十五歳
《葵side》
昔の夢を見ていた。
ずっとずっと昔……まだおれが小さかったころ。冬の夜だった。テストの点が下がって、それを知った父さんが怒って。おれの腕をつかみ、ベランダまで引っ張って、そのまま閉め出してしまったことがあった。
裸足だった。外気に触れ続けていた床のタイルは冷たくて、足の裏から徐々に体じゅうの熱が奪われていった。
ごめんなさい、ごめんなさいと泣いて窓ガラスを叩いた。でも、ぴしゃりとカーテンが閉じられていて中の様子はわからない。父さんもどこかへ行ってしまったらしく、近くに人の気配もない。
……おれ、このままここで死ぬのかな。
トーシ、ってやつ? 何日か前、ニュースで見た。おれと同じくらいの年の子どもが一晩じゅうベランダに閉め出されて、寒くて死んじゃったって。おれもそうなるのかな。
うちには兄さんだけいればいいから、……おれみたいな出来の悪い子ども、いらないから。死んだって父さんは悲しまない。いや、むしろ喜びさえするかもしれない。
——でも、怖い。
このまま死ぬの、怖い。
「っ、ごめんなさい、開けて、開けて、」
再び窓ガラスを叩くも、聞こえるのは自分の声と、ジーッというかすかな空気の震えだけ。
「寒い、……」
とうの昔に体は冷え切っていた。
膝を抱え、俯く。
いったいどのくらいそうしていただろう——気がつくと下腹に、ずっしりと重みが乗っていた。
……トイレに行きたい。
手のひらで太ももを擦り、必死に耐えようとする。
ここで漏らしたら、父さんに叱られる。たぶん汚いって蹴られる。でも、寒くて。今にも凍えそうで。
やばい、
やばい。
もう出ちゃう、
「……っ」
あ、だめだ。
しゅぃーー……とくぐもった音がする。グレーのズボンが太ももの間から徐々に色を変え、タイルのすきまを尿が静かに伝っていった。
——やってしまった。
頭がぼーっとして、おれは床の水たまりが広がっていくのをただ眺めていることしかできなかった。
やがて、窓の向こうに動く影を見つけて。
……父さん、だろうか。
キーンと耳の奥が鳴った。は、は、と息が上がっていく。手のひらに汗がじっとりと滲んで、握り込もうと爪を立ててもつるりと滑る。
息ができない。
「っ、は、……はっ」
ガラリと窓が開いて、おれは思わずぎゅっと目を瞑った。
幼かったおれにとって父さんの存在というのは、絵本の中の怪物なんかよりずっとずっと恐ろしいものだったのだ。
*
「っ、ぁ、ごめんなさい、」
蹴らないで、と手で頭を庇い、きゅっと身を縮めたところで——あれ? と気づく。おれが今いるのは、あの冷たいベランダの床の上なんかじゃなかった。
ふかふかの、白いベッドの上。
一瞬、死んだのかと思った。だからよく知った天井があって、ここが自室だとわかるとほっと息をついた。が、嫌な予感がして慌てて手のひらでシーツをさぐった。……じっとりと温かい。その上、湿ってる。
嘘だろ、
まだ夢の中なのかと思い、頬をつねってみた。痛い。夢じゃ、ない。
ガバッと掛け布団をめくる。
すると、現れたのは——奇しくも夢と同じ。ぐっしょりと濡れ、色の変わったグレーのズボン。そして、たっぷり水分を吸ってびしゃびしゃになったシーツだった。
サーッと血の気が引いていく音がした。
昔からああいう夢を見た日は大抵、小便でシーツを濡らしていた。怖い夢を見た上に冷たくなったシーツや服がぐっしょりと肌に張りつくのが不快で、うんと小さいころはよく兄さんを叩き起こして泣きついていた。でも大きくなると兄さんを頼るのも恥ずかしくなって、濡れたシーツや服を自分で風呂まで運び、洗うようになった。
おれは夜尿の治りが遅くて、大きくなってもそこそこの頻度で夜中にシーツを濡らしていたし、たまに日中に漏らすこともあった。
医者に罹って検査をしても特に異常はなく、ただ「ストレスですね」と言われるだけだった。……父さんがあんまり家に帰ってこなくなったころから徐々に失敗が減ってきたから、まあ、そういうことだったのだろうが。
とにかく、昔はまあ、こうやって失敗することも多々あった。でも今は違う。高校生になってからはこんな失敗、したことなかったのに。
スマートフォンをつかんで画面をタップする。……朝の六時か。今日は土曜だし、兄さんもりかもまだ起きていないはずだ。その間にすべて片づけてしまおう。
シーツを剥がし、くしゃくしゃにして丸める。幸いマットレスは汚れていなかった。
