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Euphoria

(あー、やんなっちゃうねぇ)
 かつての彼女のように自分も煙草を吸うことができたなら、この憂鬱な気分も少しはマシになったのだろうか。声にならない痛みの代わりに煙を吐き出すことができたなら、この行き場のない憤りも悔しさも、少しくらいどこかへ消えてくれたのだろうか。
 ——まだ若い呪術師の死体が、冷たい鋼の台の上に横たえられている。
 彼には右腕と下半身がなかった。
「二級の呪いがいきなり特級に変化、か……。しかし呪胎だったというわけでもないんだろう?」
「そう……、こればっかりは僕にもわからない」
 五条は、死体——もとい二級術師だった青年に目を向けた。彼はかつての後輩であった灰原を思い起こさせるような、明るい性格の青年だった。五条を先生と呼び、慕ってくれた数少ない教え子のひとりだった。
 そんな彼の死体を抱え、高専まで連れ帰ってきたのは五条だった。
 ——彼から応援を要請する連絡があったのは、今日の昼過ぎのことだった。二級の呪霊が特級に変化したかもしれないという剣呑な内容であったことから、現場には五条が向かうこととなった。そのとき五条はちょうど山梨で別件の特級呪霊を祓い終えたところで、補助監督の車でそのまま現場である福島まで向かったのだった。
 着いたのはその日の夕方だった。
 彼の姿はどこにもなく、代わりに特級呪霊の生得領域が広がっていた。五条は難なくそれを祓い終え、急いで彼の姿を捜した。
 ——死体となった彼を見つけたのは、現場からほど近い山林の中だった。今まで多くの死を目の当たりにしてきた五条でさえ、そのあまりに変わり果てた姿に衝撃を受けざるを得なかった。
「窓の目は確かだったし、事前に行われていた調査にミスはなかった。それなのにいきなり特級に変化したんだ……。本当に、こればっかりは僕にもわからないよ」
「……そうか」
 五条は彼の体に、そっと白い布を掛けた。
 そして丸椅子に腰かけて天井を仰ぎ、ゆっくりと瞼を閉じた。
(あー、くそ。けっこう堪えるなぁ)
 五条が最も望まないのは、こうやってひとり、またひとりと若者が死んでいくことだった。
「…………ッ」
 頭が割れるように痛い。
 彼を抱えて高専に戻ったころにはすっかり夜になっていて、そこからバタバタと動き回り、やっと家入に会えたのが三時。昔からの知り合いである家入に会えると安心したのか、張りつめていたものが解け、それまで気がつかなかった疲れがどっと押し寄せてきた。
 ただでさえ忙しく、寝食を疎かにしていたのだ——もう一歩も動けない、そう本気で感じるほどずっしりと体が重い。
「……五条、辛い?」
 家入は静かに歩み寄り、そう尋ねた。
「うーん、ま、けっこう堪えたけどね。でも、僕は大丈夫だよ」
 そう言って五条は笑った。
 しかし、どうしてだろう——うまくいかない。そのうち貼りつけていた笑みがくしゃりと歪み、崩れた。五条はもう笑えなかった。かといって、涙が出てくる訳でもない。
 笑っているような、泣いているような。そんな表情で止まったまま、動けない。
「あれ。どうしちゃったんだろ、僕」
 呆然とそう呟く五条を、家入はどこか悲しげな顔つきで見つめていた。
「……五条。別に無理に笑わなていい」
「無理なんか、」
 五条は言いかけて、しかしそれ以上はなにも口にしなかった。いや、できなかった。なぜだろう——酷く疲れていたのだ。
 五条は黙ったまま立ち上がった。そしてそのままふらふらと、どこか頼りない足取りで寮へと歩き出した。


