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十五歳

 びちゃびちゃびちゃっ、と水音がして。てっきり誰か水でも零したのかと思って振り向いた。しかし零れていたのは水でもお茶でもなんでもなく、今しがた後ろの席のやつがぶち撒けたと思しき白っぽい大量のゲロだった。
 うわっと怯えたように叫ぶ声、ガタガタと椅子を引く音なんかにざわざわと包まれて、昼下がりの教室は騒がしさを増していく。
 ——教師が「配布するプリントを忘れた」なんて言って教室を出ていってから僅か二、三分のことだったと思う。ウイルス性の胃腸炎が猛威を振るう十二月、今朝ちょうど担任から別の学年で学級閉鎖が起こったなんて話を聞かされたばかりで、生徒たちの不安が膨れ上がっていた中でのこの出来事だ——そいつと親しくないやつらはもちろん、親しいやつらだってわあわあと喚くばかりで誰ひとり手を差し伸べない——そんな状況だった。
「……ガキじゃねぇんだからこんなことでいちいち騒ぐなよ。バッカじゃねーの」
 カタンと立ち上がるとおれは思いきり舌を打ってそう言った。あんなに騒がしかった教室が、水を打ったようにしんと静まり返る。おれはゆっくりしゃがむと、真っ青な顔で口を押さえたまま俯いているそいつに小さく声を掛けた。
「まだ出る?」
 尋ねれば、ふるふると首を横に振る。
「そ。じゃ、とりあえず外出るか」
 そして鞄からスポーツタオルを取り出して渡そうとするも、そいつは不安げにおれを見つめて「……汚れる、」とだけ呟いた。
「別に気にしないから」
 咄嗟に手で受けようとしたのだろう、そいつの手はぐちゃぐちゃの吐物まみれで。
「さっさと手ぇ拭けば。ずっとぐちゃぐちゃなのいやだろ」
 そう言えばそいつは俯いたままおずおずとタオルを取って手を拭い、ごめんと呟いて安心したように僅かに顔を上げた。

   *

 ——そんなことがあった翌日。
 やはりというかなんというか後ろの席のやつは欠席で、朝のホームルームで担任が「えー、昨日の昼に早退した田代くんですが、ウイルス性の胃腸炎だったそうでしばらく欠席だそうです」なんて言うのをまあそうだよなと思いながら聞いていた。
「今どこのクラスでも流行ってるのでみんな気をつけて」
 ……そういえばガキの保育園でも流行ってるって兄さんが言ってたっけ。よく手を洗ってうがいしろっておれまで注意されて、うるせーなもうガキじゃねぇんだし、なんて反抗した覚えがある。
 しばらくしてチャイムが鳴った。授業が始まる。おれはいつものように左手で頬杖をつき、シャープペンシルを握った右手をノートの上で適当に滑らせて、ちゃんと聞いてますよアピールをしながら窓の外を眺めていた。
「…………」
 ——ふ、と腹のあたりに違和感を覚えたのは、四限が始まってすぐのことだった。なんだろう、ぐるぐるするっていうかもやもやするっていうか。今すぐ吐くってほどじゃないけど、うっかりすると吐くかもしれない、そんな感じ。……なんか変なもんでも食ったっけ? 窓の外に目をやったまま、左手でこっそり腹をさする。
 壇上から「おい」と声が掛かったのはそんなときだった。
「一条。聞いてるか」
 怒気を孕んだ低い声だった。うるせーな、と舌を打ちそうになってなんとか堪えた。たまにいるんだよな、こうやっておれのこと目の敵にしてくるセンコー。
「なに。聞いてますけど」
「そうは見えなかったけどな。……まあいい、聞いてたんなら解いてみろ、これ」
 はい、とぶっきらぼうに答えて立ち上がる。歩くたびに胃の不快感が増していって、思わず顔を顰めた。
「なんだ。難しいか」
「……べつに」
 白いチョークを取り、黒板に式を殴り書く。そして解に雑に線を引っ張るとすぐ席に戻った。
 センコーは黒板を一瞥するとふんと鼻を鳴らして「正解」とだけ言った。その忌々しげな表情を見て、思わず自嘲じみた笑みが漏れる。
 ——おもしろいくらい嫌われてるよな、おれ。
 かわいげのない自覚はある。それどころか超がつくくらい生意気だってことも。でもそれは生まれ持ったおれの性分だからそんなにすぐには変えられないし、そもそもそれでいいんだ。だれに嫌われたって憎まれたって、なんでも。
 左手でゆっくり腹をさする。違和感は増すばかりだった。

