十六歳
《雅也side》
俺の弟には、かわいげがない。
まあ、それでも俺にとっては、かわいい弟なわけだけど。
キッチンに立って朝食を作っていると静かにドアが開いて、つかつかとリビングに入ってきたのは弟の葵だった。まだグレーのスウェット姿のままで、眠そうに半分だけ目を閉じている。
「おはよう」
「……」
返事がないのは、いつものことだった。
葵は黙ったまま棚からコップを三つずつ出すと、ぽんぽんとテーブルの上に並べていった。そして、ゆっくりと椅子に腰かけると、テレビをつけるわけでもスマートフォンを弄るわけでもなく、ただぼうっと宙を眺めていた。
——なんか具合あんまよくなさそうだな。
眠れていないのか、もともと白い肌がやや青みを帯び、どことなくくすんでいる。いかにも具合の悪そうなトーンだった。しかし、大丈夫かと声を掛けることはしない。そう言えば葵をただ怒らせるだけなのを知っているからだった。
決して嫌われているわけではない、と思う。これでも葵は小さいころ、お兄ちゃんお兄ちゃんと言って俺のうしろをよくついて歩いてきていたのだ。
葵と俺は、四つ年の離れた兄弟だ。葵は十六歳の高校二年生で、俺は二十歳の大学三年生。
四歳のとき、弟が生まれたと知って俺は、それはそれは喜んだ。長男だった俺は、ずっと下の兄弟が欲しくてたまらなかったのだ。やっとできた弟がかわいくてたくさん甘やかしてきたし、葵だって甘えてきた。
——そんな俺たちの関係が一変したのは、一昨年の夏のことだった。
「おはよう〜!」
再びドアが開いて、幼い女の子の、元気な声がリビングに響いた。
「おはよう、りか。今日も朝から元気だな」
「だっていい匂いするから! ね、今日の朝ご飯なぁに」
「ハニートーストだよ」
「やったぁ! りかハニートースト好きぃ」
そう言って、にっこりと笑う。
りかは六歳の小学一年生で、一昨年の夏、俺たちと兄弟になった。いっさい血は繋がっておらず、一応は義妹という間柄だが、俺にとっては葵と同じくらい大切な兄妹だ。
俺たちを産んだ実の母さんは十年ほど前に事故で亡くなり、一昨年の夏、父さんの再婚で連れ子として家にやってきたのがりかだった。はじめはりかの母親、もとい俺たちの新しい母さんもこの家に住み、俺たち三人の面倒を見てくれていたが、性格に難のある父さんとはなかなかうまくいかなかったのだろう——徐々に家に帰ってくる日が減り、もともと仕事で家を空けることの多かった父さんが帰ってくるはずもなく、俺たち三人はこの家にぽつねんと取り残されてしまった。
幸い俺がそのころには大学生になっていて、自由に過ごせる時間も多かったから、母親の代わりに二人の面倒を見るようになった。お金なら父さんが十分に送ってくれるし、葵はもう高校生であまり手のかかるようなこともなく、りかは少しわがままな面もあるが明るくいい子だから、特に苦労するようなこともなかった。
——ただひとつの問題を除いては。
「ねえねえお兄ちゃん、トーストまだぁ?」
「もう少しで焼けるから待っててね」
葵の向かいの椅子に座り、りかが空中でぶらぶらと足を揺らす。
「待てないよぉ〜! お腹すいたお腹すいた」
ぷくっと頬を膨らませて、不満げに言う。かわいいなと、くすりと笑みが溢れそうになる。でも、葵は違ったみたいだった。
「……うるせぇな。黙ってろよクソが」
ドン、と鈍い音が響く。見れば、葵の拳がテーブルを叩いていた。少し遅れて、りかが弾かれたようにわあぁんと泣き声を上げた。
「ああ〜もう……」
ちょうどトーストが焼けて、チンと間の抜けた音が鳴る。俺はバターを塗ろうとしていた手を止めて、慌ててりかのそばに寄った。
