Euphoria
《五条side》
——十年と少し前の、夏。
「ほら、悟。飲め」
「っ、んぅ、……ぐ、」
「吐かないともっと苦しいよ」
「いや、いやぁ……っ」
髪を掴まれ、顎を持ち上げられ。
唇の隙間にねじ込まれたペットボトルの口から、水がとくとくと流れ込んでくる。苦しくて、飲み込めなくて、口の端からごぶりごぶりと溢れた水が顎を伝い、そのままびしゃびしゃとフローリングへ零れ落ちていった。
「ッ、ぁ、ごめんなさい、ごめんなさい、」
五条の目にはびしょ濡れになったフローリングと、己の顎を持ち上げている夏油の手がでかでかと映し出されていた。なぜなら夏油がうつ伏せになった五条の背中に跨り、いっさいの身動きを取れなくしているからだ。
「苦しいと思うけど我慢してね」
「やだ、やだやだ、やだぁ……ッ」
ペットボトルの口が外されたと思ったら、今度は夏油の指が口内に入り込んでくる。
長くて太い、二本の指。
拒みたくて頭を振ろうとするが、もう片方の手でがっしりと髪を掴まれているせいでできない。それでも必死に身を捩って踠いていたら、ぶちぶちと音を立てて何本か髪が逝った。
「ッ、すぐる、いたい、すぐる、」
「指、噛んでもいいからね」
舌を柔らかく撫でながら二本の指がぬるぬると喉を進んでいく。やがて舌の奥まで届いた指の腹が、ぐっと舌の付け根を押し下げた。ぐぇ、とひしゃげた声が漏れ出る。
そして指の腹が何度も舌の付け根を這い、撫で、また押す。その動きに誘われ、腹の底からなんとも言い表せない苦しさが込み上げてくる。
両の目から溢れてきた涙が、気がつかないうちにぼろぼろと頬を伝っていた。
「は、はっ、……うぇ、ッ、えぇッ」
ばしゃり。口から零れ出た少量の吐物が床を汚す。
「いい子。早く悪いのぜんぶ出そうね」
「ッ、やだ、やだ、やだぁ……っ」
(嫌。苦しいのは、嫌——!)
それなのに、夏油に全てを支配されている感覚が心地よかった。
(だって……今だけは傑、俺のことだけ見ててくれる。離れていかない。ずっとそばにいてくれる)
そう思ったところで、あれ? と気づく。
(離れていかない、って思ってるのは俺じゃない……僕 、だ。だって、あの頃はまだ。まさか傑がいなくなるだなんて——)
そこで、ハッと目が覚める。
「っ、は……」
嗅ぎ慣れた消毒の匂い。見慣れた白い壁、クリーム色のカーテン。
(やっぱあれ、夢だったんだ……変な夢だったな)
途中から夢の内容と現実の思考とがごちゃ混ぜになっていたような気がする。
(それにあんな昔のこと、もう忘れてた……なのに今さら夢に見るなんて。どうにかしてるな、僕)
そう思い体を起こそうとして、腕になにやら重みが乗っているのに気づく。見れば腕の中心から透明なチューブが伸びていて、その先が点滴のパックに繋げられていた。
それを見ながら、ぼんやりとしていた頭が徐々に覚醒していくのを感じる。
(やばい、僕また倒れたんだ。でもあんま覚えてないな。記憶ちょっと飛んでるかも……てか待って、何時だ今。朝? 夜? 任務は、)
カーテンがぴったり閉じられているせいで外の様子が全くわからない。気を失っていたのが一時間や二時間ならいいが、もし何日も経っていたとしたら困る。その間に特級呪霊でも発生していたら、その分だけ被害が生まれ続けているということになるのだ。うかうかとベッドで横になっている場合ではない。
「……しょーこ、いる?」
絞り出した声は小さく、掠れていた。
「しょーこ、」
返事はない。体を起こし、カーテンを開ける。そこにはいつも通りの医務室が広がっていたが、家入の姿はどこにもなかった。
窓の外は真っ暗だった。点滴スタンドを引きながら歩き、デスクに置かれたデジタル時計を見る。
(二時か……たしか車に乗ったのは十時くらいだったよな。ってことは四時間も気ぃ失ってたってこと?)
