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Euphoria

《五条side》

 目が覚めて、驚いた。
 死んだと思ったのだ、本気で。
 体を起こそうとすると、ぐらりと脳が揺れる。同時に吐き気を覚え、思わず手でぎゅっと口元を押さえた。
「……っ、……ぅ、え」
 昨日の夜に胃の中のもの——緑色の液体に加えて黒い塊まで吐いたため、もう吐くものはないが苦しさのあまり嘔吐いてしまう。幸い、戻すことはなかったが。
 じりじりと歪む視界を頼りに、枕元に転がっていたスマートフォンを取る。見ればメールが十分おきに入っていた。任務の時間が迫っているという連絡だ。今日は特級が一件、一級が二件と、五条が祓うまでもない低級の任務が四件ほど入っていた。
 肘で支えながら体を起こす。ベッドのスプリングが柔らかに鳴った。相変わらず気分は最悪だが目を開ける。
 床には昨夜、パーティーみたいに開けた薬の空き瓶が散乱していた。風邪薬、抗不安薬、睡眠薬、鎮咳薬、……それと、下戸のくせに呷ったチューハイの缶と。
 散らかった床から脱いだままの服を拾い、身につけ、ふらふらと覚束ない足取りで洗面所に向かう。顔を洗って鏡を見ると、青白い顔をした自分が立っていた。深く刻まれた隈に、荒れた肌。
「僕は五条悟。最強だから」
 鏡に向かって、そうニッと笑う。

(……僕は、大丈夫)


   *


 任務を終え、夜中。高専に戻るととっくに十二時を過ぎていた。頭が痛い。六眼を酷使したときに起こる群発のような頭痛だ。倒れるようにベッドに転がり、枕に顔を押しつける。
「っ、……ふ、ぅ」
 最近は眼も頭もよく痛む。いわゆる繁忙期というやつだ。夏油傑による百鬼夜行が終わった後も文字どおり蛆のように呪霊が湧き、寝食を怠っているせいで積もった疲労が拭えない。

 傑。

 弱気になると、ふっと考えてしまう。
 彼を殺したことに後悔はなかった。親友である自分がその役目を負えたことに満足もしている。
 ただ、ときどき分からなくなる。……否、なにも分からなくなりたくなる。
 冷蔵庫から酒を取り、抽斗から薬を出してシートから押して出し、缶を開けた。そして、色とりどりのそれらをテーブルの上に、まるで高級スイーツ店のマカロンのように並べた。
 ——こんな悪癖に縋りつくようになったのはいつからだっただろう。
 昔は叱ってくれる親友がいた。ときには怒鳴られ、喉に指を入れられ、無理やり吐かされたこともあった。それでもいつも最後には優しく抱きしめて、隣で眠ってくれた。
 薬を掴み、口に放り、酒で一気に呷る。
「……っ、ぅぐ、」
 喉を大量の塊が通っていく感覚。反射的に嘔吐きそうになるが、無理やり嚥下した。
(早く、ふわふわに、なれよ……)
 そう祈りながらベッドに体を沈める。

 それから先の記憶がない。


   *


「……起きたか?」
 よく知った声で目が覚めた。
「しょう、こ……?」
 瞼が重い。辛うじて上げると、歪む視界の奥に硝子がいた。全身が痛い。ベッドで寝ていたはずなのに、なぜか床に横たわっていた。
「……あれ、僕」
「いくらなんでもあれは飲みすぎだ、バカ。吐き気は?」
「……ない」
 そう答えるも、喉が嘔吐しすぎたときのように痛い。知らない間に吐いたのだろうか。
「水、飲めるか」
「うん。ありがとう」
 硝子がストローを挿したペットボトルを渡してくれる。
「僕、吐いたの?」
「かなりな」
「そっか。……迷惑かけたね、ごめん」
 薬を飲んでからの記憶がないが、代わりに視界がぐじゅぐじゅと揺れている。ペットボトルを置き、目を閉じた。
「酒も薬も止めないが、ほどほどにしろと言ったのを忘れたのか?」
 硝子は呆れているようだった。
「飲むなとは言わない。ただ、せめて色んな薬を一度に飲むのはやめろ。半減期がまちまちで面倒くさい」
 それに、と続ける。
「市販薬とベンゾジアゼピンはまだしも、バルビツール……それに今は生産されていないものまで。まったく、どこで手に入れたんだ。こんなの」
 五条は答えなかった。代わりに「硝子は、どうして来たの」。そう呟いた。
「なんとなくだ。嫌な予感がした」
 硝子は冷静だった。
 しかし、
「…………」
 ——ふ、と違和感。
 この部屋の、なにかがおかしい。
「……ね、硝子」
「なんだ」
「なんか、硝子のじゃない……呪力、だ。……え、もしかして、恵の?」
 それは、よく知った感覚だった。この部屋に、微かに残っている恵の呪力。まさかだ、まさかだけれど。
「……もしかして、恵いたの」
 まさか、見られた? こんな姿を。あの子に? そうゾッとするも、いや、と硝子は言った。
「私しかいないぞ。薬のやりすぎでとうとう頭がイカれたか」
「なに、とうとうって……」
「そのままの意味だ」
 硝子ひど〜い、なんていつものように言う気力はなかった。
 ——でも、やっぱりおかしい。けれどそれ以上は聞かなかった。
 ぼんやりとはしているものの、やっと視界が機能してきた。時計を見る。どうやら四時を回っているようだった。
「ほんと、こんな時間までごめん。僕、もう大丈夫だから」
「本当は、しばらく……最低でも三日は休めと言いたいところだがな。どうせ止めてもムダだろうから」
 ふう、と硝子が煙を吐く。
「そろそろ私は行くよ。ただ、夜また医務室に寄れ。来なかったらもう二度と面倒は見てやらない」
「はは、厳しい。……ちゃんと行くよ。ごめんね」
「いいけど。今度なんか奢れよ、回らない寿司な」
 じゃあ、また。そう言って硝子が部屋を出ていくと、五条はすぐにスマートフォンを探した。ベッドに転がっていたそれを取り、電源を入れる。光が目に痛いが、なんとか細めながら見る。
 祈るような気持ちで電話のアイコンをタップした。
 杞憂であれ、杞憂であれと。
 ……しかし。
 発信の、履歴。
 その、いちばん上に。

