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十六歳

《葵side》


 目が覚めても吐き気が酷くてなかなか起き上がれず、やっとベッドから出られたのが七時。あと四十分で家を出ないと学校に間に合わない。目が覚めたのは明け方だったのにな。
 ——ま、それもぜんぶ、自分のせいなんだけど。
 床の上には夜、寝る前に飲んだ薬の瓶やシート、酒の缶なんかが転がっていた。
 頭が痛いからとかお腹が痛いからとか、そういう真っ当な理由で飲んだんじゃない。ただ、ふわふわしたいから。そんなクソみたいな理由で飲み干した大量の薬のゴミが、昨夜と変わらないままの形でただそこに在った。
「っ、ふ……」
 目の前がぐわぐわと揺れている。目を閉じてみても、開けてみても収まらない。ますます吐き気が酷くなって、こめかみがツキンと痛んだ。ここ数日、あまり眠れていない上に薬ばかり飲んでいるせいでそろそろガタが来ているのだろう。
 でも、いい。
 おれは、早く自分をぶっ壊したいから。

「おはよう」
「……」
 リビングに入ると兄さんがちらりとおれを見て、そう背を向けたまま小さく言った。でも、おれはスルー。兄さんだってわざわざ振り返らない。いつものことだった。兄さんの「おはよう」におれがなにも返さなくなって、いったいどのくらいの月日が経ったのだろう。
 ……昔はこうじゃなかった。昔のおれだったら兄さんにおはようって返したら真っ先に「今日の朝ご飯なに」って聞いて、好物だったらはしゃいで、ちゃんとコップや箸なんかを二つずつ用意して待ってるんだ。
 でも、今のおれにできることはといえば棚からコップを出してテーブルの上に並べる、それだけだ。……それも、三つ。いやいやながら、だけど。
「おはよう〜!」
 バタンとドアを開け、背の低いガキがリビングに入ってくる。その子ども特有の甲高い声が癇に障って、思わず舌打ちしそうになる。
「おはよう、りか。今日も朝から元気だな」
「だっていい匂いするから!」
 兄さんは動かしていた手を止めてりかを見ると、ふんわりと笑った。あーあ、おれのときは振り返りもしないくせに。……なんて思うのはおれの勝手だ。だって、おれが兄さんのあいさつにいつもひと言も返さないんだから。
「ね、今日の朝ご飯なぁに」
「ハニートーストだよ」
「やったぁ! りかハニートースト好きぃ」
 ……トースト焼いてるなとは思ったけど、今日の朝、ハニートーストなのか。
 おれは昔から甘いものが苦手で、それは兄さんもよく知っているから、まだ二人で暮らしていたとき、兄さんは決して甘いものを作らなかった。……でも、こいつが来てから変わった。おれの向かいの席で退屈そうに足をぶらぶらさせてる、このガキが。
 クソみたいな母親が連れてきた、クソみたいなガキ。こいつの甘いもの好きに合わせて兄さんは、よく甘いものを作るようになった。その一例がこのハニートーストだ。ハニートーストなんておれ、聞いただけでも胸やけしそうなのに。
 こいつが来てから、兄さんの生活の軸はすべてこいつになった。
 作る飯もそうだし、朝と夕方、こいつが学校に行く前にも帰る前にもなるべく家にいられるよう、密かに大学のスケジュールを調整しているのをおれは知ってる。
 こんな血の繋がりもなにもないガキにどうしてそこまでしてやれるんだろうなと思うけど、兄さんは優しいから放っておけないんだろう。今じゃ、兄さんはぶっきらぼうなおれなんかより、このガキのほうを大切にしているんじゃないかとさえ感じる。
 はじめてそう思ったのは、一昨年の夏。まだこのガキが家に来たばかりのころだった。

