大きな瞳がおれを捉えて離さないようで——まるでおとぎ話に出てくる魔女のようで、酷く恐ろしかった。……
「はーい、ご飯できたよ」
「……ありがとうございます」
小夜子さんが来て、おれたちの生活は一変した。
今まで兄さんがやっていた家事を彼女が代わりに全てやってくれるようになって、おかげで兄さんもやっと学生らしく過ごせるようになって——まだ春休みではあるが、重い鞄を抱えて毎日のように朝から出かけ、遅くまでキャンパスに篭っている。
だからおれがほとんどの時間をこの家で、ガキと小夜子さんの三人で過ごすようになったのも当然といえば当然だった。……そして生活が、少しずつおれを追いつめていった。
小夜子さんはおれに対しては丁寧——というよりよそよそしかったが、優しかった。まあ、言ってしまえばおれたちは赤の他人で、お互いに一定の距離を保ちながら過ごしていたからそうなるのも頷けるだろう。
でもガキに対してはそうじゃなかった。少しでも口答えをすれば頬を打ち、しつけと称してバスルームに閉じ込めたり、ベランダに閉め出したりすることがあった。
そう、まるでかつてのおれように……、父さんに殴られ蹴られ、怯えて暮らしていたかつてのおれのように、ガキはいつも怯えていた。あのうざったい爛漫さも今じゃ鳴りを潜めて、まるで人形だった。
「りか、なにやってんの! 早く手伝いなさい」
「あ! ごめんなさい」
慌てたようにガキが駆けてきて、小さな体をよいしょと伸ばし、棚からコップを取ろうとする。危ないなと見かね、取ってやろうかとおれも腕を伸ばしたときだった。ガキの指の先が触れ、棚からつるりと滑り落ちたコップが床に叩きつけられ、ガシャンと大きな音を立てて割れた。
瞬間、金切り声。
「もー! なにやってんの!」
「っ、ぁ、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「しかもそれ葵くんのでしょ!」
たしかに割れたのはおれのコップだった。でも、今にも泣き出しそうに歪んだガキの顔と、そいつを引っ叩こうと手を振り上げる小夜子さんを見ていたら、とても怒る気になんてなれなくて。
「小夜子さん、おれ別に気にしないからいいよ」
だからガキが引っ叩かれる前にそう言った。
——テレビの中でも街中でも、子どもが怒鳴られたり叩かれたりしているのを見ると、心臓がバクバクと音を立て、呼吸ができなくなることがある。どうも脳が見ず知らずの子どもと昔の自分を重ね合わせてしまうようで、酷いときには過去の体験がそのまま身体の感覚ごと甦ってきて、動けなくなってしまうこともあった。
いくら嫌いなやつにだって、こんなおれみたいな思いはしてほしくない。……特にこいつには、おれと違ってそうされるべき謂れがあるわけでもないんだし。
「……それより怪我ない」
「ない、けど……葵お兄ちゃんごめんなさい、あのね、わざとじゃないの」
「そんなんわかってるから。別に、いい」
——そう言って作ってみせた笑顔は、きっと兄さんとはちっとも似ていない。
*
「あ〜……ごめん一条くん、もうちょっと前に行ける?」
呼びかけられて、ハッと我に返る。見れば、前のやつの背中とおれのバレーシューズの爪先とが二メートルほど離れていて。おれは上履きの入った袋を提げたまま、ただ突っ立っていた。
「あー、うん。わりぃ」
……いけねぇ、ぼーっとしてた。言われた通り前へ二、三歩、足を踏み出す。
始業式は今まさに始まろうとしているところだった。
体育館の隅、式次第の下に立った教員があ、あと小さく呟きながらマイクの角度を直している。そしていつもの「一同、礼」という合図で式が始まった。
校長が壇上に立ったところでふわあ、とまたあくびが出る。……眠い。つーか疲れた。まだ式が始まって五分と経っていないはずなのに、もう脚が疲れている。落ち着かず、足先を動かしてみると少しマシになったような気がした。
あれ、と思い始めたのは、長ったるい校長の話がちょうど終わったころ。各クラスの担任の発表に差し掛かったときだった。
頭から足元へ、さーっと血の気が引いていくような感覚。そして視界の端から現れた黒い靄が天井を、床を、吊り上げられたバスケットゴールを……整列する生徒たちの後ろ姿を、じわりじわりと覆い尽くしていった。
「……っ、は」
なにも見えない。それなのに目の前がぐわんぐわんと揺れているような感じがする。頭が重くて、それなのに足元はふわふわしていて、今にも崩れ落ちそうになるのをなんとか堪えて立つ。でも暑くもないのに汗が背を伝って、ぜえぜえと息が上がって、いよいよまずいんじゃないのこれ、と思ったところでキーンと耳が鳴った。
周囲の音が遠ざかっていく。なにも聞こえない。まるでプールの底に潜ったときみたいだ。手足の感覚もない。
——あれ、おれ今ちゃんと立ててる?
