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Melancholia

 べっとりと生クリームが張りついた口の中へ、指でつまんだ苺を放る。あまり味はしなかった。強いて言うなら酸っぱい? ……まあ、当たり前か。味覚なんて、とうの昔に壊れているのだから。
 トレーの上に残っていたスポンジを、そのまま手で掴んで口に運んでいる間に噛んだ。早く、早く、と必死に咀嚼しているうちに指まで噛んでしまって、思わず笑ってしまう。
「……んぐ、ぅ」
 喉の奥に甘さと酸っぱさの混じった液体が逆流してきた。パンパンに膨れた胃が新たな食べ物を受けいれられなくて拒絶しているのだ。でも、まだだめ。あと少し。
 床に落ちているレジ袋の中から、パウンドケーキの袋を掴んで破った。いい香りがする。抹茶のパウンドケーキだ。いつもなら味わって食べる好物のスイーツも、今日はものの三口で平らげてしまう。
 焦っていたのだ。なにに追われているわけでもないのに、早く……早く、楽になりたくて。
 頭の中がめちゃくちゃだった。
 気がつくと床には空になった菓子パンやシュークリームの袋、ケーキやヨーグルトの容器なんかが散らばっていて、滑稽だなと自嘲する。
 ——僕くらいなものだろう。夜中に寮のトイレの床にへたりこみ、こんな行為に耽っている教師なんて。
(なにやってんだろう、僕)
「……っ、はぁ」
 水のペットボトルを取ってキャップを開け、口をつけて一気に傾ける。つい先ほど飲んだばかりのパウンドケーキが水分を吸って胃の中でずっしりと膨らんでく。
「っ、はぁ、はぁ、はぁはぁ、」
 ぐっと胃の中身が上がってきて、息が速くなる。
「ぐ、ぶッ」
 ……あ。
 やばい、出る。
「ぅぐ、え、ぉえぇ、ん、ぐ——ッ!」
 慌てて便器の中に顔をつっこむと反射で大きく開いた喉からゴボッと鈍い音が鳴り、腹が波を打つのに合わせて勢いよく胃の中身が逆流してきた。バシャバシャバシャッと水が跳ね、吐物が叩きつけられる。水面に浮かんでいるのは吐物と呼ぶにはあまりにもきれいすぎる、ほとんど原型を留めた食べ物ばかりだ。
「……っ、う゛」
 頭の奥がぐらりと揺れた。一気に食べて一気に吐いたせいだ。
「はぁ、……っ、はぁ、はぁ、」
 また息が上がってくる。
 吐いた量は食べた量の五分の一にも満たないだろう。吸収されてしまう前に吐かなければ。
「……ん、っ」
 喉の奥に人差し指と中指を入れ、舌の奥をぐっぐっと押す。ぉ゛え、と何度か体が震えるも、まだ吐けない。大きく口を開いて薬指も入れ、三本の指でぐっと舌の奥を沈めた。
「ッ、ぐぅ……げぶっ」
 ビチャビチャッと汚い音を立てながら嘔吐する。きっと今の僕の顔は涙や鼻水、涎なんかでさぞぐちゃぐちゃになっていることだろう。でも、拭っている余裕もない。さらに強く舌を押す。
 もっと吐かなきゃ。もっと。
「ん、ぇっ……ごぶッ……!」
 ビシャッと液体がまた水面を叩くと同時に目の前が真っ暗になる。
 反転術式が使えるとはいえここ一ヶ月ほど毎日のように過食と嘔吐を行っているせいで体に相当な負荷がかかっているのだ。
「……はぁ、」
 座位を保っているのも辛くなってきて、ゆっくりと壁に倒れて凭れる。


