Euphoria
《伏黒side》
眠っている頭の中に、よく知った音……着信を告げるメロディが鳴っているのに気づくと、伏黒は瞼を半分だけ開けて画面に浮かんでいる文字を見た。
(五条先生? 珍しいな、こんな時間に)
表示されていたのは最強と謳われる呪術師にして伏黒の担任の教師であり、また、兄とも父とも呼べるような関係のその人だった。伏黒は電話を取り、体を起こした。まだ眠気で頭がぼんやりとしている。
「伏黒です。どうしたんですか」
ふわあ、と出そうになる欠伸を堪えて聞けば、しばしの間のあとに『……あれ、めぐみ?』と、力ない返事が返ってきた。なにかがおかしい。しかし、なにがおかしいのか分からない。とりあえず次の言葉が紡がれるまで待っていようと黙っていたのだが、電話の向こうからはズズ、だとかコン、だとか、小さな物音が聞こえてくるだけだ。
「あの、五条先生」
『……ん』
「なにか、あったんですか」
『いや、べつに……なんかまちがえたみたい、ごめん。うわ、よく見たら一時じゃん。……ほんとごめん』
ツー、ツー、ツー。
(……なんなんだ?)
日頃うざったく絡んでくる五条ではあるが、用もないのに深夜に電話を掛けてきたことなどない。それに、あんなふうに「ごめん」だなんて。五条とともに過ごしてきた長い年月の間にだって、一度も聞いたことがなかった。
いつもヘラヘラしていて、うっとうしくて。最強と呼ばれ、自負する彼の——あんな、寂しそうな声。
いつの間にか眠気は消えていた。
伏黒はベッドを下りると携帯を掴み、すぐに部屋を出た。
*
コンコンコン、とノックをするも返事はなく、中からは物音ひとつ聞こえてこない。眠っているのだろうか。
伏黒は五条の部屋の前に佇み、考えていた。
返事がないのならすぐに去るべきだろう。だが、先ほどのあの様子。もしもなにかあったのだとしたら……、そう思うと相手が最強の彼とはいえ少し心配になる。このまま戻るかもう少し待ってみるか、どうしようか。
そう、逡巡していたときだった。
……部屋の中から、微かに聞こえた。
ぉえ、という苦しげな声のあとに、質量のあるものが床に叩きつけられるような、ビチャビチャという水音。
まさか。
(……吐いてる?)
「五条先生、五条先生。大丈夫ですか」
再びノックしながら声を掛けるも、聞こえてくるのは嘔吐く声ばかり。戸惑いながらもドアノブを回すとカチャリと音がして、いとも簡単に開いてしまった。いくらなんでも不用心すぎないだろうか。しかし、鍵が開いていたのはラッキーだった。
「……入りますよ」
ドアを開け、そっと部屋に入る。中は真っ暗だった。ほとんどなにも見えないが、やはりというかなんというか、饐えた臭いが充満している。明かりをつけようか悩んだが勝手につけるのも憚られ、目を凝らしてゆっくり進んでいく。
「……先生?」
部屋の奥で、白い塊がゆらゆらと揺れている。それは他ならぬ五条の髪で、ソファに座っている彼のすぐ下の床には——うす暗くてよく見えないが——吐物らしき液体が、勢いよく散っている。
「っ、ぅ……げぇ、っ、ぶ、ぉえ……ッ」
「五条先生!」
ぶるりと体が震え、またビチャビチャと液体が滴る音がする。
「大丈夫ですか」
慌てて駆け、腰をかがめて五条の背中に手を伸ばす。その手が無下限に阻まれることはなかった。そのまま下から上へ、ゆっくりと背中を撫でる。
「ぅ、ぇ……ッ」
背中が大きく波打ち、またバシャバシャと嘔吐する。