「っは、……はぁ、」
甘酸っぱい唾液が込み上げてくる。
……吐きそう。っていうか吐く、吐くかも。
う゛っと喉が鳴ってなすすべもなくしゃがみ込んだ。というよりほとんど倒れるような形だったと思う。強い耳鳴りの向こうで周囲がざわついていくのを感じて、恥ずかしくて仕方なかった。けど今はそれどころじゃない。
とんとんと後ろから肩を叩かれている、……ような気がする。耳の近くでよく知った声がする。けどそれがだれなのか、なにを言っているのかがわからない。
「っ、はぁっ、はぁっ、……やばい吐く、かも、……っ、ん、吐く、」
「しんどいな〜……大丈夫だからな、とりあえず出るぞ、出口すぐそこだから」
……あー水谷か、この声。やっとわかった。周囲のざわめきの中で、それでも水谷の声だけがはっきりと聞こえてくる。
「こっち凭れていいから。左側な」
腕を引かれ、左側へ凭れかからされた。そしてそのまま肩を抱かれ、ほとんど引きずられるようにして歩いた。
「よーし、もういいぞ。がんばったな」
だから水谷がそう言ってとんとんとおれの肩を叩いた瞬間、安心して勢いよく膝から崩れ落ちた。視界が揺れ、ふらりと体が傾いた体を支えようとして手をつく。
手をついた先は硬く、ひんやりとしていた。感触からしてコンクリートだろう。どうやらおれは体育館の外に連れ出されたらしかった。
「んぐっ、……ぇっ、げっ」
吐く、と思う間もなく吐いた。なにも見えないせいでどこをどう汚したかすらわからない。背中をさすられて、続けてまたびしゃっと嘔吐する。
「っ、はー、はー、っ、は、はっ……」
そうして荒く息を吐いていると、どこからともなく伸びてきた二本の腕に体を支えられ、そのままコンクリートの上に横向きに寝かされた。
「よしよし大丈夫、大丈夫だからな〜」
そう言って肩をさすられる。その力強さが優しくて、なぜか涙が零れそうだった。
でもそのうちいくつか足音が近づいてきて、……センコーだろうか、おれの周りでなにやらがやがやと騒いでいる。来るな、見るな、やめてくれ、そう言いたいのに思うように声が出ない。
担架に乗せられたころには気分はだいぶマシになっていたけれど、代わりに死にたくて仕方なかった。穴があったら入りたいって、まさにこういうことなんだと思う。
「おー。だいぶ戻ってきたな、顔色」
頭上で水谷の声がする。おれは目を瞑ったまま小さく口を開いた。
「…………やらかした。ほんと死にたい」
「んな大袈裟な。あれくらいぜんぜん大したことないって」
ゆっくりと瞼を押し上げる。
まず目に飛び込んできたのは、白い天井だった。次に白い壁。そしておれのいるベッドを取り囲むように吊り下げられた淡いクリーム色のカーテンが、窓から吹き込む春風にゆらゆらとそよぐのどかな光景だった。……おれのこの行き場のない絶望とは、あまりに不釣り合いな。
——あのあとおれは駆けつけてきたセンコー四人に担架で運ばれ、そのまま保健室に担ぎ込まれた。そんなおれの姿ははたから見ればさぞ重病人のように映っただろうし、注目されるのが恥ずかしくて、ずっと横を向いたまま腕で顔を覆っていた。幸いなのは保健室に着いてすぐ他のセンコーが体育館に戻っていって、今ここには水谷とおれと、カーテンの向こうでデスクに座り、パソコンで作業をしている保健医しかいないことだが。
「気分どうよ」
「……だいぶマシになった」
「そー、よかった。なに、貧血? 今までもこういうことあった?」
「……ない、けどたぶんそうだと思う。ずっと寝不足だったし」
言いながら、寝不足で倒れるって女子かよ、って思わず心の中で呟いた。
……さいあくだ。恥ずかしすぎる。明日もふつーに学校あんのにどういう顔して行けばいいんだよ。考えるだけで億劫だった。
「今日どーする、あとホームルームだけだけど。帰る?」
「……帰る」
「お迎え呼ぶ?」
「呼ばない」
「返事はや。……まー、でもそうだよな」
だって、お迎え呼ぶって言ったって家には小夜子さんとガキしかいないし。まあ兄さんがいたって兄さんにも頼まないけど。大袈裟に心配されるのが目に見えてて面倒だから。
「あとちょっと休めば大丈夫だと思うから」
「おー、わかった。ならホームルーム終わるまでゆっくりしてな。俺あとで荷物ここに持ってきてやるから」
「……ありがと」
じゃあなと小さく手を振って水谷は出ていった。
