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十五歳

 ――あれ、なんかおかしいな。
 そう思い始めたのはりかを保育園まで迎えにいった日の夜。腹が減ったと言うりかのために、キッチンでおかゆを作っていたときのことだった。
 ぎゅるぎゅるっと腸が動く音がして。すぐにあ、出るな、ってそんな差し迫った感覚。慌ててトイレに駆け込むと、お腹がぎゅーっと絞られるみたいに痛んで、目の前が白くチカチカと滲んでいった。じとり、じとりと汗が首筋を伝い、ややあって水っぽい便がびしゃびしゃっと勢いよく排泄されていった。
「……い゛、った…………」
 またぎゅるっと音が鳴って、キリキリと差し込まれるように腹の中心が痛んだ。肘を曲げ、腹の中心を手でさすろうとするも、布越しに伝わる手のひらの温度は低く、ますます腹が痛くなりそうだなとそっと引っ込める。
「っ、ふ――ぅ゛」
 またきゅっと腹が絞られるように痛んだ。血の気がさーっと引いて、ぞくぞくっと全身が震える。腕のおもてがぶわりと粟立った。……寒い。
 ぼんやりと、白く霞んでいく頭で考える。――あー、やっぱおかしいよなぁこれ。もしかしなくてもうつったか。


   *


 とりあえず出し切ったのだろう、未だ腹はキリキリと痛むが、その痛みも先ほどよりは少しマシになっていた。
「どーお、ふたりとも、調子」
 作り終えたおかゆを鍋から皿に移し、皿を片手にいつもの調子でリビングに戻る。
 りかは小さいからまだ大丈夫だろうけど、葵は聡いところがあるから俺の具合が悪いのに気づきそうだし、気づいたらめちゃくちゃ気をつかいそうだし、そうなったらかわいそうだからと努めていつもの俺を装うことにした。
 フローリングには布団がふたつ並んでいて、それぞれりかと葵が横になっている。りかのほうはもうかなり良くなってきていて仰向けになってタブレットを楽しそうに弄っているが、葵のほうはといえば、うつ伏せのままぐったりと枕に顔を沈めていた。
 葵の枕元、ビニールを被せたゴミ箱の底には、白っぽい吐物が溜まっていた。たしか俺がキッチンに立つまでは空っぽだったはずだが。
「……ごめん、にーさん、はいた」
「そっかそっか、苦しかったね。口ゆすいだ? お水まだある?」
「ゆすいだ。水、は……まだある」
 葵の呼吸は切れ切れだった。声を発するのも辛いのだろう。
「今はどう、まだ出そう?」
「あー……いま、は、だいじょーぶ」
「ん。じゃ、あとで俺これ片しとくね」
 精神的にも肉体的にもだいぶ参っているようで、ごめんと呟く葵の声は今にも消え入りそうだった。
「はい、りか。おかゆ」
「あ! おかゆ!」
「起きれる?」
 布団のそば、小さい組み立て式のテーブルに皿を置き、そう声を掛ける。りかはタブレットを枕元に置くとゆっくり起き上がって、行儀よくテーブルの前に座った。
「いーい? いきなりたくさん食べるとまたげーってなっちゃうかもしれないからね、ゆっくり食べるんだよ」
「うん! わかったぁ、いただきます!」
 しばらくりかの様子を見て、大丈夫そうだなと判断して立ち上がり、ビニールを回収して処理する。そのころには腹具合もだいぶ良くなっていて、ああよかったなと、そう思ってリビングにノートパソコンを持ち込み、ふたりの様子を見ながらレポートを打ち始めた。


