Euphoria
《伏黒side》
「五条先生、……五条先生!」
大声で呼びかけるも、反応はない。
その青ざめた肌に触れる。夜の海のように冷たかった。
——車で山道を下っている途中だった。隣に座っている五条の表情が苦しげに歪んでいるのが見えて、思わず声を掛けた。「大丈夫」と返す五条だったが、それから間もなく嘔吐し、気を失ってしまったのだった。
「とりあえず高専まで急ぎましょう。すぐに車を出します」
伊地知がアクセルを入れる。そしてスマートフォンを操作してホルダーに置くと、ハンドルの横のボタンを押した。
『……もしもし、家入です』
「もしもし、伊地知です。今よろしいですか」
『ああ、伊地知か。どうした』
スピーカーを通して家入の声が聞こえてくる。伊地知はそのまま車を走らせた。
「五条さんと伏黒くんを乗せて高専に向かっている途中なのですが、気分が悪くなったようで先ほど五条さんが戻されて……今、意識がありません」
『高専まではあとどれくらい?』
「三十分ほどです」
『わかった。じゃ、それまでにいくつか確認しておきたいことがあるんだけど。五条のそばに今いるのは伏黒?』
尋ねられ、すぐに「はい」と答える。
『五条、完全に気を失ってる感じ?』
「はい。ぐったりしていて動かないです」
『じゃあ肩を叩きながら声かけてみて。なるべく大きな声で』
そう言われ、肩を叩きながら大声で呼びかけてみる。すると五条はうう、と唸り声を上げ、一瞬だけ目を開けた。しかし、すぐにまた眠り込んでしまう。
「あ……少し反応しました」
「呼吸は正常?」
「はい。でも体温がかなり低いです」
分かった、と家入は呟いた。そして「五条って今、横になってるの? 座ってるの?」と続ける。
「座ってます。横にしたほうがいいですか?」
「いや、どちらでもいい。もし横にするようだったら、吐いて喉を詰まらせないようにだけ気をつけてやって」
「分かりました」
そう答えると、またなにかあったらいつでも電話してくれ、という声とともに電話が切れた。
「伏黒くん、ありがとうございます」
「いえ。大丈夫です」
五条は伏黒の肩に凭れ、静かに目を瞑っている。
(一昨日のことといい、今日のことといい……この人のことをいちばん蔑ろにしてるのはこの人だ)
そう考えると胸がぎゅっと痛んだような、そんな気がした。
*
高専の門の前に着くと、既に家入がいた。隣には七海もいる。
「家入さんすみません、こんな時間にお呼び立てしてしまって……ああ、七海さんまで」
伊地知が車から降り、そう言って頭を下げる。伏黒も車に乗ったまま窓を開け、小さく頭を下げた。
「伊地知くんお疲れ様です。伏黒くんも。……まったく、この人はいつまで経っても学びませんね」
七海のその呆れたような口ぶりから、彼がこういった状況にもかなり慣れているのだというのが伝わってくる。
「ちょっと開けるぞ」
そう言って家入がドアを開け、車の中に入ってくる。
「おーい、五条。……おい、私だ。分かるか」
肩を叩きながら大きく呼びかけるも、五条はうう、と微かに声を上げるだけだ。
「五条、私だ。ねえ、ODしたの?」
「うう、……っ、しょーこ?」
うっすらと瞼が上がって、宝石のような瞳が瞬く。
「そうそう、硝子。ねえ五条、ODしたの?」
家入がもう一度、ゆっくりと大きな声で尋ねる。すると五条が僅かに唇を動かした。
「して、ない……」
「分かった。これから針を刺すけど弾くなよ。それが分かったらもう寝ていい」
すうっと瞼が閉じる。どうやら眠ってしまったらしい。
それから家入はテキパキと手を動かしていった。
そして五条の指の先を掴むと、彼の体に遮られて手元はよく見えないが——針を刺したのだろう、血の気のない白い指先から、ぷくりと玉のように血が溢れた。
その赤が、伏黒の脳を鮮やかに刺す。
——そういえば、五条の血を今まで目にしたことがなかったかもしれない。
それは、五条が誰からも傷つけられることがないからだ。
それなのに今はどうだ。気を失い、全身をぐったりと伏黒に預け、されるがままになっている。
それが酷く恐ろしいことのように思えた。
(このまま目を覚まさなかったり、死んだりしないよな…………?)