残されたのは微妙に残る胃のむかつきと、保健医が打つカタカタという静かなキーボードの音だけだった。
それから一時間ほど経って、おれは水谷に持ってきてもらった荷物を抱え、学校を出た。
まだ昼の日中。
踏み潰された桜の花びらと、烏が食い散らした可燃ゴミの残骸があちこちに散らばっている。俯き、それらをぼんやりと見つめながら重い足取りで家路につく。
「……はぁ」
帰りたくないな、と息を吐いた。でももう外で過ごせるほどの体力が、……というより気力が残っていない。
*
玄関のドアを開け、靴を脱ぐ。玄関の隅にはいつも通りガキのピンクの靴と小夜子さんの黒いハイヒールが並べられていた。
「あら葵くん、おかえりなさい」
ドアが開いた音を耳にして駆けつけ、そう言ってにっこりと笑ってみせる小夜子さんは、それだけ見ればまさに理想の “母さん” だろう。
「……ただいま」
「早いね。今日は始業式だけ?」
「はい、今日は始業式だけで。明日からはいつも通り授業なんですけど」
おれも少し笑って答えた。……我ながらキモいと思う、こういういい子ぶりっ子。
「それじゃ」
軽く会釈して階段を上り、自室のドアを開ける。そして大きく息を吐き、鞄を床に放り投げるとそのままベッドに倒れ込んだ。
「…………はぁ」
――新学期が始まって早々、散々だったな。
立ち上がり、クローゼットの奥からいつもの箱を取り出す。中にはカッターナイフや剃刀、ドラッグストアで買った薬なんかが大量に入っていて、その中から剃刀を取り、ついでにティッシュを二、三枚、机の上のティッシュボックスから引き抜くとベッドに投げ置いた。
中学のころに始めた自傷も今じゃすっかりルーティンと化していて、今のおれにとってはもう、食べたり眠ったりすることとほとんど変わらない。昔のおれが抱えていたような “この世界と、この世界を構成するところのおれをめちゃくちゃにしてやりたい” という青くさい気概も、とうの昔に薄れてしまっていた。
剃刀を腕に押し当てる。そして手首に力を込め、ぐっと横に引いた。瞬間、チリッと灼けるような痛みが走る。そして血が細い傷口の上でぷつりぷつりと玉のように盛り上がり、やがてその形を保ちきれず、つうっと腕を伝った。
「…………っ」
まだ赤赤と血の滲む傷口のすぐ上にまた刃を押し当てる。そして横に引く。またその少し上に刃を押し当て、引く。そうしていくうちにあっという間に腕は血まみれになった。
腕を切って、血まみれになって、温かさを感じたなんて歌った人がいた気がするけど本当にその通りだと思う。腕を伝っていく血は、他のどんなものより優しかったし、なによりおれを安心させてくれた。
生きてるんだって、こんなおれでも流れ出る血はみんなとおんなじ色なんだって、そう安心できる。……たとえ、その血がどんなに汚れていたとしても。
コンコンコン、と軽くノックの音が響いたのは夕方。道具の入った箱をクローゼットへ戻し、血まみれのティッシュをゴミ箱の底に押し込んだあとのことだった。
「葵〜いる?」
兄さんの声だった。
「……いる、けど」
ドアを開ける。大学の帰りだろうか、兄さんは白いTシャツに黒のカーゴパンツというラフな出立ちで、おれの顔を見るとゆるく笑った。
「夜ご飯できてるって。下おいで」
「……うん」
しかしそう頷いた瞬間、兄さんの表情が変わって。
「あれ。なんか顔色ちょっと悪くない? 大丈夫?」
鋭すぎない? 思わずそう返しそうになった。
たしかに顔色はちょっと悪いと思う。なんて言ったって、朝ぶっ倒れた上にゲロってるから。でもなんでわかんの? 怖いんだけど。
「……そんなことない」
「そーお? 熱あるんじゃない」
額に触れられそうになって、思わずやめろよとその手を弾いた。
「ない。触んな」
「ん〜……わかったわかった、じゃあ下おいでね」
兄さんはそう言い残すと階段を下りていった。最後に見えた横顔が少し寂しそうだった気もするけど、いい。ちょっと……いや、かなり申し訳ないけど。
――熱、やっぱりあるのかもしれない。
そう思い始めたのは飯を食っている最中、小夜子さんお手製の、ちょっと味の薄い焼きそばを口に運んでいるときだった。
喉の奥と頭の中が熱っぽいっていう、この独特な感じ。なんていうか、熱があるときによく陥る感覚。
でも飯が食えないってほどでもないし、風邪ってわけでもなさそうだ。たぶん自律神経がやられてるだけっていう、よくあるやつ。
