十六歳
いろいろ重なってた。
期末試験、検定、全国模試。100点を取れるように、合格できるように、A判定を取れるように、平日も休日も勉強した。でも、うまくいかなくて。仕事でたまたま帰ってきてただけの父さんに、また殴られた。
口の中に血の味が広がったとき、おれの中でひとつたしかになにかが切れたはずなのに、なにも変わらなかった。前みたいに泣かなかったし、もう悔しくもなかった。けど——やっぱり、なにかが切れたことに変わりはなくて。
「…………あー」
朝、起きようとして、だめだった。
ベッドの上、アラームの音を聞きながら、おれは動けずにいた。頭は起きてる。目を覚ます前から下腹の中心で重く痛みが疼いていて、もう一歩も動き出せないくらい、それが差し迫っているのもわかっていた。このままじゃ漏れる。早くトイレ行かなきゃ。わかってるのに、下手に体を動かすと下腹に圧がかかって、それこそ漏れそうで。シーツの上で体を滑らせて、どうにか床に降り立ったけど。
フローリングの冷たさが、足の裏から一気に入り込んでくる。瞬間、ぶるっと体が震えて——気がつくと、下腹の中からじゅわっと音がしていた。見ると、グレーのスウェットパンツが、中心から濃く色を変えている。
漏らした。太ももを伝う温もりが、その事実を残酷に押しつけてくる。こういうの、もう治ったと思ってたのに。
けど、そうやって絶望に浸っている暇もない。どうにかしないと。まだ溢れ続けている尿を止められないまま、どうしたら兄さんにバレないか、それだけを考える。床は拭けばいい。服は? どうしよう。風呂でこっそり洗って、お茶をこぼしたとでも言って洗濯機にぶち込むか。人のいい兄さんのことだ、たぶん疑わない。
起き抜けのおしっこは、自分でもいやになるくらい量が多かった。床の上にはあっというまに水たまりができて、どことなく、ツンと鼻を突くあの臭いもする。スウェットを脱いでパンツも脱いで、だれが見ているわけでもないのに急いで新しいものに履き替えると、リビングからキッチンペーパーを取ってきて拭いた。拭きながら、涙が出るわけでもないけど、心の底にこびりついた錆がじわじわと全身を侵食していくような、なんとも言いがたい虚しさがあった。
*
「葵、おはよう」
リビングに入ると、兄さんはいつも通りキッチンに立っていて、朝食の支度をしている。いつも通りなら、おれはなにも返さないけど——今日は、いつも通りじゃないから。
「…………あの、兄さん」
「ん?」
こちらに背を向けたまま、兄さんが聞き返す。
「スウェット。お茶こぼしたから、洗濯機」
「あぁ、オッケー。洗濯機、回そうと思ってたんだけどちょっと足りなかったんだ。ちょうどいい」
兄さんは特に気にしていない様子だった。まあ当たり前か。気にしてるのは、おれだけ。
少しして、ガキが入ってくる。買ってもらったばっかりのピンク色のパジャマに身を包んで、あちこちについた寝癖も気にしないまま、リビングのドアを勢いよく開ける。
「おはようー!」
いつも通りの甲高い、元気そうな声が響いて、いなんだかムカついてくる。
「おはよう、りか」
「朝ごはんなに? いい匂いする〜、卵焼き?」
「そ、甘めにしたよ。りか好きでしょ、あとウインナーも焼いてる」
「やった〜!」
また甘いのかよ。砂糖がたっぷり入った卵焼きより、しょうゆの味がほんのりするくらいのやつのほうがおれ好きなんだけど。このガキが家に来てからずっとこうだ。うんざりする。こういうところひとつ取っても、おれだけこの家に居づらい。
この間、父さんが久々に帰ってきた夜もそうだった。ガキが食いたいってわがまま言って、父さんがホールケーキを買ってきて。吐きそうになるからおれは生クリームが嫌いなのに、生クリームたっぷりのやつ。おれは食わずに自室に戻ったけど、楽しそうな声がリビングから漏れ聞こえてきて、死んでやりたくなった。