「ぁ、えっと……りか、です」
 母親に手を繋がれたまま俯いて、そうおずおずと言った。それが、おれがはじめてりかを認識した瞬間だった。
「りかちゃん。今日からお兄ちゃんになる雅也です、よろしくね」
 兄さんがしゃがみ、そう言ってにっこりと笑うと少し安心したのだろう、りかは「うん!」と力いっぱい頷いた。
「ほら、葵も」
 兄さんに促されておれも、なるべく柔らかく笑みを浮かべられるよう努めた。
「おれは葵。よろしく」
 ——このときはまだおれなりに、うまくやろうというつもりでいた。曲がりなりにも兄弟になったわけだから、せいぜいかわいがってやるかとも。
 でも、それができないと悟ったのは、はじめて会った日から間もないある朝のことだった。
 その日は目が覚めてからずっと気分が悪くて、ツキツキと痛む頭を押さえながらリビングに行き、兄さんに声を掛けた。兄さんはガキの相手をしているようでなにやら忙しそうだったが、気分が悪いと言えばおれを心配してくれるだろうと信じて疑わなかった。だから、
「……兄さん、おれ、なんか気分わりぃ」
「まじ? 葵もか」
 兄さんがガキのほうを向いたまま、おれにはいっさい目もくれずそう言ったとき、情けないが少し泣きそうになった。
「ごめん。今りかが吐いちゃって手が離せないから、熱だけ自分で測っておいてくれる?」
「っ、うん……」
 仕方ないなと、思った。リビングの床には一面ゲロが散っていて、今しがたガキが戻したばかりで、本当に手が離せないのだということもわかった。
 ——でも、ちょっとくらいおれにも目をくれたっていいじゃねぇかよ。
 おれはふてくされて、そんなガキみたいな嫉妬でふてくされている自分が嫌で、兄さんが構ってくれなかったのが寂しくて——いろんな思いで胸がぐちゃぐちゃになって、そのまま熱も測らず自室に戻った。
 あとから兄さんが来てくれたけど、すぐに追い返した。そして、おれは一日じゅう、ベッドの上で毛布にくるまったまま頭の痛みや吐き気に耐えていた。
 それからガキはしばしば体調を崩し、そのたび兄さんがつきっきりで看病した。まだ小さいのに親の再婚でいきなり環境が変わり、ストレスが溜まっているのだということは容易に想像がついたし、かわいそうだとも思った。けど、おれだっていきなり兄さんを取られたんだ。かわいそうだろ。
 ……このクソみたいな家の中で、兄さんだけがおれの、ただひとりの味方だったのに。

 だから、兄さんとガキが話すのを聞いていると胃のあたりがむかむかして、いつだって叫び出したくなるのを堪えている。
 それに、今日は本当に調子が悪い。ずっと胃の底が重たくて、ぐるぐるして。リビングに立ち込めるトーストの甘い匂いに、ますます吐き気が誘われる。
「ねえねえお兄ちゃん、トーストまだぁ?」
「もう少しで焼けるから待っててね」
 おれには向けなくなった温かな声のトーンも、優しい目も。すべてがおれを惨めにする。……だって、おれのせいなのに。おれが、割り切れないから。大人になれないから。
「待てないよぉ〜! お腹すいたお腹すいた」
 そう喚く高い声が、キンキンと耳を刺す。いつもなら我慢できるのに、今日はできなかった。体調が悪いせいで頭がいっぱいいっぱいになって、気がついたときには声に出ていた。
「……うるせぇな。黙ってろよクソが」
 ドン、と拳がテーブルを叩く。あ、こんなつもりじゃなかったのに。そう思っても遅い。ガキがわあぁんと泣き声を上げ、兄さんが呆れたように息を吐いた。
「ぅう、っ、う、葵お兄ちゃんが、おご、おごったあぁ」
「うんうん。怖かったねぇ、よしよし」
 ……なんだよ、おれが完全に悪いみたいじゃねぇか。まあ、そうなんだけどさ。
「葵おまえさあ、あの言い方はないだろ」
 兄さんがガキを抱いたまま、やれやれといった感じでおれを見る。
「……」
「びっくりさせたの、ちゃんと謝りな」
 兄さんの腕の中で泣いているガキが、本当に憎かった。泣かせたのはおれなのに、そのせいで兄さんに構われているガキに、腹が立って仕方なかった。
「うるせぇ! 謝るわけねぇだろ。おれ、なんも悪いことしてねぇし」
 ゴボ、と喉が鳴る。まずい、吐くかも。
 ガタンと席を立ってリビングを出ると兄さんが話しかけてきたが、流した。そして、兄さんがついてきていないのを確かめるとトイレに駆け込み、ばしゃばしゃっと思い切り嘔吐した。
「ん、ぶッ……ぉえ、っ、ぇッ」
 粘ついた液が口の端から水面へ、だらりと垂れる。口元をトイレットペーパーで雑に拭い、また吐いた。ふうふうと上がる息の音が、やけに大きく聞こえる。
 夜に飲んだ薬はもう消化されたのか、出てくるのは水分だけだった。鼻の奥がツンとして、喉がヒリヒリと焼けるように痛む。
「っ、ぅ、……はっ、はぁっ、……はっ、」
 もう出てくるものがなくなると、おれは壁に凭れ、しばらく荒れた呼吸を整えていた。でも、そういえば学校、と思い出して慌てて自室に戻った。
 まだ気分の悪さは残っているが、学校に行くのが遅れたり休んだりして兄さんになにか言われるのも面倒だったから、すぐに支度して家を出た。

