十五歳
《雅也side》
葵が席を外して、もう二十分が経った。
そのあいだに父さんは食べ終わって、今リビングには俺とりかしかいない。
——葵、大丈夫かな。
気分が悪かったのだろう、葵はなかなか食べ始めようとしなくて、やっとスプーンを手に取ったと思っても口に運んだのはほんの一口。しかもその一口を含むとすぐに席を立ってしまった。
俺はシチューを食べ終えると空になった皿をシンクに置き、もぐもぐとサラダを口に運んでいるりかに声を掛けた。
「りか、食べ終わったらお皿ぜんぶシンクに置いてね」
「はーい。葵お兄ちゃんの分は?」
「葵の分はそのままでいいよ」
「わかったぁ」
あの様子だとたぶん今日はもう食べられないと思うが、一応まだテーブルの上に置いておこう。
リビングを出て、葵を捜す。
まずは一階のトイレだなと思い来てみるが、鍵がかかっていた。やはりというかなんというか、中からは苦しげに呻く声が聞こえてきて、俺はコンコンと静かにドアを叩いた。
「おーい、葵。大丈夫?」
「……ッ、兄さん?」
「そそ、開けられそう?」
朝にシーツを濡らし、夕方には吐いているボロボロの弟が不憫で仕方なかった。朝のことはよくわからないが、今こうやって吐いているのはたぶん父さんが原因だろうし。
「おれは大丈夫。兄さん戻っていいよ」
そんな気丈な声がしたと思ったら、またえずく音が聞こえてきた。でも水音はしないから吐いてはいないらしい。……いや、二十分もこうしているのだ、もう吐けるものもないのだろう。
でも頭ははっきりしているみたいだし、とりあえずは大丈夫そうだ。一旦リビングに戻るか。トイレで吐いてるときにドアの前で人にうろうろされるの、俺だって嫌だし。
「大丈夫そうなら俺、リビング戻るね。なにかあったらすぐ呼んで」
「うん。ありがと」
そう言う葵の声は掠れていた。
あとで白湯でも作って飲ませてやるかと思いながら、俺はキッチンに戻った。
*
「……ごめん」
ふらふらとリビングに戻ってきた葵が、そう小さく言って席についた。それでテーブルの上に載ったままのシチューに手をつけようとするものだから、慌てて止めた。
「え、葵、キツかったら食べなくていいよ?」
もし食べられそうならと思って一応まだ置いておいたが、葵は明らかに辛そうにしている。顔が青いし、わずかだが手も震えているようだし。それなのに食べさせるのは酷だろう。
「……でもせっかく作ってくれたのに」
「もー、おまえほんといい子だね。具合が悪いときは無理しなくていいの、明日までならもつと思うし元気だったらまた食べな」
皿を下げて、代わりに白湯の入ったカップを置いてやる。
「いい感じに冷めてきたかな。ゆっくり飲みな」
「……ありがと」
葵は両手でカップを持つと、こくこくと少しずつ喉を動かして飲んでいった。
もう上へ行ったのか、りかの姿はなかった。ちゃんとシンクに皿が置いてあって、ぜんぶ水に浸けてある。だからここにいるのは俺と葵だけ。
「ね、葵」
「ん」
「……やっぱ、しんどい?」
そう尋ねた瞬間、葵の表情が曇る。なにが、とは言わなかったが伝わってはいるようだった。
俺が言わんとしているのは、父さんのことだ。昔から父さんが家にいると葵は不安定になって、よく吐いたり漏らしたりした。ここ二年は俺と葵とりかの三人での生活だったからあまりそういうこともなかったが、葵にとって父さんの存在というのはそのくらい大きなストレスなのだ。
「別に……おれは大丈夫だよ」
そう呟いて葵は目を伏せた。それが本心ではないことを、未だ震える手が示している。強がっているのだ。
「そっか。さっき父さんに呼び出されてたけど、もししんどかったら俺、うまく言って行かなくていいようにしてあげようか」
「……!」
葵の目が一瞬パッときらめいたが、すぐにふっと元の暗い色に戻る。
「大丈夫……おれ、ちゃんと父さんと向き合ってくるから」
さすがにもう昔みたいに酷く手を出されることもないだろうし、と葵はどこか儚く笑った。
