十五歳
《葵side》
ぐるぐると腕に巻かれた包帯を見ながら、霞んでいた頭がだんだん冴えていくのを感じていた。
あのあと兄さんに手を引かれるままリビングに来て、兄さんがおれの血まみれの腕を洗ってタオルで止血してくれたり、薬を塗って包帯を巻いてくれたりするのを眺めながら、ぼんやりとソファに座っていた。
「これだけ深いと跡けっこう残っちゃうかなぁ。きれいに治す薬いっぱい塗ったから効くといいけど……」
「……ごめん」
腕の傷に関して兄さんがなにも言わないのがありがたかったけど、だからこそ申し訳ないし気まずい思いでいっぱいだった。
兄さんはキッチンに戻って皿を洗っていた。リビングからは背中しか見えない。
——なんて思ってんだろうな、おれのこと。
兄さんの気持ちがわからない。兄さんは優しいから、こういう傷を見ても引いたり気持ち悪いと思ったりはしないと思う。
でも……、驚きはしただろうし、それが弟となると話は別だろう。
「……おれもう寝るね」
いたたまれなくなって立ち上がって、兄さんに声をかけてリビングを出ようとする。
でも。
「あ、待って葵」
呼び止められて、振り返る。
「なに」
「洗い物もうすぐ終わるから今日は俺といっしょに寝よ」
「……え?」
なんで、と兄さんの目を見る。兄さんは「いやさ」と皿を洗う手を動かしたまま言った。
「ちょっと心配だから。また切りたくなっても辛いでしょ」
「…………」
心配してくれるのはうれしかった。でも、やっぱり気恥ずかしい。
「そんな心配しなくてもおれ大丈夫だよ」
「うーん、そうは言ってもなぁ。ちょっとほっとけないよ。このままだと俺たぶん心配で寝れないからお願い」
兄さんはずるい。そんなこと言われたら断れないに決まってるじゃん。
「……わかった」
「ありがと。じゃ、お客さん用の布団もってってあげるからもうちょっと待ってて」
いや、どう考えてもありがとうはこっちのセリフだろ。
ほんとお人よしが過ぎる。
*
「あ、もしベッドがよかったら使っていいよ。俺は布団で十分だから」
フローリングに布団を敷いて、そう兄さんが言った。
「え、おれ布団でいいよ」
おれはそう答えるとふるふると首を横に振り、布団に潜り込んだ。つい先ほど兄さんが収納から出したばかりの布団は、まだかすかに甘い洗剤の香りを漂わせている。
「葵もう寝る?」
「んー、まだ起きてる。一時くらいになったら寝ようかな」
「そっか。じゃあ俺ちょっとレポート書いちゃうね」
兄さんはデスクの前に座ると、そう言ってパソコンを立ち上げた。ファンの回る音がブーンと鳴る。おれは布団に潜ったまま、ぼんやりとスマートフォンを弄っていた。
——もう十二時だ。兄さん、いつもこんな時間からレポート書いてんのかな。知らなかった。
でも、そうなるのも頷ける。兄さんは今、掃除や洗濯、料理といった家事に加え、おれやガキの面倒まで見ているのだ。その上で大学に通い、試験では常に上位の成績を保っているのだから、そりゃ寝る暇もないはずだ。
今でも手伝えることはなるべく手伝うようにしているが、早く自立して少しでも兄さんの負担を減らしたい——そう、強く思った。ま、そんなこと、小っ恥ずかしくて兄さんには言えやしないんだけど。
「ごめんね、音うるさくない?」
キーボードを叩きながら兄さんが言う。
「んーん、ぜんぜん気にならない。おれ、逆に音あったほうが眠れるし」
それは嘘ではなかった。騒がしいのは苦手だが、キーボードの音くらいは平気だ。
おれは布団の中で横になったまま、こっそりモニターに目をやった。兄さんの頭で半分ほど隠れていてよく見えないが、細かな文字でびっしりと埋め尽くされている。デスクには医学書がいくつも積み上げられていて、ときどき兄さんが険しい顔つきでそれらをパラパラとめくり、またキーボードを打つ。
「……兄さん、疲れないの」
「ん? なんで」
「だって、大学のことやって家のことやって、おれやガキの面倒まで見てさ。疲れないの」
そう聞くと、兄さんはおれを振り返ってふっと笑った。
「そりゃ疲れるときもあるよ。でも、それ以上に喜びのが大きいかな。葵やりかがすくすく育っていくの見ると、そんな疲れ吹っ飛んじゃう」
「……そっか」
兄さんは、こういう嘘はつかない。だから、言ったこともすべて本心なんだろう。
「なーに、葵。俺のこと心配してくれてるの?」
「っ、別に。気になっただけ」
「ふーん?」
ニヤニヤと兄さんがおれを見て笑う。恥ずかしくなって、がばりと布団を被って背を向ける。
——でも、兄さん少しうれしそうだよな。まあ、よかったのかも。
それから十分と経たないうちに、おれは眠っていた。
*
夢の中で、ああ、これは夢なのだなとすぐにわかった。
「葵、いい子ね。おいで」