今ガキが着てるピンクのパジャマもそうだ。日曜の朝にやってるガキ向けのアニメのやつ。せがまれて、誕生日でもなんでもないのに兄さんが買ってやったらしい。仮面ライダーとか、ポケモンとか。おれが小さいころは買ってもらえなかったのに、このガキだけ。愛されて育って、さぞ真っ当な大人になるんだろうな。
しょうもない嫉妬だってわかってる。でも今じゃ洗面所を侵食していくピンクの歯ブラシとかいちご味の歯みがき粉とか、廊下の壁を埋めていく学校で描いたような下手くそな絵とか、そういうのを見るだけで胸が苦しくなっていた。
——この家にいても殴られるだけで、おれの居ていい場所なんて、どこにもない。
*
「っざけんなよ、これ大事なプリントなんだけど、お前どう責任とってくれんだよ、なぁ」
夕方。兄さんに見てもらおうと思って、リビングのテーブルの上に模試の結果や自己採点をした用紙なんかを置いていたのだが。あろうことか、その上にガキがジュースをぶち撒けやがった。しかもオレンジジュース。べたべたの。拭いても拭いても用紙は全滅で、おれの書いた字どころか印字すら読めるかどうか怪しい。
「っ、え、ごめんなさい……っ、ふ、わああぁぁん」
またこれだ。こいつ、泣けばなんでも許されると思ってる。舌打ちをしたところで、騒ぎを聞きつけたのか兄さんがやってきた。
「なになに、なにがあったの」
どこか呆れた声。そしてテーブルの上を一瞥するなり、ため息をついた。
「あのさ葵、リビングのテーブルに大事なもの置くなっていつも言ってるよね? こういうことになるからだよ」
「…………は?」
それもそうだ。兄さんがいつも言ってる。リビングのテーブルはごはんを食べるところだから、汚れたらいやなものは置かないようにしようねって。でも、真っ先に言うことがそれか? おれが小さいころだったら、もし同じことしたら、絶対に父さんに殴られてたのに。
「もういい」
そう静かに言い放つとリビングを出る。そのまま振り返らずに去るつもりだった。けど、兄さんがどんな顔してるのか見たくて少しだけ目線を戻した。もしおれのことを見ててくれたら、それもちょっと心配そうに見ててくれたらごめんって、おれが悪かたって謝りに戻ろうかなと思ってた。
でも、兄さんはおれのことなんてまったく見てなくて。しかも泣いてるガキを慰めてて。
——はいもうおしまい。
口の中でそう小さく呟いて、今度こそ本当にリビングをあとにした。
*
それから五日、ガキとはもちろん兄さんともいっさい口をきいていない。
「ねえ葵、まだ怒ってんの」
夕方。飯を食っていると、兄さんがそう聞いてきた。
「…………」
おれは答えず、兄さんが作ってくれたオムライスを黙々と食ってる。兄さんの隣に座っているガキはテレビから流れ歌ガキ向けのアニメを観ながら、でもおれたちの様子を少し窺っているようだった。
ここ五日、調子は悪くなる一方だった。
まず起き抜けのおしっこが間に合わない。朝方になるともう一歩も動けないくらいに腹に溜まっていて、起き上がろうとする前に漏れる。服もシーツも滴るくらい一気にびしょびしょに漏れて、けどお茶を溢したって言い訳はさすがにもう通用しないだろうから、いつもこっそり拭いて、こっそりドライヤーで乾かして。途中でなにやってんだろおれって虚しくなるけど、大してもう心も動かないくらいには参ってて。
期末試験の勉強も、検定や全国模試の対策も、やらなきゃって取りかかるけどすぐに腹がいっぱいになる感覚に襲われて集中できない。トイレに行って、でも少ししか出なくて、自室に戻って机に向かうけど、またトイレに行って——その繰り返し。心が折れそうになって兄さんに打ち明けようと思ったこともあったけど、この間のことで意地になっているせいでなかなか言い出せない。自分でも、つまらないことで意地になってるなとは思う。けど一回こうってなったらなかなか曲げられないのがおれの常だった。
