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Euphoria

「やっほ〜恵。元気?」
 五条に会うことができたのは、それから六日ほど経った夕方のことだった。授業が終わり、自室に戻ろうとしていたところにいきなり五条が現れたのだ。
 五条が三日ほど前に目を覚まし、ICUから一般の病棟に移ったということは七海がこっそり教えてくれていたが、退院していたとは知らず、はじめ五条の姿を見たときは驚きのあまり幽霊かなにかかと疑った。
(元気? って……どう考えても俺のセリフだろ、それ)
 そう言いかけて、飲み込む。
「今ちょっといい?」
「どうぞ。なにも出せませんけど」
 自室に招き、ベッドに座るよう促せば、五条は「ありがとう」と呟いて腰かけた。伏黒も隣に座る。
 五条はいつものアイマスクを身につけておらず、着ているのも白いTシャツに黒いパンツという、どことなくラフな出立ちだった。
「今日の昼に退院になったんだけど、GLGの僕に長いこと会えなくて恵が泣いてるかもしれないと思ってさ〜さっそく会いにきてあげたってワケ」
 そうペラペラと話し、ウインクまでしてみせる五条は、とてもつい先日に瀕死の重体で搬送されたとは思えないほどの快活さだった。
「元気そうでなによりです。体はもういいんですか」
「もーバッチリ。夜には任務に行く予定」
 病み上がりの体で任務は、と思うが相手は五条だ。一般の尺度で測れる人間ではない。
 そうして、しばし流れる沈黙。先に破ったのは五条だった。
「……ごめんね、恵」
 五条は指を組み、俯いた。
 そうして憂いが影のように静かに五条の横顔を包み込むと、彼の浮世のものとは思えぬ彫刻美がいっそう濃く浮き出て、伏黒の心臓をドキリと脈打たせた。
「たくさん迷惑かけて。……って言っても僕、運ばれたときのことぜんぜん覚えてなくて、そのとき恵がいたっていうのも硝子に聞いて知ったんだけどさ……いろいろ不安にさせただろうし、不快にさせたかもしれない」
 こんなに殊勝な五条を見るのは初めてだった。
(これが言いたくて俺のとこに来たのか。意外と律儀っていうか、なんていうか)
「別に。ちょっと驚きはしましたけど、謝られるようなことじゃないです」
 それは紛うことなき本心だった。
「優しいね、恵は」
「……それより夜から任務って大丈夫なんですか。いくらアンタだって、まだ辛いんじゃ」
 そう尋ねると、五条は少し笑って「大丈夫だよ」と頷いた。白い髪が、つやりと照明を跳ね返す。
「僕、最強だからね」
「……そうですか」
「でも、恵には不甲斐ないところばっかり見せちゃった。……最強の僕がこんな体たらくで、幻滅させちゃったよね」
 五条にしては珍しく弱気な発言だった。その態度が、いっそう伏黒の不安を煽る。
 ——今の五条は、あまりにも脆い。少しでも触れ方を間違えれば、音も立てずに崩れていってしまいそうだ。先ほどまでのあのいつも通りのふざけた態度も、そう見せようとしていただけだったのだろう。本当の五条はこんなにもボロボロで、言い知れぬ苦しみに踠いている……。
「幻滅なんてしてません。日頃の行いにはたびたび幻滅してますけど」
「それもそうだね」
 そう言って笑うと、桃色の唇の端からちらりと形のいい歯が覗く。しかし、すぐにまた瞳にふっと寂しげな影を宿す。
 そして俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「……ね、恵はさ。本当に、いなくならないよね。僕に置いていかれないように、ずっとついてきてくれるよね。急にいなくなったり……しないよね」
 その声が少しずつ震えていくのを、伏黒はただ黙って聞いていることしかできなかった。そして蒼い双眸に涙の膜が張っていくのを、それを零すまいと唇を噛み、必死に堪えているのを——たまらなく哀しいと思った。
「俺はいなくなりません。アンタに置いていかれないようにずっとついていってやります。アンタが嫌って言っても俺、絶対に離れませんから。……それに、」
 気がつくと伏黒は、そう言いながら五条の頭をかき抱いていた。腕の中で一瞬、五条が驚いたように体を震わせる。
「泣きたいなら泣けばいいでしょ。俺、見てませんから」
「っ、〜〜ふ、ぅ、うぅっ……」
 ——そして堰を切ったように響く、嗚咽の声。
 五条はわっと声を上げ、全身を震わせて泣いた。服が涙や涎で濡れていくのを感じるが、不思議と不快ではなかった。むしろ哀しいと、愛しいとさえ思う。
 自他ともに最強と認める彼の——否、最強という言葉で己を呪い、縛り続けている彼の、こんな子どもみたいな不器用な泣き方。

(そうか。この人は、本当は……ずっと迷子の寂しい子どもなんだ)


   *


「いや〜恵ってば、やるねぇ。この五条悟を腕の中で泣かせちゃうなんてさぁ」
 あれから十分と経たないうちに、五条は元の調子を取り戻した。つい先ほどまで弱々しく伏黒の腕の中で泣いていたのと同じ人物とは思えないほどだ。
 今はもう、ひとつの隙も見せていない。
「ほんとありがとね。また明日、午後は僕の授業だから。遅刻しないようにね〜」
 遅刻するのはアンタのほうだろ、と言おうとした頃には五条はもう、ヒラヒラと手を振って部屋の外に出ていた。思わず彼の後を追い、廊下に出る。五条の背中が遠くに見えた。やがて角を曲がると、その姿も見えなくなる。
 残されたのはよく知った彼の呪力と、どうしてか胸の底に貼りついている、ぼんやりとした陶酔だけ。……
 
 そうして、伏黒は確信する。

(きっともう、五条先生のあんな——脆くて、今にも壊れそうな表情かおを見ることはないんだろうな)




   Euphoria【完】






 
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