昔から疲れたりストレスがかかったりするとよく熱を出した。特にまだ父さんが常に家にいたころ、しょっちゅう原因不明の熱を出すから母さんが病院に連れていってくれたけど、医者いわく「ストレスでしょうね」と。
母さんが生きていたころだから、まだ幼稚園に通っているような年だ――それなのにストレスで熱を出すって、よっぽど気を張って生きてたってことなんだろうと今になって思う。
そして、それなら今だってそうなんだろうな、とも。
「あ、いた! 葵」
とんとん、と後ろから肩を叩かれる。よく知った、ゆるく伸びた声。安田だった。
「おー、久しぶりじゃん。どうだった、クラス」
「それがさ、人いっぱいでまだ見てないの。前に進もうとしても押し戻されちゃって。ほら、僕この体型だから」
「それ体型じゃなくてお前がただトロいだけから。……おれ見てきてやるから待ってて」
ていうかお前そんな太ってないだろ。そう言おうとしてやめた。おれにとってはフォローのつもりでも、相手にとってはそうじゃないってこともあるし。だからおれは悪いことはもちろん、いいことでだって見た目のことで相手になにかを言うことは決してしない。
——なぜならおれがそうだから。
たとえばおれは、いくら相手がおれを褒めてくれているつもりでも、顔のことを言われるのが本当に嫌いだ。
こんな顔、自分じゃどこがいいのかぜんぜんわかんないけど、よくかっこいいねって言ってもらえることがある。いつも笑って済ませるけど、そういうとき常に内心はバクバクだ。
そして自分の中に流れる血を、この汚れた血を、早く拒絶したくて仕方がなくなる。……
人並みを掻き分け、掲示を見上げる。自分の名前はすぐに見つかった。
一条葵。三年一組。
でも一組のメンバーを上から下まで目で追っていっても安田の名前はなかった。ちぇっ、と小さく舌を打つ。一、二年はいっしょだったのに。とうとう離れたか。
安田の名前は掲示の右下にあった。安田雄一郎。三年十組。しかも出席番号はいちばん最後。三年は十クラスまでしかないから、つまり安田は学年でいちばん最後ってことになる。うーわ、なんか卒業式いろいろやらされそうで大変だな。
また人並みを掻き分けて戻る。安田は桜の幹に凭れて立っていた。そしておれに気づくと顔を上げ、「どうだった」と尋ねる。
「おれ一組でお前は十組。しかもお前は出席番号ビリ。卒業式がんばれよ」
「まじかぁ。やだな」
教室には既に二十人ほどの生徒がいた。クラス替えの当日といえど三年ともなればもうグループが出来上がっているのが当たり前で、楽しげな笑い声に混じって叫声や、手を叩く音なんかが弾けるように鳴り渡っていた。
おれはそのざわめきの中をなるべく目立たないよう静かに歩き抜けると、黒板に貼り出された座席表にちらりと目をやって自分の席に着いた。
窓のそば、前から数えて四つ目の席だった。そう悪くはない。
——疲れたな。
頬杖をつき、ぼんやりと窓の外を眺める。
新しいことが始まるときはいつもこうだ。刺激が多すぎて、特になにかしたってわけでもないのに酷く疲弊する。
早く帰りたいって思うけど、別にあの家に帰りたいってわけでもない。家にいても学校にいてもだめなんだ。いつも胸のどこかがざわざわしていて、ずっと息が苦しくて。
俯き、時が過ぎるのをただ待っていた。そんなときだった。
「てかさ、あれやばくね? 昨日の夜やってたやつ。ふつーに区内でビビったんだけど」
ふと流れ聞こえた声に、思わず耳を塞ぎたくなった。
「あー、あれか。おっさんが若い女の家に忍び込んで次々レイプしてったってやつ?」
「そーそー、俺らもドーテー拗らせすぎてああなったらどーするよ」
「ハハッ、どーしよそれ否定できねぇ」
——やめてくれ。それ以上は聞きたくない。
トク、トク、と脈が耳元で打っている。それがだんだん膨らんで、大きくなって、頭の中を砂嵐がザーッと……おれの思考を、覆い尽くしていく。
「…………っ、は」
頭を抱えるようにして机に突っ伏し、祈るような思いでチャイムを待つ。それから二、三秒と経たないうちに朝礼の始まりを告げるチャイムが鳴って、あんなに騒がしかった教室も少しずつ静けさを取り戻していった。