食べ終わって、ごちそうさまも言わずに立ち上がる。兄さんがため息をつく気配がした。……けっこう怒ってるな、これ。静かだけど逆にその静かさが怖い。いたたまれなくなってすぐにリビングを出る。けど、パタパタと小さい足音が後ろから聞こえてきて。……これ、兄さんのじゃない。ガキのだ。
「葵お兄ちゃん」
おずおずとおれを見上げて、俯いて、また見上げて。しばらくそうしたのちに、あのね、と口を開いた。
「えっとね……この間はごめんなさい、りかがいけなかったの……だからね、雅也お兄ちゃんと前みたいにお話ししてほしいの……」
しゅんとした表情で、けれど縋りつくような目でそう言ってきた。ガツンと頭を殴られたみたいだった。だって、どう考えてもこいつのほうがおれの百倍くらい人間できてるから。
なにも言えなかった。ガキの顔をいっさい見ず、黙ったまま歩き出し、階段を上る。そして自室に戻って勉強机の前に座ると、なんだかぼーっとしてもう動けなくなった。
机の上には参考書やノート、プリントなんかが散らばっている。シャープペンシルを持って開きかけのノートに取りかかろうとするけど頭がうまく回らない。それもそうだ、あんまり寝てないし。やらなきゃいけないことが多すぎて追われているせいもあるけど、それ以上に大きいのは朝のこと。尿意のせいでかなり早くに目が覚めるし、間に合わず処理する時間もあるせいでここのところまともに睡眠が取れていない。
カチカチカチ、と異様に早く、シャープペンシルのノブを押す音が響いている。耳に届いてやっと、ああ、鳴らしてるのはおれか、って他人事のように思う。頭の動きと手の動きが完全に乖離している。
だめだ、集中しよう。ちゃんとしなきゃ。深く座り直し、開きかけのノートに取りかかろうとしたところで——ああ、まただ。またあの感覚。
「っ……」
腹にじわじわと、かつ勢いよく溜まっていく痛みのもと。またこれかよ、もうやめてくれよって叫び出したくなるような苛立ちと、それ以上に、このままじゃ漏れるっていう焦りに襲われる。
立ち上がろうとするだけできつかった。どうしても腹に力が入るから、それだけでもう漏れそうになる。
机に手をつき、浅く息を吐きながら、ゆっくりゆっくり立ち上がる。歩き出すと痛みが増した。すぐ出そうになるのを、気合いだけで耐える。
自室を出て、少し行けばトイレがある。大丈夫、大丈夫、まだ耐えられる——そう思いながら自室のドアを開けると。
「……葵」
と、そう呼ばれた。兄さんだった。
「なんで……」
たまたまって感じじゃない。今まさにこのドアをノックしようとしていたような雰囲気で。
「ちょっと話ある」
そう言う声は明らかに怒った色だったし、呆れた色でもあった。
「……あとにして」
今はそれどころじゃない。短く言い切って、兄さんをの脇を通って廊下に出ようとする。でも。
「いい加減にしろって、なあ」
腕をつかまれて、阻まれる。
「お前のせいでうちの雰囲気悪くなってるのわかんない? 俺はまだいいけどりかにまで気ぃつかわせるなって」
あーこれ、珍しく本気で怒ってるやつだ。さすがになにか言わなきゃと思う。けど、腹がやばい。重く疼いて、痛くて、早くしないとまた漏れる。
「わかった、わかったから……」
とりあえずトイレに行かせてくれ。そう言おうとしたのに、遮られる。
「わかったわかったってなにがわかったの、ねえ」
兄さんの眉の端がぴくりと動いた。もう頷くことしかできない。そして。
「…………っ、あ」
自分の喉から息とも声ともつかないような音が上がって。パンパンだった腹の中がきゅっと収縮して、本当にしゅーー……っと、文字どおりの音を立てながら漏らした。
「え」
そう呟いたのは兄さん。一方のおれは放心している。始まってしまった出来事に、というより兄さんの前でそれが始まってしまったことに、羞恥と戸惑いを隠しきれず立ち尽くしていた。
