十五歳
《葵side》
父さんが帰ってくると兄さんから聞いて一瞬、吐きそうになった。そして、今朝のあの夢はなにかしらのメッセージだったのかもしれないとも思った。
「父さん、いつまでいるって」
「わからない。電話ではしばらくそっちにいると思うって言ってたけど」
「……わかった」
嫌じゃないと言えば嘘になるが、この家もこの生活も父さんのおかげで成り立っているのだ。文句は言えない。
しかし、怖いと思う自分がいる。
父さんが近くにいるとたまに本当に体が震えて、どうしようもなくなるときがある。怒られるんじゃないか、叩かれるんじゃないか、そんな恐怖で頭が支配される。ガキのころほどは暴力を受けなくなったが、そういう恐怖はいつまで経っても拭い去れない。
母さんが生きていたころはまだよかった。母さんだけは優しかった。父さんに殴られたあとのおれを、たくさん抱きしめてくれた。
でも、もういない。
おれが六歳だった夏。母さんはトラックに轢かれ、そのまま還らぬ人となってしまった。
*
「おかえりなさい」
夜、父さんが帰ってきた。おれとガキはリビングにいた。玄関のドアが開く音がして、兄さんが迎える声が聞こえてきた。
「風呂も飯もできてます」
「じゃあ風呂だ」
ふたりの声に気づいて、とたとたとりかが駆けていった。
「お父さまおかえりなさい!」
「ああ、りかか。ただいま」
姿は見えないが、そんな会話が聞こえてくる。明るく幼いりかにはさすがの父さんも優しい。おれが玄関に行くと、ちょうど父さんがりかの頭を撫でているところだった。
「父さん、おかえりなさい。お疲れ様です」
一応おれもそう言うが、父さんは「ああ。ただいま」とだけ呟き、そのまま浴室へ消えてしまった。
*
スプーンと箸と、コップ。
今日は三つずつじゃなくて、四つずつ。
テーブルの上にすべて並べ終えると、おれはキッチンに立つ兄さんの手元をちらりと窺った。
今日の夕飯は、サラダと鶏肉のシチューだ。
でも、今日はまったくといっていいほど食欲がない。兄さんの作る飯は好きだから、いつもなら楽しみなのに。
「もうすぐできる。葵、お皿」
「うん」
棚から皿を出していると、風呂から上がった父さんがリビングに入ってきた。椅子に座り足をぶらぶらさせているりかの、向かいの席に父さんが腰かける。
兄さんとおれでお皿を運んでテーブルに並べた。鶏肉のたっぷり入ったシチューは今しがた熱々の鍋から注がれたばかりで、まだかすかに湯気が立っている。
——おいしそうなのに、食べたくない。
でも、そんなことは言えない。作ってくれた兄さんに失礼だし、食事を拒んで父さんになにか言われるのも面倒だった。
いただきます、とみんなで手を合わせる。父さんがサラダに箸をつけたのを見ておれも箸を取った。
のんきにもぐもぐと食っているのはガキくらいだった。兄さんもおれも、いつもとは違う。父さんの一挙一動に神経を張り巡らせている。
「葵」
「はい」
「このあいだ模試があっただろう。あとで結果を持って俺のところに来なさい」
「……はい」
父さんが言っているのは、先月おれが受けた模試のことだ。正直、見せたくはない。前よりも悪くなっているのだ。しかも、このあいだ父さんが上げろと言った数学の点を少し下げてしまった。
おれは兄さんと同じ国立の大学に合格しなければならない。なぜなら一族のほとんどがその大学に通い、医者か官僚になっているからだ。父さんは医者で、そのまた父さんも医者。兄さんは今、父さんの跡を継ぐべく医学部に通っている。
当然、次男であるおれも医学部に合格しなければならないのだが、昔から特に数学の出来が悪くて、どれだけ努力を重ねても一向に成績が上がらない。
だから、そんな結果なんか見せたらまた叱られるに決まってる。おまえはクズだ、雅也はおまえと同じ年のころには全教科で八割は取ってたぞ、なんて言われそうなセリフまで一言一句きれいに頭に浮かんでくる。