   *

 駅までの道のりを歩いているときはまだよかったが、電車に乗ったあたりからますます気分が悪くなってきた。朝の電車はいつも満員だが、なぜか今日は特に酷く、立っているのがやっとといった具合だった。
 人の臭い、香水の匂い。密着する肌と肌から伝わってくる、だれのとも知れない生ぬるい温度。——すべてがおれを、追い立てていく。
 迫り上がってくる生唾を飲み込んでぎゅっと目を瞑り、目的の駅に着くまでなんとか耐えた。駅のトイレに寄ってえずいてみたがもう出るものはなく、そのまま学校まで歩いた。

「葵、おはよ」
「……おはよ」
「あれ、今日なんか元気ないね」
 おれが教室に入り、自分の席に座ると、安田がそう言った。安田はおれの後ろの席に座っている一年のときからの親友で、なんでも話せる仲だ。もちろん、おれが夜な夜なオーバードーズに耽っている——なんて話はいっさいしていないが。
「……今日ちょっと気分わりぃの」
 そう言えば、安田は「まじか」と心配そうな目を向ける。本当、いいやつ。
「大丈夫なの」
「ん、大丈夫」
「でも、葵っていつもそういうの言わないじゃん。なのに言うってことは、よっぽどなんでしょ」
 たしかに、いつもは今日みたいに具合が悪くても、なんでもないふうを装っていたような気がする。プライドが高いのだ。それなのに、今日はどうしてそう零してしまったのだろう。……そうだ。たぶん、家を出る前、兄さんに怒られたからだ。怒られて、なんだか寂しくなってしまったから。
「……でも、大丈夫だから」
 自分に言い聞かせるようにそう呟く。第一、気分が悪いのは昨日の夜にODしたせいで、本当に体の調子が悪いわけではないのだ。あとはたぶん、明け方に起きてしまったせいであまりよく眠れていないから。
 とりあえず、一限が始まるまで寝よう。そう思って、ゆっくりと机に突っ伏した。

   *

 灯はついているのに、家に帰っても一向に兄さんからの「おかえり」がなかった。いつもなら、おれに帰ってきたらすぐにそう言って迎えてくれるのに。
 どうしたんだろうと思いながら、とりあえず水でも飲もうとキッチンに行く。そこで、はたと気づいた。リビングのテーブルの上に、もうコップや箸、皿が置かれている。……けど、二つずつしかない。
 あれ、おれの分は?
 そう思ったところで廊下からきゃっきゃっと楽しそうなあのガキの声がした。続けて、兄さんの声。
 ふたりがリビングに入ってきて、おれはどこ行ってたんだよ、と言おうとして——やめた。おれを見る兄さんとガキの目が、怖いくらいに冷たかったから。
「おまえ、だれ」
「え」
「お兄ちゃん、だれ」
 タチの悪い冗談だろうか。でも、それにしてはふたりの目が据わっている。マジ、なのか。
「おれは、弟じゃん。兄さんの……」
 必死に絞り出した声はカラカラに乾いていた。そして、返ってくるのは、最も聞きたくなかった——。