——五条の目は、どこか虚ろだ。焦点が合っていない、というのだろうか。ぼーっと宙を見つめていて、目の前の伏黒を認識しているかどうかすら怪しい。
(熱でもあるのかと思ったけど体は熱くない。むしろ冷たすぎるくらいだ。となると呪いか? いや、五条先生に限ってそんな……それなら毒? ああ、くそ。分かんねぇ)
「……マジで大丈夫ですか」
はじめて見る五条の姿に、一ミリも動揺していないと言えば嘘になる。
ポケットから携帯を出し「家入さん」と書かれた項目をタップしようとするが、今は深夜だ。迷惑だろうか。どうしようか少し悩んだが、やはり押す。その手を五条が弱々しく掴んだ。
「ま、って……いわ、ないで……」
「……五条先生」
自分の弱っている姿を人に見せたくないという五条の性格、最強であることへの自負は、長い年月を五条とともに過ごしてきた伏黒にはよく分かる。しかし、伏黒ひとりではこの状況をどうすることもできないのだ。申し訳ないと思う暇もなく電話は四コールで繋がった。
「もしもし、伏黒です。遅くにすみません」
『どうした。珍しいな』
寝起き、というわけではないのだろう。家入の声は明瞭だった。
「実は……その、五条先生の部屋にいるんですけど。先生、かなり吐いてて。具合が悪いみたいなんです。すみませんが、来てもらうことってできますか」
『五条が? わかった、すぐ行く』
珍しく慌てた様子で家入が電話を切ると、あたりは静寂に包まれた。五条はもう吐くものがないのか、怠そうにソファに身を投げて目を伏せたまま動かない。
家入は五分ほどで来た。コンコンコン、とノックが響き、ドアが開く。
「暗いな。電気つけるぞ」
「あ、はい」
パチンと電気がつき、一瞬だけ目が眩んだが、すぐ慣れる。目の前には吐物まみれの五条と床と——こんな時間だというのに仕事をしていたのだろう、白衣を着た家入の姿があった。その手には救急セットらしき箱が提げられている。すぐに家入は「おい、五条。……五条」と彼の頬を叩きながら呼びかけるが、反応はない。
「おい五条、五条。……ああ、だめだな。トんでる」
「……トんでる?」
耳慣れない言葉だ。思わず復唱してしまう。
「とりあえずコイツを床に寝かせたい。手伝ってくれるか」
そう言われて頷き、二人で五条をソファから下ろして床に寝かせる。辛うじて意識はあるので、促すとふらふらとしながらも動いてくれた。もし完全に意識を失っていたらこう簡単にはいかなかっただろう。
家入は五条を横向けに寝かせ、テキパキと口元にビニール袋を敷いていく。次に、部屋を回り、クローゼットや抽斗をガタガタと開けながら「ないな」「ああ、あったあった」などと呟きつつなにかを回収している。そして、テーブルの上にそれらをすべてカシャンと置いた。
——薬の空き瓶と、空のシートの山。
瓶のほうは伏黒もドラッグストアで見かけたことのある有名な薬だったが、シートのほうには見たことも聞いたこともない名前が印字されていた。
「このバカ、ここにある薬を全部か、あるいは一部か分からんが大量に飲んだんだ。まったく、呆れたやつだよ」
家入は空き瓶を見、空のシートを見、「げ、厄介だな。こんなのどこで手に入れたんだよ、まったく……」と顔を顰めている。
伏黒には家入の言葉の意味がわからなかった。いや、理解はできるのだ。五条が、自分の意思で薬を大量に飲んだ。しかし、どうしてそんなことを?