「ぅう、っ、う、葵お兄ちゃんが、おご、おごったあぁ」
「うんうん。怖かったねぇ、よしよし」
ぽんぽんと頭を撫でると両手が伸びてきて抱っこをせがまれたので、よいしょと抱き上げた。けっこう重たい。一昨年に家に来たときはもっと軽かったのに、とのんきに子どもの成長の早さを感じる。
「葵おまえさあ、あの言い方はないだろ」
「……」
「びっくりさせたの、ちゃんと謝りな」
泣き続けるりかの背中をさすりながら言う。
「ほら、」
促すと、俯いていた葵がきっと俺を睨んだ。
「うるせぇ! 謝るわけねぇだろ。おれ、なんも悪いことしてねぇし」
そして、ガタンと立ち上がると勢いよくドアを開け、リビングから出て行ってしまった。
「ちょっと、葵……」
りかを抱えたまま、急いであとを追う。
「朝ご飯は。いらないの」
「……いらねぇ」
「そう……わかった。食べる気になったらおいで」
返事はなかった。
そのあと葵は自室に戻り、一度もリビングに顔を出さないまま出かけてしまった。
テーブルの上にはトーストが一枚、冷え切ったまま残っている。
「葵お兄ちゃん、食べないで行っちゃったねぇ。あとでお腹すいちゃわないかな」
目元は赤いままだが、もう泣き止んでいたりかがそう呟いて首を傾げる。
「ほんとだねぇ。たぶんお腹すいちゃうよね。……さ、りかもそろそろ出なくちゃだね」
そう言いながら笑ってりかを玄関まで送り、ドアを閉めるとふうっと息を吐いた。
——葵は、あんなふうに小さい子どもに怒ったり、怯えさせたりするような子じゃない。本当は優しい子なのだ。しかし、りかが家に来てから葵は変わった。ちょっとしたことでいらいらするようになって、それでいてときどき、瞳にふっと寂しさに似た影を宿す。
でも、構ったら葵はますます俺から遠ざかる。だから、なかなか手を出せずにいた。
俺の弟には、かわいげがない。
まあ、それでも俺にとっては、かわいい弟なわけだけど。
キッチンに立って朝食を作っていると静かにドアが開いて、つかつかとリビングに入ってきたのは弟の葵だった。まだグレーのスウェット姿のままで、眠そうに半分だけ目を閉じている。
「おはよう」
「……」
返事がないのは、いつものことだった。
葵は黙ったまま棚からコップを三つずつ出すと、ぽんぽんとテーブルの上に並べていった。そして、ゆっくりと椅子に腰かけると、テレビをつけるわけでもスマートフォンを弄るわけでもなく、ただぼうっと宙を眺めていた。
——なんか具合あんまよくなさそうだな。
眠れていないのか、もともと白い肌がやや青みを帯び、どことなくくすんでいる。いかにも具合の悪そうなトーンだった。しかし、大丈夫かと声を掛けることはしない。そう言えば葵をただ怒らせるだけなのを知っているからだった。
決して嫌われているわけではない、と思う。これでも葵は小さいころ、お兄ちゃんお兄ちゃんと言って俺のうしろをよくついて歩いてきていたのだ。
葵と俺は、四つ年の離れた兄弟だ。葵は十六歳の高校二年生で、俺は二十歳の大学三年生。
四歳のとき、弟が生まれたと知って俺は、それはそれは喜んだ。長男だった俺は、ずっと下の兄弟が欲しくてたまらなかったのだ。やっとできた弟がかわいくてたくさん甘やかしてきたし、葵だって甘えてきた。
——そんな俺たちの関係が一変したのは、一昨年の夏のことだった。
「おはよう〜!」
再びドアが開いて、幼い女の子の、元気な声がリビングに響いた。
「おはよう、りか。今日も朝から元気だな」
「だっていい匂いするから! ね、今日の朝ご飯なぁに」
「ハニートーストだよ」
「やったぁ! りかハニートースト好きぃ」
そう言って、にっこりと笑う。