「は? 俺、弟なんかいないよ。いるの、妹だけ」


 深く暗い水の底から、一気に地上に引っ張り上げられたようにハッと目が覚める。
 一瞬、もう朝で、いつものように自室のベッドの上で目が覚めたのだと思った。でも、違う。おれの目に映っているのはよく知った教室だった。そして、教卓の前で先生が、なぜかおれを睨んで立っている。
 そっか、あれ、夢——だったのか。
 ようやく理解し、夢でよかったと思うも、もしあれが現実になったらどうしようと不安にもなった。本当は兄さんはおれみたいなかわいげのない弟なんかいらなくて、明るくてかわいい、りかみたいな妹だけがいればいいんじゃないかって。……優しい兄さんがそんなことを思うわけがないと、頭でわかってはいても。
「……一条」
「ぇ、あ、はい」
 呼ばれて、寝起きの掠れた声でそう返す。そして、だんだんと頭が回るようになってきて、しまったと思った。教卓の前に立っているのは、化学の水谷。アラサーの男の先生で、サボりや居眠りに厳しいことで有名だった。
 ……それに、今もう三限じゃん。おれ、どんだけ寝てたの。そりゃ水谷も怒るような、と他人事のように呆れてしまう。
「おまえ、俺の授業でいつも寝てるよな。ん?」
 腹の底から出たような、水谷の低い声。教室はシンとしていた。そういえば、前にも化学の授業で寝てしまったことがあったような気がする。今までなにも言われなかったのに、なんで今日に限って。
 胃の底が、思い出したようにぐるぐると動き出す。
「あー、はい。すみません」
「おまえ、少し頭がいいからって調子に乗ってるんじゃないのか?」
「そんなこと、ないです」
 教室の中の視線が、じっとりと集まる。なにヘマしてるんだよ、早く終わらせろよ、みたいな目。ごもっともだ。化学は受験で使うやつもけっこういるし、説教なんかで妨害されるなんてただの迷惑でしかないだろう。
「解いてみろ」
「……え」
「寝てても余裕ってことなら、解けるだろ。これ」
 そう言って水谷がチョークの先で示したのは、黒板に書かれた問いだった。ギリギリわからないこともない。だけど、解くには厄介な計算をしなくちゃいけない、そこそこ頭を使うやつ。
 いつものおれなら二分もあれば解けたと思う。でも、今のおれはすこぶる胃の調子が悪くて、立ったらその刺激だけで吐いてしまいそうな、そんな最悪なコンディションだった。
 渋っていると、水谷に早く来いと鋭く睨まれた。
 席を立つと一瞬、心配そうにおれを見つめる安田と目が合った。大丈夫だよ、と返す余裕はなかった。足を踏み出すとぐるりと目が回って、さあっと血の気が引いていく感覚がする。ふうふうと息が上がってきて、まずいんじゃないの、と思った。口の中に変な唾が溜まってきて、やばい、もうすぐ吐く——。
「……せんせ、」
「なんだ」
「トイレ、行ってきて、いい」
 声といっしょに胃の中身を出さないよう、必死に喉を締めながら切れ切れに呟いた。教室で、それもクラス中の注目を集めながらトイレに行かせてくれと頼むなんていつもなら絶対にしないが、ここでゲロを吐くよりはマシだろうとプライドを捨ててまで言ったのに。
「解けないからって逃げるつもりか? ほかの先生は騙されてもな、俺は騙されないぞ」
 あー、そう来たか。たしかに体調が悪いと嘘をつきほかの授業を抜けたことは何回もあるが、まさか水谷にまで伝わっていたとは。
「そ、いうときもあるけど。今は、マジ」
 立っているのが辛くなってきて、少し背中を丸めた。重たい汗がどろりと額を伝って、ふ、ふ、と息が速くなっていく。
「なかなかの演技だな。演劇部にでも入ったらどうだ」
 だから、演技じゃねーっての。キッと水谷を睨んだ。まあ、いつも反感を買うような行動しか取っていないおれにも問題はあるんだけど。
「早く」
 水谷がチョークを投げてきた。それをキャッチしようと手を伸ばす、そんな小さな動きにすらいっそう吐き気が強まって、思わずゲォッ、と大きくえずいてしまった。やばい。今の、めちゃくちゃ汚かった。これをクラス中のやつらに聞かれたのだと思うと辛くて少し涙が出そうになった。
 取り損ねたチョークが床にぶつかって、カシャンと割れる。たちまち白い粉が広がった。
 やばいんじゃないの、だれか水谷さっさと止めろよ、そんな声がざわざわと広がり、やがて教室を包んでいく。
「先生!」
 えずいた拍子にしゃがみこんでしまったおれのもとへ、ガタンと席を立って安田が歩いてくる。
「こんなに辛そうにしてるのに、まだ演技だと思いますか」
「え……あ、いや」
 おれはともかく、まじめな安田に強くそう言われて面食らったようで、水谷は口ごもっていた。
「僕がトイレまで連れていきます。先生は授業、早く戻ってください」
 いつも穏やかな安田の、こんな冷たい声ははじめて聞いた。おれは安田に抱えるように起こされて、のろのろと教室から出た。
「大丈夫、……じゃないよね。とりあえずトイレ行こっか」
 いちばん近いトイレまで歩くと、便器に向かってばしゃばしゃっと吐いた。朝食は食べ損ねたから、出てくるのは水分だけ。それが胃液に変わるまで吐いた。安田はその間、なにも言わずおれの背中をさすっていた。
「っ、はぁ、……わるい、も、だいじょ、ぶ」
「間に合ってよかったね。教室で、どんどん顔が青白くなってくからさ。けっこう焦った」
 ごめん、もっと早く助けにいけばよかったね、と言われていやと返す。助けにきてくれただけで十分だ。
「サンキュ。ほんと、まじで助かった。おまえいなかったらおれ、あのままゲロってふとーこーだったかも、」
「うん。これに懲りたらサボり癖を直すことだね」
「……ゴモットモデス」