そんな伏黒の様子を見て家入は五条を一瞥し、「まあ仕方ないな」と呟いてすべて口にした。
「このバカ、ときどきこうなるんだ。死にたい訳じゃないらしいが、昔から自棄になるとこうやって薬を大量に飲んで……人間なんだよ、コイツも。抱えているものがデカすぎるんだ」
「…………」
家入の口ぶりから、おそらく今まで幾度となくこういったことがあったのだろうとは推察できるが、にわかに信じがたかった。最強と謳われる五条の抱えているものがあまりに大きすぎることは伏黒も知っているが、だからこそ彼の、この今にも消えてしまいそうな痛々しい姿が、どうしてもいつもの彼と結びつかない。
ぉ゛え、と五条が再び嘔吐する。家入は五条の足元にしゃがみ、背中をさすりながら「伏黒」と口にする。
「コイツのことは私に任せて、君はもう戻っていい」
「……大丈夫なんですか」
「ああ。私が見てるから安心していい。まずいと思ったら救急車でもなんでも呼ぶ」
「……わかりました」
心残りはあるが、なにもできない自分がここにいても邪魔になるだけだろう。家入が大丈夫だと言っている以上、きっと大丈夫だ。よろしくお願いします、と去ろうとする伏黒の背に「ああ、そうだ」と家入が呟く。
「おそらくコイツは今日のこと……君がここにいたということも、朝になったら覚えていないと思う。泥酔しているようなものだからな」
「それは……大丈夫ですよ。今日のことは、忘れますから」
家入は「君も苦労人だな」と言い、少し笑った。
*
「あ、恵。おはよう〜! 今日は僕が引率だね。いいとこ見せられるように、せいぜい頑張ってよ」
校門の前で銀髪の長身が、ひらひらと手を振っている。
「……」
「あれ、無視? 恵ちゃん、もしかして反抗期かな〜?」
ママ寂しい〜、と顔の前で手を組む五条。あまりのうっとうしさに、昨日の夜の出来事は夢かなにかだったのだろうかと疑ってしまう。
——翌日、昼。
伏黒は任務のため、五条とともに県外へ行く予定となっていた。校門の前には既に車が停まっており、補助監督がこちらの様子を窺っている。
「待たせるのも悪いですし、さっさと行きましょう」
「んも〜恵ちゃん! つ、め、た、い〜!」
後部座席に座ると五条も隣に乗った。長い脚を折り、膝を伏黒の脚に当てながら「ごめんね〜脚が長いと大変なんだよね〜」「恵ちゃんはまだ成長期だからね。ちっちゃくても仕方ないよ。ほらっ、泣かない泣かない」などとベラベラと喋っている。本気で苛立ち、睨みつけようとするが。
「……」
よく見ると、五条の顔が心なしかいつもより白い。血の気がない、とでも言うのだろうか。黒いアイマスクに覆われて目元までは見えないが、どこか疲れているような。
やはり、昨日の夜の出来事は夢ではなかったということだろう。そう思うと先ほどの五条のうざったい言動の数々がすべて空元気のように思えてくる。
車が発進した。
はじめ、五条はいつものようにペラペラと喋っていたが、三十分も経つと大人しくなり、ついには「ちょっと寝る」とだけ残して窓に頭を預け、黙ってしまった。
(……やっぱり具合が悪いのか?)
五条が眠っているところを、そういえばあまり見たことがない。もともとショートスリーパーなのだろう。伏黒が小さい頃、彼が家に泊まりにきたときもいつも明け方まで起きていて、いつも平気そうだった。
