十五歳
《葵side》
一瞬、兄さんに甘えてしまおうかと思った。父さんに呼び出されていたけど、正直、行きたくはなかったから。でもすぐにそれじゃだめだと思い直した。
——おれももう十五だ、いつまでも兄さんに甘えてていい年じゃない。あのガキとは違うんだ。
さんざん吐いて喉が痛かったし、体もどっと疲れていた。でも兄さんが作ってくれた白湯のおかげで少し回復したから、約束どおり父さんの書斎に行った。
コンコンコン、とドアをノックする。
「……葵です」
「ああ。入りなさい」
おれの手にはこのあいだ返却された模試の成績表と、問題用紙の束が握られていた。
成績表は点数や偏差値のレーダーチャートが印刷されているよくあるタイプのもので、おれのレーダーチャートはいつも数学だけ大きくへこみ、歪な形になっている。
問題用紙は模試が終わったあと家で自己採点をしたもので、なにをどう間違えたかが赤で細かく記入されている。
「見せなさい」
言われて、成績表と問題用紙を差し出した。父さんは両方をパラパラとめくったあと、呆れたように短く息をついた。そして成績表の、数学の欄を指でさすと言った。
「数学、平均は上がっているのにおまえの点は下がってるな」
「……はい」
いつもより声が低くて、怖い。
また昔みたいにベランダに閉め出されるんじゃないか。叩かれるんじゃないか、殴られるんじゃないか。そんな恐怖で頭が埋め尽くされる。
手が震えそうになるのを必死で堪えた。父さんの顔が、見られない。きっと今、氷の中心みたいに冷たい目をしてるだろうから。——ああ、兄さんにもりかにもそんな目は向けないくせにな。
「本当におまえはクズだ、雅也はおまえと同じ年のころには全教科で八割は取ってたぞ」
あー、やっぱ言うんだそれ。……聞きたくない。
兄さんは優秀だ。昔からどの教科もまんべんなくできて、国立大学の医学部に現役で合格し、今もトップの成績を保っている。おれはといえば兄さんと同じ高校に通い、学校の中では一応トップを保っているものの、それが全国模試となると話は別だった。全国模試だといつも数学で点を下げてしまう。特に今回は父さんに伸ばせと言われていたにもかかわらず数学の点を下げてしまって、かなりの痛手だった。
「……すみません」
「しかもなんだ、この判定は」
パンッと脳に衝撃が走った。
頬を叩かれたのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。なぜならよく知った衝撃だったからだ。ガキのころからさんざん打たれて、もう慣れきっている。
父さんが指で示したのは、成績表にでかでかと印字されたBの文字だった。今回、医学部はB判定だったのだ。前まで続けてA判定を取っていたから、慢心していたと思われても仕方がない。
「この出来損ないが」
「っ……」
おれは手で頬を押さえ、それでもいつも通りに立っていた。もうガキじゃないから泣きはしないし、いつものことだから別に悲しくもない。でもここでなにか言うと父さんの気に障ってまた叩かれるから、黙ったままでいた。
「いいか。二度とこんな舐めた成績を取るな」
「……はい」
バン、と机に成績表と問題用紙が叩きつけられた。おれはその束を抱えると、すぐに書斎を出た。
*
「っ、……ふ、ぅ」
自室に戻ったあたりから呼吸の仕方が危うくなって、おれはベッドに転がると枕に顔を埋め、必死で荒れた呼吸を整えていた。手から滑り落ちた成績表や問題用紙がバサバサと音を立てて床に落ちる。
——大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせた。
打たれた頬が今さらになって痛み始めた。ズキ、ズキ、と脈に合わせて熱を帯びていくのを感じる。
「……っ、ぅう、」
なんでだろう……、胸の奥がざわざわする。
自分でもよくわからない。でも痛みと、悲しさと悔しさ、あとは得体の知れない黒い塊がざわざわざわざわと騒ぎ立って。
それらが渦のように綯い交ぜになり、胸の奥から頭のてっぺんまで一気に突き上げていった。
「っ、は、はっ、……ッ〜!」
完全にパニックだった。
おれは起き上がると床に落ちていた成績表と問題用紙を拾い上げ、勢いよくビリビリに破り裂いた。小さな欠片になり、パラパラと舞い落ちていく紙屑になんだか腹が立って何度も何度も壁を殴りつけた。
「っ、ふ……ぅ、ッ」
ドン、ドン、と音を立てて壁や床が揺れた。振動が足の裏から骨を伝い、全身に巡る。
頬の痛みは未だ感じているのに、ふしぎと拳の痛みは感じない。
おれは火がついたように部屋じゅうを歩き回り、手当たり次第に壁にものを投げつけていった。本棚に並べていた参考書、机の上に置いていた教科書、シャープペンシル、ノート……なにもかもが宙を舞い、歪な音を立てて床に落ちていく。
——壊れちゃえ。
なにもかも、めちゃくちゃに……。
振り乱していた手がペン立てに当たり、中身がガラガラと床に零れ落ちた。鉛筆、消しゴム、定規、ハサミ、……そしてその中からカッターナイフを見つけると、おれはその刃をカチリカチリと伸ばし、ためらいなく自らの腕に振り下ろした。
