十六歳
胃のむかつきを覚え始めたのはいつ頃だったっけ。吐くほどでもないけど、それでも腹の中心がぐるぐるして、もやもやして、そんな不快な感覚がずっとあった。
それでも毎日、学校から帰るとすぐ自室にこもり、机と向き合っていた。テキストやノート、ペンなんかが散らばりに散らばった机の隅、小さなデジタル時計に目をやる。……もう二時間も経つのか。明日の小テスト対策も予習ももう終わった。あとは中間テストに向けた復習を少しずつ始めていけばいいか。
うーん、と唸って背を伸ばす。チェアの支柱がギシリとしなった。
コンコンコン、と軽やかなノックの音が聞こえてきたのは、そんなときだった。
「葵ー、お風呂。そろそろ入りな、もう十時だよ」
「……ん」
「あと本当に夕飯いらないの?」
あー、そういえば帰ってすぐ兄さんに「飯は?」って聞かれて「もう食べてきたからいらない」って言ったんだっけ。
でも本当はなにも食べてない。ずっと胃がむかついてて、食べてもますます吐き気が酷くなりそうだったから――でもきっとそう言うと兄さんは大げさに心配するから、面倒でついそう言ったんだけど。
「……いらねー、もう食べてきた」
「んー、そっか……まぁいいけど。最近ぜんぜん家で食べてくれなくてちょっと寂しいよ、俺」
え、と声が漏れそうになる。慌てて飲み込んだ。ドアの前、足音が遠ざかっていく。
「…………」
ちくり、ちくりと胸が痛む。
そういえば、自分のことばっかりで兄さんのことなんてぜんぜん考えていなかったなと、今になってそう思ったのだった。
*
ざあざあと、断続的な水音に包まれる。
こうしてシャワーを浴びている時間だけはなにも考えなくていい。だから好きだった。
レバーを下げてシャワーを止め、はぁ、と小さく息を吐き、排水溝に吸い込まれていくボディーソープの泡をぼーっと眺める。でも体の表面にまとわりついた水滴があっという間に体を冷まして、寒くて、すぐに浴槽に体を沈めた。
「…………はぁ」
――疲れた。
こうしてお湯にゆっくり体を浸していると、今日あったことだとか思考だとかがまとまりなく次々と浮かんでくる。それでも真っ先に浮かんできたのは、さっきの兄さんの寂しそうな声。
忙しいのに、せっかくいつも飯を作って待ってくれてるのに、おれはそれを裏切ってばかりいる。でも、だからといってこういう思いをそのまま話せるかと言われれば難しかった。
……どれもこれも思春期のせいだ。思春期だと、そう思う。
そんなことをぐるぐると考えながら、どれくらい湯船に浸かっていただろう。いい加減そろそろ出ようと、体の芯まで温まったのを感じながら立ち上がった。
その瞬間。
視界の端からサーッと、黒いシミみたいなのが現れて、それがじわじわと視界を覆い尽くしていった。
貧血?
キーンと耳が鳴る。やばい。なにも見えない。バスルームの白かった壁が、今じゃほとんど真っ黒だ。なにも見えない、なにも聞こえない。それなのに、劈くような耳鳴りの奥でドクドクと自分の心臓が脈打っているのだけが聞こえる。
ていうか待って、今おれ本当に立ててる? 足の裏にあるつるつるとした浴槽の底の感触が、辛うじておれがまだ二本の足で立っていられていることを示しているが、その感触すらもふわふわと危うくなってきて。まずい、倒れる――そう思った瞬間だった。
「んく、っ、……ぇ゛っ、」
ごぼっ、と喉が鳴った。え、もしかして吐く? やばい。早くトイレ行かなきゃ。そう思う間にもまたごぼごぼっ、と喉が鳴って。
「え゛ぅッ、げっ、ぉぇっ、ぇ゛ぇ……ッ」
喉元に酸が勢いよく逆流してきて、ばしゃばしゃばしゃっとけたたましい水音が鳴り響いた。
「っ、はー……はっ、はー……」
サイアクだ。
視界が悪くてよく見えないけど、たぶん風呂、ってかお湯に吐いた。
全身がふわふわと揺れているような感じがする。くらっと頭が傾き、倒れそうになって慌ててしゃがんだ。ちゃぽん、とお湯と皮膚とがぶつかる、どことなく間の抜けた音が響いた。
「はぁ、……っ、は、」
浴槽の中でしゃがんでいると、しばらくして少しずつ視界が戻ってきた。そして惨状を目の当たりにして、死にたくなった。
朝食だろうか、白いペースト状の、どろどろの吐物が水面に浮かんでいて。それが水面が波打つのに合わせてゆらりゆらりと揺れ、広がっている。
待って、どーすんの、どーすればいいのこれ。