机に突っ伏したまま、ほっと息をつく。かといって顔を上げる気力もない。そのまま目を瞑っているとガラリと扉の開く音がして、生徒たちの履く硬い上履きのゴム底とは違う、柔らかい足音が聞こえてきた。それが教室の中心で止んで、ああ、センコーが来たんだなと項垂れたまま思う。
「……おーいそこ、寝てるやつ。前から四番目。起きろよ〜」
ぜってーおれじゃん。うっせーなと舌打ちしたいのを堪えながらなんとか顔を上げ、驚く。
「えー、もう三年生なのでみなさん顔くらいは知ってるかと思いますが。今日から一組の担任になります、水谷俊輔です。どうぞよろしく」
*
バレーシューズの入った袋を片手に提げ、ふわあ、とあくびをしながら体育館へ向かう人波の中を歩く。
始業式さえ耐えれば今日は終わり。昼には家に帰れる。兄さんもガキもいないから、今日は久々にゆっくり家で過ごせるな——そう考えたところでいや、と思い直した。……今あの家に帰ったところでまともに休めるわけがないんだった。
でも昨日も一昨日もぜんぜん眠れなかったし、今日こそちゃんと寝ないとまずいかもな。寝不足が続いているせいかここ二、三日ずっと気分が悪くて常に貧血みたいに目の前が揺れてるし、気を抜くとふらふら倒れそうになるし。さいあくネカフェでもなんでもいいからひとりでゆっくり休めるところに行こう。……じゃないと積み重なった心労も相まって本当に倒れそうだ。
そんなことを考えながら歩いていたときだった。
「よ。元気?」
そう親しげに声を掛けられて振り向けば、つい先ほどまで教壇に立っていた担任の姿があった。
「……あー。おはよう、ございます」
声を掛けてもらえてうれしいのに、ついぶっきらぼうに返してしまう。でも水谷もそれをわかっているのか、特に気にする様子もなく続けた。
「お前どーしたの、今日。なんか調子悪そうじゃん」
「べつに」
「なになに、ハンコーキ?」
「違う。……あんま寝てなくて」
俯いてそう小さく言えば、水谷の眉尻がわずかに下がる。
「なんかあったの」
「……んーん。なんでもない」
かぶりを振ってそう答える。なんでもない、なんていうのは真っ赤な嘘だったけど、かといって本当のことを話すだけの気力もなかった。
いやああぁぁ、と泣き叫ぶ甲高い声。聞いているだけで心臓がバクバクと脈を打って、息ができなくて、耳元で鳴り続ける脈の音がうるさくて……、じっとりと汗の滲んだ手のひらを、力いっぱい握り込む。
「ごめんなさい、ごめんなさい、いい子にする、りかいい子にするからぁ……!」
だから叩かないでと縮こまり、頭を庇って震えるガキの姿はまるであの日々のおれだった。殴られ蹴られ、それでも耐え続けるしかなかった、あの日々のおれの。
——春休みが始まって三、四日ほど経ったころだったと思う。ある日の夕方、家に帰ると玄関の隅に見知らぬ黒いハイヒールが脱ぎ揃えられていた。
「葵くん、おかえりなさい。久しぶりだね」
そしてリビングにいた見知らぬ女が、そう言ってにっこりと笑いかけてきて。
あんただれ? 思わずそう返しそうになったけど、うれしそうにその女にくっついているガキの、その離れがたい姿を見てすぐに気がつき飲み込んだ。
「あー、っと。久しぶり、です。……小夜子さん」
肩のあたりでまっすぐに切り揃えられた明るいブラウンの髪。黒い透かし編みのワンピースの袖から覗く、折れそうに細い腕。彼女が髪を掻き上げると、長い爪の先に飾りつけられたビジューが窓から射し込む夕日を受け、きらりと鋭く照った。
ラベンダー色のアイシャドウのよく似合う、その小夜子という色白の女は、父さんの再婚の相手——つまりガキの実の母親に当たる人物だった。
最後に会ったのはもう三年ほど前になるだろうか。彼女に手を引かれてこの家にやって来たガキは今よりうんと小さくて、まだ背丈もおれの腰ほどしかなかったはずだ。
「もう浩也さん……葵くんたちのお父さんにはお話ししてあるんだけどね。私、またこのおうちに居させてもらうことになったの」
よろしくね、と目尻を垂れさせて笑う彼女の、黒い大きな瞳がおれを捉えて離さないようで——まるでおとぎ話に出てくる魔女のようで、酷く恐ろしかった。……
「はーい、ご飯できたよ」
「……ありがとうございます」
小夜子さんが来て、おれたちの生活は一変した。
今まで兄さんがやっていた家事を彼女が代わりに全てやってくれるようになって、おかげで兄さんもやっと学生らしく過ごせるようになって——まだ春休みではあるが、重い鞄を抱えて毎日のように朝から出かけ、遅くまでキャンパスに篭っている。