 自室のドアを開け、ドサリとベッドに倒れ込む。風呂に入ったり服を脱いだりする余裕はなかった。
(もう四時か……)
 朝になったらまた任務に出なければならない。特級が二件、一級が四件——それぞれ県を跨いで、北は宮城、南は兵庫まで、たしかずっと車での移動だったはずだ。
 車を運転する補助監督は途中で何度か交代するが、五条には代わりがいない。呪いを祓うのはいいが、車にずっと乗っていなければならないのが辛かった。
 いつもは平気だが、疲れが溜まっていると乗り物に酔いやすくなるのだ。
「……はぁ」
 今ここで少しでも眠ったほうが酔いにくくなるのだろうが、とても眠れそうにない。
(硝子に薬もらえばよかったかな……)
 とにかく頭が痛い。
 両のこめかみの血管が抉れるように収縮し、ツキツキと脈を打つような痛みが目の奥まで届く。
(あー、眠剤まだあったっけな……)
 一昨日に大量に飲んだ覚えがあるが、まだ残っていただろうか。痛む頭を押さえながら立ち上がり、抽斗を開ける。
 ——よかった、まだあった。
 抽斗の中には二十枚ほどの薬のシートが束になって入っていた。実家のお抱えの医者に処方させているもので、五条が頼めばふつうは手に入らないような薬まですぐに送ってくれる。
 デパスやサイレース、ハルシオンあたりは今でもそう苦労せず入手できるだろうが、エリミンやベゲタミン、ラボナあたりは今となってはもうなかなか入手できない代物だろう。
(また倒れたら硝子にキレられそうだよな〜。ほどほどにしておこう)
 赤いシートを破り、錠剤を手のひらの上に落としていく。十錠と、五条にしてはかなり少なめの量だ。それらを一気に口に含むと、そのままごくりと飲み込んだ。
 

   *


 気がつくと朝だった。
 薬のおかげかよく眠れたような気がするが、その代わり頭がぼーっとしている。まだ薬が抜け切っていないのだろう。
 顔を洗おうと立ち上がる。それと同時に、くらりと目が回った。視界の端から、黒い影がさーっと飛び込んでくる。
(あーあー、まずいやつだこれ)
 転倒しないよう床にゆっくりしゃがみ、ベッド柵に凭れて体を預ける。
 黒い影が徐々に視界を覆い尽くしていった。なにも見えないのに、頭だけがぐわぐわと揺れている。見えないことには慣れているから平気だが、目眩がするのは辛い。
(あー、さいあく。吐かないとは思うけど念のためトイレ行くか)
 なにも見えなくても呪力でなんとなく物の位置がわかるのが幸いだ。壁やテーブルの脚にぶつからずにトイレまで行くことができる。
「っ、は……ぅえッ」
 便座を押し上げ、嘔吐くがなにも出てこない。
 この不調が栄養不足のせいなのか寝不足のせいなのか、薬のせいなのかも分からない。
「はぁ、ッ……ふ、ぅ」
 吐かないとわかると五条は壁に手をつき、ふらふらと立ち上がった。


   *


「五条さん、お疲れ様です」
「あ、伊地知! お疲れサマンサ〜」
 五件の任務をこなし、あとは東京での一件を残すのみとなった。
 東京といっても現場は郊外の山奥だ。伊地知の運転には慣れているが、果たしてこの体調で山道の走行に耐えられるだろうか。
(ま、気の持ちようだよね。僕なら大丈夫)
 そう自分に言い聞かせてドアを開け、後部座席に乗り込む。車はすぐに高速に入った。
 日はもう暮れ始めていた。
 街の底に沈んでいく夕陽の放つ黄金の輝きが空を刺し、零れた光が柔らかに五条の頬に降った。
 なにげなく視線を上げると、フロントミラー越しに伊地知と目が合った。……とは言っても五条はアイマスクをしているから、目が合ったと感じているのは五条だけなのだが。
「なに見てんの、伊地知」
「あ、いえ。その」
 伊地知は一瞬、気まずそうに目を逸らした。しかし、しばし迷ったのち、はっきりとこう言った。
「五条さん、せめて移動の間くらいはお休みになってください。任務が続いてお疲れでしょう」
「……はは。オマエもね」
 伊地知は聡い。五条が隠しているつもりの不調も、こうやって見抜いてしまう。
 それは伊地知が常に周りに気を配っているからであって、彼の目元に暗く隈が刻まれているのがフロントミラー越しにでも分かった。