   *

 バシャバシャッと続けて二回、えずく間もなく吐いた。水面に溶けかけの朝食が散らばって、あれ、あんま消化されてなくね? なんてぼんやり思う。
 ——昼休み。胃の底から這い上がってくる不快感に耐え切れず、駆け込んだトイレで思いっきり吐いた。
 具合が悪くて吐くのは本当に久々だった。自分で指を入れて吐いたり、薬の飲み過ぎで吐いたりすることはよくあったけど。
「っ、ふ……はぁ、っ、はぁ」
 荒れた呼吸を整えながら手の甲で口元を拭う。……たぶんこれ、胃腸炎だよな。ウイルス性の。もしかしたら昨日、後ろの席のやつからもらったのかも。
 かなりの量を戻したにもかかわらず胃の不快感は増すばかりだった。もしかしたらまた吐くかもしれない。
 ……帰ろう。このままここで動けなくなっても困るし。そう考えながら教室に戻り、机の上のものを片っ端から鞄に突っ込んで教室を出る。
 ——黙って帰ったのがバレたらまたセンコーどもに怒られるだろうな。でも具合が悪いって言ったってどうせ信じてもらえないし、結局サボり扱いになるなら最初からそれでいい。
「……っ、はぁ」
 体が重い。歩こうと地に足をつけるたびふわふわと地面が揺れる。それでもなんとか駅まで辿り着き、電車を待つ。

   *

 今日は兄さんは大学で、ガキは保育園。だから帰っても家には誰もいないはずだった。
 ——しかし。
「……なんで、」
 玄関に靴がある。それも二足。兄さんの黒い革靴と、ガキのピンクのスニーカー。
「え。葵?」
 ドアの開く音を聞きつけてか、兄さんが驚いたように玄関に駆けてきた。
 え、なんで兄さんいるの? ってかやばい、ぜってー怒られる。そう思い慌てて兄さんの横を通り過ぎようとするが、すかさず腕を掴まれた。
「今日って学校お昼までの日じゃないよね。なんで早いの」
「……帰った」
「なんで」
「うるさい」
 はぁ、と兄さんがため息をつく。怒られるのは嫌だけど、兄さんに気にかけてもらえてちょっと喜んでいる自分もいた。それでもついいつもの癖で反抗してしまったし、そのせいで具合が悪いなんてとても言い出せるような状況ではなくなってしまった。
「先生にはちゃんと言った?」
「……」
「言ってないのね、もー……だめでしょ。俺ちょっとあとで電話するけどさ、そのサボり癖いい加減に直してね」
 兄さんは呆れたようにそう言った。でも「ま、でもちょうどよかったかな」とひとり言のように呟くと「あのさ、葵」と続けた。
「お願いなんだけど、あと一時間でいいからりかのこと看ててくれない?」
 どういうこと、と返せば「実はさ」と兄さんが申し訳なさそうに切り出した。
「昼にりかが吐いたって保育園から連絡があってさ。俺、講義の途中で迎えにいったんだ。んで、今日のレポート提出もう諦めてたんだけど、あと一時間あればギリギリ提出だけはできるんだよね〜……」
 だからお願い、と頼まれて断れるわけがなかった。兄さんがこんなふうにおれになにかを頼むなんてよっぽどのことだし。
 わかった、と頷けば兄さんは安心したように笑った。
「ほんと助かる、ありがとね葵。りかはリビングで寝かせてる。まあ割と元気だから大丈夫だと思うけど」
 よろしくね、とおれの頭をぽんぽんと撫でて、兄さんは出ていった。