こくり、とわずかに五条の喉が動く。……間違いない。吐き気を飲もうとしている。
目的地まで、あと四十分ほど。伏黒は窓の外を眺めながら、ときどき横目で五条を見た。
*
「じゃあ、僕ここで待ってるからね。終わったら戻っておいで」
「……はい」
目的地である、廃校の前。五条は瓦礫に腰かけ、「帳はいらないね。山奥だし。いってらっしゃい」と手を振った。
——あのあと特に五条に変わった様子はなく、車が停まると「ん〜よく寝た」と満足そうに声を上げて起き、再び伏黒や補助監督にうざ絡みするようになった。
校門を潜り、廃校へ入る。瞬間、呪いの気配が強くなった。祓えないほどではない。ただ、今の自分の実力では少し手こずるかもしれない。
「玉犬!」
指を組み、式神を呼ぶ。
校舎が黒い靄に覆われて揺れ、呪霊が現れた。……
呪霊を祓い、来た道を戻る。思ったより時間はかからなかったが、少し疲れた。校門の前で待っている五条に結果を報告しようと、先ほど別れた場所へ戻るが。
(……いねぇ)
先ほど腰かけていた瓦礫の上どころか、あたり一帯にも五条はいない。昨日のことといい、車での様子といい、嫌な予感がする。
「先生! ……五条先生!」
大声で呼びかけながら周囲を捜すが、返事はない。電話をかけてみようか。そう思い、ポケットに入っているスマートフォンに手を伸ばしたときだった。
「……っ、う、……ヴ、ェエ……ッ」
バタバタ、と液体らしきなにかが叩きつけられる音。
(……吐いてる)
音のしたほうへ歩いていくと、森の中だった。草木の間でかすかに白色が動いている。どうやらしゃがみこんで嘔吐しているようだった。
「五条先生」
「……めぐ、み」
五条はどうして、と言いたげな、バツの悪そうな顔をした。いつものアイマスクは外されており、蒼い双眸が陽光に惜しげなく晒されている。
「……っ、は、こんなとこまで、捜しに、こなくても。待っててくれて、よかったのに」
息を切らしながらそう言い、堪えられなかったのか、「ッ、ぅ……ゲ、エェ……ッ!」と酷い嘔吐き声を上げながら再び吐く。
「具合が悪いなら素直にそう言ってください。急にいなくなったら誰だって心配しますよ」
そっとしゃがみ、背中をさする。その手は一瞬だけ無下限に阻まれたが、すぐに解けた。布越しに触れた肌は汗でしっとりと熱を帯びている。
「しん、ぱい、か……優しいね、恵は。僕、最強だから。大丈夫だよ」
目を細めて笑ってみせるも、こんな状況では説得力もなにもない。
「体調、いつから悪かったんですか」
あくまでなにも知らない体を装う。嘔吐している現場を見られてしまった以上、もう逃れられないと悟ったのか、五条は「んー……さっき、」と呟いた。
「最近ちょっと寝不足で、山道だったから酔っちゃったみたい。でも、ほんと大丈夫だから」
こんなところ見せてごめんね、あ、気持ち悪くなってない? 大丈夫? そう五条が笑う。苦しそうなのに、それを感じさせない。でも、今にも壊れてしまいそうな。そんな、酷く歪な笑顔だった。
(俺の心配なんかするより今は自分の心配しろよ)
伏黒は怒っていた。どうしてこんな感情を抱くのか分からない。けれど、静かに怒っていた。
この男はそうなのだ。いつだって、自分のことなんて考えていなくて。大切にするのは五条悟として自分が世界に与える影響、その差異だけ。そこに自身は含まれていない。五条悟としての個人を誰よりも蔑ろにしているのは五条悟なのだ。
