side episode
五条がICUから一般の病棟に移ったとの知らせがあったのが昼。なんとか仕事を片づけ、面会に駆けつけたのはその日の夕方だった。
「五条、私だ」
一般の病棟とはいえ、五条の病室は専用のエレベーターに乗ってしか行けない少し特殊な病室だ。ドアを開ければだだっ広い四角い箱の中心、白いベッドの上でよく知った白髪が横になっていた。
「……硝子」
家入は壁ぎわに置いてあった丸椅子をベッドの前まで引き、腰かけた。
「気分はどう?」
五条の鼻にはカニューレが、肘の間にはカテーテルが、指の先にはプローブが——そして、太ももの間にはバルーンの管が、それぞれ繋げられていた。病衣に覆われて見えないが、胸には電極も貼られているのだろう、その先がベッドサイドモニタに繋げられている。
「……さいあくだよ」
吐き気があるのだろう、枕元には袋のかかったガーグルベースンが置かれている。
「とにかく頭がいてぇのと、吐き気がしんどい」
「あんなもの一気に飲むからだ」
「そー、ぜんぶ僕のせい。分かってんだけどさ」
五条はどこか投げやりだった。
カテーテルの刺さった腕を持ち上げると目元を覆い、ふうっと短く息を吐いた。
「……ごめん、硝子。また迷惑かけた」
「珍しく殊勝だな。別に迷惑とは思っていないが……今回はさすがに肝が冷えたよ」
——あの日、倒れている五条を見つけたのは家入だった。
大声で呼びかけても、拳で胸を押しても反応がない。辛うじて呼吸はあったが浅く、脈も弱い。床には薬の空シートが散乱しており、見れば、思わず眉を顰めるような厄介な薬名が印字されていた。
これはまずいぞ、と冷や汗がじっとりと背を伝ったのを今でもはっきりと覚えている。
——眠ろうとして飲んだには、明らかに多すぎる量。
「ねえ、五条」
「……ん」
「死にたかったの?」
尋ねれば、五条は目元を覆っていた腕を外し、「分からない」とぽつりと呟いた。
「でも、はっきりと死にたいとは思ってなかった気がする。ただ……そう、眠れればいいなって。それだけ」
五条がかすかに首を動かすと、その動きに合わせて白い髪が零れ、柔らかに耳朶を覆った。
「あの日、領域まで展開してさ。それでとうとう心身ともにガタが来たみたい。そういえば思考もまともに回ってなかった気がする」
嘘をついているわけではなさそうだ。死ぬつもりはなかったというのも本当なのだろう。
——百鬼夜行の後から、なんとなく五条の様子がおかしいということには気づいていた。人前ではいつも通り飄々と振る舞っていた彼だったが、なにかに追い立てられるように任務にばかり行くようになり、ここ二ヶ月はまともに食べても寝てもいないようだった。
百鬼夜行の処理に加え、積み重なった栄養不足と睡眠不足、そして——つい先日の、教え子の死。それらがひとつの巨大な塊となり、五条の心に深く影を落としたのだろう。
「……そうだ」
ぼんやりと天井を見つめていた五条が、ふと思い出したように呟いた。
「あの日、たしか夢を見たんだ。すごく昔の夢……傑がいて……夢の中の僕は、まさか傑がいなくなるなんて思ってなくて……」
そう言いながら、五条の呼吸がふうふうと上ずっていく。
「……もういい、五条。それ以上は」
慌てて止めるも、もう遅い。
(まずい、思ったより元気そうだったから気づくのが遅れた)
努めてそう見せていたのだ、この五条という男は。
「ッ、ふ……ぅ、ふ、ッ」
「悪かった、いろいろ喋らせて。疲れただろ」
そう言えば、五条はふるふると首を横に振った。
家入は五条の枕元に置いてあった白いタオルを掴むと小さく畳み、そっと口元に当ててやった。
「呼吸が整うまでしばらく当てておけ」
「っ、ん」
五条はふうふうと荒れた呼吸を繰り返していた。タオルを握る手にはぎゅっと力が込められており、拳には太く血管が浮き出ている。良くなる気配は一向にない。