   *

 お前ほんとに熱あるの? って思わず聞きたくなるくらいガキは元気だった。
「葵お兄ちゃん、テレビ!」
「おれテレビじゃない。リモコンそこ。自分でつけろ」
 ガキはリビングに敷かれた布団の上で半身を起こし、やれ喉が渇いただのやれテレビをつけろだの騒いでいる。
 枕元には袋を被せた洗面器、ぬいぐるみや体温計、さっきおれが持ってきてやったりんごジュースの入ったコップなんかが置いてあるが、この様子じゃ本当に必要かどうか疑わしい。
「熱いつ測った」
「えっとね、保育園!」
「そう。じゃあもう一回な」
 体温計を渡して熱を測らせる。少ししてブザーが鳴り、見てみれば三十七度八分。まあそう大したことはないな。兄さんが帰ってきたら報告しよう。ガキの体温なんて別に知ったこっちゃないけど、ちゃんと看てましたよアピールとして。
「もう気持ち悪くないの」
 そのへんで吐かれても困るから念のために聞いておく。
「うん。でもねぇ、眠たいの」
「寝れば」
 おれ的にはさっさと寝てくれたほうがありがたい。……ていうかおれだって寝たいんだけど。さっきから胃がむかむかして、体がふわふわして気持ち悪くて、眠れなくてもいいからせめて横にはなりたい。
「ねぇ葵お兄ちゃん、りかのお背中とんとんして」
「はぁ? なんでおれが」
「えー、雅也お兄ちゃんはいつもやってくれるよ」
「はぁ…………うっざ」
 兄さんこいつのこと甘やかしすぎだろ。ほんっとかわいくねぇ。
「してやってもいいけどさっさと寝ろよ」
 あぐらをかき、布団の上で転がっているガキの背中をとんとんとさする。そうしてふっと思った。……ガキの背中、熱ある割に冷たくないか。いや、もしかしておれが熱いのか。
 気になって、ガキが眠ったあとこっそり体温計を脇に挟んで熱を測ってみた。するとやはりというかなんというか、三十八度九分というまあまあな数値が叩き出されて、そりゃ辛いはずだよなとどこか他人事のように思う。
「……っ、ぅ」
 胃のむかつきが喉にまで迫ってきた。口の中に生唾がわき、冷や汗がどろりと首筋を伝う。ふ、ふ、と息が上がって背中がぞくぞくと震えて、寒くて、いよいよまずいなと立ち上がってトイレに駆け込んだ。
 ぇ゛う、と変に喉が鳴って、ひとりでに逆流してきた吐物がびちゃびちゃっと水面を叩く。
「はぁ、はぁっ、……ふ、ぅ……」
 出てきたのは原型をかすかに留めた昨日の夕飯だった。まだ出そうではあるが、どれだけえずいてみてもなにも出ない。どーしよ、と考えながらトイレットペーパーで口元を拭い、洗浄レバーを押した。
 ふらふらとリビングに戻る。寒い。ぞくぞくする。それでも吐く息は熱い。
 ずるずるとしゃがみ込むようにガキの枕元に座った。ガキはすやすやと寝息を立てて眠っている。のんきなもんだ。
 ——おれも寝たい。もう疲れた。少しだけ、少しだけならいいよな……。そう思って、座ったまま目を瞑る。

   *

 うわぁん、と遠くでガキの泣く声。そして体を揺さぶられる感覚。なんだよ今おれ寝てんだけど、ふざけんなよなんて夢とうつつのはざまで毒づきながらうすうすと目を覚ます。
「葵!」
「…………へ、ぇ、あれ?」
 そして現実を見る。
 目の前ではガキがわんわんと泣いている。見ればガキのパジャマと布団がどろどろに汚れていて、それはどう考えてもガキの吐いたゲロで、そしてその隣には兄さんがいて、呆れたようにおれを見ていた。
 え、やばい。やばくないか。ちょっと眠るだけのつもりだったのに思いっきり寝てた。ガキが吐いたことも泣いてたこともぜんぜん知らなかった。そりゃ兄さんも呆れるはずだ。
「帰ってきたらりか泣いてるし、お前は寝てるし……ねえ、どういうこと」
「っ、ごめん」
「はぁ……とりあえずタオル持ってきて」
 そう言われて慌てて立ち上がると視界がぐわりと揺れた。でも今はそんなこと言ってる場合じゃない。
 タオルを抱えてリビングに戻る。兄さんは黙ってそれを受け取ると、ガキの口元を拭ってやったり手を拭ってやったり、その目つきはさっきまでおれに向けていたあの呆れたような冷たい目とはぜんぜん違って優しくて、どうしようもなく消えたくなった。
 だからこっそりリビングを抜け出した。でも階段を上るだけでふうふうと息が上がって、頭がくらくらして、脚が重たくて、壁に手を這わせないとまともに歩くことすらできない。
 ——だめだ。飛びそう。
 自室に戻り、倒れるようにベッドに沈み込むと目を瞑った。