「……恵、」
珍しく感情を顕にする伏黒に、なにか思うところがあったらしい。五条が驚いたように口にする。
「やっぱり昨日、いたの」
「……!」
「おかしいと思ったんだ。昨日、硝子は部屋に誰も来てないって言ってたけど、朝、恵の呪力が少しだけ残ってた……」
五条は地面にぐったりと座り、頭を掻いた。
「まさかと思ってスマホ見たら、かけた覚えないのに、履歴が残ってて……ああ、僕やっぱりやっちゃったんだね。ごめん、ほんと。迷惑かけるつもりじゃ、なかったんだけど」
情けないね、と五条は自嘲ぎみに笑った。その一言、その苦しげな表情だけで、五条の抱えている思いが痛いほど伝わってくる。
——不本意だったのだろう。旧知の仲である家入はまだしも、庇護すべき子どもである伏黒に自分の悪癖を知られてしまったことが。
「……いえ。気にしないでください」
今の伏黒には、そう言うことしかできなかった。五条の抱えているものと自分の抱えているものの大きさは、あまりに違いすぎる。それにこれ以上、五条を傷つけたくなかった。
「……吐き気、治まってきたら車に戻りましょう。水、持ってきてるんで」
近くに自動販売機でもあればいいのだが、なにせ山奥だ。言うと五条は「……悪いね」と呟いて立った。
「だいぶ良くなった」
そう言う顔色は、本当に少しだけ良くなっていた。
「歩けそうですか」
「うん。……あ、でも。肩、ちょっと貸してくれたらうれしいかもー、なんて」
「……いいですよ」
「え、嘘。いいの? 恵ちゃん、もしかしてデレ期〜?」
「……はぁ。もう知りません」
五条を置いてスタスタと歩くが、伏黒は途中でふっと歩みを止め、前を向いたまま「……五条先生」と呼んだ。
「……俺、強くなりますから。アンタに置いていかれないように」
そう言い、窺うように少しだけ顔を後ろに向ける。五条は一瞬だけ驚いたように、星空のような目を瞬かせ——そして。
「うん。強くなってよ、恵」
どこか嬉しそうな、優しい声で。そう、笑った。
——三日後。
再び薬を過剰に摂取した五条が瀕死の重体で救急搬送されることを、このときの伏黒はまだ知らない。
眠っている頭の中に、よく知った音……着信を告げるメロディが鳴っているのに気づくと、伏黒は瞼を半分だけ開けて画面に浮かんでいる文字を見た。
(五条先生? 珍しいな、こんな時間に)
表示されていたのは最強と謳われる呪術師にして伏黒の担任の教師であり、また、兄とも父とも呼べるような関係のその人だった。伏黒は電話を取り、体を起こした。まだ眠気で頭がぼんやりとしている。
「伏黒です。どうしたんですか」
ふわあ、と出そうになる欠伸を堪えて聞けば、しばしの間のあとに『……あれ、めぐみ?』と、力ない返事が返ってきた。なにかがおかしい。しかし、なにがおかしいのか分からない。とりあえず次の言葉が紡がれるまで待っていようと黙っていたのだが、電話の向こうからはズズ、だとかコン、だとか、小さな物音が聞こえてくるだけだ。
「あの、五条先生」
『……ん』
「なにか、あったんですか」
『いや、べつに……なんかまちがえたみたい、ごめん。うわ、よく見たら一時じゃん。……ほんとごめん』
ツー、ツー、ツー。
(……なんなんだ?)
