十六歳
うわああぁぁん、と耳をつんざくような叫声が、弾かれたように家じゅうに鳴り渡った。
ガキの足元には粉々になった白いかけらが飛び散っている。つい二、三秒ほど前、このクソガキが手を滑らせて落っことしたコップの、悲しいくらいに変わり果てた姿だった。
「う゛ぅ、ぅ〜〜っ、ぱりんっていったぁ、ぱりんっていったああぁぁ」
——うるせぇなぁ、と小さく舌を打つ。コップが割れたくらいでピーピー泣くんじゃねぇよ、クソガキが。
しかも泣きたいのはおれのほうなんだけど。おまえが割ったそれ、おれが小さいころからずっと使ってたお気に入りのコップなんだけど。
「よしよし、大丈夫だよ〜びっくりしたねぇ」
「ふ、ぅう〜〜ッ、う、ぅう、」
十分ほど前だったと思う。
洗い物をする兄さんのうしろにくっついていたガキが、なにを思ったのか「りかもお手伝いする!」なんて言い出して。おまえがいたって兄さんの邪魔になるだけだろ、とおれは思ったのだが、人のいい兄さんは「ほんと? うれしいなぁ、じゃあ洗ったお皿を拭いてもらってもいい?」なんて言ってガキにタオルを渡したのだった。
そして案の定というかなんというか、ガキがコップを落っことして。自分で割ったくせに、……おれのコップなのに、被害者ヅラしてピーピー泣きやがった。
「りか、怪我してない? 痛いとこあったらすぐ言ってよ」
ガキを抱き上げたままそう口にした兄さんの、そんな甘い口調にすら腹が立って。
——おれに対する心配はないのかよ。
なんて、そう思うのはガキすぎるってわかってる。形あるものが壊れるのも、兄さんがガキを心配するのも当たり前のことだ。
でも……、と思う自分がいる。
あのコップはおれにとって、深い思い入れのあるものだった。まだおれが小さかったころ、母さんがおれのために買ってきてくれたものだった。
兄さんが割ってしまったのなら、まだ仕方ないと思えただろう。でも、壊したのはあのガキだった。一昨年の夏いきなり家にやってきて、おれの生活をぶち壊したあのクソガキが、また……。
むしゃくしゃする。この悲しみをどこへぶつけたらいいかわからない。兄さんはまったくおれのことなんか気にしてない。ガキの心配ばっかりだ。
「ぅう、っ〜〜ふ、ぅ、」
「よしよし、もー大丈夫だから。泣かないの」
……なんだよ、これ。つまんねぇ、ほんっとつまんねぇ。
チッとまた小さく舌を打つ。兄さんの腕の中でわんわんと泣き続けているガキも、兄さんも、みんなみんなだいっきらいだった。
「……っ、ふ、」
呼吸がおかしいな、と思ったのはそんなときだった。いつもより少し速い、……ような気がする。このままだと過呼吸になるかもしれないなと、ゆっくり息を吐こうとして——ああ、そうだ、と思った。
このまま本当に過呼吸になったら。兄さん、おれのこと見てくれるかな。少しは心配してくれるかな。
「っ、……は、」
速く、短く。ひゅ、ひゅ、と息を吸い、呼吸のペースを上げていく。そのうち手の先がじんわり痺れて、それでも続けていたら、手が変に固まって動かなくなった。あれ、なんで? やばいかも。思考が回らない。頭がぼーっとする。
そして。
「っ、は、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……ッ」
——あ、まずい。
そう思ったときには遅かった。
ゴンッ、と右肩になにか硬いものがぶつかって。やや遅れてその正体がフローリングであること、そして椅子から転がり落ちた自分の体がフローリングの上で横を向いたまま倒れていることに気づいた。
「……ッ、葵!」
バタバタと、踏み鳴らすような慌ただしい足音がする。……兄さんだ。あー、ガキのことほっぽって来てくれたんだ。でもどうしてだろう、うれしいとは思えなかった。ただ虚しかった。
「どうしたの葵、苦しい? 気づかなくてごめんね」
兄さんがおれの体を抱き起こす。おれは兄さんの胸に顔を埋めて、ふうふうと整わない呼吸を繰り返していた。
「〜〜ッ、ふ、ぅう」
自分でも気がつかないうちにぼろぼろと涙が溢れていた。
「あーあー、泣かないの。大きい音ダメだった?」
違う、そうじゃない、そう言いたかった。でも鼻がぐずぐずに詰まっていてそれどころじゃないし、そもそもどうして自分が泣いているのかがわからない。
「ふ、ぅ、〜〜ひ、っく、ぅ」
「苦しいねぇ……難しいと思うけどゆっくり息しようか」
……なんも満たされない。
兄さんがガキをほっぽっておれを心配してくれても、さっきまでガキに向けていた甘い口調でおれに話しかけてくれても、だめだ。おれはずっと満たされない。