「あら、珍しいね」
 安田に連れられるまま保健室に行くと、三十くらいの女の養護教諭がそう言い、安田とおれをソファに座るよう促した。おれはソファに座ると渡された入室カードに日付とクラス、名前を書いていった。養護教諭は入室カードに書かれたおれの名前を見るなり、
「最近あんまり見なかったけど。今日はどうしたの」
 と聞いてきた。たまに体調を崩して保健室に来ることはあったが、まさか名前を覚えられているとは思っていなかった。
 答えないおれの代わりに、安田が話し始めた。
「朝から気分が悪かったみたいで、さっき戻しました」
「あら。今はどう? まだ吐きそうかな」
 聞かれて、もう大丈夫だと答える。
 さっき吐いたおかげかだいぶ落ち着いていた。とりあえず熱を測ろうか、と渡された体温計を脇に挟む。しばらく経ってピピッと音が鳴り、見てみればモニターには三十七度八分と表示されていた。熱、あったんだ。まったく気づかなかった。
「あー。これは早退かな。……君、担任の先生にこの子が早退するって報告してきて、荷物も持ってきてあげて」
「はい」
 養護教諭に指示されて安田が保健室を出ていく。
 さて、と養護教諭がおれに向き直った。
「一条くん、だよね。今、おうちにだれか迎えにきてくれそうな人いる?」
 たしか今日は兄さんが全休で、ずっと家にいるはずだ。でも、と首を小さく横に振る。朝にあんな言い合いをしておいて、具合が悪いから迎えにきてくれなんて頼めるほどおれは図々しくなかった。
「……今、家だれもいないんで。ひとりで帰ります」
「そうなの。失礼だけど、お父さんやお母さんは」
「父さんも母さんもあんまり帰ってこなくて。今いっしょに住んでるの、兄さんと……あと、妹だけなんです」
 妹、と言うところでやや口ごもってしまった。いっしょに暮らし始めてもう二年になるが、未だにあいつを妹と認められない自分がいる。
「そう……大変なのね」
 口ごもったおれの真意に気づくはずもなく、悲しげに眉尻を下げ、養護教諭が言った。
「一条くん、これからもなにかあったら……いや、なにもなくてもここに来てくれていいからね。お茶くらいなら出してあげられるから」