日頃うざったく絡んでくる五条ではあるが、用もないのに深夜に電話を掛けてきたことなどない。それに、あんなふうに「ごめん」だなんて。五条とともに過ごしてきた長い年月の間にだって、一度も聞いたことがなかった。
いつもヘラヘラしていて、うっとうしくて。最強と呼ばれ、自負する彼の——あんな、寂しそうな声。
いつの間にか眠気は消えていた。
伏黒はベッドを下りると携帯を掴み、すぐに部屋を出た。
*
コンコンコン、とノックをするも返事はなく、中からは物音ひとつ聞こえてこない。眠っているのだろうか。
伏黒は五条の部屋の前に佇み、考えていた。
返事がないのならすぐに去るべきだろう。だが、先ほどのあの様子。もしもなにかあったのだとしたら……、そう思うと相手が最強の彼とはいえ少し心配になる。このまま戻るかもう少し待ってみるか、どうしようか。
そう、逡巡していたときだった。
……部屋の中から、微かに聞こえた。
ぉえ、という苦しげな声のあとに、質量のあるものが床に叩きつけられるような、ビチャビチャという水音。
まさか。
(……吐いてる?)
「五条先生、五条先生。大丈夫ですか」
再びノックしながら声を掛けるも、聞こえてくるのは嘔吐く声ばかり。戸惑いながらもドアノブを回すとカチャリと音がして、いとも簡単に開いてしまった。いくらなんでも不用心すぎないだろうか。しかし、鍵が開いていたのはラッキーだった。
「……入りますよ」
ドアを開け、そっと部屋に入る。中は真っ暗だった。ほとんどなにも見えないが、やはりというかなんというか、饐えた臭いが充満している。明かりをつけようか悩んだが勝手につけるのも憚られ、目を凝らしてゆっくり進んでいく。
「……先生?」
部屋の奥で、白い塊がゆらゆらと揺れている。それは他ならぬ五条の髪で、ソファに座っている彼のすぐ下の床には——うす暗くてよく見えないが——吐物らしき液体が、勢いよく散っている。
「っ、ぅ……げぇ、っ、ぶ、ぉえ……ッ」
「五条先生!」
ぶるりと体が震え、またビチャビチャと液体が滴る音がする。
「大丈夫ですか」
慌てて駆け、腰をかがめて五条の背中に手を伸ばす。その手が無下限に阻まれることはなかった。そのまま下から上へ、ゆっくりと背中を撫でる。
「ぅ、ぇ……ッ」
背中が大きく波打ち、またバシャバシャと嘔吐する。
——五条の目は、どこか虚ろだ。焦点が合っていない、というのだろうか。ぼーっと宙を見つめていて、目の前の伏黒を認識しているかどうかすら怪しい。
(熱でもあるのかと思ったけど体は熱くない。むしろ冷たすぎるくらいだ。となると呪いか? いや、五条先生に限ってそんな……それなら毒? ああ、くそ。分かんねぇ)
「……マジで大丈夫ですか」
はじめて見る五条の姿に、一ミリも動揺していないと言えば嘘になる。
ポケットから携帯を出し「家入さん」と書かれた項目をタップしようとするが、今は深夜だ。迷惑だろうか。どうしようか少し悩んだが、やはり押す。その手を五条が弱々しく掴んだ。
「ま、って……いわ、ないで……」
「……五条先生」
自分の弱っている姿を人に見せたくないという五条の性格、最強であることへの自負は、長い年月を五条とともに過ごしてきた伏黒にはよく分かる。しかし、伏黒ひとりではこの状況をどうすることもできないのだ。申し訳ないと思う暇もなく電話は四コールで繋がった。
「もしもし、伏黒です。遅くにすみません」
『どうした。珍しいな』
寝起き、というわけではないのだろう。家入の声は明瞭だった。
「実は……その、五条先生の部屋にいるんですけど。先生、かなり吐いてて。具合が悪いみたいなんです。すみませんが、来てもらうことってできますか」
『五条が? わかった、すぐ行く』
珍しく慌てた様子で家入が電話を切ると、あたりは静寂に包まれた。五条はもう吐くものがないのか、怠そうにソファに身を投げて目を伏せたまま動かない。
家入は五分ほどで来た。コンコンコン、とノックが響き、ドアが開く。
「暗いな。電気つけるぞ」
「あ、はい」
パチンと電気がつき、一瞬だけ目が眩んだが、すぐ慣れる。目の前には吐物まみれの五条と床と——こんな時間だというのに仕事をしていたのだろう、白衣を着た家入の姿があった。その手には救急セットらしき箱が提げられている。すぐに家入は「おい、五条。……五条」と彼の頬を叩きながら呼びかけるが、反応はない。
「おい五条、五条。……ああ、だめだな。トんでる」
「……トんでる?」
耳慣れない言葉だ。思わず復唱してしまう。
「とりあえずコイツを床に寝かせたい。手伝ってくれるか」
そう言われて頷き、二人で五条をソファから下ろして床に寝かせる。辛うじて意識はあるので、促すとふらふらとしながらも動いてくれた。もし完全に意識を失っていたらこう簡単にはいかなかっただろう。
家入は五条を横向けに寝かせ、テキパキと口元にビニール袋を敷いていく。次に、部屋を回り、クローゼットや抽斗をガタガタと開けながら「ないな」「ああ、あったあった」などと呟きつつなにかを回収している。そして、テーブルの上にそれらをすべてカシャンと置いた。
——薬の空き瓶と、空のシートの山。
瓶のほうは伏黒もドラッグストアで見かけたことのある有名な薬だったが、シートのほうには見たことも聞いたこともない名前が印字されていた。
「このバカ、ここにある薬を全部か、あるいは一部か分からんが大量に飲んだんだ。まったく、呆れたやつだよ」
家入は空き瓶を見、空のシートを見、「げ、厄介だな。こんなのどこで手に入れたんだよ、まったく……」と顔を顰めている。
伏黒には家入の言葉の意味がわからなかった。いや、理解はできるのだ。五条が、自分の意思で薬を大量に飲んだ。しかし、どうしてそんなことを?