「っ、……ん、ぅ」
 がたん、がたん、と車体が揺れる。
 高速を抜け、山道に入ったのだ。
 車体が上下に揺れるたび、胃の中身まで上下に揺れるような気がした。その動きに誘われて胃がぐるぐると回り、喉元に吐き気が込み上げてくる。
(あーやば。完全に酔ったなこれ)
 あと十分ほどで到着するはずだ。十分なら耐えられる……。吐こうと思えばいつでも吐けるが、車の中で吐くのだけは避けたい。それも後輩である伊地知の前で。
 五条は喉にぐっと力を入れ、少しでも気を紛らわせようとフロントガラスの奥に広がるうす暗い空をただ眺めていた。


   *


(あーあ。けっこう派手にやっちゃったなぁ)
 五条は小さく息を吐き、山林をまっすぐに突き抜ける巨大な溝を見つめていた。五条の放った茈が木々を吹き飛ばし、深く地を抉ったのだった。
(特級だったけど明らかに茈を使うまでもなかったよなぁ〜また上のジジイどもに叱られそう。あー、どうやって報告しようかな)
 相手は特級呪霊で、確かに能力は少し厄介だったが、いつもの五条ならば茈のような大技を使わずゆっくり祓ったと思う。しかし今回ばかりはいつものような戦い方ができなかった。
 もうなんでもいいやと投げやりになるほど気分が悪かったのだ。
(人もいない山奥だしさ〜これくらい許してよね)
 酷く体が重かった。茈を使ったせいだ。コンディションの整っているときに使う分には問題ないが、今回のように気分が悪いときに使うとなると話は別だった。
 脳に負荷がかかり、体もぐったりと疲れてしまう。
 だが五条に休むという考えはなかった。
(高専に帰ったらさっさと報告書を書いて、それから……ああ、明日の授業で使う資料を作らないと)
 頭の中で予定を組み立てながら、車まで戻ろうと山を下る。
「はぁ〜……きっつ」
 一歩、また一歩と足を踏み出すたび、脳がくらくらと揺れる。それに釣られるようにして吐き気が込み上げてきた。……そういえば朝からなにも口にしていないし、もしかしたら低血糖かも。
 そう思いポケットの中をさぐるが、空だった。昔からこういうときのためになにかしら甘味を入れるようにしていたのに、最近はそんな余裕もなかった。
「さいあく……」
 まあ仕方ない。高専に戻るまでの辛抱だ。


「すみません、五条さん」
 車に戻り、後部座席に乗り込むと伊地知がそう申し訳なさそうに話しかけてきた。
「ん〜?」
「このまま高専に直帰の予定だったのですが、三十分ほど遠回りしてもよろしいでしょうか。先ほどちょうど伏黒くんの任務が終わったと連絡がありまして……」
「あ、恵のこと拾ってくの? もちろんいいに決まってるじゃん〜」
(三十分か。ま、ギリギリ耐えられるよな)
 胃がむかついているような感じはあるが、眠っているふりでもなんでもしてどうにかやり過ごそう。


   *


「お疲れ様です」
「あ、恵〜! お疲れお疲れ」
 いつもの調子で車の中からヒラヒラと手を振ると、伏黒はげっ、といった顔つきで五条を見た。
「……アンタもいっしょなんですか」
「あれ、伊地知から聞いてなかった〜?」
 五条が隣のシートをポンポンと叩くと、伏黒は渋々といった感じで乗り込んできた。そして、運転席の伊地知に向かって軽く頭を下げる。
「伊地知さん、よろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いします」
 それを聞いて五条はすかさず「え〜」と不満げに声を上げる。
「ねえねえ恵ちゃん、ママのことは無視〜? やっぱりまだ反抗期なの〜?」
「はいはい五条先生よろしくお願いします」