   *


 翌日。
 正午を過ぎても葵とりかはすやすや眠っていて、今日の昼食はまぁなしでいいかなと考える。葵は食欲ないってずっと言ってるし、りかも昨夜おかゆを食べてから、もう明日はごはんいらないって言ってたし、俺もあんまり食欲ないし。
「……ふふっ。かーわいい」
 並んで眠るふたりは本当の兄妹みたいだ。こんなこと葵に言ったら怒るだろうけど、おれからしたらふたりとも同じくらい大切な弟と妹なのだ。
 昨夜レポートは完成させたし、あとは溜まった洗濯物と食器を片づけて……、とそう考えたところでぎゅるっと腹が鳴った。
 ――あれ、また? そう思ったのも束の間、またあのギリギリと差し迫った感覚。やばい出る、と眠るふたりをよそにバタバタとトイレに駆け込んだ。
「……っ、〜……っふ、ぅ…………」
 力む間もなくびゅーびゅーと水っぽい便が排泄される。
「っ、ふ……い゛った、――っ、ぁ」
 あまりの痛みに思わず声が漏れる。キリ、キリ、と腹が絞られるたびにまたぶじゅっ、ぶじゅっと耳を塞ぎたくなるような酷い音を立てながら便が出る。
「あー…………しんど」
 だれに向けたわけでもない呟き。
 それでも頭の中にあるのは焦りだった。
 ――どうしよ、これ。このまま俺まで動けなくなったらだれが葵とりかの面倒みんの。
 今ここで俺がくたばるわけにはいかない。だから大丈夫。俺は大丈夫……。そう自分に言い聞かせてまたリビングに戻った。