——だって、母さんが生きてる。
夢の中のおれはまだ小さくて、そう言われて目いっぱいに腕を伸ばし、勢いよく母さんの胸に飛び込んだ。母さんはおれを抱きしめ、頭を撫でるとおれを見て、ふんわりと笑った。
幸せだった。
小さいころは父さんに殴られても蹴られても、母さんがそばにいてくれたから。
でも、パッと映像が切り替わり、現れたのは——ある夏の、白昼の交差点。
乾いた空気の中をヴーッと鳴り抜けていく大型トラックのクラクション。横断歩道、白とグレーのコントラスト。その上にじわりじわりと広がっていく、鮮やかな赤。
——母さんとふたりで出かけた帰りだった。おれは買ってもらったおもちゃを脇に抱え、母さんに手を引かれながら浮かれ気分で街を歩いていた。
でも、いきなりするりと手が解けて。見れば、母さんが横断歩道の中心へ駆け出していた。
信号を無視したトラックが、勢いよく横断歩道に突っ込んでくる——その先にひとりの少女がいるのに気づいて、母さんは駆け出したのだった。
そして横断歩道を歩いていた少女をその手で突き飛ばし、代わりにトラックに撥ねられた母さんの体が、まるでスローモーションのように宙を舞う瞬間を——六歳の夏、おれはたしかにこの目で見た。
「かあさん、かあさん、かあさん……ッ!!!!」
アスファルトに手をつき、膝から崩れ落ち、ただ叫んだ。喉の奥がひゅっと詰まって、苦しくて。出てくるのは今にも消え入りそうな、掠れた細い声だけだった。
*
「葵、……葵、」
体を揺すられて、ハッと目が覚める。
「……っ、ん……兄さん?」
「よかった、起きた。おまえ魘されてたよ」
ぼんやりと滲んでいる視界に映ったのは、心配そうにおれを見つめる兄さんの顔だった。……ああ。おれ、魘されてたのか。
「なんかすっげー嫌な夢だった」
バクバクと鳴る胸を撫で、そう言って起き上がったところであれ、と気づく。……嘘だろ、待てよ。
「どんな夢?」
「…………忘れた」
本当ははっきりと覚えていたが、答えている余裕はなかった。だって、濡れているのだ、布団が。スウェットのパンツが股のあたりから腰の上まで、じっとりと湿っている。もちろん汗ではない。
なんで? なんでおれ、また漏らしてるの。
辛い夢と認めたくない現実、それぞれの情報がぐちゃぐちゃになって、頭の中が混乱する。だからおれは掛け布団を抱えたまま、ただ俯いていることしかできなかった。
ぐるぐると腕に巻かれた包帯を見ながら、霞んでいた頭がだんだん冴えていくのを感じていた。
あのあと兄さんに手を引かれるままリビングに来て、兄さんがおれの血まみれの腕を洗ってタオルで止血してくれたり、薬を塗って包帯を巻いてくれたりするのを眺めながら、ぼんやりとソファに座っていた。
「これだけ深いと跡けっこう残っちゃうかなぁ。きれいに治す薬いっぱい塗ったから効くといいけど……」
「……ごめん」
腕の傷に関して兄さんがなにも言わないのがありがたかったけど、だからこそ申し訳ないし気まずい思いでいっぱいだった。
兄さんはキッチンに戻って皿を洗っていた。リビングからは背中しか見えない。
——なんて思ってんだろうな、おれのこと。
兄さんの気持ちがわからない。兄さんは優しいから、こういう傷を見ても引いたり気持ち悪いと思ったりはしないと思う。
でも……、驚きはしただろうし、それが弟となると話は別だろう。
「……おれもう寝るね」
いたたまれなくなって立ち上がって、兄さんに声をかけてリビングを出ようとする。
でも。
「あ、待って葵」
呼び止められて、振り返る。
「なに」
「洗い物もうすぐ終わるから今日は俺といっしょに寝よ」
「……え?」
なんで、と兄さんの目を見る。兄さんは「いやさ」と皿を洗う手を動かしたまま言った。
「ちょっと心配だから。また切りたくなっても辛いでしょ」
「…………」
心配してくれるのはうれしかった。でも、やっぱり気恥ずかしい。
「そんな心配しなくてもおれ大丈夫だよ」
「うーん、そうは言ってもなぁ。ちょっとほっとけないよ。このままだと俺たぶん心配で寝れないからお願い」
兄さんはずるい。そんなこと言われたら断れないに決まってるじゃん。
「……わかった」
「ありがと。じゃ、お客さん用の布団もってってあげるからもうちょっと待ってて」
いや、どう考えてもありがとうはこっちのセリフだろ。
ほんとお人よしが過ぎる。
*
「あ、もしベッドがよかったら使っていいよ。俺は布団で十分だから」
フローリングに布団を敷いて、そう兄さんが言った。
「え、おれ布団でいいよ」
おれはそう答えるとふるふると首を横に振り、布団に潜り込んだ。つい先ほど兄さんが収納から出したばかりの布団は、まだかすかに甘い洗剤の香りを漂わせている。
「葵もう寝る?」
「んー、まだ起きてる。一時くらいになったら寝ようかな」