パンツの中で溢れ返ったおしっこは、すぐにスウェットパンツを中心からぐっしょりと濡らし、やがて太ももを伝って床に零れていった。床の水たまりがそこそこの大きさになってきても止まらないどころか勢いそのままに出続けている。
さいあくだ。
それ以外の言葉が出てこないし、事実、さいあくだった。
兄さんの表情を盗み見る。怒りはもうない。ただ、驚いてる。
じゅーー、しゅいーー……っとはっきり耳につくくらいの水音が、絶え間なく流れ続けている。漏らした。完全に漏らした。起き抜けじゃないのに。日中や夕方はまだ大丈夫だったのに、今日ここで、漏らした。
「……タオル持ってくる」
そう言って兄さんが階段を下りていった。
その間おれは、広がっていく水たまりを呆然と眺めている。フローリングの継ぎ目をじわじわと濡らし広がり続けていくのは、紛れもなく、おれ自身が垂らし続けているおしっこだった。ときどきツンと鼻をつく臭いもする。
兄さんがタオルを取りに行っている間に止まった。けど、そのころにはもうおれのグレーのスウェットパンツのほとんどが色を変えていたし、自室の出入り口も廊下も、バケツかなにかをひっくり返したのかってくらい広く濡れていた。
階段を上ってくる足音がする。兄さんが戻ってきた。腕いっぱいにタオルを抱えていて、そのうちの一枚をおれの足元に広げると、淡々と拭きながら小さく切り出した。
「トイレ行きたかったの?」
頷くと、「そっか」と返ってくる。
「俺が遮っちゃったせいだね。ごめん」
その声はいつもの兄さんのものだった。穏やかで、柔らかくて。
「……いや」
なにか喋らなきゃと思うのにそのなにかが出てこない。というよりぼーっとしてる。兄さんが水たまりを拭ってくれるのを、ただ眺めてる。
「それ脱いで」
「…………」
「葵?」
それ、と指されたのはぐしょぐしょに濡れたスウェットパンツだった。反応せず立ち尽くしたままのおれを兄さんがふしぎそうに見た。
「どうした」
すん、と鼻を鳴らす音がする。人が泣いてる音だ。おれしかいない。けど、おれが? わけがわからなくて頭が真っ白になる。
「どうした?」
兄さんがあいまいに笑う。そして手の甲で、まるで幼い子どもにするような手つきでおれの頬を撫でる。
今まで抑え込んでいた感情が一気に溢れて仕方なかった。
「……〜〜っ、なんで、」
くしゃっと顔が歪む。目の端から涙が零れ落ちる。それを袖で拭いながら、訴えかけるように続けた。
「なんで、おれずっとしんどいのにひどいこと言うの、いっつもいっつもいっつもあいつばっかで、っ、おれが悪いみたいだろ……っ」
言ってることがめちゃくちゃな自覚はあった。俺が悪いみたいって、どう考えても実際おれが悪いのに。兄さんを怒らせて、あんなガキに大人みたいな気づかいさせて、本当にガキなのはおれで、そうわかってるのに止まらない。
「おれがんばってんのに、っ、がんばってんのに、毎朝しょんべん漏らして、そればっかで、勉強しなきゃいけないのにうまくできないし……っ」
泣きじゃくりながらそう零して、あ、口が滑った、と思ってももう遅かった。
「なに、朝いつも漏らしてるの?」
兄さんの顔が急にまじめな顔になる。
「っ、あ、えっと……」
「あーだからか、洗濯物急に増えたの」
まじめな顔から、なにか納得したような顔へ。そして小さく頷いたかと思うと、おれの頭にそっと手を乗せた。
「ごめんね、気づかなくて」
兄さんが謝ることないのに。でもそう言った兄さんの顔はすごく優しくて、温かくて。そこから、少し考えるような顔つきになって。
「葵。そういうのさ、ひとりで抱えようとしないで言ってくれていいからね。片づけもいっしょにやるし、それにあんまり続くようだったら病院でちゃんと診てもらおう。ね?」
「……っ、ん」
包み込むように言われて、余計に涙が溢れて止まらなかった。そして、ああそうだ、あとであのガキにちゃんと謝りにいこうって、そう思えたんだ。