   *


「あれ、起きてる。どーした」
 リビングに戻ると眠っていたはずの葵が起きていて、半身を起こして毛布を抱え、壁に背を預けて座っていた。
「……はらいたい」
「あー、そっちにも来ちゃったか。どーする、トイレ行く?」
「…………いく」
「ひとりで行ける?」
 返事はないが、察するにひとりじゃ行けないってことなんだろう。ふらふらと揺れる葵の体を支えてトイレまで歩かせる。
「……もうだいじょーぶ、でてって、」
「はいはい、向こういるから終わったら呼んでねー」
 扉を閉めてやり、少し離れたところで待つがそれでもなおぶしゅぶしゅと酷く下している音が聞こえてくる。かわいそうになぁ、上だけでも辛いだろうに下にまで来ちゃったか。
「…………おわった」
 扉を開けて出てきた葵の顔は、真っ青を通り越して真っ白だった。ふらふらと頼りなく揺れるから、倒れてしまうんじゃないかって怖くて体を支える手にぎゅっと力がこもる。そのときだった。
「…………ッ」
 ちく、っと腹になにか刺さったみたいな、そんな気がして。
「あ、ごめん葵、ちょっと待って、」
「?」
「ひとりで戻……るのはなし、だな、えーっと、ちょっと待っててそこで!」
 やばい。いきなり下ってきた。ぎゅる、ぎゅる、と腸がいやな音を立てている。やばい、本当にやばい。冷や汗がどろりと背を伝った。
 もう葵にバレるとかバレないとかそんなことを考えている余裕もなくなって、俺は慌ててトイレに駆け込むと、バタンと勢いよくドアを閉めた。
 パンツを下ろしのたか下ろしてないのかそれすらもわからないくらい本当にギリギリだった。それでもちゃんと便座に腰を下ろしていたし、すぐにぎゅーっと腹が鳴って、水っぽい便がびしゃっびしゃっと切れ切れに出ていった。
「っ、はー…………はっ、はっ」
 しんどい。こんなに体調が悪いのっていつぶりだろう。もしかしたら子どものとき以来かも。
 目の前がぐらぐらと揺れている。座ったままで、ふらりと体が傾きそうになって慌てて壁に手をついた。
「…………ぇ゛、うっ、」
 排便が落ち着いたところで次は喉が鳴って焦る。待って、え、こっちからも出る? ふらつく体をなんとか整えて腕を伸ばし、レバーを下げ、水を流した。そしてガタガタと派手な音を立てながら倒れ込むように便器に半ば顔を突っ込み、透明な水と向き合う。
「え゛ッ――、ん、っく、え゛っ――ぉろッ、」
 げぶっ、とひとりでに喉が開いて、ほとんど噴き出すみたいに吐いた。びしゃびしゃびしゃっと勢いよく水面に叩きつけられたそれは、元々あった水とそう変わらないくらいに透明な、さらさらとした胃液ばかりで。
「はー……はっ、は……はっ、」
 手のひらで胸を撫でつけてぜーぜーと荒れた呼吸を整えていると、コンコンコン、と後ろの扉がノックされる音が聞こえてきて。
「兄さん? ねえ兄さん、大丈夫?」
「あー……葵ごめんね、大丈夫だよ」
 そう言いながらけほっと咳き込む。あー、吐いたせいで喉やられたな。
「けほっ、けほっ、……ぇ゛ほっ、ごほっ、ゔっ……お゛ぇっ」
 ものも言えずしばらく咳き込んでいると、その咳で嘔気が誘発されたのか再びびしゃびしゃと胃液を戻してしまった。
「ねえ兄さん、あけて」
 頭がぼーっとしてうまく思考がまとまらず、言われるがままに扉を開けると葵が水の入ったコップを片手に立っていた。
「持ってきた。口ゆすぐ?」
「あー……ごめんね、ほんと」
 しんどいのに気をつかわせた。俺は大丈夫なのに。
「いーよ、謝んなくて。てかごめん、あれだよね、完全おれのうつったよね」
「いや、お前のかりかのかなんなのかわかんないよ。今めちゃくちゃはやってるし。気にすんな」
 水で喉を湿らせるとだいぶ楽になった。レバーを押し下げて水を流し、立ち上がる。
 しかし。
「…………っ」
 いきなり立ち上がったのがよくなかったんだろう、瞬間、さぁっと血の気が引いた。視界が一気に真っ暗になる。崩れそうになる体を支えたのは、俺よりうんと細い、今にも折れそうに小さな体で。
「え、ちょっと大丈夫、気をつけて」
「あー…………ごめん、なんか、ちょっとやばい、かも…………?」
 ごめん、と呟いて再びしゃがみ込む。未だ視界は戻らないが、それでも手を這わせて壁を探り当て、背を預け、しばらくじっとしていると徐々に目の前が明るくなって視界が戻ってきた。
「……どうしたの?」
 そして真っ先に飛び込んできたのは、不安そうに俺を見つめる葵の顔だった。
「あー……いや、ただの脳貧血だと思う。いきなり立ち上がったのがいけなかったのかも」
 これ以上もう心配させたくなくてそう言って笑ってみせるが、葵の表情はますます曇っていって。
「しんどいとき笑わなくていい」
「……ごめんね?」
「あと、謝んなくていい」
 どうやら立場が逆転してしまったようだ。このまま世話になりっぱなしになるのも悪いなと、今度はゆっくり立ち上がってリビングに戻った。そして葵を布団に寝かせ、頭を撫でながら言う。
「不安にさせちゃったね。俺は大丈夫だから、お前はゆっくり休みな」
「いや、いい」
「いいとかじゃなくて。ちゃんと休んで」
 葵はふうふうと苦しげに息をしていた。そりゃそうだ、俺が疲れさせたんだから。
「おれもやすむよ。けど兄さんもやすむの。きょうもあしたも、治るまでなんもしない」
「……どういうこと?」
 言われている意味がよくわからず首を傾げていると、葵が枕元に転がっていたスマートフォンを手に取り、横になったままなにやらどこかへ電話を掛け始めた。
「……あ、もしもし、葵ですけど」
「え、ちょ」
 その口ぶりでわかった。父さんだ。
 待って。嘘だろ。葵が自分から父さんに電話するってそんな、本当はすごくいやだろうに。
「……そう、兄さんもうごけなくて。なるべく早めにきていただけると助かるんですけど。はい、……あー、はい」
 それじゃ失礼します、と電話を切って葵は、すぐに俺を見やって「父さん今日じゅうには来てくれるって」とだけ言った。
「え、いや、俺はいいけどさ……お前は大丈夫なの」
 そう言うと、葵は心の底から呆れた、といったふうにため息を吐いて。
「あのさぁ……、今はおれがだいじょうぶかそうじゃないか心配してる場合じゃないでしょ。おれ、ちょっと怒ってるんだからね。兄さんがおれたちに気ぃつかって自分も具合わるいのずっと黙ってたこと」
 そう言われては返す言葉もなかった。
 ごめん、と言いかけて飲み込み、小さく「ありがとう」と呟けば、葵は「ん」と僅かに口角を上げた。相変わらず顔色は悪かったけど、それでも満足げに笑っていた。
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