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二十二歳

「あ、兄さん。おはよう」
 朝。
 リビングに入ると葵がキッチンに立っていて、ゆっくりと俺を振り返ってそう言った。
「おはよう。なに、朝ごはん作ってくれてるの」
 リビングには甘い匂いが立ち込めていた。チン、とトースタがーが鳴る。それでああ、今日の朝はハニートーストなのだなとわかった。
「うん。だって兄さん久々の休みでしょ、たまにはゆっくりしてほしいから」
「はぁ〜本当よくできた弟。好き」
 そう言えば葵は、ふふ、と目を細めて笑った。子犬のようなあどけない笑みだった。
「朝ごはん、葵はもう食べたの?」
「んーん、まだ。お腹が空いたらなにか別の作ろうかなって」
「そっかぁ」
 そう呟きながら、つい口元が綻んでいた。
 俺とりかの分を作ってくれているのだろう、カウンターの上には皿がふたつ置いてあった。甘いものが嫌いな葵が俺とりかのためにわざわざハニートーストを焼いてくれているのが、たまらなく愛しかった。
 ——葵の性格は、十代のころと比べてだいぶ柔らかくなったと思う。昔のようにりかを忌み嫌うこともなく——というより今となってはもう目に入れても痛くないくらいのかわいがりようで、近ごろは俺なんかより葵のほうがちゃんとお兄ちゃんしてるんじゃないか、と思うほどだ。
「おれ、今日は夕方からバイトだから。夜ごはん作ってくから、温めてふたりで食べてね」
「え。うれしいけど悪いな」
「いーの。兄さんには今までたくさん甘やかしてもらってきたんだから」
 ——こんなこと、十代の葵なら恥ずかしがって決して口にしなかったと思う。でも、大人になった今の葵は、こうやってなんの気なしに言い放つのだ。
 そんな弟の成長を、俺はもちろんうれしく思っている。けれど、また不安にもなった。
 だって——今の葵は、あまりにも脆い。
 十七歳の冬、うつ病に罹ってからというもの、葵はたびたび塞ぎ込むようになった。フラッシュバックを起こすことが多くなり、食思の不振も酷くなる一方で、だれの目に見てもやつれているのは明らかだった。
 考え方や口ぶりが大人になったとはいえ、葵は今でもODやリストカットを繰り返し、自己を損なうためだけに大量の酒を飲み、煙草を吸っているのだ。
 そう……、葵が幼いころから胸の内に抱き続けてきた「死にたい」という思いは、多少やわらぐことはあれど、消えることは決してないのだ。それほどまでに深い傷が、葵の胸には刻まれている……。
 そんな弟のことが、俺は心配でならなかった。
 でも、そう言えば葵は、決まって大丈夫だよと笑うのだ。——枯れ木の谷へ沈んでいく夕日が見せる、一瞬のきらめきのように儚く、力ない笑みで。


   *


 ある雨の夜だった。
 仕事を終えて家に帰ったころには一時を過ぎていて、俺はガレージに車を停めると、なるべく音を立てないようゆっくり玄関のドアを開けた。
「……ただいまー」
 そう小さく呟き、そのまま浴室に向かう。今日の昼、病棟を走り回ってかいた大量の汗を早く洗い流してしまいたかったのだ。
 でも——そんなとき、リビングのほうからなにやら音がするのに気づいて。ざあざあと降り注ぐ雨の音と、その中に混じったりかの焦ったような声。こんな遅くにいったいどうしたのだろうと思い、コンコンとドアを叩いた。
「ただいま。どうしたの、なにかあった?」
 返事はなかった。俺は少し迷って、そっとドアを開けた。
 リビングには明かりがついておらず、光といえば窓から差し込んでくるわずかな街灯の灯だけで、中でなにが起こっているのかまったく見当もつかなかった。
「あ、雅也くん! おかえりなさい」
 でも、俺が入ってきたのに気づいたのか、りかがそう声を上げて。
「ごめん、ちょっとこっち来てくれる? 葵くんが、」
「え。なに、どうしたの」
 言われて慌てて声のするほうへ駆けた。
 するとリビングの奥のほう、窓のそば、暗がりの中で葵が蹲っているのが見えて。その横でりかが、慣れた手つきでその肩をさすっていた。
「私、ついさっき水を飲みにきたんだけどね、そしたら葵くんが蹲ってるの見つけて」
 葵は肩を上下させ、ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返していた。……かわいそうに、またパニックを起こしたのか。
「は、ッ〜〜ふ、ぅ、うぅ、」
「葵くーん、もう大丈夫だよ。雅也くん帰ってきたからね」
 りかは大きな声でゆっくり、はっきりとそう言うと、とんとんと葵の肩を叩いた。
「葵、ただいまー。お兄ちゃんだよ」
 俺も呼びかけてみるが反応はない。
 そっと顔を覗き込むと、暗がりの中でもその肌が蝋のように血の気を失っているのがわかった。
「雅也くん。私、お水といっしょに薬を持ってこようか」
「あー……うん、そうだね。お願い」
 そう返すとわかった、と呟いてりかがキッチンへ駆けていった。……まったく、よくできた妹だ。
 こうやって葵がパニックを起こすのも——そしてそれを俺とりかでこんなふうにあやすのも、今やそう珍しいことではなかった。だから医者である俺はもちろん、まだ中学に上がったばかりのりかもこんな具合に落ち着いて対処できている。
「ッ、ふ……ぅ、うぅ、〜〜ッ」
「よしよし、大丈夫だよ。しんどいね」
 そう言いながら葵の肩にそっと触れ、さする。じっとりと汗ばんでいるのが布越しにも伝わってきたが、どういうわけか体温はゾッとするぐらい低い。
「雅也くん、持ってきた。薬これで合ってる?」
 水の入ったコップと薬のシートを片手に、バタバタとりかが駆けてきた。
「うん、合ってる合ってる。助かったよ」
 薬のシートにはソラナックスという文字が印字されていた。ソラナックスというのはベンゾジアゼピン系の抗不安薬であるアルプラゾラムの商品名で、葵が今かかっている精神科で処方されているものだ。
「ありがと、あとは俺が見るからりかはもう戻っていいよ。明日も学校でしょ」
「ん、わかった。おやすみなさい」
 そう言うとりかはコップと薬をテーブルの上に置き、出ていった。少しして、パタンと静かにドアの閉まる音がする。
「葵ー、ただいま。お兄ちゃんだよ」
 再びとんとんと肩を叩き、呼びかけてみる。すると葵がゆっくりと頭を上げた。その瞳はどことなく虚ろで、赤くなった瞼のふちにはうっすらと涙の膜が張っていた。
「ね、葵。どうしちゃったの」
「……ひ、ッく、ぅ……こわい、こわい……ッ」
「なにが怖いの」
 ふるふると葵が首を横に振る。その動きに誘われてとうとう零れた涙が、静かに頬を伝っていった。
 抱き寄せると、甘えるように頭をすり寄せてきた。でも返事はない。ひゅう、ひゅう、と引き攣ったような呼吸の音が、ただ聞こえてくるだけだ。
「しんどいねぇ、葵……薬、飲んじゃおっか」
 抱きしめたまま葵の顎を持ち上げ、唇のすきまから薬をねじ込む。
「お水も飲ませるよ、ごくんってしてね」
 コップを傾け、水を口に含ませると、葵はいやいやと首を振りながらも飲み込んでくれた。その拍子に、頬を伝っていた涙がぱたりと床に落ちた。
「いい子だね、葵」
 背中を撫でてやると、葵は俺の胸に頭を埋めたままこくりと小さく頷いた。
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