「大丈夫。大丈夫だ、五条」
立ち上がって手を伸ばし、五条の背中をさする。触れた手のひらから、じっとりと熱が伝わってきた。
(少し体温が高いな。熱でもあるのか)
そう思ったときだった。
五条がうぅっ……と小さく呻き、そのままごぼごぼっと戻してしまったのだ。幸い少量だったため吐物はタオルに吸われ、シーツの大半は被害を免れたが、代わりに五条の口元がびしゃびしゃに汚れてしまっている。饐えが臭いがぶわりと広がった。
「っ、ふ……ぅ、なんで、」
どうやら吐いた本人がいちばん驚いているようで、まるで信じられないといった口ぶりでそう言ったかと思えば、カタカタと手を震わせ始めた。
「ごめ、……ッ、ごめ、」
「謝らなくていい。ゆっくり息して」
「ッ、〜〜ぅ、できない、できないッ」
五条の脚がバタバタと跳ね、ベッド柵を蹴る。カンッ、カンッ、と鈍い音があたりに響き渡った。
(まずいな、完全にパニックだ)
「くるしいッ、くるしいよぉッ、」
「大丈夫だ、大丈夫」
あやすようにそう繰り返し、背中をさする。なおも脚は跳ね続け、悶えるように腕がシーツの上を滑り回った。肘の間に刺さったカテーテルが揺れ、たわむ。
「ぅえッ、……ん、っ……ぶ、ぅぐッ」
呼吸の中に湿った音が混ざっているのに気づいて口元にガーグルベースンを当ててやると、五条はすぐにげろりげろりと胃の中のものを吐き戻した。
両の瞳から、ぼろぼろと大粒の涙が零れ始める。
「ひ、っく、〜〜ふ、ぅ……苦しい、傑……すぐる、」
そう呟いて、五条が宙へと腕を伸ばす。
——まるで赦しを乞おうとする罪人のようだと、家入は思った。
やがてその腕も、ぱたりと力なくシーツの上へ投げ出される。
「…………」
五条の背中をさすりながら、家入はただ黙っていることしかできなかった。
(なあ、夏油。もしオマエが今の五条を見たら、なんて思う?)
病室の、閉ざされた窓の向こうへ目をやる。木の葉が夜の風に、ただ静かに靡いていた。
(——ああ。今夜は久々に、きつい煙草を一本だけ吸おう)
「五条、私だ」
一般の病棟とはいえ、五条の病室は専用のエレベーターに乗ってしか行けない少し特殊な病室だ。ドアを開ければだだっ広い四角い箱の中心、白いベッドの上でよく知った白髪が横になっていた。
「……硝子」
家入は壁ぎわに置いてあった丸椅子をベッドの前まで引き、腰かけた。
「気分はどう?」
五条の鼻にはカニューレが、肘の間にはカテーテルが、指の先にはプローブが——そして、太ももの間にはバルーンの管が、それぞれ繋げられていた。病衣に覆われて見えないが、胸には電極も貼られているのだろう、その先がベッドサイドモニタに繋げられている。
「……さいあくだよ」
吐き気があるのだろう、枕元には袋のかかったガーグルベースンが置かれている。
「とにかく頭がいてぇのと、吐き気がしんどい」
「あんなもの一気に飲むからだ」
「そー、ぜんぶ僕のせい。分かってんだけどさ」
五条はどこか投げやりだった。
カテーテルの刺さった腕を持ち上げると目元を覆い、ふうっと短く息を吐いた。
「……ごめん、硝子。また迷惑かけた」
「珍しく殊勝だな。別に迷惑とは思っていないが……今回はさすがに肝が冷えたよ」
——あの日、倒れている五条を見つけたのは家入だった。
大声で呼びかけても、拳で胸を押しても反応がない。辛うじて呼吸はあったが浅く、脈も弱い。床には薬の空シートが散乱しており、見れば、思わず眉を顰めるような厄介な薬名が印字されていた。
これはまずいぞ、と冷や汗がじっとりと背を伝ったのを今でもはっきりと覚えている。
——眠ろうとして飲んだには、明らかに多すぎる量。
「ねえ、五条」
「……ん」
「死にたかったの?」
尋ねれば、五条は目元を覆っていた腕を外し、「分からない」とぽつりと呟いた。
「でも、はっきりと死にたいとは思ってなかった気がする。ただ……そう、眠れればいいなって。それだけ」