おれは丸めたシーツと新しい服を抱えると、そっと浴室に向かった。
*
浴室は一階にある。二階にある自室からは、階段を下りていかなければならない。抱えたシーツの裾を踏んで転ばないようゆっくり下り、浴室のドアを開けようとした——そのときだった。
「あれ、葵お兄ちゃん? どうしたの」
ジャーッと水の流れる音がして、トイレからガキが出てきたのだ。よりにもよってなんでこのタイミングで。チッと小さく舌を打つ。なんで起きてるんだよ、まだ六時だろ。
「……おまえこそ、なに。いつも寝てんじゃん」
「トイレ行ってたのー」
その声を聞いて、あーそっかと気づく。ガキのこいつがトイレに間に合って、おれは間に合ってないってことか。やばすぎだろ、おれ。なんかもう死にたくなってきた。
「てか葵お兄ちゃんなにそれ、シーツ?」
おれの腕の中の白い塊に気づき、ガキが問う。
「……なんでもねぇ」
「えー、なんでもなかったらこんな早くに起きないでしょ」
なんでなんでとガキが首を傾げている。このくらいの年のころのガキって、なにかわからないことがあると答えを得られるまでしつこく問い続けるよな。まじで面倒。おれもそうだったけど。
「あーもう。……吐いたの、だからシーツ洗うの、わかったらどっか行け」
早く追い払いたくて、突き放すように言った。さすがに小便で汚したなんて言えないから、少し嘘をついて。
でも、ガキはなぜかそれまでのなんでなんでをやめ、じっとおれの目を覗き込んできた。
「葵お兄ちゃん大丈夫? お腹いたいの?」
……なに、もしかしておれ、心配されてんの?
「別に、大丈夫」
そう呟いて浴室の扉に手を伸ばす。「えー、でも」と子鹿のような瞳でおれを見つめ、ガキが言った。
「りか、雅也お兄ちゃん呼んでくるよ?」
「……っ、それだけはマジでいい。おれひとりでできるからいい」
慌てて浴室に入り、扉を閉めた。ガキはそれ以上なにも言わず、しばらくは扉の前にいたようだったが、だんだんと遠ざかっていくのが足音でわかった。
——なんなんだよあいつ。なんで心配なんかすんだよ。おれいつもあいつに嫌なことしか言わないのに。いいやつすぎるだろ。
「おれのことなんかほっとけよ……」
濡れたズボンがべったりと太ももに張りついて不快だった。
くしゃくしゃになったシーツを床の上に放り投げ、蛇口のハンドルを回す。シャワーが勢いよく噴き出すが、まだ水のままだ。それが少しずつお湯に変わっていくのを、じっと待っていたときだった。
コンコン、と。浴室の扉をノックする音が聞こえて。
「おーい、葵。いる?」
兄さんの声だった。
「……は?」
なんで? 一瞬そう思うが、すぐに思い至る。あいつだ。あのガキ、チクリやがったな。
いいやつだってちょっと思ったけど撤回。やっぱりクソだ。
「ねえ、大丈夫そう? 入るよ」
「え、待って、ちょっと」
止める間もなく扉が開いた。鍵なんてついていないから当たり前だ。慌ててしゃがみ込み、シーツを抱えた。とりあえずこれでズボンが濡れているのを見られずに済む。
でも——どうしよう。トクン、トクン、と心臓が鳴る。万が一、おれが寝小便をしたなんてことがバレたらどうしよう。
まだ起きたばかりなのか、兄さんは眠そうだった。髪の先がところどころ跳ねている。
「おれひとりできるから大丈夫。……ったく、あのガキ。兄さん呼ぶなって言ったのに」
「まあまあ、あんまりりかを恨んでやるなよ。おまえのことめちゃくちゃ心配してたんだから」
「……チッ」
話しながら、どう口実をつけて兄さんを帰そうかずっと考えていた。でも、なかなかいい考えが浮かんでこない。
このままだとまずい。
「吐いたって聞いたけど、今は大丈夫そう?」
「……ん」
「ならよかった。シーツなら俺が洗うから、おまえは休んでていいよ」
「…………」
「葵?」
答えられない。頭が回らない。どうやって断ればいいのかわからない。
黙ったままのおれを見てまだ具合が悪いとでも思ったのだろう、兄さんは「どうした? まだ気持ち悪い?」と小さく尋ね、とんとんとおれの背中を撫でた。
「んーん……だいじょうぶ、」
「そっか。じゃ、とりあえずリビング行こうか。立てる?」
「……できない、」
「えー、どうしちゃったの。なんでできないか言える?」
今ここで立ったら服が小便で濡れてるのがバレるからです、と言えたらどんなに楽だったろうか。
なにも言わないおれを、兄さんはただ曖昧に笑って見つめていた。