りかは六歳の小学一年生で、一昨年の夏、俺たちと兄弟になった。いっさい血は繋がっておらず、一応は義妹という間柄だが、俺にとっては葵と同じくらい大切な兄妹だ。
俺たちを産んだ実の母さんは十年ほど前に事故で亡くなり、一昨年の夏、父さんの再婚で連れ子として家にやってきたのがりかだった。はじめはりかの母親、もとい俺たちの新しい母さんもこの家に住み、俺たち三人の面倒を見てくれていたが、性格に難のある父さんとはなかなかうまくいかなかったのだろう——徐々に家に帰ってくる日が減り、もともと仕事で家を空けることの多かった父さんが帰ってくるはずもなく、俺たち三人はこの家にぽつねんと取り残されてしまった。
幸い俺がそのころには大学生になっていて、自由に過ごせる時間も多かったから、母親の代わりに二人の面倒を見るようになった。お金なら父さんが十分に送ってくれるし、葵はもう高校生であまり手のかかるようなこともなく、りかは少しわがままな面もあるが明るくいい子だから、特に苦労するようなこともなかった。
——ただひとつの問題を除いては。
「ねえねえお兄ちゃん、トーストまだぁ?」
「もう少しで焼けるから待っててね」
葵の向かいの椅子に座り、りかが空中でぶらぶらと足を揺らす。
「待てないよぉ〜! お腹すいたお腹すいた」
ぷくっと頬を膨らませて、不満げに言う。かわいいなと、くすりと笑みが溢れそうになる。でも、葵は違ったみたいだった。
「……うるせぇな。黙ってろよクソが」
ドン、と鈍い音が響く。見れば、葵の拳がテーブルを叩いていた。少し遅れて、りかが弾かれたようにわあぁんと泣き声を上げた。
「ああ〜もう……」
ちょうどトーストが焼けて、チンと間の抜けた音が鳴る。俺はバターを塗ろうとしていた手を止めて、慌ててりかのそばに寄った。
「ぅう、っ、う、葵お兄ちゃんが、おご、おごったあぁ」
「うんうん。怖かったねぇ、よしよし」
ぽんぽんと頭を撫でると両手が伸びてきて抱っこをせがまれたので、よいしょと抱き上げた。けっこう重たい。一昨年に家に来たときはもっと軽かったのに、とのんきに子どもの成長の早さを感じる。
「葵おまえさあ、あの言い方はないだろ」
「……」
「びっくりさせたの、ちゃんと謝りな」
泣き続けるりかの背中をさすりながら言う。
「ほら、」
促すと、俯いていた葵がきっと俺を睨んだ。
「うるせぇ! 謝るわけねぇだろ。おれ、なんも悪いことしてねぇし」
そして、ガタンと立ち上がると勢いよくドアを開け、リビングから出て行ってしまった。
「ちょっと、葵……」
りかを抱えたまま、急いであとを追う。
「朝ご飯は。いらないの」
「……いらねぇ」
「そう……わかった。食べる気になったらおいで」
返事はなかった。
そのあと葵は自室に戻り、一度もリビングに顔を出さないまま出かけてしまった。
テーブルの上にはトーストが一枚、冷え切ったまま残っている。
「葵お兄ちゃん、食べないで行っちゃったねぇ。あとでお腹すいちゃわないかな」
目元は赤いままだが、もう泣き止んでいたりかがそう呟いて首を傾げる。
「ほんとだねぇ。たぶんお腹すいちゃうよね。……さ、りかもそろそろ出なくちゃだね」
そう言いながら笑ってりかを玄関まで送り、ドアを閉めるとふうっと息を吐いた。
——葵は、あんなふうに小さい子どもに怒ったり、怯えさせたりするような子じゃない。本当は優しい子なのだ。しかし、りかが家に来てから葵は変わった。ちょっとしたことでいらいらするようになって、それでいてときどき、瞳にふっと寂しさに似た影を宿す。
でも、構ったら葵はますます俺から遠ざかる。だから、なかなか手を出せずにいた。