だからおれがほとんどの時間をこの家で、ガキと小夜子さんの三人で過ごすようになったのも当然といえば当然だった。……そして生活が、少しずつおれを追いつめていった。
小夜子さんはおれに対しては丁寧——というよりよそよそしかったが、優しかった。まあ、言ってしまえばおれたちは赤の他人で、お互いに一定の距離を保ちながら過ごしていたからそうなるのも頷けるだろう。
でもガキに対してはそうじゃなかった。少しでも口答えをすれば頬を打ち、しつけと称してバスルームに閉じ込めたり、ベランダに閉め出したりすることがあった。
そう、まるでかつてのおれように……、父さんに殴られ蹴られ、怯えて暮らしていたかつてのおれのように、ガキはいつも怯えていた。あのうざったい爛漫さも今じゃ鳴りを潜めて、まるで人形だった。
「りか、なにやってんの! 早く手伝いなさい」
「あ! ごめんなさい」
慌てたようにガキが駆けてきて、小さな体をよいしょと伸ばし、棚からコップを取ろうとする。危ないなと見かね、取ってやろうかとおれも腕を伸ばしたときだった。ガキの指の先が触れ、棚からつるりと滑り落ちたコップが床に叩きつけられ、ガシャンと大きな音を立てて割れた。
瞬間、金切り声。
「もー! なにやってんの!」
「っ、ぁ、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「しかもそれ葵くんのでしょ!」
たしかに割れたのはおれのコップだった。でも、今にも泣き出しそうに歪んだガキの顔と、そいつを引っ叩こうと手を振り上げる小夜子さんを見ていたら、とても怒る気になんてなれなくて。
「小夜子さん、おれ別に気にしないからいいよ」
だからガキが引っ叩かれる前にそう言った。
——テレビの中でも街中でも、子どもが怒鳴られたり叩かれたりしているのを見ると、心臓がバクバクと音を立て、呼吸ができなくなることがある。どうも脳が見ず知らずの子どもと昔の自分を重ね合わせてしまうようで、酷いときには過去の体験がそのまま身体の感覚ごと甦ってきて、動けなくなってしまうこともあった。
いくら嫌いなやつにだって、こんなおれみたいな思いはしてほしくない。……特にこいつには、おれと違ってそうされるべき謂れがあるわけでもないんだし。
「……それより怪我ない」
「ない、けど……葵お兄ちゃんごめんなさい、あのね、わざとじゃないの」
「そんなんわかってるから。別に、いい」
——そう言って作ってみせた笑顔は、きっと兄さんとはちっとも似ていない。
*
「あ〜……ごめん一条くん、もうちょっと前に行ける?」
呼びかけられて、ハッと我に返る。見れば、前のやつの背中とおれのバレーシューズの爪先とが二メートルほど離れていて。おれは上履きの入った袋を提げたまま、ただ突っ立っていた。
「あー、うん。わりぃ」
……いけねぇ、ぼーっとしてた。言われた通り前へ二、三歩、足を踏み出す。
始業式は今まさに始まろうとしているところだった。
体育館の隅、式次第の下に立った教員があ、あと小さく呟きながらマイクの角度を直している。そしていつもの「一同、礼」という合図で式が始まった。
校長が壇上に立ったところでふわあ、とまたあくびが出る。……眠い。つーか疲れた。まだ式が始まって五分と経っていないはずなのに、もう脚が疲れている。落ち着かず、足先を動かしてみると少しマシになったような気がした。
あれ、と思い始めたのは、長ったるい校長の話がちょうど終わったころ。各クラスの担任の発表に差し掛かったときだった。
頭から足元へ、さーっと血の気が引いていくような感覚。そして視界の端から現れた黒い靄が天井を、床を、吊り上げられたバスケットゴールを……整列する生徒たちの後ろ姿を、じわりじわりと覆い尽くしていった。
「……っ、は」
なにも見えない。それなのに目の前がぐわんぐわんと揺れているような感じがする。頭が重くて、それなのに足元はふわふわしていて、今にも崩れ落ちそうになるのをなんとか堪えて立つ。でも暑くもないのに汗が背を伝って、ぜえぜえと息が上がって、いよいよまずいんじゃないのこれ、と思ったところでキーンと耳が鳴った。
周囲の音が遠ざかっていく。なにも聞こえない。まるでプールの底に潜ったときみたいだ。手足の感覚もない。
——あれ、おれ今ちゃんと立ててる?