昔の夢を見ていた。
ずっとずっと昔……まだおれが小さかったころ。冬の夜だった。テストの点が下がって、それを知った父さんが怒って。おれの腕をつかみ、ベランダまで引っ張って、そのまま閉め出してしまったことがあった。
裸足だった。外気に触れ続けていた床のタイルは冷たくて、足の裏から徐々に体じゅうの熱が奪われていった。
ごめんなさい、ごめんなさいと泣いて窓ガラスを叩いた。でも、ぴしゃりとカーテンが閉じられていて中の様子はわからない。父さんもどこかへ行ってしまったらしく、近くに人の気配もない。
……おれ、このままここで死ぬのかな。
トーシ、ってやつ? 何日か前、ニュースで見た。おれと同じくらいの年の子どもが一晩じゅうベランダに閉め出されて、寒くて死んじゃったって。おれもそうなるのかな。
うちには兄さんだけいればいいから、……おれみたいな出来の悪い子ども、いらないから。死んだって父さんは悲しまない。いや、むしろ喜びさえするかもしれない。
——でも、怖い。
このまま死ぬの、怖い。
「っ、ごめんなさい、開けて、開けて、」
再び窓ガラスを叩くも、聞こえるのは自分の声と、ジーッというかすかな空気の震えだけ。
「寒い、……」
とうの昔に体は冷え切っていた。
膝を抱え、俯く。
いったいどのくらいそうしていただろう——気がつくと下腹に、ずっしりと重みが乗っていた。
……トイレに行きたい。
手のひらで太ももを擦り、必死に耐えようとする。
ここで漏らしたら、父さんに叱られる。たぶん汚いって蹴られる。でも、寒くて。今にも凍えそうで。
やばい、
やばい。
もう出ちゃう、
「……っ」
あ、だめだ。
しゅぃーー……とくぐもった音がする。グレーのズボンが太ももの間から徐々に色を変え、タイルのすきまを尿が静かに伝っていった。
——やってしまった。
頭がぼーっとして、おれは床の水たまりが広がっていくのをただ眺めていることしかできなかった。
やがて、窓の向こうに動く影を見つけて。
……父さん、だろうか。
キーンと耳の奥が鳴った。は、は、と息が上がっていく。手のひらに汗がじっとりと滲んで、握り込もうと爪を立ててもつるりと滑る。
息ができない。
「っ、は、……はっ」
ガラリと窓が開いて、おれは思わずぎゅっと目を瞑った。
幼かったおれにとって父さんの存在というのは、絵本の中の怪物なんかよりずっとずっと恐ろしいものだったのだ。
*
「っ、ぁ、ごめんなさい、」
蹴らないで、と手で頭を庇い、きゅっと身を縮めたところで——あれ? と気づく。おれが今いるのは、あの冷たいベランダの床の上なんかじゃなかった。
ふかふかの、白いベッドの上。
一瞬、死んだのかと思った。だからよく知った天井があって、ここが自室だとわかるとほっと息をついた。が、嫌な予感がして慌てて手のひらでシーツをさぐった。……じっとりと温かい。その上、湿ってる。
嘘だろ、
まだ夢の中なのかと思い、頬をつねってみた。痛い。夢じゃ、ない。
ガバッと掛け布団をめくる。
すると、現れたのは——奇しくも夢と同じ。ぐっしょりと濡れ、色の変わったグレーのズボン。そして、たっぷり水分を吸ってびしゃびしゃになったシーツだった。
サーッと血の気が引いていく音がした。
昔からああいう夢を見た日は大抵、小便でシーツを濡らしていた。怖い夢を見た上に冷たくなったシーツや服がぐっしょりと肌に張りつくのが不快で、うんと小さいころはよく兄さんを叩き起こして泣きついていた。でも大きくなると兄さんを頼るのも恥ずかしくなって、濡れたシーツや服を自分で風呂まで運び、洗うようになった。
おれは夜尿の治りが遅くて、大きくなってもそこそこの頻度で夜中にシーツを濡らしていたし、たまに日中に漏らすこともあった。
医者に罹って検査をしても特に異常はなく、ただ「ストレスですね」と言われるだけだった。……父さんがあんまり家に帰ってこなくなったころから徐々に失敗が減ってきたから、まあ、そういうことだったのだろうが。
とにかく、昔はまあ、こうやって失敗することも多々あった。でも今は違う。高校生になってからはこんな失敗、したことなかったのに。
スマートフォンをつかんで画面をタップする。……朝の六時か。今日は土曜だし、兄さんもりかもまだ起きていないはずだ。その間にすべて片づけてしまおう。
シーツを剥がし、くしゃくしゃにして丸める。幸いマットレスは汚れていなかった。