「五条」


 よく知った声が聞こえたのは、そんなときだった。

「……しょう、こ」
 いつの間にか背後に迫っていた気配。嘔吐で消耗していたとはいえ、どうして声を掛けられるまで気がつかなかったのか。
 硝子は床に散乱しているゴミを一瞥すると「よくこんなに甘いものばっかり食えるな」と呆れたように笑ってしゃがみ、僕の背中にそっと手を当てた。その手があまりにも優しくて、……あまりにも細くて。どうしてだろう。
「……っ、ふ」
 わからないけれど、じわり、と熱いものが眼球を覆った。やがて瞼から零れ、ゆっくりと頬を伝っていったそれは、ひとたび溢れてしまうともう止まらなかった。
「ひ、っく、〜〜っ、う、ぅう……っ」
 背中が震え、ぼろぼろと涙が流れる。いきなり泣いてしまったせいで喉が詰まって息が苦しい。ひく、ひく、と潰れたような変な呼吸の音があたりに響く。
 しゃくりあげる僕の背中を、硝子はなにも言わずゆっくりと撫でている。なんで泣いてんの、僕。もういいだろ、止まれよ。そう思うのに止まらない。
「はっ、ぁ……っ、ヒュ、ぅ……っひゅ、は、」
 だんだんと手の先が痺れてくる。あれ? うまく息が吸えない。
 心臓が痛くなってきて、左手でぎゅっと胸のあたりを掴んだ。そのままずるずると崩れていきそうになる体を、後ろから硝子が抱えるようにして支えてくれる。
「おい、五条。泣くの下手くそか。ちゃんと息を吐け」
「っ、……ん、っく、……でき、な、」
「そのままだと過呼吸を起こすぞ。苦しくても吐け」
 ゆっくりでいい、と硝子は言った。ぎゅっと僕を抱えていてくれる細い体から伝わる温度に安心して、僕は少しだけ冷静になることができた。
「〜〜っ、は、……っ、は、」
「できてるよ、大丈夫」
「はぁ、……っ、は、」
「あと少し」
「っ、は……は、」
 しばらくそうしているうちに手の痺れが取れてきて、呼吸も少しずつ楽になってきた。落ちついてくるとなんだか急に恥ずかしくなって、僕は俯きながら「ごめん」と口にしていた。
「変なとこ見せちゃった。せっかくの顔もぐちゃぐちゃだしさぁ。こんなとこ僕のファンが見たらゲンメツしちゃうね」
「はいはい。それだけ言えるなら安心だな」
 硝子が水洗レバーを下げ、水面に浮いたままだった吐物を流す。
「まだ吐く?」
「ううん。もう大丈夫」
「じゃ、医務室に来い。ここじゃ冷える。立てるか?」
 まだ吐けていない分が胃に残っているけど、なぜかもう平気だった。壁に手を這わせながら立つ僕の腕を、硝子が「気をつけろよ」と転ばないよう掴んでいてくれる。


   □


 ふらふらとトイレを出て、ふらふらと廊下を歩いて。いつもの倍くらいの時間をかけて医務室に着いた。
「とりあえず座ってろ。辛かったらベッド使え」
 そう言われて僕は大人しくソファに座った。横になっていないと辛いほどではない。
「気分は?」
「そこそこ。ちょっと眩暈がするくらい」
「低血糖だな。待ってろ」
 硝子は棚をガサガサと漁ると「あったあった」となにやら袋を投げつけてきた。ブドウ糖のタブレットだ。
「サンキュ」
 袋を破ってひとつ口に放る。舌の上で溶けていく糖が、カラカラに渇いた脳内を一気に巡っていく感覚がする。そうしてしばらくすると、ふっと気が緩んで。
「……バカだよねぇ、僕も大概。ま、アイツほどじゃないけどさ」
 ぽつり、ぽつり。僕はそう呟くように零した。硝子は僕の隣に腰かけて、黙ったまま僕の話を聞いている。
「だめだってわかってるんだけどさ、どうしても……急に不安になって、気がついたら甘いものばっかり大量に買って、食べて、吐いて……早くやめなきゃって、思ってるのに」
 本当はわかってる。食べ物をムダにすることは決して許されることではないし、体にも悪い。それなのに、食べて吐いている間だけはなにもかも忘れて満たされたような気分になる。その一瞬の快楽のためだけに僕は、こんなバカなことをして……。
 硝子はじっと僕の話を聞いていたけれど、やがて「……そうだな」と静かに口を開いた。
「私は、五条がそれで楽になるなら無理にやめる必要はないと思う」
「……え、」
「食べたいだけ食べて吐きたいだけ吐けばいい。ただし低血糖を舐めるなよ。吐いたら糖を補給しろ」
「……否定、しないの」
「なに。否定してほしかったの?」
 そういたずらっぽく言う硝子に僕は、そういうわけじゃないけど、と呟いてふっと笑ってしまった。


   ■


「……ね、硝子」
「ん?」
 五条がそう小さく呼ぶと同時に、静かに私の肩に頭を載せた。白い髪の毛先が私の首をくすぐる。五条はかすかに背中を震わせていた。

「……もう一回だけ泣いていい?」
「いいけど。今度は上手に泣けよ」
 
 
 
 
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