そんな伏黒の様子を見て家入は五条を一瞥し、「まあ仕方ないな」と呟いてすべて口にした。
「このバカ、ときどきこうなるんだ。死にたい訳じゃないらしいが、昔から自棄になるとこうやって薬を大量に飲んで……人間なんだよ、コイツも。抱えているものがデカすぎるんだ」
「…………」
家入の口ぶりから、おそらく今まで幾度となくこういったことがあったのだろうとは推察できるが、にわかに信じがたかった。最強と謳われる五条の抱えているものがあまりに大きすぎることは伏黒も知っているが、だからこそ彼の、この今にも消えてしまいそうな痛々しい姿が、どうしてもいつもの彼と結びつかない。
ぉ゛え、と五条が再び嘔吐する。家入は五条の足元にしゃがみ、背中をさすりながら「伏黒」と口にする。
「コイツのことは私に任せて、君はもう戻っていい」
「……大丈夫なんですか」
「ああ。私が見てるから安心していい。まずいと思ったら救急車でもなんでも呼ぶ」
「……わかりました」
心残りはあるが、なにもできない自分がここにいても邪魔になるだけだろう。家入が大丈夫だと言っている以上、きっと大丈夫だ。よろしくお願いします、と去ろうとする伏黒の背に「ああ、そうだ」と家入が呟く。
「おそらくコイツは今日のこと……君がここにいたということも、朝になったら覚えていないと思う。泥酔しているようなものだからな」
「それは……大丈夫ですよ。今日のことは、忘れますから」
家入は「君も苦労人だな」と言い、少し笑った。
*
「あ、恵。おはよう〜! 今日は僕が引率だね。いいとこ見せられるように、せいぜい頑張ってよ」
校門の前で銀髪の長身が、ひらひらと手を振っている。
「……」
「あれ、無視? 恵ちゃん、もしかして反抗期かな〜?」
ママ寂しい〜、と顔の前で手を組む五条。あまりのうっとうしさに、昨日の夜の出来事は夢かなにかだったのだろうかと疑ってしまう。
——翌日、昼。
伏黒は任務のため、五条とともに県外へ行く予定となっていた。校門の前には既に車が停まっており、補助監督がこちらの様子を窺っている。
「待たせるのも悪いですし、さっさと行きましょう」
「んも〜恵ちゃん! つ、め、た、い〜!」
後部座席に座ると五条も隣に乗った。長い脚を折り、膝を伏黒の脚に当てながら「ごめんね〜脚が長いと大変なんだよね〜」「恵ちゃんはまだ成長期だからね。ちっちゃくても仕方ないよ。ほらっ、泣かない泣かない」などとベラベラと喋っている。本気で苛立ち、睨みつけようとするが。
「……」
よく見ると、五条の顔が心なしかいつもより白い。血の気がない、とでも言うのだろうか。黒いアイマスクに覆われて目元までは見えないが、どこか疲れているような。
やはり、昨日の夜の出来事は夢ではなかったということだろう。そう思うと先ほどの五条のうざったい言動の数々がすべて空元気のように思えてくる。
車が発進した。
はじめ、五条はいつものようにペラペラと喋っていたが、三十分も経つと大人しくなり、ついには「ちょっと寝る」とだけ残して窓に頭を預け、黙ってしまった。
(……やっぱり具合が悪いのか?)
五条が眠っているところを、そういえばあまり見たことがない。もともとショートスリーパーなのだろう。伏黒が小さい頃、彼が家に泊まりにきたときもいつも明け方まで起きていて、いつも平気そうだった。
こくり、とわずかに五条の喉が動く。……間違いない。吐き気を飲もうとしている。
目的地まで、あと四十分ほど。伏黒は窓の外を眺めながら、ときどき横目で五条を見た。
*
「じゃあ、僕ここで待ってるからね。終わったら戻っておいで」
「……はい」
目的地である、廃校の前。五条は瓦礫に腰かけ、「帳はいらないね。山奥だし。いってらっしゃい」と手を振った。
——あのあと特に五条に変わった様子はなく、車が停まると「ん〜よく寝た」と満足そうに声を上げて起き、再び伏黒や補助監督にうざ絡みするようになった。
校門を潜り、廃校へ入る。瞬間、呪いの気配が強くなった。祓えないほどではない。ただ、今の自分の実力では少し手こずるかもしれない。
「玉犬!」
指を組み、式神を呼ぶ。
校舎が黒い靄に覆われて揺れ、呪霊が現れた。……
呪霊を祓い、来た道を戻る。思ったより時間はかからなかったが、少し疲れた。校門の前で待っている五条に結果を報告しようと、先ほど別れた場所へ戻るが。
(……いねぇ)
先ほど腰かけていた瓦礫の上どころか、あたり一帯にも五条はいない。昨日のことといい、車での様子といい、嫌な予感がする。