   *

 どんな夢を見ていたかは覚えていない。それでも背中の張りつくような汗と、ぜえぜえと響く荒い息づかいがその恐ろしさを物語っていた。
「——……っん、ゔ」
 そして本当になんの予兆もなく、びしゃっと吐いた。
「はっ、はー……んぅ、えっ、ぉ゛ろ……ッ」
 続けて二回、横になったままどぼどぼっと吐いた。おかげで枕もシーツもゲロまみれ、あたり一帯が目を背けたくなるような惨状と化していた。
 体を起こし、はくはくと息をしたまま呆然とする。どーすんの、どーすればいいのこれ。吐いたせいで喉は痛いし、口元がぐちゃぐちゃで気持ち悪い。なのに未だ胃の底はぐるぐると回っている。
 立ち上がって、視界がふらっと揺れて壁に手をつき、それでもおぼつかない足取りで机まで歩くとティッシュを取りとりあえず口元を拭った。服が汚れなかったのは幸いだが、その代わりシーツと枕が逝った。
 ——兄さんどこだろ。これどうしたらいいのか聞きたい。
 そう思いながらふらふらと階段を下り、兄さんを捜す。
「っ、あ、兄さん」
 兄さんはリビングにいた。眠っているガキの横で座っていて、階段を下りてくるおれに気づくとすぐに立ち上がった。
「あの、おれ——」
 そして言いかけた言葉を飲み込んだ。はぁ、と深く兄さんのため息が聞こえてきたからだった。
「もーさ、お前なにやってたの今まで」
「……え、」
「気づいたらお前いなくなってて俺びっくりしたんだけど」
 あのさぁ、と頭を掻きながら兄さんがおれを見る。その瞳の奥に怒りの色が見て取れた。
「りかのこと、無理に頼んだのは悪かったなと思ってるけど。それにしても学校サボった挙句、具合の悪い妹を放って寝るのはあんまりなんじゃない」
「…………」
「たまたま横向いて吐いたからよかったけど、もしりかが仰向けで吐いてたらどうなってたと思う?」
 それは本当にそうだ。あのガキのことは嫌いだけど、さすがに具合が悪いのを放って寝て平気でいられるほどおれも子どもじゃない。
「……っ、ぅ゛」
 ——だめだ、胸焼けがする。甘いもの無理やり食わされたときみたいな、どうしようもない気持ち悪さ。
「…………ぇ゛、うッ」
 ごぼっと喉が鳴った。え? と兄さんが声を上げる。瞬間だった。
「ぉ゛ろ……っえ゛ッ、ぇ……ぇ゛ろッ」
 唇のすきまから溢れ出た吐物が、ばしゃばしゃばしゃっ! と勢いよく飛び散った。階段の上から吐いたせいであちこちに飛び散って、床はゲロまみれ、おれの服や足は目も当てられないくらいぐちゃぐちゃになった。さっき吐いたのにまだこんなに吐くものあったんだ、なんてどこか他人事のようにぼんやり思う。
「はぁ、……はー、は、はっ」
「え、……え? ちょっとどしたの……とりあえずこっちおいで」
 兄さんに支えられて階段を下りる。下りるたびに足の裏がゲロを踏んでびちゃ、びちゃと水っぽい音が鳴って気持ち悪い。
「一旦しゃがもうか」
 被害を免れた床の上にゆっくり座らされる。——そんなときだった。ピンポン、とインターホンが鳴って。
「えー、なにもう……こんなときに」
 どーしようかな、と兄さんが呟く。おれは顔を上げて大丈夫、と小さく口にした。
「……出てきていいよ、おれ大丈夫だから」
「ん〜……ちょっと出てくるけどやばそうだったらすぐ呼んでね」
 バタバタと兄さんが玄関のほうへ駆けていく。おれはしゃがみ込んだまま荒れた息を整えていた。あれだけ嘔吐したにもかかわらずまだ胸のあたりがもやもやしているし、はぁはぁと息が上がってびくっと背中が震えて、なにか袋……と取りにいく余裕もなくまたびしゃっと吐いた。
 喉が痛い。背中はぞくぞくと震えて寒いのに頬だけは熱くて気持ち悪い。また熱が上がっているのかもしれない。顔を上げているのも辛くなって、縮こまるように俯いた。