虚しいままだった。
ガキの足元には粉々になった白いかけらが飛び散っている。つい二、三秒ほど前、このクソガキが手を滑らせて落っことしたコップの、悲しいくらいに変わり果てた姿だった。
「う゛ぅ、ぅ〜〜っ、ぱりんっていったぁ、ぱりんっていったああぁぁ」
——うるせぇなぁ、と小さく舌を打つ。コップが割れたくらいでピーピー泣くんじゃねぇよ、クソガキが。
しかも泣きたいのはおれのほうなんだけど。おまえが割ったそれ、おれが小さいころからずっと使ってたお気に入りのコップなんだけど。
「よしよし、大丈夫だよ〜びっくりしたねぇ」
「ふ、ぅう〜〜ッ、う、ぅう、」
十分ほど前だったと思う。
洗い物をする兄さんのうしろにくっついていたガキが、なにを思ったのか「りかもお手伝いする!」なんて言い出して。おまえがいたって兄さんの邪魔になるだけだろ、とおれは思ったのだが、人のいい兄さんは「ほんと? うれしいなぁ、じゃあ洗ったお皿を拭いてもらってもいい?」なんて言ってガキにタオルを渡したのだった。
そして案の定というかなんというか、ガキがコップを落っことして。自分で割ったくせに、……おれのコップなのに、被害者ヅラしてピーピー泣きやがった。
「りか、怪我してない? 痛いとこあったらすぐ言ってよ」
ガキを抱き上げたままそう口にした兄さんの、そんな甘い口調にすら腹が立って。
——おれに対する心配はないのかよ。
なんて、そう思うのはガキすぎるってわかってる。形あるものが壊れるのも、兄さんがガキを心配するのも当たり前のことだ。
でも……、と思う自分がいる。
あのコップはおれにとって、深い思い入れのあるものだった。まだおれが小さかったころ、母さんがおれのために買ってきてくれたものだった。
兄さんが割ってしまったのなら、まだ仕方ないと思えただろう。でも、壊したのはあのガキだった。一昨年の夏いきなり家にやってきて、おれの生活をぶち壊したあのクソガキが、また……。
むしゃくしゃする。この悲しみをどこへぶつけたらいいかわからない。兄さんはまったくおれのことなんか気にしてない。ガキの心配ばっかりだ。
「ぅう、っ〜〜ふ、ぅ、」
「よしよし、もー大丈夫だから。泣かないの」
……なんだよ、これ。つまんねぇ、ほんっとつまんねぇ。
チッとまた小さく舌を打つ。兄さんの腕の中でわんわんと泣き続けているガキも、兄さんも、みんなみんなだいっきらいだった。
「……っ、ふ、」
呼吸がおかしいな、と思ったのはそんなときだった。いつもより少し速い、……ような気がする。このままだと過呼吸になるかもしれないなと、ゆっくり息を吐こうとして——ああ、そうだ、と思った。
このまま本当に過呼吸になったら。兄さん、おれのこと見てくれるかな。少しは心配してくれるかな。
「っ、……は、」
速く、短く。ひゅ、ひゅ、と息を吸い、呼吸のペースを上げていく。そのうち手の先がじんわり痺れて、それでも続けていたら、手が変に固まって動かなくなった。あれ、なんで? やばいかも。思考が回らない。頭がぼーっとする。
そして。
「っ、は、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……ッ」
——あ、まずい。
そう思ったときには遅かった。
ゴンッ、と右肩になにか硬いものがぶつかって。やや遅れてその正体がフローリングであること、そして椅子から転がり落ちた自分の体がフローリングの上で横を向いたまま倒れていることに気づいた。
「……ッ、葵!」
バタバタと、踏み鳴らすような慌ただしい足音がする。……兄さんだ。あー、ガキのことほっぽって来てくれたんだ。でもどうしてだろう、うれしいとは思えなかった。ただ虚しかった。
「どうしたの葵、苦しい? 気づかなくてごめんね」
兄さんがおれの体を抱き起こす。おれは兄さんの胸に顔を埋めて、ふうふうと整わない呼吸を繰り返していた。
「〜〜ッ、ふ、ぅう」
自分でも気がつかないうちにぼろぼろと涙が溢れていた。
「あーあー、泣かないの。大きい音ダメだった?」
違う、そうじゃない、そう言いたかった。でも鼻がぐずぐずに詰まっていてそれどころじゃないし、そもそもどうして自分が泣いているのかがわからない。
「ふ、ぅ、〜〜ひ、っく、ぅ」
「苦しいねぇ……難しいと思うけどゆっくり息しようか」
……なんも満たされない。
兄さんがガキをほっぽっておれを心配してくれても、さっきまでガキに向けていた甘い口調でおれに話しかけてくれても、だめだ。おれはずっと満たされない。
虚しいままだった。