「先生! ……五条先生!」
大声で呼びかけながら周囲を捜すが、返事はない。電話をかけてみようか。そう思い、ポケットに入っているスマートフォンに手を伸ばしたときだった。
「……っ、う、……ヴ、ェエ……ッ」
バタバタ、と液体らしきなにかが叩きつけられる音。
(……吐いてる)
音のしたほうへ歩いていくと、森の中だった。草木の間でかすかに白色が動いている。どうやらしゃがみこんで嘔吐しているようだった。
「五条先生」
「……めぐ、み」
五条はどうして、と言いたげな、バツの悪そうな顔をした。いつものアイマスクは外されており、蒼い双眸が陽光に惜しげなく晒されている。
「……っ、は、こんなとこまで、捜しに、こなくても。待っててくれて、よかったのに」
息を切らしながらそう言い、堪えられなかったのか、「ッ、ぅ……ゲ、エェ……ッ!」と酷い嘔吐き声を上げながら再び吐く。
「具合が悪いなら素直にそう言ってください。急にいなくなったら誰だって心配しますよ」
そっとしゃがみ、背中をさする。その手は一瞬だけ無下限に阻まれたが、すぐに解けた。布越しに触れた肌は汗でしっとりと熱を帯びている。
「しん、ぱい、か……優しいね、恵は。僕、最強だから。大丈夫だよ」
目を細めて笑ってみせるも、こんな状況では説得力もなにもない。
「体調、いつから悪かったんですか」
あくまでなにも知らない体を装う。嘔吐している現場を見られてしまった以上、もう逃れられないと悟ったのか、五条は「んー……さっき、」と呟いた。
「最近ちょっと寝不足で、山道だったから酔っちゃったみたい。でも、ほんと大丈夫だから」
こんなところ見せてごめんね、あ、気持ち悪くなってない? 大丈夫? そう五条が笑う。苦しそうなのに、それを感じさせない。でも、今にも壊れてしまいそうな。そんな、酷く歪な笑顔だった。
(俺の心配なんかするより今は自分の心配しろよ)
伏黒は怒っていた。どうしてこんな感情を抱くのか分からない。けれど、静かに怒っていた。
この男はそうなのだ。いつだって、自分のことなんて考えていなくて。大切にするのは五条悟として自分が世界に与える影響、その差異だけ。そこに自身は含まれていない。五条悟としての個人を誰よりも蔑ろにしているのは五条悟なのだ。
「……恵、」
珍しく感情を顕にする伏黒に、なにか思うところがあったらしい。五条が驚いたように口にする。
「やっぱり昨日、いたの」
「……!」
「おかしいと思ったんだ。昨日、硝子は部屋に誰も来てないって言ってたけど、朝、恵の呪力が少しだけ残ってた……」
五条は地面にぐったりと座り、頭を掻いた。
「まさかと思ってスマホ見たら、かけた覚えないのに、履歴が残ってて……ああ、僕やっぱりやっちゃったんだね。ごめん、ほんと。迷惑かけるつもりじゃ、なかったんだけど」
情けないね、と五条は自嘲ぎみに笑った。その一言、その苦しげな表情だけで、五条の抱えている思いが痛いほど伝わってくる。
——不本意だったのだろう。旧知の仲である家入はまだしも、庇護すべき子どもである伏黒に自分の悪癖を知られてしまったことが。
「……いえ。気にしないでください」
今の伏黒には、そう言うことしかできなかった。五条の抱えているものと自分の抱えているものの大きさは、あまりに違いすぎる。それにこれ以上、五条を傷つけたくなかった。
「……吐き気、治まってきたら車に戻りましょう。水、持ってきてるんで」
近くに自動販売機でもあればいいのだが、なにせ山奥だ。言うと五条は「……悪いね」と呟いて立った。
「だいぶ良くなった」
そう言う顔色は、本当に少しだけ良くなっていた。
「歩けそうですか」
「うん。……あ、でも。肩、ちょっと貸してくれたらうれしいかもー、なんて」
「……いいですよ」
「え、嘘。いいの? 恵ちゃん、もしかしてデレ期〜?」
「……はぁ。もう知りません」
五条を置いてスタスタと歩くが、伏黒は途中でふっと歩みを止め、前を向いたまま「……五条先生」と呼んだ。
「……俺、強くなりますから。アンタに置いていかれないように」
そう言い、窺うように少しだけ顔を後ろに向ける。五条は一瞬だけ驚いたように、星空のような目を瞬かせ——そして。
「うん。強くなってよ、恵」
どこか嬉しそうな、優しい声で。そう、笑った。
——三日後。
再び薬を過剰に摂取した五条が瀕死の重体で救急搬送されることを、このときの伏黒はまだ知らない。
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