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十五歳

《雅也side》


 汚れた布団は昼にでもコインランドリーに持っていこうと、濡れた部分をタオルで拭い、畳んでネットに入れ、ガレージの車のトランクの中へ押し込んだ。
 この車は十八の夏、免許を取ってすぐに父さんから譲り受けたものだ。赤のBMWで、たしかM5というシリーズのものだったはずだ。車にそうこだわりのない俺にはあまりよくわからないが、大学への通学、葵やりかと出かけるときなんかでいつも世話になっている愛車だ。
 車にロックをかけ、家に戻る。浴室の前を通ると、まだシャワーの音がしていた。……葵が浴室に行ってから、もう三十分は経っているのに。シャワーを浴びるだけにしては長くないか、と心配になって少し様子を見にいくことにした。
 コンコン、と脱衣所のドアを叩くが返事はない。ゆっくりドアを開けるも、脱衣所は空だった。そして、その奥のドア、曇りガラスの向こうに、しゃがみ込んだまま動かない人影を見つけた。
「葵、大丈夫?」
 昨日、今日と続いてあんな調子なのだ、また具合が悪くなったとしてもおかしくはない。しかし呼びかけても反応はなく、シャワーもただ流れ続けているばかりで、いよいよ本気で心配になる。
「葵、ごめん。ちょっと開けるよ」
 そう断り、ドアを開ける。その瞬間、叫んでいた。
「…………ッ、葵!」
 しゃがみ込んだ葵の手に、剃刀が握られていて。その刃の先が、今まさに肌を裂こうとしていたのだ。
 葵はひゅう、ひゅう、と苦しげに息を吸い、どこかぼんやりとした瞳で俺を見つめていた。
「葵、いったんそれ離そう?」
「っひゅ、……は、ふ……ぅ、うぅ」
「俺が預かるよ、ゆっくり離して」
 そう言いながら葵の手をつかむと、すんなり離してくれて助かった。受け取った剃刀を葵の手の届かない場所に置き、シャワーを止め、濡れた体をそっとバスタオルで包んでやる。
「葵〜、どうしたの。苦しくなっちゃった?」
「っ、ぅ……はッ、ふ……ぅう、」
「大丈夫。大丈夫だよ」
 濡れた体をバスタオルごと抱きしめた。葵は一瞬、驚いたように身をよじったが、すぐに大人しくなった。胸に葵の体重が乗る。俺は床に膝をついて、葵が落ち着くまでずっと、静かに頭を撫でていた。

   *

 少しずつ落ち着いてきたとはいえ、未だふらふらと頼りなく揺れる葵の体を支えながら、俺はリビングに向かった。
「葵。……薬、今日は飲んじゃおうか。昔もらったやつがまだあるから」
 葵をソファに座らせ、そう言う。
「っ、え……」
 薬と聞いて葵は一瞬、不安そうに顔をこわばらせた。しかし、すぐに「そうだね」と呟いて立ち上がるとキッチンへ行き、棚からひとつコップを取り出した。
 ——今日は飲んでくれるみたいでよかった。
 小さいころ、薬を飲ませようとすると葵は「おれは病気じゃない!」と言って泣き、ときどき暴れてしまうこともあった。薬を飲むことで自分は病気だと、異常なのだと烙印を押されたような気がして不安になってしまうのだと思う。でも、今日はそう言わなかったということは、葵も自分を受け入れられるようになったということだろうか。
 俺はキッチンカウンターの引き出しを開け、いくつかある薬の入ったジップロックの中から、ラベルに葵と書かれているものを抜き出した。……今はもういない、俺と葵を産んだ母さんの字だ。
 ジップロックのラベルにはそれぞれ浩也(というのは父さんの名前だ)、雅也、葵、そして俺の字でりかと書いてあるのだが、その中でも特に葵の袋にだけかなりの厚みがある。というのも葵は昔から体調を崩すことが多く、なにかとよく医者にかかっていて、いろいろと薬を処方されていたからだ。だが、大きくなってからはそう体調を崩すこともなくなり、この薬もすべて処分してしまおうかと考えていたのだが、やはり取っておいてよかった。
「これ、一錠ね」
「……ん」
 袋の中からクロキサゾラムと印字されたシートを取り出し、パキリと折って葵に渡した。この薬は葵がまだ中学生だったころ、かかっていた小児科で処方されていたものだ。不安や緊張を和らげる、いわゆる精神安定剤の類だ。
「飲んでしばらくしたら眠くなるかもね。その前に上に行こうか」
 久々に飲ませた薬だ、効きすぎて転倒、なんていうのがいちばん怖い。「うん」と頷いた葵の体を、また支えながら自室に戻った。
 
 
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