「っは、……はぁ、」
甘酸っぱい唾液が込み上げてくる。
……吐きそう。っていうか吐く、吐くかも。
う゛っと喉が鳴ってなすすべもなくしゃがみ込んだ。というよりほとんど倒れるような形だったと思う。強い耳鳴りの向こうで周囲がざわついていくのを感じて、恥ずかしくて仕方なかった。けど今はそれどころじゃない。
とんとんと後ろから肩を叩かれている、……ような気がする。耳の近くでよく知った声がする。けどそれがだれなのか、なにを言っているのかがわからない。
「っ、はぁっ、はぁっ、……やばい吐く、かも、……っ、ん、吐く、」
「しんどいな〜……大丈夫だからな、とりあえず出るぞ、出口すぐそこだから」
……あー水谷か、この声。やっとわかった。周囲のざわめきの中で、それでも水谷の声だけがはっきりと聞こえてくる。
「こっち凭れていいから。左側な」
腕を引かれ、左側へ凭れかからされた。そしてそのまま肩を抱かれ、ほとんど引きずられるようにして歩いた。
「よーし、もういいぞ。がんばったな」
だから水谷がそう言ってとんとんとおれの肩を叩いた瞬間、安心して勢いよく膝から崩れ落ちた。視界が揺れ、ふらりと体が傾いた体を支えようとして手をつく。
手をついた先は硬く、ひんやりとしていた。感触からしてコンクリートだろう。どうやらおれは体育館の外に連れ出されたらしかった。
「んぐっ、……ぇっ、げっ」
吐く、と思う間もなく吐いた。なにも見えないせいでどこをどう汚したかすらわからない。背中をさすられて、続けてまたびしゃっと嘔吐する。
「っ、はー、はー、っ、は、はっ……」
そうして荒く息を吐いていると、どこからともなく伸びてきた二本の腕に体を支えられ、そのままコンクリートの上に横向きに寝かされた。
「よしよし大丈夫、大丈夫だからな〜」
そう言って肩をさすられる。その力強さが優しくて、なぜか涙が零れそうだった。
でもそのうちいくつか足音が近づいてきて、……センコーだろうか、おれの周りでなにやらがやがやと騒いでいる。来るな、見るな、やめてくれ、そう言いたいのに思うように声が出ない。
担架に乗せられたころには気分はだいぶマシになっていたけれど、代わりに死にたくて仕方なかった。穴があったら入りたいって、まさにこういうことなんだと思う。
「おー。だいぶ戻ってきたな、顔色」
頭上で水谷の声がする。おれは目を瞑ったまま小さく口を開いた。
「…………やらかした。ほんと死にたい」
「んな大袈裟な。あれくらいぜんぜん大したことないって」
ゆっくりと瞼を押し上げる。
まず目に飛び込んできたのは、白い天井だった。次に白い壁。そしておれのいるベッドを取り囲むように吊り下げられた淡いクリーム色のカーテンが、窓から吹き込む春風にゆらゆらとそよぐのどかな光景だった。……おれのこの行き場のない絶望とは、あまりに不釣り合いな。
——あのあとおれは駆けつけてきたセンコー四人に担架で運ばれ、そのまま保健室に担ぎ込まれた。そんなおれの姿ははたから見ればさぞ重病人のように映っただろうし、注目されるのが恥ずかしくて、ずっと横を向いたまま腕で顔を覆っていた。幸いなのは保健室に着いてすぐ他のセンコーが体育館に戻っていって、今ここには水谷とおれと、カーテンの向こうでデスクに座り、パソコンで作業をしている保健医しかいないことだが。
「気分どうよ」
「……だいぶマシになった」
「そー、よかった。なに、貧血? 今までもこういうことあった?」
「……ない、けどたぶんそうだと思う。ずっと寝不足だったし」
言いながら、寝不足で倒れるって女子かよ、って思わず心の中で呟いた。
……さいあくだ。恥ずかしすぎる。明日もふつーに学校あんのにどういう顔して行けばいいんだよ。考えるだけで億劫だった。
「今日どーする、あとホームルームだけだけど。帰る?」
「……帰る」
「お迎え呼ぶ?」
「呼ばない」
「返事はや。……まー、でもそうだよな」
だって、お迎え呼ぶって言ったって家には小夜子さんとガキしかいないし。まあ兄さんがいたって兄さんにも頼まないけど。大袈裟に心配されるのが目に見えてて面倒だから。
「あとちょっと休めば大丈夫だと思うから」
「おー、わかった。ならホームルーム終わるまでゆっくりしてな。俺あとで荷物ここに持ってきてやるから」
「……ありがと」
じゃあなと小さく手を振って水谷は出ていった。
残されたのは微妙に残る胃のむかつきと、保健医が打つカタカタという静かなキーボードの音だけだった。
それから一時間ほど経って、おれは水谷に持ってきてもらった荷物を抱え、学校を出た。
まだ昼の日中。
