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十五歳

《葵side》


 浴室で、兄さんが自分の服が濡れるのも構わずおれを抱きしめてくれて、あんなに苦しかった呼吸が少しずつマシになっていって、ほっとして泣きそうになったけれど、恥ずかしかったからなんとか堪えた。
 でも、リビングで薬を飲もうかと言われたときは胸の底がざわついた。……おれ、まだ病気なのかな、やっぱりおかしいのかなって。でも兄さんにたくさん迷惑かけてるし、薬を飲んで少しでもよくなるなら飲まないと。そう思って飲むことにした。
「葵、まだ眠いでしょ。俺のベッド使っていいから寝な」
「え、いや、それじゃ兄さんどこで寝るの」
「俺はさっき寝たからもう十分。俺いつもあんまり寝ないから」
 兄さんの部屋に戻ると、そう言われたので少し驚いた。
 たしかに兄さんは、昔からあまり長く眠らないタイプではあった。……でも、疲れてるんじゃないのか? 不安で思わず兄さんの瞳を覗けば、「大丈夫だよ」とかすかな笑みとともに返ってきた。
「……わかった」
 そう小さく呟いて兄さんのベッドに上がり、横になるも、不安になって「……あのさ」とぽつりと言った。
「おれ、もしかしたらまた漏らしてベッド汚すかもしれない。……本当にいいの」
 そう言うと兄さんは「ああ。いいよ、そんなの」と柔らかく笑った。
「汚したって洗えばいいだけだし。葵がゆっくり眠れることのほうが大事だよ」
「…………」
 このまま兄さんの優しさに甘えてしまっていていいんだろうか。そう思いながら、それでも、と甘えたくなっている自分がいた。
 薬が効いてきたのか、頭の中がどこかぼんやりとしている。眠たいのかもしれない。そう……だから、今おれが発しようとしているのは、おれの意思による言葉じゃない。薬が言わせようとしてるだけ……そう心の中で言い訳しながら布団を首の上まで被り、壁を向くと、おれは小さく切り出した。
「……あのさ、夢。さっきの」
「うん」
「…………母さんの、夢だった。あの、事故の日の」
 壁を向いているせいで、兄さんの表情はいっさい見えない。でも、「そっかぁ」という呟きとともに頭のうしろを柔らかく撫でられて、それがあまりに温かくて、とうとう涙がぽろりと零れた。目の端から垂れた涙はゆっくりと頬を伝い、やがて枕に吸い込まれていった。
「……おれ、目の前にいたのになんにもできなかった。ッ、あの日、母さんのそばにいたのはおれだったのに」
「……うん」
「あのときはおれまだガキだったから、なにもできなかったの、仕方ないってわかってる。でも……ずっと、ッ、苦しかった……」
 兄さんはなにも言わず、ただおれの髪を撫で続けてくれていた。でもおれがもうそれ以上なにも言わないのを見ると、静かに「……話してくれて、ありがとうね」と呟いた。
「葵がどうして苦しんでたのかわかって、よかった」
「……ん」
「もう眠たいかな? 俺ずっとここにいるから、安心して寝ていいよ」
 言われて、ああきっともう大丈夫だと、そう心の底から感じた。だって、兄さんがいてくれるから。

 おれはゆっくりと、静かに瞼を閉じた。


 ……また、昔の夢を見た。
 でも、あの日の母さんの夢じゃない。冬の日、父さんがおれをベランダに閉め出した、あの夢の続きだった。
 濡れて冷たくなったズボンが、ぺったりと太ももに張りついている。こんなところを父さんに見られたら叱られるに決まってる。そう思うとだんだんと呼吸が上ずっていって、震えが止まらなかった。
 やがて、ガラリと窓が開く。
 父さんだ。そう思って、とっさに腕で頭を庇った。
 ——でも、窓の向こうにいたのは、父さんじゃなくて。

「……葵!」

 まだ幼い、兄さんの姿だった。

「ッ、え、お兄ちゃん……?」
「ごめんね、すぐ助けてやれなくて。父さん風呂に行ったから、今のうちにおいで」
 兄さんが裸足のままベランダに下りてきて、おれを立たせてくれる。そしておれの服が濡れているのに気づくとああ……と呟いて、ぽんぽんと頭を撫でてくれた。
「怖かったね。でももう大丈夫だから」
「っ、ふ、ぅう〜〜ッ」
 兄さんの、まだ幼く小さい体に縋りついて、おれはわんわんと泣き声を上げた。おれを抱き寄せ、背中をさすっていてくれる兄さんの二本の腕が強く、温かくて。それで余計に涙が出てくるのだった。
 
 
 
 
   十五歳【完】
 
 
 
 
 
 
 
 
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