——ああ、なんか気持ち悪くなってきた。
でも手を止めるわけにもいかない。シチューを啜ろうと、スプーンで一口すくう。
「……っ」
ごくん、と飲み込んだはずなのになぜか込み上げてくるのは吐き気。えずきそうになって慌てて喉に力を入れた。こんなところで吐くわけにはいかない。
「……んぅ、」
けれど、また一口、と飲み込んだところで胃の底がぐっと震えた。
あ、だめだこれ。
「……ちょっと便所」
ガタンと席を立つ。兄さんに心配そうに見つめられ、父さんに睨まれた。食事の最中に席を立つのはマナー違反だが、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。
扉を押し開け、早足で廊下を歩く。そのあいだにもじりじりと胃の底から込み上げてくる気配があった。
変な唾がどくどくと口の中に溜まっていく。
——どうしてこんなにトイレまでの道が長いんだよ、畜生。ガキのころは大きい家だってよく羨ましがられたけどいいところなんてほとんどない。不便なだけだ。
やっとの思いで辿り着いたトイレのドアを開けて便座を上げたところで、ゔっと喉が鳴った。
「……っ、は、ぉえ、え、えぇっ」
ぼちゃぼちゃっと勢いよく逆流してきた胃の中身が水面を叩く。ぶるりと背中が震え、続けてばしゃっと勢いよく戻した。
水面に浮かんでいるのはついさっき胃に入れたばかりのサラダの小さな欠片と、一口しか食べられなかったシチューの残骸。
「はっ、ふ、ぅ……えッ、ぉえェッ」
ふ、ふ、と呼吸が速くなっていく。冷や汗が額を伝い、やがてぼろぼろとひとりでに涙が溢れてくる。
——なんでおれ、こんな目に遭わなきゃいけないんだろう。
すべてはおれのせいなのに、苦しくてどうしようもなくて、そう思わずにはいられなかった。
父さんが帰ってくると兄さんから聞いて一瞬、吐きそうになった。そして、今朝のあの夢はなにかしらのメッセージだったのかもしれないとも思った。
「父さん、いつまでいるって」
「わからない。電話ではしばらくそっちにいると思うって言ってたけど」
「……わかった」
嫌じゃないと言えば嘘になるが、この家もこの生活も父さんのおかげで成り立っているのだ。文句は言えない。
しかし、怖いと思う自分がいる。
父さんが近くにいるとたまに本当に体が震えて、どうしようもなくなるときがある。怒られるんじゃないか、叩かれるんじゃないか、そんな恐怖で頭が支配される。ガキのころほどは暴力を受けなくなったが、そういう恐怖はいつまで経っても拭い去れない。
母さんが生きていたころはまだよかった。母さんだけは優しかった。父さんに殴られたあとのおれを、たくさん抱きしめてくれた。
でも、もういない。
おれが六歳だった夏。母さんはトラックに轢かれ、そのまま還らぬ人となってしまった。
*
「おかえりなさい」
夜、父さんが帰ってきた。おれとガキはリビングにいた。玄関のドアが開く音がして、兄さんが迎える声が聞こえてきた。
「風呂も飯もできてます」
「じゃあ風呂だ」
ふたりの声に気づいて、とたとたとりかが駆けていった。
「お父さまおかえりなさい!」
「ああ、りかか。ただいま」
姿は見えないが、そんな会話が聞こえてくる。明るく幼いりかにはさすがの父さんも優しい。おれが玄関に行くと、ちょうど父さんがりかの頭を撫でているところだった。
「父さん、おかえりなさい。お疲れ様です」
一応おれもそう言うが、父さんは「ああ。ただいま」とだけ呟き、そのまま浴室へ消えてしまった。
*
スプーンと箸と、コップ。
今日は三つずつじゃなくて、四つずつ。
テーブルの上にすべて並べ終えると、おれはキッチンに立つ兄さんの手元をちらりと窺った。