踏み潰された桜の花びらと、烏が食い散らした可燃ゴミの残骸があちこちに散らばっている。俯き、それらをぼんやりと見つめながら重い足取りで家路につく。
「……はぁ」
帰りたくないな、と息を吐いた。でももう外で過ごせるほどの体力が、……というより気力が残っていない。
*
玄関のドアを開け、靴を脱ぐ。玄関の隅にはいつも通りガキのピンクの靴と小夜子さんの黒いハイヒールが並べられていた。
「あら葵くん、おかえりなさい」
ドアが開いた音を耳にして駆けつけ、そう言ってにっこりと笑ってみせる小夜子さんは、それだけ見ればまさに理想の “母さん” だろう。
「……ただいま」
「早いね。今日は始業式だけ?」
「はい、今日は始業式だけで。明日からはいつも通り授業なんですけど」
おれも少し笑って答えた。……我ながらキモいと思う、こういういい子ぶりっ子。
「それじゃ」
軽く会釈して階段を上り、自室のドアを開ける。そして大きく息を吐き、鞄を床に放り投げるとそのままベッドに倒れ込んだ。
「…………はぁ」
――新学期が始まって早々、散々だったな。
立ち上がり、クローゼットの奥からいつもの箱を取り出す。中にはカッターナイフや剃刀、ドラッグストアで買った薬なんかが大量に入っていて、その中から剃刀を取り、ついでにティッシュを二、三枚、机の上のティッシュボックスから引き抜くとベッドに投げ置いた。
中学のころに始めた自傷も今じゃすっかりルーティンと化していて、今のおれにとってはもう、食べたり眠ったりすることとほとんど変わらない。昔のおれが抱えていたような “この世界と、この世界を構成するところのおれをめちゃくちゃにしてやりたい” という青くさい気概も、とうの昔に薄れてしまっていた。
剃刀を腕に押し当てる。そして手首に力を込め、ぐっと横に引いた。瞬間、チリッと灼けるような痛みが走る。そして血が細い傷口の上でぷつりぷつりと玉のように盛り上がり、やがてその形を保ちきれず、つうっと腕を伝った。
「…………っ」
まだ赤赤と血の滲む傷口のすぐ上にまた刃を押し当てる。そして横に引く。またその少し上に刃を押し当て、引く。そうしていくうちにあっという間に腕は血まみれになった。
腕を切って、血まみれになって、温かさを感じたなんて歌った人がいた気がするけど本当にその通りだと思う。腕を伝っていく血は、他のどんなものより優しかったし、なによりおれを安心させてくれた。
生きてるんだって、こんなおれでも流れ出る血はみんなとおんなじ色なんだって、そう安心できる。……たとえ、その血がどんなに汚れていたとしても。
コンコンコン、と軽くノックの音が響いたのは夕方。道具の入った箱をクローゼットへ戻し、血まみれのティッシュをゴミ箱の底に押し込んだあとのことだった。
「葵〜いる?」
兄さんの声だった。
「……いる、けど」
ドアを開ける。大学の帰りだろうか、兄さんは白いTシャツに黒のカーゴパンツというラフな出立ちで、おれの顔を見るとゆるく笑った。
「夜ご飯できてるって。下おいで」
「……うん」
しかしそう頷いた瞬間、兄さんの表情が変わって。
「あれ。なんか顔色ちょっと悪くない? 大丈夫?」
鋭すぎない? 思わずそう返しそうになった。
たしかに顔色はちょっと悪いと思う。なんて言ったって、朝ぶっ倒れた上にゲロってるから。でもなんでわかんの? 怖いんだけど。
「……そんなことない」
「そーお? 熱あるんじゃない」
額に触れられそうになって、思わずやめろよとその手を弾いた。
「ない。触んな」
「ん〜……わかったわかった、じゃあ下おいでね」
兄さんはそう言い残すと階段を下りていった。最後に見えた横顔が少し寂しそうだった気もするけど、いい。ちょっと……いや、かなり申し訳ないけど。
――熱、やっぱりあるのかもしれない。
そう思い始めたのは飯を食っている最中、小夜子さんお手製の、ちょっと味の薄い焼きそばを口に運んでいるときだった。
喉の奥と頭の中が熱っぽいっていう、この独特な感じ。なんていうか、熱があるときによく陥る感覚。
でも飯が食えないってほどでもないし、風邪ってわけでもなさそうだ。たぶん自律神経がやられてるだけっていう、よくあるやつ。
昔から疲れたりストレスがかかったりするとよく熱を出した。特にまだ父さんが常に家にいたころ、しょっちゅう原因不明の熱を出すから母さんが病院に連れていってくれたけど、医者いわく「ストレスでしょうね」と。
母さんが生きていたころだから、まだ幼稚園に通っているような年だ――それなのにストレスで熱を出すって、よっぽど気を張って生きてたってことなんだろうと今になって思う。
そして、それなら今だってそうなんだろうな、とも。