期末試験、検定、全国模試。100点を取れるように、合格できるように、A判定を取れるように、平日も休日も勉強した。でも、うまくいかなくて。仕事でたまたま帰ってきてただけの父さんに、また殴られた。
口の中に血の味が広がったとき、おれの中でひとつたしかになにかが切れたはずなのに、なにも変わらなかった。前みたいに泣かなかったし、もう悔しくもなかった。けど——やっぱり、なにかが切れたことに変わりはなくて。
「…………あー」
朝、起きようとして、だめだった。
ベッドの上、アラームの音を聞きながら、おれは動けずにいた。頭は起きてる。目を覚ます前から下腹の中心で重く痛みが疼いていて、もう一歩も動き出せないくらい、それが差し迫っているのもわかっていた。このままじゃ漏れる。早くトイレ行かなきゃ。わかってるのに、下手に体を動かすと下腹に圧がかかって、それこそ漏れそうで。シーツの上で体を滑らせて、どうにか床に降り立ったけど。
フローリングの冷たさが、足の裏から一気に入り込んでくる。瞬間、ぶるっと体が震えて——気がつくと、下腹の中からじゅわっと音がしていた。見ると、グレーのスウェットパンツが、中心から濃く色を変えている。
漏らした。太ももを伝う温もりが、その事実を残酷に押しつけてくる。こういうの、もう治ったと思ってたのに。
けど、そうやって絶望に浸っている暇もない。どうにかしないと。まだ溢れ続けている尿を止められないまま、どうしたら兄さんにバレないか、それだけを考える。床は拭けばいい。服は? どうしよう。風呂でこっそり洗って、お茶をこぼしたとでも言って洗濯機にぶち込むか。人のいい兄さんのことだ、たぶん疑わない。
起き抜けのおしっこは、自分でもいやになるくらい量が多かった。床の上にはあっというまに水たまりができて、どことなく、ツンと鼻を突くあの臭いもする。スウェットを脱いでパンツも脱いで、だれが見ているわけでもないのに急いで新しいものに履き替えると、リビングからキッチンペーパーを取ってきて拭いた。拭きながら、涙が出るわけでもないけど、心の底にこびりついた錆がじわじわと全身を侵食していくような、なんとも言いがたい虚しさがあった。
*
「葵、おはよう」
リビングに入ると、兄さんはいつも通りキッチンに立っていて、朝食の支度をしている。いつも通りなら、おれはなにも返さないけど——今日は、いつも通りじゃないから。
「…………あの、兄さん」
「ん?」
こちらに背を向けたまま、兄さんが聞き返す。
「スウェット。お茶こぼしたから、洗濯機」
「あぁ、オッケー。洗濯機、回そうと思ってたんだけどちょっと足りなかったんだ。ちょうどいい」
兄さんは特に気にしていない様子だった。まあ当たり前か。気にしてるのは、おれだけ。
少しして、ガキが入ってくる。買ってもらったばっかりのピンク色のパジャマに身を包んで、あちこちについた寝癖も気にしないまま、リビングのドアを勢いよく開ける。
「おはようー!」
いつも通りの甲高い、元気そうな声が響いて、いなんだかムカついてくる。
「おはよう、りか」
「朝ごはんなに? いい匂いする〜、卵焼き?」
「そ、甘めにしたよ。りか好きでしょ、あとウインナーも焼いてる」
「やった〜!」
また甘いのかよ。砂糖がたっぷり入った卵焼きより、しょうゆの味がほんのりするくらいのやつのほうがおれ好きなんだけど。このガキが家に来てからずっとこうだ。うんざりする。こういうところひとつ取っても、おれだけこの家に居づらい。
この間、父さんが久々に帰ってきた夜もそうだった。ガキが食いたいってわがまま言って、父さんがホールケーキを買ってきて。吐きそうになるからおれは生クリームが嫌いなのに、生クリームたっぷりのやつ。おれは食わずに自室に戻ったけど、楽しそうな声がリビングから漏れ聞こえてきて、死んでやりたくなった。