今日の夕飯は、サラダと鶏肉のシチューだ。
でも、今日はまったくといっていいほど食欲がない。兄さんの作る飯は好きだから、いつもなら楽しみなのに。
「もうすぐできる。葵、お皿」
「うん」
棚から皿を出していると、風呂から上がった父さんがリビングに入ってきた。椅子に座り足をぶらぶらさせているりかの、向かいの席に父さんが腰かける。
兄さんとおれでお皿を運んでテーブルに並べた。鶏肉のたっぷり入ったシチューは今しがた熱々の鍋から注がれたばかりで、まだかすかに湯気が立っている。
——おいしそうなのに、食べたくない。
でも、そんなことは言えない。作ってくれた兄さんに失礼だし、食事を拒んで父さんになにか言われるのも面倒だった。
いただきます、とみんなで手を合わせる。父さんがサラダに箸をつけたのを見ておれも箸を取った。
のんきにもぐもぐと食っているのはガキくらいだった。兄さんもおれも、いつもとは違う。父さんの一挙一動に神経を張り巡らせている。
「葵」
「はい」
「このあいだ模試があっただろう。あとで結果を持って俺のところに来なさい」
「……はい」
父さんが言っているのは、先月おれが受けた模試のことだ。正直、見せたくはない。前よりも悪くなっているのだ。しかも、このあいだ父さんが上げろと言った数学の点を少し下げてしまった。
おれは兄さんと同じ国立の大学に合格しなければならない。なぜなら一族のほとんどがその大学に通い、医者か官僚になっているからだ。父さんは医者で、そのまた父さんも医者。兄さんは今、父さんの跡を継ぐべく医学部に通っている。
当然、次男であるおれも医学部に合格しなければならないのだが、昔から特に数学の出来が悪くて、どれだけ努力を重ねても一向に成績が上がらない。
だから、そんな結果なんか見せたらまた叱られるに決まってる。おまえはクズだ、雅也はおまえと同じ年のころには全教科で八割は取ってたぞ、なんて言われそうなセリフまで一言一句きれいに頭に浮かんでくる。
——ああ、なんか気持ち悪くなってきた。
でも手を止めるわけにもいかない。シチューを啜ろうと、スプーンで一口すくう。
「……っ」
ごくん、と飲み込んだはずなのになぜか込み上げてくるのは吐き気。えずきそうになって慌てて喉に力を入れた。こんなところで吐くわけにはいかない。
「……んぅ、」
けれど、また一口、と飲み込んだところで胃の底がぐっと震えた。
あ、だめだこれ。
「……ちょっと便所」
ガタンと席を立つ。兄さんに心配そうに見つめられ、父さんに睨まれた。食事の最中に席を立つのはマナー違反だが、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。
扉を押し開け、早足で廊下を歩く。そのあいだにもじりじりと胃の底から込み上げてくる気配があった。
変な唾がどくどくと口の中に溜まっていく。
——どうしてこんなにトイレまでの道が長いんだよ、畜生。ガキのころは大きい家だってよく羨ましがられたけどいいところなんてほとんどない。不便なだけだ。
やっとの思いで辿り着いたトイレのドアを開けて便座を上げたところで、ゔっと喉が鳴った。
「……っ、は、ぉえ、え、えぇっ」
ぼちゃぼちゃっと勢いよく逆流してきた胃の中身が水面を叩く。ぶるりと背中が震え、続けてばしゃっと勢いよく戻した。
水面に浮かんでいるのはついさっき胃に入れたばかりのサラダの小さな欠片と、一口しか食べられなかったシチューの残骸。
「はっ、ふ、ぅ……えッ、ぉえェッ」
ふ、ふ、と呼吸が速くなっていく。冷や汗が額を伝い、やがてぼろぼろとひとりでに涙が溢れてくる。
——なんでおれ、こんな目に遭わなきゃいけないんだろう。
すべてはおれのせいなのに、苦しくてどうしようもなくて、そう思わずにはいられなかった。
