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二十二歳

 朝のカンファレンスルーム。
 救急科の面々が集まって、夜勤帯から日勤帯への申し送り中。プロジェクターが映し出すカルテの白い光と、誰かの咳払い。ノートPCの唸る低い音が、静かに鳴り続けている。
 いつも通り冷房は効きすぎているはずなのに、俺の体だけが妙に熱をもっていた。端の席に座りながら、俺は右手でぶらぶらとペンを遊ばせている。いつもならもう少ししゃきっとしてる。けど、今日は朝から調子が悪かった。スクリーンに映し出された文字がなんとなく滲んでて、どこか呼吸が浅い。息を吸っても、肺の底まで空気が届かない。
 ——昨夜のことが、頭の中でまだ終わっていなかった。眠れないと泣き、体を震わせる葵。抱きしめて、薬を飲ませて。背中を撫で続けるうちに、朝になっていた。
 疲労は、内臓の奥から溢れるような不快な塊として胸にへばりついていた。そもそも昨夜のことが原因じゃない。ここずっと、自己研鑽という名目のもと働き続けている。
 溢れ返るベッド。鳴り止まないPHS。書き終わらないサマリー。俺というリソースが、病院というシュレッダーで常に細かく断裁されている。そんな気分だった。この生活は俺が死ぬまで終わらないのかと、らしくもない考えに脳を侵されるくらいには疲弊していた。
「……一条先生。このK(カリウム)の値、どう見る?」
 林部長の声が水中みたいに歪んで聞こえてくる。自分の名前を呼ばれたのだと理解するのに少し時間がかかった。
「シフトか、麻痺……」
 口を開くと舌が重い。なんとか言い切ったけど、これじゃ学生の返しだ。あいつ眠いのかな、くらいにしかみんな思ってないだろうけど。
 ——視界が白く、狭く、ゆっくりと上から潰れてくる。俯くと前額部が冷えていった。
(まずいな、このタイミングで……)
 積み重なり、綯い交ぜになった疲労が、ここに来て脳血流の低下として物理的に現れ始めていた。
 ここで倒れてみろ、俺のせいで当番表が狂う。オーベンたちからきっと呆れた目で見られる。たぶん、怒られたほうがマシだったって思うくらいに。
 倒れるわけにはいかない。わかってるのに、体が言うことを聞かない。
 胃がぎゅっと絞られる。口内にどくどくと唾液が溜まる。考えなくてもわかる。これ、吐く。
 額から落ちた汗が、ぽた、ぽた、とテーブルを叩いた。とりあえず横にならなきゃ。頭を下げて、脳血流を戻す。
「一条? おい、待て。動くな」
 斜め後ろに座っていた指導医——東先生が、そう言いながら手を伸ばす。だが、俺は、その手が届く前に崩れ落ちていた。
「っ……ぅあ、」
 重力に抗えなくなった視界が、一気に白く潰れる。かしゃん、とパイプ椅子の転がる音。俺は壁に手を突いたまま、ずるずると床にしゃがみ込んでいた。
 カンファレンスを進行していた夜勤帯の先生の声が止む。ほんの一瞬、辺りが静まり返る。
 しかし、すぐに椅子を蹴る音。
「一条。目、開けろ」
 東先生の声。すぐさま左手首、橈骨動脈に、誰か別の先生の指が食い込んできた。
「……徐脈だな。吉田先生、バイタル。キット持ってきて。血糖も」
 脈を取りながら、研修医にそう指示を出すのは永井医長。その声には倒れたレジデントを心配する熱ももちろんあったが、それ以上に救急医としての冷徹さがあった。
「はい!」
 研修医の短い声。バタバタと駆ける足音が室外に飛び出していく。
「下肢挙上。一旦カンファ中止ね」
 部長の穏やかな声。その前にもう、パイプ椅子の動くガチャガチャという音がカンファレンスルームに響いていた。東先生に支えられ、俺はそのままリノリウムの上に横たえられる。体に触れるリノリウムの冷たさがなんだか心地いい。傾けたパイプ椅子を、永井先生が俺の下腿に差し込んでくれる。
 カンファレンスを妨げてしまったこと、指導医たちの手を煩わせていること。いろいろと謝りたいことはあるのに声が出ない。それどころか、うっ、と喉からげっぷ混じりの水っぽい音が漏れている。
 吐き気が、波じゃなくて、塊になって迫り上がってくる。
「吐きそう? 横になろう」
 永井先生の声。そのまま頭と顎を支えられ、側臥位にされる。優しさというより、誤嚥させないための動きだった。口元に手早く袋が宛てがわれる。
「吐き、ます……すみません……」
 絞り出した声は情けなく震えていた。ぐっ、と背中が波を打って、胃の中のものが込み上げる。
「げっ……ぇっ、ええぇぇ……っ」
 口内に苦味が迸って、酸っぱい臭いが辺りに立ち込めた。うっすらと開いた目の端、袋の底に、白っぽい吐物が溜まっているのが映った。あぁ、これ、朝に飲んだウイダーだ。
 こんなふうに、胃袋から溢れ出た惨めな私生活を指導医たちの足元に曝している。その事実に、気が遠くなるほどの羞恥を覚えた。
「っ、は……」
 吐き終わっても、全身の力は抜けたまま。床に縫いつけられたみたいに動けない。
「なあ一条、お前、まともに寝たのいつ?」
 東先生が俺の顔を覗き込み、そう聞いてくる。
「あ……え、っと……」
 切れ切れにそう返す。吐き気はなくなってきたが、まだ頭がはっきりしない。
「一条先生、倒れる前にヘルプ出しなよ。ていうかさ、そんな状態でこれから患者を診るつもりだったの? 学生より酷いよ」
 遠くから、呆れたような森田先生の声。
 その通りだ。頷くことすらできない。