葵が席を外して、もう二十分が経った。
そのあいだに父さんは食べ終わって、今リビングには俺とりかしかいない。
——葵、大丈夫かな。
気分が悪かったのだろう、葵はなかなか食べ始めようとしなくて、やっとスプーンを手に取ったと思っても口に運んだのはほんの一口。しかもその一口を含むとすぐに席を立ってしまった。
俺はシチューを食べ終えると空になった皿をシンクに置き、もぐもぐとサラダを口に運んでいるりかに声を掛けた。
「りか、食べ終わったらお皿ぜんぶシンクに置いてね」
「はーい。葵お兄ちゃんの分は?」
「葵の分はそのままでいいよ」
「わかったぁ」
あの様子だとたぶん今日はもう食べられないと思うが、一応まだテーブルの上に置いておこう。
リビングを出て、葵を捜す。
まずは一階のトイレだなと思い来てみるが、鍵がかかっていた。やはりというかなんというか、中からは苦しげに呻く声が聞こえてきて、俺はコンコンと静かにドアを叩いた。
「おーい、葵。大丈夫?」
「……ッ、兄さん?」
「そそ、開けられそう?」
朝にシーツを濡らし、夕方には吐いているボロボロの弟が不憫で仕方なかった。朝のことはよくわからないが、今こうやって吐いているのはたぶん父さんが原因だろうし。
「おれは大丈夫。兄さん戻っていいよ」
そんな気丈な声がしたと思ったら、またえずく音が聞こえてきた。でも水音はしないから吐いてはいないらしい。……いや、二十分もこうしているのだ、もう吐けるものもないのだろう。
でも頭ははっきりしているみたいだし、とりあえずは大丈夫そうだ。一旦リビングに戻るか。トイレで吐いてるときにドアの前で人にうろうろされるの、俺だって嫌だし。
「大丈夫そうなら俺、リビング戻るね。なにかあったらすぐ呼んで」
「うん。ありがと」
そう言う葵の声は掠れていた。
あとで白湯でも作って飲ませてやるかと思いながら、俺はキッチンに戻った。
*
「……ごめん」
ふらふらとリビングに戻ってきた葵が、そう小さく言って席についた。それでテーブルの上に載ったままのシチューに手をつけようとするものだから、慌てて止めた。
「え、葵、キツかったら食べなくていいよ?」
もし食べられそうならと思って一応まだ置いておいたが、葵は明らかに辛そうにしている。顔が青いし、わずかだが手も震えているようだし。それなのに食べさせるのは酷だろう。
「……でもせっかく作ってくれたのに」
「もー、おまえほんといい子だね。具合が悪いときは無理しなくていいの、明日までならもつと思うし元気だったらまた食べな」
皿を下げて、代わりに白湯の入ったカップを置いてやる。
「いい感じに冷めてきたかな。ゆっくり飲みな」
「……ありがと」
葵は両手でカップを持つと、こくこくと少しずつ喉を動かして飲んでいった。
もう上へ行ったのか、りかの姿はなかった。ちゃんとシンクに皿が置いてあって、ぜんぶ水に浸けてある。だからここにいるのは俺と葵だけ。
「ね、葵」
「ん」
「……やっぱ、しんどい?」
そう尋ねた瞬間、葵の表情が曇る。なにが、とは言わなかったが伝わってはいるようだった。
俺が言わんとしているのは、父さんのことだ。昔から父さんが家にいると葵は不安定になって、よく吐いたり漏らしたりした。ここ二年は俺と葵とりかの三人での生活だったからあまりそういうこともなかったが、葵にとって父さんの存在というのはそのくらい大きなストレスなのだ。
「別に……おれは大丈夫だよ」
そう呟いて葵は目を伏せた。それが本心ではないことを、未だ震える手が示している。強がっているのだ。
「そっか。さっき父さんに呼び出されてたけど、もししんどかったら俺、うまく言って行かなくていいようにしてあげようか」
「……!」
葵の目が一瞬パッときらめいたが、すぐにふっと元の暗い色に戻る。
「大丈夫……おれ、ちゃんと父さんと向き合ってくるから」
さすがにもう昔みたいに酷く手を出されることもないだろうし、と葵はどこか儚く笑った。
