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十六歳

《葵side》


「おれ、そろそろ帰るよ。いつまでもここにいちゃ悪いし」
 立ち上がり、少し笑ってそう言う。
 胸の内では不安がぐるぐると渦を巻いていた。それを気取られまいと浮かべてみせた作り笑いは、こいつの目には果たしてどう映っただろうか。
「おれみたいなガキがいつまでもここにいたら、あんた捕まっちゃうしね」
「あ〜……ま、日付が変わる前には帰すつもりだったけど。——本当に大丈夫なのか」
「大丈夫」
 家を出たときのあの、もうどうにでもなれといったやけくそな気分はここへ来ていくらかマシになっていた。しかし「大丈夫」だとそう強く言い放ったのは、揺れる胸の内をこれ以上もう悟られまいとするための強がりだった。
 本当はあの家に帰りたくない。家にいると——父さんと兄さん、あのガキが三人で楽しそうに笑っているのを見ると、おれの存在がいかに醜いかということを思い知らされて苦しくなる。だから帰りたくない。でも、いつまでもここにいるわけにもいかないし。
 おれのそんな煮え切らない思いを読み取ってか、水谷がなにか口を開きかけたのが見えて。それを遮るように「でも」と続けた。
「おれ、今ケータイ持ってないんだ。悪いんだけど借りてもいい」
「あー、貸すのは別にいいけど。もう遅いし送っていってやろうか」
「いや……、さすがにそこまで世話になるのは悪い。兄さんなら迎えにきてくれると思うから、ちょっと電話してみる」
「わかった。ならいいけど」
 そうして渡されたスマートフォンで兄さんの番号をタップしようとして——ふと指が止まった。……そういえばおれ、兄さんの番号って知らない。おれから兄さんに電話することなんてそうそうないし、するにしてもLINEばっかりだから。
 仕方ないなと、かろうじて覚えていた固定電話の番号を打ち込む。スピーカーを耳に当て、呼び出し音が一、二、三……と鳴ったところで繋がった。
 しかし。
『はい』
「……ッ!」
 聞こえてきたのは兄さんの声じゃなくて。——父さん、だ。トク、トク、と心臓が鳴る。そりゃそうだ、家電なんだから父さんが出たってふしぎではないだろう。でもてっきり兄さんが出るとばかり思っていたから、動揺してうまく言葉が出てこなかった。
 スピーカーを耳に当て、そのまま固まってしまう。向かいにいた水谷が「大丈夫か?」と心配そうに口を動かしたのが見えた。
『…………葵か?』
「っ、は……はい、葵です。すみません、えっと……おれ、」
『今どこだ。雅也がおまえを捜してる』
 はぁ、と呆れたような低いため息が電話口の向こうから聞こえた。おれは怖くなって——父さんは今ここにいないはずなのにまた殴られるんじゃないかと怖くなって、なにも言い出せないままカタカタと小刻みに手を震わせていることしかできなかった。
 ——でも。
「あ、もしもし? すみません代わりました。私、葵さんの高校の教員で水谷と申しますが」
 握りしめたままのスマートフォンを水谷が奪い取ったと思ったら、そうすらすらと話し始めて。
「いやいや! むしろこちらこそご連絡が遅くなりまして……いや、そんな。たまたま葵さんが具合が悪そうにしているのを私が見つけたものですから……」
 ……耳の奥がキーンと鳴る。周囲の音がだんだん遠ざかっていく。おれは水谷がときどき頷いたりなにか言って笑ったりするのを眺めながら、荒れ始めた呼吸を必死で整えていた。それでも漏れ出すぜぇぜぇという息づかいが、耳の奥にこびりついたように離れなくて不快だった。
「おーい、一条。親父さん迎えにきてくれるってさー……っておい、大丈夫か」
 電話を切って水谷が、慌てた様子でおれの隣にしゃがんだ。
 ——父さんが迎えにくる? そんなの絶望でしかない。
 喉の奥が潰れたみたいになって息ができない。はく、はく、と唇が酸素を求めて動く。溺れてるみたいだ。
「っふ、……はぁ、はぁ、っ、は……、」
「過呼吸っぽいな〜……ほんとどうしたよ、タオル持ってきてやるからちょっと待ってな」
 ぽんぽんと軽く背中を叩かれたと思ったらパタパタと足音が遠ざかっていくのが聞こえて、すぐに水谷が白いタオルを片手に戻ってきた。
「タオル当てるからしばらく苦しいかもだけど、すぐよくなるから。大丈夫だからな」
 そして白いタオルをおれの口元にあてがうと、もう片方の手でとんとんとおれの背中をさすってくれる。
「っ、ん……ごめ、」
「謝んなくていい。とりあえず息ゆっくり吐くことだけ意識して」
「……っ、ふ、ぅ〜……は、はっ」
「そうそう上手」
 そうしてどれくらい経っただろう——やっとおれの呼吸が落ち着いてくると、水谷がじっとおれの瞳を覗き込んで「だめなの」と小さく聞いてきた。
「……なにが、」
「親父さんのこと」
「あ〜……うん、まあね。ガキのころからよく叩かれたり殴られたりしてて。おかげでこの年になってもまだこんなザマだ。ダセェだろ」
 ふう、ふう、と軽く息を整えながらそう自嘲ぎみに呟けば、水谷が「別にダサくはねぇけど」と呟いて心配そうな表情をする。
 そんなときだった。夜の静寂の中に、ピンポンとやや間の抜けたチャイムの音が鳴り渡って。
 ——来た。きっと父さんだ。
 水谷が立ち上がり、「はい」とインターホンのボタンを押す。モニターにはやはり父さんの上半身が小さく映し出されていた。
『遅くにすみません、一条葵の父ですが』
「あ、はい。すぐ開けます、お待ちください」
 そして再びボタンを押し、インターホンを切るとそのまま玄関には向かわず、近くにあったメモ用紙に急いでなにかを書きつけておれに手渡した。
「これ俺の番号。なにかあったら連絡していいから」
「……いいの?」
 尋ねれば、水谷は「いいよ」と言って矢継ぎ早に続けた。
「おまえの事情いろいろ聞いて心配だし放っておけない。なんでも協力してやる。だから抱え込んで潰れる前に頼れよ。いいな?」
「……ん、」
 そのメモ用紙を抱えるようにして頷いて、おれはふにゃりと笑った。