   *

 安田に持ってきてもらった荷物を抱え、保健室を出たものの、数秒で心が折れそうになった。
 いつもなら余裕で歩けるはずの正門までの道が、やけに長い。少し歩いただけで息が上がってきて、収まっていたはずの吐き気がまた込み上げてきた。
 ——このあと電車に乗るってマジかよ。キツいな。
 やっぱり兄さんに迎えにきてもらえばよかった。そんな考えがふっと浮かんでくるが、慌てて打ち消した。
 なんとか辿り着いた駅で電車を待つ。昼のホームにはほとんど人がおらず、そんな中で立っている制服の自分はどこか浮いているようで居心地が悪かった。
 なんでおれ、寂しいんだろ。
 乗り込んだ車内は空いていて、おれはシートの端に腰かけてそうぼんやりと考えていた。
 家に帰ったら、兄さんいるかな。いたら、たぶんどうしたんだって聞かれる。どうして早く帰ってきたんだって。答えたくない。でも、それと同じくらい、答えたいとも思うのだ。
「……」
 大丈夫か、って聞いてほしい。昔みたいにたくさん甘やかしてほしい。おれのことだけを見てほしい。
 でも、家に帰っても兄さんはいなかった。出かけてしまったらしい。おれは自室には戻らずソファに横になって、兄さんが帰ってくるのを待っていた。そのうちにだんだんと頭がぼーっとしてきて、気がつくと眠ってしまっていた。

「……ぁ、兄さん」
 足音がして、すぐに兄さんだ、とわかる。
 おれは体を起こし——すぐになんで、と目を疑った。兄さんの後ろに、まだ学校に行っているはずのあのガキがいたのだ。ガキのほうもおれを見て驚いていた。そりゃそうだ、いつもならおれはいないはずの時間だから。
 あーあ。こんなん、聞いてねぇし。
 一気に感情がぐちゃぐちゃになって、おれは立ち上がるとリビングを出て、自室に戻ろうと二階へ上がった。その後ろを兄さんがついてくる。
「おまえ、どうしたの。今日って帰るの早い日だっけ?」
「……いや」
「じゃあ早退? 具合でも悪いの」
 さっきまであった、答えたいという気持ちはもう失せていた。
「……あいつも早退? ガキでもさすがにまだ学校にいる時間だよな」
「うん、そう。気分が悪いらしいって学校から連絡あって、さっき迎えにいってきたの。……って、まず俺の質問に答えろよ」
 そっか。兄さん、あいつのこと学校まで迎えにいったんだ。おれはひとりぼっちで帰ってきたのに。……まあ、言ってないから当たり前なんだけど。そうわかっているのに癪だった。
「おれはいいから、あのガキのそばにいてやれば」
 それだけ残して自室に戻るとパタンとドアを閉め、そのまま崩れるようにベッドに横たわる。その瞬間、ひとりでにぼろぼろと涙が溢れてきた。
 あーあ、なんでおれ、うまく甘えられないんだろ。兄さんはいつだっておれに優しくしようとしてくれてるのに。今だっておれのこと心配して、わざわざ追いかけてきてくれたのに。
 あいつが今リビングで兄さんにあれこれ世話を焼かれてると思うとすごく嫌。なのに、おれにはどうしようもない。おれはこうやって、ひとりベッドの上で丸まって耐えているしかないんだ。
 どうしようもなく悲しくて、寂しくて。
 少しくらいならいいだろ、と起き上がり、飲みかけの風邪薬の瓶に手を伸ばした。
 そこから先のことは正直、もう覚えていない。
 
 
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