今ガキが着てるピンクのパジャマもそうだ。日曜の朝にやってるガキ向けのアニメのやつ。せがまれて、誕生日でもなんでもないのに兄さんが買ってやったらしい。仮面ライダーとか、ポケモンとか。おれが小さいころは買ってもらえなかったのに、このガキだけ。愛されて育って、さぞ真っ当な大人になるんだろうな。
しょうもない嫉妬だってわかってる。でも今じゃ洗面所を侵食していくピンクの歯ブラシとかいちご味の歯みがき粉とか、廊下の壁を埋めていく学校で描いたような下手くそな絵とか、そういうのを見るだけで胸が苦しくなっていた。
——この家にいても殴られるだけで、おれの居ていい場所なんて、どこにもない。
*
「っざけんなよ、これ大事なプリントなんだけど、お前どう責任とってくれんだよ、なぁ」
夕方。兄さんに見てもらおうと思って、リビングのテーブルの上に模試の結果や自己採点をした用紙なんかを置いていたのだが。あろうことか、その上にガキがジュースをぶち撒けやがった。しかもオレンジジュース。べたべたの。拭いても拭いても用紙は全滅で、おれの書いた字どころか印字すら読めるかどうか怪しい。
「っ、え、ごめんなさい……っ、ふ、わああぁぁん」
またこれだ。こいつ、泣けばなんでも許されると思ってる。舌打ちをしたところで、騒ぎを聞きつけたのか兄さんがやってきた。
「なになに、なにがあったの」
どこか呆れた声。そしてテーブルの上を一瞥するなり、ため息をついた。
「あのさ葵、リビングのテーブルに大事なもの置くなっていつも言ってるよね? こういうことになるからだよ」
「…………は?」
それもそうだ。兄さんがいつも言ってる。リビングのテーブルはごはんを食べるところだから、汚れたらいやなものは置かないようにしようねって。でも、真っ先に言うことがそれか? おれが小さいころだったら、もし同じことしたら、絶対に父さんに殴られてたのに。
「もういい」
そう静かに言い放つとリビングを出る。そのまま振り返らずに去るつもりだった。けど、兄さんがどんな顔してるのか見たくて少しだけ目線を戻した。もしおれのことを見ててくれたら、それもちょっと心配そうに見ててくれたらごめんって、おれが悪かたって謝りに戻ろうかなと思ってた。
でも、兄さんはおれのことなんてまったく見てなくて。しかも泣いてるガキを慰めてて。
——はいもうおしまい。
口の中でそう小さく呟いて、今度こそ本当にリビングをあとにした。
*
それから五日、ガキとはもちろん兄さんともいっさい口をきいていない。
「ねえ葵、まだ怒ってんの」
夕方。飯を食っていると、兄さんがそう聞いてきた。
「…………」
おれは答えず、兄さんが作ってくれたオムライスを黙々と食ってる。兄さんの隣に座っているガキはテレビから流れ歌ガキ向けのアニメを観ながら、でもおれたちの様子を少し窺っているようだった。
ここ五日、調子は悪くなる一方だった。
まず起き抜けのおしっこが間に合わない。朝方になるともう一歩も動けないくらいに腹に溜まっていて、起き上がろうとする前に漏れる。服もシーツも滴るくらい一気にびしょびしょに漏れて、けどお茶を溢したって言い訳はさすがにもう通用しないだろうから、いつもこっそり拭いて、こっそりドライヤーで乾かして。途中でなにやってんだろおれって虚しくなるけど、大してもう心も動かないくらいには参ってて。
期末試験の勉強も、検定や全国模試の対策も、やらなきゃって取りかかるけどすぐに腹がいっぱいになる感覚に襲われて集中できない。トイレに行って、でも少ししか出なくて、自室に戻って机に向かうけど、またトイレに行って——その繰り返し。心が折れそうになって兄さんに打ち明けようと思ったこともあったけど、この間のことで意地になっているせいでなかなか言い出せない。自分でも、つまらないことで意地になってるなとは思う。けど一回こうってなったらなかなか曲げられないのがおれの常だった。