「——ありがと、先生」

   *

「このたびはうちの息子がとんだご迷惑をお掛けいたしまして申し訳ございませんでした。……ほら、おまえもちゃんと謝りなさい」
「……すみませんでした」
 父さんがぺこりと腰を折るついでおれの頭をぐいっと押し下げて、おれたちはふたり並んで頭を下げる形になった。すかさず水谷が「いやいや、そんな」と慌てて続けた。
「大丈夫ですから。顔を上げてください」
 おれは玄関を出る前に水谷から渡された紙袋——洗ってもらったおれの服が入っている——を両腕で抱えるようにして持ちながら、ちらりと父さんを窺った。そして父さんが頭を上げたのを見て、おれもゆっくり頭を上げる。
「えーっと、お貸しいただいた服は……どこのものか教えていただければ新しいものをお返しいたしますので」
「いえ、気にしませんから」
「そういうわけには」
「いいんですよ本当に。ご自宅で洗っていただければ構いませんので」
 父さんは「そうですか」と呟くと形のいい歯をちらりと覗かせ、ゆるく笑った。
「申し訳ございません、ありがとうございます」
 ミネラルウォーターのコマーシャルにでも使えそうな、爽やかな笑みだった。
 父さんは水谷に向かって「どうも。お世話になりました」とまた頭を下げると、そのままおれの肩を抱いて「行こうか」と小さく笑いかけた。
「……はい」
 ——気色わりぃな、と思う。父さんのよそ行きの笑みは、おれの目にはまるで張りついた仮面のように映っていた。……まあ、単におれが見慣れてないだけかもしれないけど。だって、父さんがおれにそんな顔を向けることってないから。
「先生、ありがと、またね」
「ああ」
 でも、父さんの顔が仮面なら、きっと今のおれは人形だろう。
 ——だめだ、苦しい。
 胸が苦しい。
「……ッ」
 父さんを前にするといつもだめになる。頭の中がぐちゃぐちゃになって、呼吸が上ずって。手が震えて、足の先から力が抜けていって……でもだんだんそんな感覚すらわからなくなっていって。どう言い表せばいいんだろう——まるでおれがおれでなくなっていくような——おれの知覚、言うなればこの世界の輪郭そのものが失われていく。そんな感覚に近かった。
「またな」
 水谷は始終おれを心配そうに見つめていたが、おれが父さんに促されて歩き出したのを見るとそう言って小さく手を振った。

 父さんの車はマンションの裏手、コインパーキングの一角に停まっていた。
 そこへ向かうまでの間おれたちはずっと黙ったままだった。車に乗り込んだあとも黙ったままで、なんとも言い表せない張り詰めた空気が漂う中、耐え切れず先に口を開いたのはおれだった。
「……あの、ごめんなさい」
 はぁ、と深いため息。おれは俯いたまま父さんの顔を見られずにいた。
「それはなにに対しての謝罪だ」
 低い声だった。間もなくしてエンジンがかかって、車は滑らかに走り出した。
「え、っと」
 言いあぐみ、目を伏せる。なにをどう言うのが正解なんだろう。わからなかった。
 ぽつり、ぽつりと小さな粒がフロントガラスに当たり、弾ける。雨が降り始めたのか。紡ぎかけの言葉を舌の上で転がしながら、じっとりと暗い空を睨めつける。
「……めーわく、かけて。ごめんなさい」
 呼吸が浅く、速くなっていく。
 ——どうして家を出た、なんて理由を尋ねてほしかったわけじゃなかった。心配してほしかったわけでもなかった。そんな親じゃないのは昔からわかっていることだ。それでも寂しくなってしまうのは、心のどこかで父さんに期待してるからなんだろうか。
 ——愛されたい、って。
 そんなこと、叶うわけないのに。
 
 
 
 
   十六歳【完】
 
 
 
 
 
 
 
 
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