さいあく、と頭を掻く。まだ終わっていない仕事が山ほどあるのに。
そう思ったところで、耳によく知ったメロディが飛び込んできた。
五条のスマートフォンの音だ。
反射でポケットを探るも空だった。音を辿って歩けばベッドの上、先ほどまで五条が横になっていたシーツの上にぽつねんと転がっていた。眠っている間にポケットから滑り落ちたのだろう。拾い上げ、画面を見る。
瞬間、舌を打った。
(あー、くそ。なんなんだよ、こんな時間に)
表示されていたのは、上層部からの着信を告げる画面だった。
「は〜い、五条です。今日も相変わらず早起きなことで」
そうヘラヘラと受けるが、向こうからは淡々と用件が告げられるだけだ。
——先ほど、東京の郊外の廃ビルで特級と思われる呪霊の発生を確認。呪霊は廃ビルを溜まり場としていた高校生たちを飲み込み、その救出のためにも一刻も早く現場に向かってほしいとのことだった。
「はいはいりょーかいです」
ぷつ、と電話を切る。そして、腕のカテーテルを引き抜いた。
(あの廃ビルの近くなら瞬間で行けるな。車を出してもらうのも面倒だし、このまま行っちゃお)
*
呪霊の体に半分ほど取り込まれていた高校生たちを救出。
事前に電話で聞いていた数と同じであることを確認し、全員を廃ビルの外へ移動させる。
(くっそ、体まだふらふらすんなぁ。呪いもそこそこ強いしさっさと祓っちゃおう。えーっと、パンピ巻き込まないように範囲を狭く絞って……)
そう考えながら指を組み、呟く。
「——領域展開。無量空処」
「あ、もしもし〜? 五条です。そそ、もう祓ったよ。呪霊に飲まれてた高校生もみんな無事、ちょっと溶けてるけどね。お迎えよろしく〜」
腐ったミカンにそう告げ、電話を切る。瞬間、どっと疲れが押し寄せてきた。
(やっぱ本調子じゃない日に領域展開すんのは控えたほうがいいな〜点滴のおかげでちょっと回復してたけど、たぶん血糖また逝った……)
体にうまく力が入らない。ふらふらとしゃがみ込みそうになるのを堪え、コンクリートの壁に背を預ける。
もともと働きすぎていた自覚はあった。その上ろくに眠っても食べてもおらず、そのせいでとうの昔に体が限界を迎えているのも分かっていた。
疲労のせいか、少しずつ抑うつと思しき症状も感じられるようになってきている。
五条は雲ひとつない夜空を仰ぐと、静かに息を吐いた。
「ねーすぐる、僕もう疲れたよ……」
ぽつり。思わず口から零れ出た言葉に、もう笑うしかなかった。
(あーあ。まだアイツのこと引きずってんだな、僕)
暗い廊下をふらふらと歩き、寮の自室に戻る。
(眼も頭も痛すぎてカチ割れそうだし、とりあえず少しでいいから眠りたい……)
抽斗を開け、ガサガサと薬を漁る。
(よーく眠れそうなやつがいいかな。ベゲでいいや。僕なら十シートくらい余裕でしょ)
もはや思考は正常ではなかった。
ぷちぷちと、シートから錠剤をひとつずつ押し出していく。そしてそれらを少しずつ口に含むと、こくりこくりと喉の奥へ流し込んでいった。……
——十年と少し前の、夏。
「ほら、悟。飲め」
「っ、んぅ、……ぐ、」
「吐かないともっと苦しいよ」
「いや、いやぁ……っ」
髪を掴まれ、顎を持ち上げられ。
唇の隙間にねじ込まれたペットボトルの口から、水がとくとくと流れ込んでくる。苦しくて、飲み込めなくて、口の端からごぶりごぶりと溢れた水が顎を伝い、そのままびしゃびしゃとフローリングへ零れ落ちていった。
「ッ、ぁ、ごめんなさい、ごめんなさい、」
五条の目にはびしょ濡れになったフローリングと、己の顎を持ち上げている夏油の手がでかでかと映し出されていた。なぜなら夏油がうつ伏せになった五条の背中に跨り、いっさいの身動きを取れなくしているからだ。
「苦しいと思うけど我慢してね」
「やだ、やだやだ、やだぁ……ッ」
ペットボトルの口が外されたと思ったら、今度は夏油の指が口内に入り込んでくる。
長くて太い、二本の指。
拒みたくて頭を振ろうとするが、もう片方の手でがっしりと髪を掴まれているせいでできない。それでも必死に身を捩って踠いていたら、ぶちぶちと音を立てて何本か髪が逝った。
「ッ、すぐる、いたい、すぐる、」
「指、噛んでもいいからね」
舌を柔らかく撫でながら二本の指がぬるぬると喉を進んでいく。やがて舌の奥まで届いた指の腹が、ぐっと舌の付け根を押し下げた。ぐぇ、とひしゃげた声が漏れ出る。
そして指の腹が何度も舌の付け根を這い、撫で、また押す。その動きに誘われ、腹の底からなんとも言い表せない苦しさが込み上げてくる。
両の目から溢れてきた涙が、気がつかないうちにぼろぼろと頬を伝っていた。
「は、はっ、……うぇ、ッ、えぇッ」
ばしゃり。口から零れ出た少量の吐物が床を汚す。
「いい子。早く悪いのぜんぶ出そうね」
「ッ、やだ、やだ、やだぁ……っ」
(嫌。苦しいのは、嫌——!)