食べ終わって、ごちそうさまも言わずに立ち上がる。兄さんがため息をつく気配がした。……けっこう怒ってるな、これ。静かだけど逆にその静かさが怖い。いたたまれなくなってすぐにリビングを出る。けど、パタパタと小さい足音が後ろから聞こえてきて。……これ、兄さんのじゃない。ガキのだ。
「葵お兄ちゃん」
おずおずとおれを見上げて、俯いて、また見上げて。しばらくそうしたのちに、あのね、と口を開いた。
「えっとね……この間はごめんなさい、りかがいけなかったの……だからね、雅也お兄ちゃんと前みたいにお話ししてほしいの……」
しゅんとした表情で、けれど縋りつくような目でそう言ってきた。ガツンと頭を殴られたみたいだった。だって、どう考えてもこいつのほうがおれの百倍くらい人間できてるから。
なにも言えなかった。ガキの顔をいっさい見ず、黙ったまま歩き出し、階段を上る。そして自室に戻って勉強机の前に座ると、なんだかぼーっとしてもう動けなくなった。
机の上には参考書やノート、プリントなんかが散らばっている。シャープペンシルを持って開きかけのノートに取りかかろうとするけど頭がうまく回らない。それもそうだ、あんまり寝てないし。やらなきゃいけないことが多すぎて追われているせいもあるけど、それ以上に大きいのは朝のこと。尿意のせいでかなり早くに目が覚めるし、間に合わず処理する時間もあるせいでここのところまともに睡眠が取れていない。
カチカチカチ、と異様に早く、シャープペンシルのノブを押す音が響いている。耳に届いてやっと、ああ、鳴らしてるのはおれか、って他人事のように思う。頭の動きと手の動きが完全に乖離している。
だめだ、集中しよう。ちゃんとしなきゃ。深く座り直し、開きかけのノートに取りかかろうとしたところで——ああ、まただ。またあの感覚。
「っ……」
腹にじわじわと、かつ勢いよく溜まっていく痛みのもと。またこれかよ、もうやめてくれよって叫び出したくなるような苛立ちと、それ以上に、このままじゃ漏れるっていう焦りに襲われる。
立ち上がろうとするだけできつかった。どうしても腹に力が入るから、それだけでもう漏れそうになる。
机に手をつき、浅く息を吐きながら、ゆっくりゆっくり立ち上がる。歩き出すと痛みが増した。すぐ出そうになるのを、気合いだけで耐える。
自室を出て、少し行けばトイレがある。大丈夫、大丈夫、まだ耐えられる——そう思いながら自室のドアを開けると。
「……葵」
と、そう呼ばれた。兄さんだった。
「なんで……」
たまたまって感じじゃない。今まさにこのドアをノックしようとしていたような雰囲気で。
「ちょっと話ある」
そう言う声は明らかに怒った色だったし、呆れた色でもあった。
「……あとにして」
今はそれどころじゃない。短く言い切って、兄さんをの脇を通って廊下に出ようとする。でも。
「いい加減にしろって、なあ」
腕をつかまれて、阻まれる。
「お前のせいでうちの雰囲気悪くなってるのわかんない? 俺はまだいいけどりかにまで気ぃつかわせるなって」
あーこれ、珍しく本気で怒ってるやつだ。さすがになにか言わなきゃと思う。けど、腹がやばい。重く疼いて、痛くて、早くしないとまた漏れる。
「わかった、わかったから……」
とりあえずトイレに行かせてくれ。そう言おうとしたのに、遮られる。
「わかったわかったってなにがわかったの、ねえ」
兄さんの眉の端がぴくりと動いた。もう頷くことしかできない。そして。
「…………っ、あ」
自分の喉から息とも声ともつかないような音が上がって。パンパンだった腹の中がきゅっと収縮して、本当にしゅーー……っと、文字どおりの音を立てながら漏らした。
「え」
そう呟いたのは兄さん。一方のおれは放心している。始まってしまった出来事に、というより兄さんの前でそれが始まってしまったことに、羞恥と戸惑いを隠しきれず立ち尽くしていた。