「そっか。じゃあ俺ちょっとレポート書いちゃうね」
兄さんはデスクの前に座ると、そう言ってパソコンを立ち上げた。ファンの回る音がブーンと鳴る。おれは布団に潜ったまま、ぼんやりとスマートフォンを弄っていた。
——もう十二時だ。兄さん、いつもこんな時間からレポート書いてんのかな。知らなかった。
でも、そうなるのも頷ける。兄さんは今、掃除や洗濯、料理といった家事に加え、おれやガキの面倒まで見ているのだ。その上で大学に通い、試験では常に上位の成績を保っているのだから、そりゃ寝る暇もないはずだ。
今でも手伝えることはなるべく手伝うようにしているが、早く自立して少しでも兄さんの負担を減らしたい——そう、強く思った。ま、そんなこと、小っ恥ずかしくて兄さんには言えやしないんだけど。
「ごめんね、音うるさくない?」
キーボードを叩きながら兄さんが言う。
「んーん、ぜんぜん気にならない。おれ、逆に音あったほうが眠れるし」
それは嘘ではなかった。騒がしいのは苦手だが、キーボードの音くらいは平気だ。
おれは布団の中で横になったまま、こっそりモニターに目をやった。兄さんの頭で半分ほど隠れていてよく見えないが、細かな文字でびっしりと埋め尽くされている。デスクには医学書がいくつも積み上げられていて、ときどき兄さんが険しい顔つきでそれらをパラパラとめくり、またキーボードを打つ。
「……兄さん、疲れないの」
「ん? なんで」
「だって、大学のことやって家のことやって、おれやガキの面倒まで見てさ。疲れないの」
そう聞くと、兄さんはおれを振り返ってふっと笑った。
「そりゃ疲れるときもあるよ。でも、それ以上に喜びのが大きいかな。葵やりかがすくすく育っていくの見ると、そんな疲れ吹っ飛んじゃう」
「……そっか」
兄さんは、こういう嘘はつかない。だから、言ったこともすべて本心なんだろう。
「なーに、葵。俺のこと心配してくれてるの?」
「っ、別に。気になっただけ」
「ふーん?」
ニヤニヤと兄さんがおれを見て笑う。恥ずかしくなって、がばりと布団を被って背を向ける。
——でも、兄さん少しうれしそうだよな。まあ、よかったのかも。
それから十分と経たないうちに、おれは眠っていた。
*
夢の中で、ああ、これは夢なのだなとすぐにわかった。
「葵、いい子ね。おいで」
——だって、母さんが生きてる。
夢の中のおれはまだ小さくて、そう言われて目いっぱいに腕を伸ばし、勢いよく母さんの胸に飛び込んだ。母さんはおれを抱きしめ、頭を撫でるとおれを見て、ふんわりと笑った。
幸せだった。
小さいころは父さんに殴られても蹴られても、母さんがそばにいてくれたから。
でも、パッと映像が切り替わり、現れたのは——ある夏の、白昼の交差点。
乾いた空気の中をヴーッと鳴り抜けていく大型トラックのクラクション。横断歩道、白とグレーのコントラスト。その上にじわりじわりと広がっていく、鮮やかな赤。
——母さんとふたりで出かけた帰りだった。おれは買ってもらったおもちゃを脇に抱え、母さんに手を引かれながら浮かれ気分で街を歩いていた。
でも、いきなりするりと手が解けて。見れば、母さんが横断歩道の中心へ駆け出していた。
信号を無視したトラックが、勢いよく横断歩道に突っ込んでくる——その先にひとりの少女がいるのに気づいて、母さんは駆け出したのだった。
そして横断歩道を歩いていた少女をその手で突き飛ばし、代わりにトラックに撥ねられた母さんの体が、まるでスローモーションのように宙を舞う瞬間を——六歳の夏、おれはたしかにこの目で見た。
「かあさん、かあさん、かあさん……ッ!!!!」
アスファルトに手をつき、膝から崩れ落ち、ただ叫んだ。喉の奥がひゅっと詰まって、苦しくて。出てくるのは今にも消え入りそうな、掠れた細い声だけだった。
*
「葵、……葵、」
体を揺すられて、ハッと目が覚める。
「……っ、ん……兄さん?」
「よかった、起きた。おまえ魘されてたよ」
ぼんやりと滲んでいる視界に映ったのは、心配そうにおれを見つめる兄さんの顔だった。……ああ。おれ、魘されてたのか。
「なんかすっげー嫌な夢だった」
バクバクと鳴る胸を撫で、そう言って起き上がったところであれ、と気づく。……嘘だろ、待てよ。
「どんな夢?」
「…………忘れた」
本当ははっきりと覚えていたが、答えている余裕はなかった。だって、濡れているのだ、布団が。スウェットのパンツが股のあたりから腰の上まで、じっとりと湿っている。もちろん汗ではない。
なんで? なんでおれ、また漏らしてるの。
辛い夢と認めたくない現実、それぞれの情報がぐちゃぐちゃになって、頭の中が混乱する。だからおれは掛け布団を抱えたまま、ただ俯いていることしかできなかった。
