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二十二歳

 雨が降っている。
 街じゅうを洗い流さんばかりに降り注ぎ、絶え間なく窓を打ち鳴らす夏の夜の雨。その雨だれが冷気となって私のいるこのリビングルームを包み込み、そして私は、その中心で動けずにただ立ち尽くしていた。——傷口から溢れ出した血が腕を流れ、手のひらを伝い、やがて指の先からぽたりぽたりとフローリングへ滴っていくのを、どこか他人事のように見つめる兄を見つめたまま。
「え、っと……大丈夫?」
 辛うじて発することができたのは、そんなどうしようもない問いかけだけだった。大丈夫かそうじゃないかくらい、聞かずとも見ればすぐにわかるのに。
「ん、……だいじょうぶ」
 葵くんはソファに腰かけたまま、回らない呂律でそれでもそう呟いて顔を上げると、たしかに私の目を見て笑った。その透き通るような、どこか儚い笑み。深い湖底を行く、澄み切った水の流れを思わせるような。ゆらゆらとして、あいまいで、かたちのない。
「だいじょーぶ、だから……」
 そう言いながら葵くんは、立ち上がろうとしたのか床に足を下ろして——しかしそこでふにゃりと膝が折れ、そのまま近くにあったテーブルを巻き込む形でガシャーーン! と派手に倒れ込んだ。
「——ッ、ぅ〜……」
「大丈夫!?」
 そばに寄り、しゃがみ込んで声を掛けるも苦しげに表情を歪ませるばかりで返事はない。どうしようとひとり焦り、泣きそうになっていたときだった。
「騒がしいな。……なにがあった」
 カチャリとドアの開く音がしたと思ったら、父さまがそう呆れたように言いながら歩いてきて。
「っ、あのね父さま、あのね、葵くんが」
 縋りつくようにその腕をつかんで引っ張る。
 父さまは床に倒れ込んだ葵くんの姿を見つけるとすぐにしゃがみ込み、葵くんの肩を叩きながらゆっくり呼びかけて、手首に触れてみたり首に触れてみたり——よくわからないけど——そしてそうしながら私に「倒れるところは見たか」と短く尋ねた。
「うん! 見たよ」
「そのときどうやって倒れたか覚えてるか」
「えっとね、たしか膝から……こう、がっしゃーん! って」
「……そうか。わかった」
 そしてそう呟くと改めて私に向き直り、「心配ない」ときっぱり告げた。
「それより止血が先だな。救急箱の中にガーゼがあるから……ああいや、いい。とりあえず救急箱ごと持ってきなさい」
「うん。わかったよ」
 葵くんのことは心配だしまだまだ不安だけど、父さまが心配ないって言うならきっとそうなのだろう。なにもわからないけど、なぜか大丈夫だとそう思えた。
 私が歩き出すのと同時に父さまは二本の腕でいとも軽々と葵くんの体を抱き上げ、ソファに寝かせようとしていた。——しかし。
「……あー。りか、袋が先だ」
「? うん」
 訳もわからず、それでも言われるがままキッチンへ袋を取りにいこうとする。でもその訳を、そしてそれがもう間に合わなかったのだということを、ふと耳をついたけぽけぽっという小さな水音で悟った。
 あちゃ〜、と呟いたのは私だった。今日は仕事でいないけれど、雅也くんがここにいたらきっと同じようにそう呟いただろう。血が繋がっていなくたって兄妹は兄妹、そういう口癖は知らず知らずのうちに私にもうつっているのだ。
「えーっと。私、とりあえずタオル持ってくるね」
 抱き上げられて、その揺れが誘因となったのだろうか。まるで赤ちゃんが飲んだばかりのミルクを戻してしまうときのような、静かな嘔吐だった。
 父さまの腕の中で葵くんが体を震わせ、続けて二回、またこぷりと戻した。父さまはやれやれといった様子で息を吐いていたけれど、それでも葵くんを抱え直し、正面から抱き上げると自分の肩口に葵くんの頭を寄りかからせ、それこそ本当に赤ちゃんをあやすような形で——とんとんと、静かにその背中を撫で続けていた。
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