 1:24 恵

 ——まったく身に覚えないのないその履歴が、煌々と光っていた。


   *


 最悪だ、と思った。
 やらかした。
 よりもよって生徒に、恵に。
 電話して、自分はなんと言ったのだろう。最悪だ。本当に最悪だ。まともに話せていただろうか。そもそも話したのだろうか。なにも分からない。すっぽりと記憶が抜けていることに、改めて恐怖する。
 頭を抱えた。
 しかも、今日は昼から恵の任務の引率だ。恵は聡いから、なにかあったのだとしてもきっと言わない。気を遣わせてしまう。それが今の五条にはたまらなく恐ろしかった。
 罪悪感が吐き気に変わる。
(最悪だ……)
 いったい自分はなにをやっているんだろう。酷く虚しかった。


   *


「あ、恵。おはよう〜! 今日は僕が引率だね。いいとこ見せられるように、せいぜい頑張ってよ」

 五条にできるのは、手を振りながらそうヘラヘラと言うことだけだった。校門から出てきた恵が、いつも通り無愛想に五条の横を通る。
「あれ、無視? 恵ちゃん、もしかして反抗期かな〜?」
 ママ寂しい〜、と顔の前で手を組んでみるが、恵は補助監督の待つ黒い車を一瞥して言った。
「待たせるのも悪いですし、さっさと行きましょう」
「んも〜恵ちゃん! つ、め、た、い〜!」

 今日の任務は県外の山奥、廃校に出た呪霊を祓うというものだった。二級の呪いで本来なら恵ひとりでこなせる任務だが、呪いの数が異常に多いということで念のため五条が引率することになったのだ。
(あー、きもちわる)
 薬に加えて飲めもしない酒まで飲んだせいだろう、宿酔のような気分の悪さが残っている。吐くほどではないが、胃のあたりが妙にむかついている。昨日よりはマシにはなったもののまだ頭痛もする。ただ、それを悟られるのだけは避けたい。車内ではいつも通りを装うようにした。
「ごめんね〜脚が長いと大変なんだよね〜」
 後部座席に乗り、隣に座っている恵の脚に膝を当てながらそう言ってみたり、
「恵ちゃんはまだ成長期だからね。ちっちゃくても仕方ないよ。ほらっ、泣かない泣かない」
 などどからかってみたり。しかし、段々とふざけているのも辛くなって、車が高速に乗ったあたりから「ちょっと寝る」と呟いて窓に頭を預けることにした。
 ——ずっと揺れているからだろうか、気分の悪さが増してきた。舌の奥から粘り気のある唾液が湧いてきて、これはいよいよまずいなと思った。こんなところで吐くわけにはいかないと唾を飲む。恵がこちらを気にしているようだったが、五条はあくまで寝たふりを続けた。