一瞬、兄さんに甘えてしまおうかと思った。父さんに呼び出されていたけど、正直、行きたくはなかったから。でもすぐにそれじゃだめだと思い直した。
——おれももう十五だ、いつまでも兄さんに甘えてていい年じゃない。あのガキとは違うんだ。
さんざん吐いて喉が痛かったし、体もどっと疲れていた。でも兄さんが作ってくれた白湯のおかげで少し回復したから、約束どおり父さんの書斎に行った。
コンコンコン、とドアをノックする。
「……葵です」
「ああ。入りなさい」
おれの手にはこのあいだ返却された模試の成績表と、問題用紙の束が握られていた。
成績表は点数や偏差値のレーダーチャートが印刷されているよくあるタイプのもので、おれのレーダーチャートはいつも数学だけ大きくへこみ、歪な形になっている。
問題用紙は模試が終わったあと家で自己採点をしたもので、なにをどう間違えたかが赤で細かく記入されている。
「見せなさい」
言われて、成績表と問題用紙を差し出した。父さんは両方をパラパラとめくったあと、呆れたように短く息をついた。そして成績表の、数学の欄を指でさすと言った。
「数学、平均は上がっているのにおまえの点は下がってるな」
「……はい」
いつもより声が低くて、怖い。
また昔みたいにベランダに閉め出されるんじゃないか。叩かれるんじゃないか、殴られるんじゃないか。そんな恐怖で頭が埋め尽くされる。
手が震えそうになるのを必死で堪えた。父さんの顔が、見られない。きっと今、氷の中心みたいに冷たい目をしてるだろうから。——ああ、兄さんにもりかにもそんな目は向けないくせにな。
「本当におまえはクズだ、雅也はおまえと同じ年のころには全教科で八割は取ってたぞ」
あー、やっぱ言うんだそれ。……聞きたくない。
兄さんは優秀だ。昔からどの教科もまんべんなくできて、国立大学の医学部に現役で合格し、今もトップの成績を保っている。おれはといえば兄さんと同じ高校に通い、学校の中では一応トップを保っているものの、それが全国模試となると話は別だった。全国模試だといつも数学で点を下げてしまう。特に今回は父さんに伸ばせと言われていたにもかかわらず数学の点を下げてしまって、かなりの痛手だった。
「……すみません」
「しかもなんだ、この判定は」
パンッと脳に衝撃が走った。
頬を叩かれたのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。なぜならよく知った衝撃だったからだ。ガキのころからさんざん打たれて、もう慣れきっている。
父さんが指で示したのは、成績表にでかでかと印字されたBの文字だった。今回、医学部はB判定だったのだ。前まで続けてA判定を取っていたから、慢心していたと思われても仕方がない。
「この出来損ないが」
「っ……」
おれは手で頬を押さえ、それでもいつも通りに立っていた。もうガキじゃないから泣きはしないし、いつものことだから別に悲しくもない。でもここでなにか言うと父さんの気に障ってまた叩かれるから、黙ったままでいた。
「いいか。二度とこんな舐めた成績を取るな」
「……はい」
バン、と机に成績表と問題用紙が叩きつけられた。おれはその束を抱えると、すぐに書斎を出た。
*
「っ、……ふ、ぅ」
自室に戻ったあたりから呼吸の仕方が危うくなって、おれはベッドに転がると枕に顔を埋め、必死で荒れた呼吸を整えていた。手から滑り落ちた成績表や問題用紙がバサバサと音を立てて床に落ちる。
——大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせた。
打たれた頬が今さらになって痛み始めた。ズキ、ズキ、と脈に合わせて熱を帯びていくのを感じる。
「……っ、ぅう、」
なんでだろう……、胸の奥がざわざわする。
自分でもよくわからない。でも痛みと、悲しさと悔しさ、あとは得体の知れない黒い塊がざわざわざわざわと騒ぎ立って。
それらが渦のように綯い交ぜになり、胸の奥から頭のてっぺんまで一気に突き上げていった。
「っ、は、はっ、……ッ〜!」
完全にパニックだった。
おれは起き上がると床に落ちていた成績表と問題用紙を拾い上げ、勢いよくビリビリに破り裂いた。小さな欠片になり、パラパラと舞い落ちていく紙屑になんだか腹が立って何度も何度も壁を殴りつけた。
「っ、ふ……ぅ、ッ」
ドン、ドン、と音を立てて壁や床が揺れた。振動が足の裏から骨を伝い、全身に巡る。
頬の痛みは未だ感じているのに、ふしぎと拳の痛みは感じない。
おれは火がついたように部屋じゅうを歩き回り、手当たり次第に壁にものを投げつけていった。本棚に並べていた参考書、机の上に置いていた教科書、シャープペンシル、ノート……なにもかもが宙を舞い、歪な音を立てて床に落ちていく。
——壊れちゃえ。
なにもかも、めちゃくちゃに……。
振り乱していた手がペン立てに当たり、中身がガラガラと床に零れ落ちた。鉛筆、消しゴム、定規、ハサミ、……そしてその中からカッターナイフを見つけると、おれはその刃をカチリカチリと伸ばし、ためらいなく自らの腕に振り下ろした。