「にーさん……」
と、縋るように咄嗟にそう口にしていた。
それでも毎日、学校から帰るとすぐ自室にこもり、机と向き合っていた。テキストやノート、ペンなんかが散らばりに散らばった机の隅、小さなデジタル時計に目をやる。……もう二時間も経つのか。明日の小テスト対策も予習ももう終わった。あとは中間テストに向けた復習を少しずつ始めていけばいいか。
うーん、と唸って背を伸ばす。チェアの支柱がギシリとしなった。
コンコンコン、と軽やかなノックの音が聞こえてきたのは、そんなときだった。
「葵ー、お風呂。そろそろ入りな、もう十時だよ」
「……ん」
「あと本当に夕飯いらないの?」
あー、そういえば帰ってすぐ兄さんに「飯は?」って聞かれて「もう食べてきたからいらない」って言ったんだっけ。
でも本当はなにも食べてない。ずっと胃がむかついてて、食べてもますます吐き気が酷くなりそうだったから――でもきっとそう言うと兄さんは大げさに心配するから、面倒でついそう言ったんだけど。
「……いらねー、もう食べてきた」
「んー、そっか……まぁいいけど。最近ぜんぜん家で食べてくれなくてちょっと寂しいよ、俺」
え、と声が漏れそうになる。慌てて飲み込んだ。ドアの前、足音が遠ざかっていく。
「…………」
ちくり、ちくりと胸が痛む。
そういえば、自分のことばっかりで兄さんのことなんてぜんぜん考えていなかったなと、今になってそう思ったのだった。
*
ざあざあと、断続的な水音に包まれる。
こうしてシャワーを浴びている時間だけはなにも考えなくていい。だから好きだった。
レバーを下げてシャワーを止め、はぁ、と小さく息を吐き、排水溝に吸い込まれていくボディーソープの泡をぼーっと眺める。でも体の表面にまとわりついた水滴があっという間に体を冷まして、寒くて、すぐに浴槽に体を沈めた。
「…………はぁ」
――疲れた。
こうしてお湯にゆっくり体を浸していると、今日あったことだとか思考だとかがまとまりなく次々と浮かんでくる。それでも真っ先に浮かんできたのは、さっきの兄さんの寂しそうな声。
忙しいのに、せっかくいつも飯を作って待ってくれてるのに、おれはそれを裏切ってばかりいる。でも、だからといってこういう思いをそのまま話せるかと言われれば難しかった。
……どれもこれも思春期のせいだ。思春期だと、そう思う。
そんなことをぐるぐると考えながら、どれくらい湯船に浸かっていただろう。いい加減そろそろ出ようと、体の芯まで温まったのを感じながら立ち上がった。
その瞬間。
視界の端からサーッと、黒いシミみたいなのが現れて、それがじわじわと視界を覆い尽くしていった。
貧血?
キーンと耳が鳴る。やばい。なにも見えない。バスルームの白かった壁が、今じゃほとんど真っ黒だ。なにも見えない、なにも聞こえない。それなのに、劈くような耳鳴りの奥でドクドクと自分の心臓が脈打っているのだけが聞こえる。
ていうか待って、今おれ本当に立ててる? 足の裏にあるつるつるとした浴槽の底の感触が、辛うじておれがまだ二本の足で立っていられていることを示しているが、その感触すらもふわふわと危うくなってきて。まずい、倒れる――そう思った瞬間だった。
「んく、っ、……ぇ゛っ、」
ごぼっ、と喉が鳴った。え、もしかして吐く? やばい。早くトイレ行かなきゃ。そう思う間にもまたごぼごぼっ、と喉が鳴って。
「え゛ぅッ、げっ、ぉぇっ、ぇ゛ぇ……ッ」
喉元に酸が勢いよく逆流してきて、ばしゃばしゃばしゃっとけたたましい水音が鳴り響いた。
「っ、はー……はっ、はー……」
サイアクだ。
視界が悪くてよく見えないけど、たぶん風呂、ってかお湯に吐いた。
全身がふわふわと揺れているような感じがする。くらっと頭が傾き、倒れそうになって慌ててしゃがんだ。ちゃぽん、とお湯と皮膚とがぶつかる、どことなく間の抜けた音が響いた。
「はぁ、……っ、は、」
浴槽の中でしゃがんでいると、しばらくして少しずつ視界が戻ってきた。そして惨状を目の当たりにして、死にたくなった。
朝食だろうか、白いペースト状の、どろどろの吐物が水面に浮かんでいて。それが水面が波打つのに合わせてゆらりゆらりと揺れ、広がっている。
待って、どーすんの、どーすればいいのこれ。
「にーさん……」
と、縋るように咄嗟にそう口にしていた。