「げ。やばいよこれ〜血糖。四十八だってさ。はぁ……なんでこうなるまで放っておくかなぁ」
そんな伏黒の動揺を掻き消すように、家入の声がゆるりと響く。
「あ、伊地知。ちょっと今から言う内容ぜんぶメモってくれる? えーっと、二十三時五分」
「はい」
伊地知はポケットからペンと手帳を取り出すと、すぐにページを破り、書きつけていった。
「BP108/68、R22、P118。SPO2が96、BSが48。JCS20。……一応あとで血液も採るけど、こりゃ低血糖と考えてまず間違いないだろうね」
ふう、と息を吐いて家入が伊地知のメモを受け取る。そこで、伊地知が思い出したようにそういえば、と呟いた。
「五条さんですが、先ほど呪霊を相手に茈を使ったようでした」
「げ、まじか。もともと体調が悪かったところにあんな大技を使えばこうなるよ。バカだなぁ、コイツも」
家入は呆れたような、どこか悲しげな目を五条に向ける。そして伏黒を見ると、「もう大丈夫だ」ときっぱりと言った。
「長い間ありがとう。コイツのこれは低血糖だから、注射を打てばすぐによくなる。あとは七海と私でどうにかするから、君は伊地知に寮まで送ってもらいな」
未だぐったりと気を失っている五条を置いて寮に戻るのも、と思うが、自分がいても邪魔になるだけだろう。後ろ髪を引かれるような心地だが、頷いて車を降りた。
七海が五条の体を抱き上げ、ストレッチャーに移す。
五条はそのまま門の奥へと運ばれていった。
「伏黒くん。本当にありがとうございました」
伊地知は寮の近くに車を停めると、後ろを振り返ってそう言った。
「いえ、俺は別に……なにもできませんでしたから」
テキパキと動いていた家入、指示されてすぐにメモを取った伊地知、五条を抱えて運んだ七海とは違い、伏黒はただ座って五条に肩を貸していることしかできなかった。
そんな伏黒の思いを無言のうちに感じ取ったのだろう、伊地知が少し笑い、言った。
「そんなことはありませんよ。伏黒くんがそばにいてくれたおかげで、五条さんも安心できたと思いますよ」
それは伊地知の優しさから出た言葉だろうと伏黒は受け取った。
「……ありがとうございます」
そう呟いて、伏黒は続ける。
「みなさんかなり慣れてる様子でしたけど、ああいうことってよくあるんですか」
「ああ……」
そうですね、と伊地知は黙り、しばし考え込んだ。
「私はよく知らないのですが、学生の頃からしばしばあったようですね。七海さんや家入さんならよくご存じだと思いますが」
「……そうですか」
「五条さんのこと、心配なんですね」
違います、と咄嗟に返そうとして、いやそれも違うなと思い直した。たしかに五条のことが心配といえば心配なのかもしれない。
日頃うざったく絡んでくる五条ではあるが、伏黒にとってはずっと昔から面倒を見てきてくれた——父とも兄とも呼べるような関係の、ただひとりの恩人なのだ。
「五条先生、……五条先生!」
大声で呼びかけるも、反応はない。
その青ざめた肌に触れる。夜の海のように冷たかった。
——車で山道を下っている途中だった。隣に座っている五条の表情が苦しげに歪んでいるのが見えて、思わず声を掛けた。「大丈夫」と返す五条だったが、それから間もなく嘔吐し、気を失ってしまったのだった。
「とりあえず高専まで急ぎましょう。すぐに車を出します」
伊地知がアクセルを入れる。そしてスマートフォンを操作してホルダーに置くと、ハンドルの横のボタンを押した。
『……もしもし、家入です』
「もしもし、伊地知です。今よろしいですか」
『ああ、伊地知か。どうした』
スピーカーを通して家入の声が聞こえてくる。伊地知はそのまま車を走らせた。
「五条さんと伏黒くんを乗せて高専に向かっている途中なのですが、気分が悪くなったようで先ほど五条さんが戻されて……今、意識がありません」
『高専まではあとどれくらい?』
「三十分ほどです」
『わかった。じゃ、それまでにいくつか確認しておきたいことがあるんだけど。五条のそばに今いるのは伏黒?』
尋ねられ、すぐに「はい」と答える。
『五条、完全に気を失ってる感じ?』
「はい。ぐったりしていて動かないです」
『じゃあ肩を叩きながら声かけてみて。なるべく大きな声で』
そう言われ、肩を叩きながら大声で呼びかけてみる。すると五条はうう、と唸り声を上げ、一瞬だけ目を開けた。しかし、すぐにまた眠り込んでしまう。
「あ……少し反応しました」
「呼吸は正常?」
「はい。でも体温がかなり低いです」
分かった、と家入は呟いた。そして「五条って今、横になってるの? 座ってるの?」と続ける。
「座ってます。横にしたほうがいいですか?」
「いや、どちらでもいい。もし横にするようだったら、吐いて喉を詰まらせないようにだけ気をつけてやって」
「分かりました」
そう答えると、またなにかあったらいつでも電話してくれ、という声とともに電話が切れた。
「伏黒くん、ありがとうございます」
「いえ。大丈夫です」