   *

「葵ごめんね」
 それからしばらくして兄さんが戻ってきた。その声は先ほどまでの怒りを孕んだものと違って優しい。
「……?」
「今さ、田代くんのお母さんが来てくれたんだけど」
 ——田代? 田代ってあいつか、昨日教室でゲロったあいつ。でもなんで?
「田代くんのお母さんがこれくれたの。お礼だって」
 そう言って兄さんがおれに見せたのは、赤いリボンで結ばれたフェイスタオルの束だった。どう見てもプレゼント用のそれに、いっそう謎が深まる。
「……なんで?」
「田代くんのお母さんにぜんぶ聞いた。田代くんが教室で気持ち悪くなっちゃったとき、先生いなくてみんなパニックになってたけど葵だけが助けてくれたって」
「あー……」
 そういえばそうだったっけ。クラスのやつらがわーわー騒ぐだけでなにもしないのに腹が立って、声掛けてタオル押しつけたんだった。それでわざわざ新しいタオル持ってきてくれたのか。田代の母さんいい人すぎだろ。
「それでさ、もしかしてって思ったんだけど」
 兄さんが歩み寄ってきて、おれの前髪をそっと手のひらで掻き分けるとゆっくり額に触れた。
「……あ〜、やっぱり。熱あるよね」
 兄さんはごめんねと呟くと、ゲロまみれのおれを厭わず正面からぎゅっと抱きしめた。ふわりと甘い柔軟剤の香りに包まれて、兄さんの腕の力強さが心地よくて、なぜか泣き出しそうになるのを意地で堪えた。
「……葵さ、もしかしてずっと具合悪かった?」
 でも——そう言われた瞬間、もうだめだった。今まで抱え込んでいた感情が一気に溢れて止まらなくて、抑えられなくて——気がつくとおれは子どもみたいに大声を上げてわんわんと泣いていた。
「ひ、っく、ぅう゛ーーっ……きもちわるかった、ずっとはいてたし、ッ、さっきへやではいて、どーしよって兄さんさがしたのに、いきなり怒られてやだった、やだったぁ……!」
「あ〜……そうだったの」
 ぽんぽんとあやすように背中を撫でられて、いよいよ涙が止まらなくなる。
「知らなくて俺いきなり怒っちゃってごめんね、怖かったよね、怒る前にお前の話ちゃんと聞かなきゃだったね」
「兄さんのばか、ばか、ばか……」
「うん、俺バカだった。葵ずっと苦しかったのにぜんぜん気づけなくてごめんね」
 ぎゅっと抱きしめられて、それまで胸の奥で固まっていたなにかが少しずつ溶けていくような気がして、おれは兄さんの胸に顔を埋めたままべしゃべしゃに泣いた。いつものおれなら兄さんの前でこんなふうに泣いたり、縋りついて甘えたりはしない。
 ——そう、だからこれはおれじゃない。ぜんぶ熱のせい。熱のせいなんだ。
 そう思うことにして、それからおれは泣き疲れて眠ってしまうまでずっとずっと、兄さんの腕の中で泣きじゃくっていた。
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