おれは丸めたシーツと新しい服を抱えると、そっと浴室に向かった。
*
浴室は一階にある。二階にある自室からは、階段を下りていかなければならない。抱えたシーツの裾を踏んで転ばないようゆっくり下り、浴室のドアを開けようとした——そのときだった。
「あれ、葵お兄ちゃん? どうしたの」
ジャーッと水の流れる音がして、トイレからガキが出てきたのだ。よりにもよってなんでこのタイミングで。チッと小さく舌を打つ。なんで起きてるんだよ、まだ六時だろ。
「……おまえこそ、なに。いつも寝てんじゃん」
「トイレ行ってたのー」
その声を聞いて、あーそっかと気づく。ガキのこいつがトイレに間に合って、おれは間に合ってないってことか。やばすぎだろ、おれ。なんかもう死にたくなってきた。
「てか葵お兄ちゃんなにそれ、シーツ?」
おれの腕の中の白い塊に気づき、ガキが問う。
「……なんでもねぇ」
「えー、なんでもなかったらこんな早くに起きないでしょ」
なんでなんでとガキが首を傾げている。このくらいの年のころのガキって、なにかわからないことがあると答えを得られるまでしつこく問い続けるよな。まじで面倒。おれもそうだったけど。
「あーもう。……吐いたの、だからシーツ洗うの、わかったらどっか行け」
早く追い払いたくて、突き放すように言った。さすがに小便で汚したなんて言えないから、少し嘘をついて。
でも、ガキはなぜかそれまでのなんでなんでをやめ、じっとおれの目を覗き込んできた。
「葵お兄ちゃん大丈夫? お腹いたいの?」
……なに、もしかしておれ、心配されてんの?
「別に、大丈夫」
そう呟いて浴室の扉に手を伸ばす。「えー、でも」と子鹿のような瞳でおれを見つめ、ガキが言った。
「りか、雅也お兄ちゃん呼んでくるよ?」
「……っ、それだけはマジでいい。おれひとりでできるからいい」
慌てて浴室に入り、扉を閉めた。ガキはそれ以上なにも言わず、しばらくは扉の前にいたようだったが、だんだんと遠ざかっていくのが足音でわかった。
——なんなんだよあいつ。なんで心配なんかすんだよ。おれいつもあいつに嫌なことしか言わないのに。いいやつすぎるだろ。
「おれのことなんかほっとけよ……」
濡れたズボンがべったりと太ももに張りついて不快だった。
くしゃくしゃになったシーツを床の上に放り投げ、蛇口のハンドルを回す。シャワーが勢いよく噴き出すが、まだ水のままだ。それが少しずつお湯に変わっていくのを、じっと待っていたときだった。
コンコン、と。浴室の扉をノックする音が聞こえて。
「おーい、葵。いる?」
兄さんの声だった。
「……は?」
なんで? 一瞬そう思うが、すぐに思い至る。あいつだ。あのガキ、チクリやがったな。
いいやつだってちょっと思ったけど撤回。やっぱりクソだ。
「ねえ、大丈夫そう? 入るよ」
「え、待って、ちょっと」
止める間もなく扉が開いた。鍵なんてついていないから当たり前だ。慌ててしゃがみ込み、シーツを抱えた。とりあえずこれでズボンが濡れているのを見られずに済む。
でも——どうしよう。トクン、トクン、と心臓が鳴る。万が一、おれが寝小便をしたなんてことがバレたらどうしよう。
まだ起きたばかりなのか、兄さんは眠そうだった。髪の先がところどころ跳ねている。
「おれひとりできるから大丈夫。……ったく、あのガキ。兄さん呼ぶなって言ったのに」
「まあまあ、あんまりりかを恨んでやるなよ。おまえのことめちゃくちゃ心配してたんだから」
「……チッ」
話しながら、どう口実をつけて兄さんを帰そうかずっと考えていた。でも、なかなかいい考えが浮かんでこない。
このままだとまずい。
「吐いたって聞いたけど、今は大丈夫そう?」
「……ん」
「ならよかった。シーツなら俺が洗うから、おまえは休んでていいよ」
「…………」
「葵?」
答えられない。頭が回らない。どうやって断ればいいのかわからない。
黙ったままのおれを見てまだ具合が悪いとでも思ったのだろう、兄さんは「どうした? まだ気持ち悪い?」と小さく尋ね、とんとんとおれの背中を撫でた。
「んーん……だいじょうぶ、」
「そっか。じゃ、とりあえずリビング行こうか。立てる?」
「……できない、」
「えー、どうしちゃったの。なんでできないか言える?」
今ここで立ったら服が小便で濡れてるのがバレるからです、と言えたらどんなに楽だったろうか。
なにも言わないおれを、兄さんはただ曖昧に笑って見つめていた。