パンツの中で溢れ返ったおしっこは、すぐにスウェットパンツを中心からぐっしょりと濡らし、やがて太ももを伝って床に零れていった。床の水たまりがそこそこの大きさになってきても止まらないどころか勢いそのままに出続けている。
さいあくだ。
それ以外の言葉が出てこないし、事実、さいあくだった。
兄さんの表情を盗み見る。怒りはもうない。ただ、驚いてる。
じゅーー、しゅいーー……っとはっきり耳につくくらいの水音が、絶え間なく流れ続けている。漏らした。完全に漏らした。起き抜けじゃないのに。日中や夕方はまだ大丈夫だったのに、今日ここで、漏らした。
「……タオル持ってくる」
そう言って兄さんが階段を下りていった。
その間おれは、広がっていく水たまりを呆然と眺めている。フローリングの継ぎ目をじわじわと濡らし広がり続けていくのは、紛れもなく、おれ自身が垂らし続けているおしっこだった。ときどきツンと鼻をつく臭いもする。
兄さんがタオルを取りに行っている間に止まった。けど、そのころにはもうおれのグレーのスウェットパンツのほとんどが色を変えていたし、自室の出入り口も廊下も、バケツかなにかをひっくり返したのかってくらい広く濡れていた。
階段を上ってくる足音がする。兄さんが戻ってきた。腕いっぱいにタオルを抱えていて、そのうちの一枚をおれの足元に広げると、淡々と拭きながら小さく切り出した。
「トイレ行きたかったの?」
頷くと、「そっか」と返ってくる。
「俺が遮っちゃったせいだね。ごめん」
その声はいつもの兄さんのものだった。穏やかで、柔らかくて。
「……いや」
なにか喋らなきゃと思うのにそのなにかが出てこない。というよりぼーっとしてる。兄さんが水たまりを拭ってくれるのを、ただ眺めてる。
「それ脱いで」
「…………」
「葵?」
それ、と指されたのはぐしょぐしょに濡れたスウェットパンツだった。反応せず立ち尽くしたままのおれを兄さんがふしぎそうに見た。
「どうした」
すん、と鼻を鳴らす音がする。人が泣いてる音だ。おれしかいない。けど、おれが? わけがわからなくて頭が真っ白になる。
「どうした?」
兄さんがあいまいに笑う。そして手の甲で、まるで幼い子どもにするような手つきでおれの頬を撫でる。
今まで抑え込んでいた感情が一気に溢れて仕方なかった。
「……〜〜っ、なんで、」
くしゃっと顔が歪む。目の端から涙が零れ落ちる。それを袖で拭いながら、訴えかけるように続けた。
「なんで、おれずっとしんどいのにひどいこと言うの、いっつもいっつもいっつもあいつばっかで、っ、おれが悪いみたいだろ……っ」
言ってることがめちゃくちゃな自覚はあった。俺が悪いみたいって、どう考えても実際おれが悪いのに。兄さんを怒らせて、あんなガキに大人みたいな気づかいさせて、本当にガキなのはおれで、そうわかってるのに止まらない。
「おれがんばってんのに、っ、がんばってんのに、毎朝しょんべん漏らして、そればっかで、勉強しなきゃいけないのにうまくできないし……っ」
泣きじゃくりながらそう零して、あ、口が滑った、と思ってももう遅かった。
「なに、朝いつも漏らしてるの?」
兄さんの顔が急にまじめな顔になる。
「っ、あ、えっと……」
「あーだからか、洗濯物急に増えたの」
まじめな顔から、なにか納得したような顔へ。そして小さく頷いたかと思うと、おれの頭にそっと手を乗せた。
「ごめんね、気づかなくて」
兄さんが謝ることないのに。でもそう言った兄さんの顔はすごく優しくて、温かくて。そこから、少し考えるような顔つきになって。
「葵。そういうのさ、ひとりで抱えようとしないで言ってくれていいからね。片づけもいっしょにやるし、それにあんまり続くようだったら病院でちゃんと診てもらおう。ね?」
「……っ、ん」
包み込むように言われて、余計に涙が溢れて止まらなかった。そして、ああそうだ、あとであのガキにちゃんと謝りにいこうって、そう思えたんだ。