それなのに、夏油に全てを支配されている感覚が心地よかった。
(だって……今だけは傑、俺のことだけ見ててくれる。離れていかない。ずっとそばにいてくれる)
そう思ったところで、あれ? と気づく。
(離れていかない、って思ってるのは俺じゃない……
そこで、ハッと目が覚める。
「っ、は……」
嗅ぎ慣れた消毒の匂い。見慣れた白い壁、クリーム色のカーテン。
(やっぱあれ、夢だったんだ……変な夢だったな)
途中から夢の内容と現実の思考とがごちゃ混ぜになっていたような気がする。
(それにあんな昔のこと、もう忘れてた……なのに今さら夢に見るなんて。どうにかしてるな、僕)
そう思い体を起こそうとして、腕になにやら重みが乗っているのに気づく。見れば腕の中心から透明なチューブが伸びていて、その先が点滴のパックに繋げられていた。
それを見ながら、ぼんやりとしていた頭が徐々に覚醒していくのを感じる。
(やばい、僕また倒れたんだ。でもあんま覚えてないな。記憶ちょっと飛んでるかも……てか待って、何時だ今。朝? 夜? 任務は、)
カーテンがぴったり閉じられているせいで外の様子が全くわからない。気を失っていたのが一時間や二時間ならいいが、もし何日も経っていたとしたら困る。その間に特級呪霊でも発生していたら、その分だけ被害が生まれ続けているということになるのだ。うかうかとベッドで横になっている場合ではない。
「……しょーこ、いる?」
絞り出した声は小さく、掠れていた。
「しょーこ、」
返事はない。体を起こし、カーテンを開ける。そこにはいつも通りの医務室が広がっていたが、家入の姿はどこにもなかった。
窓の外は真っ暗だった。点滴スタンドを引きながら歩き、デスクに置かれたデジタル時計を見る。
(二時か……たしか車に乗ったのは十時くらいだったよな。ってことは四時間も気ぃ失ってたってこと?)
さいあく、と頭を掻く。まだ終わっていない仕事が山ほどあるのに。
そう思ったところで、耳によく知ったメロディが飛び込んできた。
五条のスマートフォンの音だ。
反射でポケットを探るも空だった。音を辿って歩けばベッドの上、先ほどまで五条が横になっていたシーツの上にぽつねんと転がっていた。眠っている間にポケットから滑り落ちたのだろう。拾い上げ、画面を見る。
瞬間、舌を打った。
(あー、くそ。なんなんだよ、こんな時間に)
表示されていたのは、上層部からの着信を告げる画面だった。
「は〜い、五条です。今日も相変わらず早起きなことで」
そうヘラヘラと受けるが、向こうからは淡々と用件が告げられるだけだ。
——先ほど、東京の郊外の廃ビルで特級と思われる呪霊の発生を確認。呪霊は廃ビルを溜まり場としていた高校生たちを飲み込み、その救出のためにも一刻も早く現場に向かってほしいとのことだった。
「はいはいりょーかいです」
ぷつ、と電話を切る。そして、腕のカテーテルを引き抜いた。
(あの廃ビルの近くなら瞬間で行けるな。車を出してもらうのも面倒だし、このまま行っちゃお)
*
呪霊の体に半分ほど取り込まれていた高校生たちを救出。
事前に電話で聞いていた数と同じであることを確認し、全員を廃ビルの外へ移動させる。
(くっそ、体まだふらふらすんなぁ。呪いもそこそこ強いしさっさと祓っちゃおう。えーっと、パンピ巻き込まないように範囲を狭く絞って……)
そう考えながら指を組み、呟く。
「——領域展開。無量空処」
「あ、もしもし〜? 五条です。そそ、もう祓ったよ。呪霊に飲まれてた高校生もみんな無事、ちょっと溶けてるけどね。お迎えよろしく〜」
腐ったミカンにそう告げ、電話を切る。瞬間、どっと疲れが押し寄せてきた。
(やっぱ本調子じゃない日に領域展開すんのは控えたほうがいいな〜点滴のおかげでちょっと回復してたけど、たぶん血糖また逝った……)
体にうまく力が入らない。ふらふらとしゃがみ込みそうになるのを堪え、コンクリートの壁に背を預ける。
もともと働きすぎていた自覚はあった。その上ろくに眠っても食べてもおらず、そのせいでとうの昔に体が限界を迎えているのも分かっていた。
疲労のせいか、少しずつ抑うつと思しき症状も感じられるようになってきている。
五条は雲ひとつない夜空を仰ぐと、静かに息を吐いた。
「ねーすぐる、僕もう疲れたよ……」
ぽつり。思わず口から零れ出た言葉に、もう笑うしかなかった。
(あーあ。まだアイツのこと引きずってんだな、僕)
暗い廊下をふらふらと歩き、寮の自室に戻る。
(眼も頭も痛すぎてカチ割れそうだし、とりあえず少しでいいから眠りたい……)
抽斗を開け、ガサガサと薬を漁る。
(よーく眠れそうなやつがいいかな。ベゲでいいや。僕なら十シートくらい余裕でしょ)
もはや思考は正常ではなかった。
ぷちぷちと、シートから錠剤をひとつずつ押し出していく。そしてそれらを少しずつ口に含むと、こくりこくりと喉の奥へ流し込んでいった。……