   *

 スタッフルームのソファの上。
 俺は横になったまま、壁の向こう、ホットラインやモニタの音が忙しなく鳴っているのを聞いている。歯がゆい思いだった。
 バイタルは概ね問題なかった。血糖も、やや低めではあったが正常。横になっているうちに視界もだいぶ戻ってきた。
(ホットライン、ずっと鳴ってるな。研修医が取ったか。本当なら俺がやらなくちゃいけないことなのに)
 胃の奥がじんわりと重い。さっき吐いたはずなのに、また気持ち悪い。
 ——学生より酷い、って言葉が頭から離れない。一睡もできずに体調が悪いまま、俺は患者を診るつもりだったのか。俺は、患者をリスクに曝そうとしていたのか。それは、プロとして失格じゃないのか。
 いつもなら当たり前に判断できることだ。あの場で座り続けるのではなく、もっと早く横になるという判断を——そして、現場から外れるという判断を、当たり前にできたはずだった。
 それが、今日はできなかった。
「……大丈夫そうか?」
 そうして、しばらく経って。救外の音が少し落ち着いてきたころ。東先生がやって来て、ふらっと向かいのソファに腰を下ろした。外来を抜け出して様子を見にきてくれたらしい。
「あ……はい、たぶん……」
 自分の声がやけに弱々しく聞こえて、内心で舌打ちした。たぶんなんて言葉、患者の前では使わないくせに。
 東先生は黙ったまま、どこか観察するような目つきで俺を見ていた。その視線が痛い。医者としてじゃなくて、“一条雅也”として見られている気がして。
「……情けないですね」
 ぽつりと漏れた自分の声は、少し震えていた。
「VVR(血管迷走神経反射)だってわかってたのに座り続けて、倒れて……当番表に、穴を開けた。それだけじゃない。自己管理の不足で、患者を……リスクに曝すところだった」
 唇を噛む。医者として、今までこういう患者を山ほど診てきた。大丈夫ですよ、よくある反応ですから。仕方ない。そう言ってきた側だった。でも、俺は患者じゃない。“仕方ない”で済ませられないことが、たくさんある。
 ——けれど、耳に届いたのは。
「情けなくねぇよ」
 という、あっさりとした声だった。
「倒れたのは、まあ……事故みたいなもんだ。森田先生はああ言ってたけど、気にすんな」
 ぽんぽんと肩を叩かれて、俺はなにも返せない。そんな様子の俺を見てか、東先生が僅かに目を細めながら続ける。
「今は休め。考えるな」
 その言葉に胸がぎゅっと軋んだ。休むって、自分がいちばん自分に許してこなかったことだ。
 向かいのソファから、東先生が立ち上がる。そして、こう言った。
「大丈夫だ。お前の代わりならいくらでもいる」
 それは優しさであり、事実でもあった。去っていく東先生の背中を眺めながら、そうだよな、と俺は息を吐く。
(俺がいなくたって、現にERは回ってる。倒れて、自分がそこからいなくなってわかる。代わりならいくらでもいる——優しいからこそ、残酷だ)
 そう考えながら俺は目を閉じる。完全には眠らない。ただ、抵抗するのを、もう止めただけだった。
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