五条は伏黒の肩に凭れ、静かに目を瞑っている。
(一昨日のことといい、今日のことといい……この人のことをいちばん蔑ろにしてるのはこの人だ)
そう考えると胸がぎゅっと痛んだような、そんな気がした。
*
高専の門の前に着くと、既に家入がいた。隣には七海もいる。
「家入さんすみません、こんな時間にお呼び立てしてしまって……ああ、七海さんまで」
伊地知が車から降り、そう言って頭を下げる。伏黒も車に乗ったまま窓を開け、小さく頭を下げた。
「伊地知くんお疲れ様です。伏黒くんも。……まったく、この人はいつまで経っても学びませんね」
七海のその呆れたような口ぶりから、彼がこういった状況にもかなり慣れているのだというのが伝わってくる。
「ちょっと開けるぞ」
そう言って家入がドアを開け、車の中に入ってくる。
「おーい、五条。……おい、私だ。分かるか」
肩を叩きながら大きく呼びかけるも、五条はうう、と微かに声を上げるだけだ。
「五条、私だ。ねえ、ODしたの?」
「うう、……っ、しょーこ?」
うっすらと瞼が上がって、宝石のような瞳が瞬く。
「そうそう、硝子。ねえ五条、ODしたの?」
家入がもう一度、ゆっくりと大きな声で尋ねる。すると五条が僅かに唇を動かした。
「して、ない……」
「分かった。これから針を刺すけど弾くなよ。それが分かったらもう寝ていい」
すうっと瞼が閉じる。どうやら眠ってしまったらしい。
それから家入はテキパキと手を動かしていった。
そして五条の指の先を掴むと、彼の体に遮られて手元はよく見えないが——針を刺したのだろう、血の気のない白い指先から、ぷくりと玉のように血が溢れた。
その赤が、伏黒の脳を鮮やかに刺す。
——そういえば、五条の血を今まで目にしたことがなかったかもしれない。
それは、五条が誰からも傷つけられることがないからだ。
それなのに今はどうだ。気を失い、全身をぐったりと伏黒に預け、されるがままになっている。
それが酷く恐ろしいことのように思えた。
(このまま目を覚まさなかったり、死んだりしないよな…………?)
「げ。やばいよこれ〜血糖。四十八だってさ。はぁ……なんでこうなるまで放っておくかなぁ」
そんな伏黒の動揺を掻き消すように、家入の声がゆるりと響く。
「あ、伊地知。ちょっと今から言う内容ぜんぶメモってくれる? えーっと、二十三時五分」
「はい」
伊地知はポケットからペンと手帳を取り出すと、すぐにページを破り、書きつけていった。
「BP108/68、R22、P118。SPO2が96、BSが48。JCS20。……一応あとで血液も採るけど、こりゃ低血糖と考えてまず間違いないだろうね」
ふう、と息を吐いて家入が伊地知のメモを受け取る。そこで、伊地知が思い出したようにそういえば、と呟いた。
「五条さんですが、先ほど呪霊を相手に茈を使ったようでした」
「げ、まじか。もともと体調が悪かったところにあんな大技を使えばこうなるよ。バカだなぁ、コイツも」
家入は呆れたような、どこか悲しげな目を五条に向ける。そして伏黒を見ると、「もう大丈夫だ」ときっぱりと言った。
「長い間ありがとう。コイツのこれは低血糖だから、注射を打てばすぐによくなる。あとは七海と私でどうにかするから、君は伊地知に寮まで送ってもらいな」
未だぐったりと気を失っている五条を置いて寮に戻るのも、と思うが、自分がいても邪魔になるだけだろう。後ろ髪を引かれるような心地だが、頷いて車を降りた。
七海が五条の体を抱き上げ、ストレッチャーに移す。
五条はそのまま門の奥へと運ばれていった。
「伏黒くん。本当にありがとうございました」
伊地知は寮の近くに車を停めると、後ろを振り返ってそう言った。
「いえ、俺は別に……なにもできませんでしたから」
テキパキと動いていた家入、指示されてすぐにメモを取った伊地知、五条を抱えて運んだ七海とは違い、伏黒はただ座って五条に肩を貸していることしかできなかった。
そんな伏黒の思いを無言のうちに感じ取ったのだろう、伊地知が少し笑い、言った。
「そんなことはありませんよ。伏黒くんがそばにいてくれたおかげで、五条さんも安心できたと思いますよ」
それは伊地知の優しさから出た言葉だろうと伏黒は受け取った。
「……ありがとうございます」
そう呟いて、伏黒は続ける。
「みなさんかなり慣れてる様子でしたけど、ああいうことってよくあるんですか」
「ああ……」
そうですね、と伊地知は黙り、しばし考え込んだ。
「私はよく知らないのですが、学生の頃からしばしばあったようですね。七海さんや家入さんならよくご存じだと思いますが」
「……そうですか」
「五条さんのこと、心配なんですね」
違います、と咄嗟に返そうとして、いやそれも違うなと思い直した。たしかに五条のことが心配といえば心配なのかもしれない。
日頃うざったく絡んでくる五条ではあるが、伏黒にとってはずっと昔から面倒を見てきてくれた——父とも兄とも呼べるような関係の、ただひとりの恩人なのだ。