 車がぐるぐると山道を回りながら下っていく。
 タイヤが小石を踏みつけ、ときどき車体がかくんと上下に揺れた。
 行きもこの揺れに酔いかなり辛い目に遭ったが、今はもっと辛い。茈の使用で脳に負ったダメージがまだ少しも癒えていなかった。睡眠に加え、糖分も全く取れていないのだから当たり前といえば当たり前なのだが。
 とても眠っているふりをしてやり過ごせるような状況ではなかった。
「……ッ、ん、……ぅ」
 こくん、と溜まった唾液を飲み込む。それでも次から次へと溢れてきて、また飲み込む。
「ッ、」
 酸が喉に上がってきた。……あー、これいよいよまずいんじゃないの。窓の外でも眺めて吐き気を紛らわせようと目線を遠くへ移すが、気休めにすらならない。
 ゴボッ、と大きく喉が鳴った。
(やばい待って、マジで吐く——)
「……五条先生?」
 はじめに五条の異変に気づいたのは、隣に座っていた伏黒だった。
「え、もしかして吐きそうなんですか」
 それを聞いて伊地知が「えっ」と小さく振り向く。
「すぐ停めます! 五条さん大丈夫ですか」
「や、だいじょーぶ、……ッ」
「どう見ても大丈夫じゃないでしょアンタ」
 ゆるやかに車が停まった。
 ぴたりと揺れが収まるも、気分は全くよくならない。
「っ、……はっ、はっ、はぁっ、」
 手足が痺れてうまく力が入らない。痺れが全身に広がって、次第に座位を保つことすら辛くなっていく。ふらりと傾いた体を伏黒が引っ張り、肩に寄り掛からせてくれた。
 視界が白く霞み、徐々になにも見えなくなっていく。辛うじて分かるのは恵の呪力と体温が隣にあること、運転席から降りた伊地知が後部座席のドアを開けたことくらいだった。
「五条さん、袋です!」
 朦朧とする意識の中、伊地知が差し出した袋を受け取る。でも手が震えているせいでうまく持てない。震えに合わせてビニール袋がガサガサと音を立てる。
「俺が持ちます。貸して」
 口に袋をあてがわれ、いやいやと緩く首を振った。
 冷や汗がどろりと頬を伝い、落ちる。
「は、きたくな、」
 人前で、こんなところで。しかも相手は生徒とかつての後輩だ。
(でも……もーだめ、)
「ぉえ、ッ、ん、……っ、ぇッ、ぇえッ」
 ゴボゴボッと喉が鳴り、胃の底から勢いよく酸が逆流してきた。
 広げられた袋に顔を突っ込んで、げえげえと思い切り吐く。
「っ、はぁ、……っ、は、は、」
 伏黒と伊地知が必死になってなにか叫んでいるような気もするが、キーンと鳴り響く耳鳴りに阻まれてもうなにも聞こえない。
(あ、やばいこれ、)
 落ちる——そう感じるのと同時に、さあっと意識が遠のいていった。


   *


(あーきもちわる、眠い、……いま寝てる、のになんで揺れてる?)
 ごうん、ごうん、と体が揺れている。
 車とはまた違った揺れだ。もっと直に、体ごと揺れているような——そう感じたところでぼんやりと目が覚めた。よく知った声が頭上から降ってくる。
「あ、起きた?」
 家入だった。そこでやっと五条は自分がストレッチャーのようなものに乗せられ、高専の廊下を走っていることに気づいた。よく見れば七海もいて、ふっと目が合う。
「しょ、こ……ななみも、」
「アナタ “また” ですか。懲りないですね、本当」
 呆れたような言い草だが、その裏に心配の色が滲んでいるのがまだ意識のはっきりしていない五条にも分かる。
 七海の言うように、こうして倒れるのもこれで何度目だろう。学生時代の出来事も含めれば、両手では数え切れない気がする。
「……っ、ぅう」
 酷く気分が悪かった。体ごと揺れているせいだろうか。目の前がチカチカと白く点滅している。
「血糖が五十ちょい切ってるけど、すぐグル打ってやるから、……だ。……よ、…………」
(あれ。硝子の声、なんか遠く——)
 そこでまた、ぷつりと意識が途絶える。
 
 
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