  *


 目的地である廃校の前に着くと、五条は真っ先に車から降りた。一刻も早く外の空気を吸って気を紛らわせたかったのだ。吐き気がぐるぐると胃を回っている。もう立っているのもやっとだったが、平静を装って門の前の瓦礫に腰かける。
「じゃあ、僕ここで待ってるからね。終わったら戻っておいで」
「……はい」
「帳はいらないね。山奥だし。いってらっしゃい」
 手を振って恵を送る。その姿が小さくなり、やがて消える。しばらくして恵の呪力が大きくなるのを感じた。どうやらうまくやれているようだ。
 教え子の成長に、心が弾む。恵はいつもツンツンしているけれど、常にその裏で熱心に向上しようとしている。
 これから恵はもっと強くなる。推測ではない。確信だ。
(いつかもし、僕がいなくなっても……)
 五条は目を瞑った。
 また遠くで恵の呪力が爆ぜる。この調子なら思っていたより早く終わりそうだ。補助監督も連れて帰りは久々に一緒にどこかで食事を取ろうか。そんなことを考えていたときだった。
「……っ」
 また唾液が湧いた。ぐるり、ぐるり。目が回る。六眼の不調ではない。吐き気だ。
(あー、だめだ。……これ、吐く)
 ひとりになって少し安心したせいか、一気に回ってきた。慌てて立つと体ががくんと揺れて倒れそうになったがなんとか堪え、森に入る。とにかく誰かに見つかるわけにはいかない。
 木々を分け、少し進んだところでもう限界だった。
「……ォ、ぐ、……ゥエ、エ、ッ、エ゛ェ……ッ!」
 我ながら酷い音だと思う。口から吐物が噴くように出、ビチャビチャッと水音を立てて勢いよく地面に叩きつけられた。まともに食事を取っていないため、出てくるのは朝に飲んだ少量の水分だけだ。
「ゥ、グ、ゲォ、ッ……ぅエッ! けほけほっ、けほっ、けほっ」
 一度では終わらず、またすぐに吐く。たまらずしゃがみこんでしまった。水分はすべて吐いてしまったのか、出てくるのは胃液だけになった。アイマスクを乱雑に外す。もうその僅かな締めつけですら辛かった。
(恵いつ終わるかな。頼む、それまでに治まってくれ……)
 経験上、何度か吐けば良くなることは知っていた。きっとあと二回くらいで胃が空になり、しばらくは楽になる。

「五条先生」

 ——だから、それは天使が最後に吹くラッパよりも残酷だった。

「……めぐ、み」
 声が震えてしまう。
 ゆっくりと声のしたほうを向けば、恵が立っていた。
「……っ、は、こんなとこまで、捜しに、こなくても。待っててくれて、よかったのに」
 そう言いながら、また嘔吐する。
(ああ、こんなカッコ悪いとこ見せたかったわけじゃないんだけどな)
 恵の手がそっと体に触れようとする。無下限を切ると、恵は下から上へゆっくりと強く背中を撫でた。
「具合が悪いなら素直にそう言ってください。急にいなくなったら誰だって心配しますよ」
「しん、ぱい、か……優しいね、恵は。僕、最強だから。大丈夫だよ」
 大丈夫だよ、そう伝えたくて笑うも恵は顔を顰めた。
「体調、いつから悪かったんですか」
 そう聞かれ、「んー……さっき、」と咄嗟に嘘をついてしまう。
「最近ちょっと寝不足で、山道だったから酔っちゃったみたい。でも、ほんと大丈夫だから」
 こんなところ見せてごめんね、あ、気持ち悪くなってない? 大丈夫? なるべく明るく、なんでもないといったように五条は言った。
 しかし。
(あー……怒ってるな、これは)
 顔には出ていないが、恵の呪力がかなり揺れている。感情のコントロールのうまい恵がこんなに怒りを顕にするなんて珍しい。
「……恵、」
 確信した。
「やっぱり昨日、いたの」
「……!」
「おかしいと思ったんだ。昨日、硝子は部屋に誰も来てないって言ってたけど、朝、恵の呪力が少しだけ残ってた……」
 動揺する恵の様子を見て、ああ、やはり朝に抱いた違和感は当たっていたのだ、と思った。途端に全身の力が抜けてしまう。
「まさかと思ってスマホ見たら、かけた覚えないのに、履歴が残ってて……ああ、僕やっぱりやっちゃったんだね。ごめん、ほんと。迷惑かけるつもりじゃ、なかったんだけど」
 情けないね。五条が小さく零すと恵は「……いえ。気にしないでください」と目を伏せながら言った。
「……吐き気、治まってきたら車に戻りましょう。水、持ってきてるんで」
 本当に、よくできた子だと思う。人の内側に一歩も土足で入らず、かといって見放しているわけでもない。気苦労の多い子だ。
「……悪いね」
 そう呟いて立つ。先ほどよりも気分はマシになっていた。
「だいぶ良くなった」
「歩けそうですか」
「うん。……あ、でも。肩、ちょっと貸してくれたらうれしいかもー、なんて」
「……いいですよ」
 冗談めかして言ったつもりがそう返され、思わずいつものノリで返す。
「え、嘘。いいの? 恵ちゃん、もしかしてデレ期〜?」
「……はぁ。もう知りません」
 恵は拗ねたように五条の前をスタスタと歩いていってしまうが、途中でふっと止まり、背を向けたまま「……五条先生」と呟いた。そして、こちらを窺うように少しだけ顔を向ける。
「……俺、強くなりますから。アンタに置いていかれないように」

(——ああ。僕って、けっこう愛されてるんだな)

 自惚れではない。不器用ながらも確かに伝わってくる、恵のまっすぐな気持ち。なんだか涙が出そうだった。

「うん。強くなってよ、恵」

 そう言って五条は少し照れくさそうに笑った。……




 ——この三日後、薬を過剰に摂取して瀕死の重体で救急搬送されることを、このときの五条はまだ知らない。
 
 
 
 
 
 
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