五条がかすかに首を動かすと、その動きに合わせて白い髪が零れ、柔らかに耳朶を覆った。
「あの日、領域まで展開してさ。それでとうとう心身ともにガタが来たみたい。そういえば思考もまともに回ってなかった気がする」
嘘をついているわけではなさそうだ。死ぬつもりはなかったというのも本当なのだろう。
——百鬼夜行の後から、なんとなく五条の様子がおかしいということには気づいていた。人前ではいつも通り飄々と振る舞っていた彼だったが、なにかに追い立てられるように任務にばかり行くようになり、ここ二ヶ月はまともに食べても寝てもいないようだった。
百鬼夜行の処理に加え、積み重なった栄養不足と睡眠不足、そして——つい先日の、教え子の死。それらがひとつの巨大な塊となり、五条の心に深く影を落としたのだろう。
「……そうだ」
ぼんやりと天井を見つめていた五条が、ふと思い出したように呟いた。
「あの日、たしか夢を見たんだ。すごく昔の夢……傑がいて……夢の中の僕は、まさか傑がいなくなるなんて思ってなくて……」
そう言いながら、五条の呼吸がふうふうと上ずっていく。
「……もういい、五条。それ以上は」
慌てて止めるも、もう遅い。
(まずい、思ったより元気そうだったから気づくのが遅れた)
努めてそう見せていたのだ、この五条という男は。
「ッ、ふ……ぅ、ふ、ッ」
「悪かった、いろいろ喋らせて。疲れただろ」
そう言えば、五条はふるふると首を横に振った。
家入は五条の枕元に置いてあった白いタオルを掴むと小さく畳み、そっと口元に当ててやった。
「呼吸が整うまでしばらく当てておけ」
「っ、ん」
五条はふうふうと荒れた呼吸を繰り返していた。タオルを握る手にはぎゅっと力が込められており、拳には太く血管が浮き出ている。良くなる気配は一向にない。
「大丈夫。大丈夫だ、五条」
立ち上がって手を伸ばし、五条の背中をさする。触れた手のひらから、じっとりと熱が伝わってきた。
(少し体温が高いな。熱でもあるのか)
そう思ったときだった。
五条がうぅっ……と小さく呻き、そのままごぼごぼっと戻してしまったのだ。幸い少量だったため吐物はタオルに吸われ、シーツの大半は被害を免れたが、代わりに五条の口元がびしゃびしゃに汚れてしまっている。饐えが臭いがぶわりと広がった。
「っ、ふ……ぅ、なんで、」
どうやら吐いた本人がいちばん驚いているようで、まるで信じられないといった口ぶりでそう言ったかと思えば、カタカタと手を震わせ始めた。
「ごめ、……ッ、ごめ、」
「謝らなくていい。ゆっくり息して」
「ッ、〜〜ぅ、できない、できないッ」
五条の脚がバタバタと跳ね、ベッド柵を蹴る。カンッ、カンッ、と鈍い音があたりに響き渡った。
(まずいな、完全にパニックだ)
「くるしいッ、くるしいよぉッ、」
「大丈夫だ、大丈夫」
あやすようにそう繰り返し、背中をさする。なおも脚は跳ね続け、悶えるように腕がシーツの上を滑り回った。肘の間に刺さったカテーテルが揺れ、たわむ。
「ぅえッ、……ん、っ……ぶ、ぅぐッ」
呼吸の中に湿った音が混ざっているのに気づいて口元にガーグルベースンを当ててやると、五条はすぐにげろりげろりと胃の中のものを吐き戻した。
両の瞳から、ぼろぼろと大粒の涙が零れ始める。
「ひ、っく、〜〜ふ、ぅ……苦しい、傑……すぐる、」
そう呟いて、五条が宙へと腕を伸ばす。
——まるで赦しを乞おうとする罪人のようだと、家入は思った。
やがてその腕も、ぱたりと力なくシーツの上へ投げ出される。
「…………」
五条の背中をさすりながら、家入はただ黙っていることしかできなかった。
(なあ、夏油。もしオマエが今の五条を見たら、なんて思う?)
病室の、閉ざされた窓の向こうへ目をやる。木の葉が夜の風に、ただ静かに靡いていた。
(——ああ。今夜は久々に、きつい煙草を一本だけ吸おう)
