二十一歳
「行ってきます、父さん」
「じゃあお父さま、行ってくるね〜」
そう言うと雅也は小さく頭を下げ、りかはばいばいと楽しげに手を振ってリビングから出ていった。しばらく経つと庭のほうから軽やかなエンジン音が聞こえてきて、そのまま車は坂を下っていったようだった。
——湖の近くで天体観測がしてみたい、なんていうりかのいかにも子どもらしいわがままを雅也が嬉々として聞き入れて、そのままふたりして出かけていったのだった。
俺はリビングのチェアに腰かけ、週明けの会議で使う資料をパソコンで確認しながらひとりコーヒーを啜っていた。久々に手で豆を挽いたのもあって、いつもより香りが柔らかに立っている。都会の喧騒を離れ、郊外の別荘でゆったりと過ごす時間というのは、日々の仕事に追い立てられる身としては非常に貴重なものだった。
そうしてどれくらい経っただろう——突如としてゴンッという、なにかが床にぶつかったような鈍い音がドアの向こうで鳴り渡って。どうせ廊下に飾ってある絵かなにかが落ちたのだろうとリビングの外へ出た。
しかし、廊下の向こうに見えたのは、しゃがみ込み壁にもたれかかる人影だった。……葵だ。近づくと、俯いていた葵がゆっくりと頭を上げた。
「んー……?」
ぱちりと目が合う。しかしその目は力なくぼんやりと宙を見つめるばかりで、とても正常な状態とはいえなかった。
「どうした、どこ打った」
「ん〜……ひざいたい」
「頭は」
「いたくないよ」
「ほか痛いところは」
「ん〜……うで、うでいたい、ぅう〜……」
よく見れば黒いトレーナーの袖が一部、濡れたように光っていた。捲れば、そこには深く血の滲んだ傷口がいくつも走っていた。
まったくどうしようもないやつだなと呆れ返る。大方また薬を大量に飲み、自ら腕を切りつけたのだろう。
「はぁ…………とりあえず止血してやるから来なさい」
そう言うと葵はふるふると首を横に振った。
「あるけない……ねえだっこ、」
そしてそう言ったかと思えば、縋りつくように両腕を伸ばしてきた。そんな甘えた葵を見るのは初めてで、正直かなり驚いた。雅也と俺を間違えているんだろうか。だとしたら納得だ。葵が俺にこんな態度を取るはずがない。
抱き上げて、その体が思っていたよりもだいぶ軽いことに気づく。そういえば葵は、いつもほとんど食事を取らない。まるで生きることを放棄しようとしているようだと、いつか雅也が寂しげに言っていたような気がする。
「……とーさん、」
小さくそう呼ばれて、葵がきちんと俺を認識していたことに驚く。
「なんだ」
「……ごめん」
「どうして謝る」
葵は俺の肩に顔を埋めている。——だからその声はくぐもっていて、酷く不鮮明だった。だが、俺の耳にはまるで殴打のように強く残ったのだった。
「おれ、うまれてきてごめん」
「——ッ」
葵はそのまま眠ってしまったらしい。すやすやと小さく寝息が聞こえてきて、それが却って痛ましく、心苦しかった。
「じゃあお父さま、行ってくるね〜」
そう言うと雅也は小さく頭を下げ、りかはばいばいと楽しげに手を振ってリビングから出ていった。しばらく経つと庭のほうから軽やかなエンジン音が聞こえてきて、そのまま車は坂を下っていったようだった。
——湖の近くで天体観測がしてみたい、なんていうりかのいかにも子どもらしいわがままを雅也が嬉々として聞き入れて、そのままふたりして出かけていったのだった。
俺はリビングのチェアに腰かけ、週明けの会議で使う資料をパソコンで確認しながらひとりコーヒーを啜っていた。久々に手で豆を挽いたのもあって、いつもより香りが柔らかに立っている。都会の喧騒を離れ、郊外の別荘でゆったりと過ごす時間というのは、日々の仕事に追い立てられる身としては非常に貴重なものだった。
そうしてどれくらい経っただろう——突如としてゴンッという、なにかが床にぶつかったような鈍い音がドアの向こうで鳴り渡って。どうせ廊下に飾ってある絵かなにかが落ちたのだろうとリビングの外へ出た。
しかし、廊下の向こうに見えたのは、しゃがみ込み壁にもたれかかる人影だった。……葵だ。近づくと、俯いていた葵がゆっくりと頭を上げた。
「んー……?」
ぱちりと目が合う。しかしその目は力なくぼんやりと宙を見つめるばかりで、とても正常な状態とはいえなかった。
「どうした、どこ打った」
「ん〜……ひざいたい」
「頭は」
「いたくないよ」
「ほか痛いところは」
「ん〜……うで、うでいたい、ぅう〜……」
よく見れば黒いトレーナーの袖が一部、濡れたように光っていた。捲れば、そこには深く血の滲んだ傷口がいくつも走っていた。
まったくどうしようもないやつだなと呆れ返る。大方また薬を大量に飲み、自ら腕を切りつけたのだろう。
「はぁ…………とりあえず止血してやるから来なさい」
そう言うと葵はふるふると首を横に振った。
「あるけない……ねえだっこ、」
そしてそう言ったかと思えば、縋りつくように両腕を伸ばしてきた。そんな甘えた葵を見るのは初めてで、正直かなり驚いた。雅也と俺を間違えているんだろうか。だとしたら納得だ。葵が俺にこんな態度を取るはずがない。
抱き上げて、その体が思っていたよりもだいぶ軽いことに気づく。そういえば葵は、いつもほとんど食事を取らない。まるで生きることを放棄しようとしているようだと、いつか雅也が寂しげに言っていたような気がする。
「……とーさん、」
小さくそう呼ばれて、葵がきちんと俺を認識していたことに驚く。
「なんだ」
「……ごめん」
「どうして謝る」
葵は俺の肩に顔を埋めている。——だからその声はくぐもっていて、酷く不鮮明だった。だが、俺の耳にはまるで殴打のように強く残ったのだった。
「おれ、うまれてきてごめん」
「——ッ」
葵はそのまま眠ってしまったらしい。すやすやと小さく寝息が聞こえてきて、それが却って痛ましく、心苦しかった。
