希望
──どのくらいの間、そうしていたかわからない。
ワルターを抱きしめるフェニモールの指先はとうに冷え切っていた。
「………」
これ以上海に浸かるのはワルターの身体に差し支えると考えたフェニモールは腕の力を弱め、ワルターから離れようとした。
「──教えてくれ」
不意に発せられた言葉に、フェニモールの手が止まる。
消え入りそうな声でワルターは続けた。
「…俺は、何の為に生きればいい」
ただ一言、そう言った。
しかし、その言葉だけで彼がどれほど深く傷付き、絶望しているのかを感じるには十分で、フェニモールは胸が張り裂けそうになる。
フェニモールはワルターからゆっくりと離れる。
パシャ、と水の音が響いた。
「──あたしじゃ、ダメですか」
フェニモールは震える指を誤魔化すように胸元で強く握り締めた。
「あたしじゃ、あなたの生きる理由にはなりませんか」
ワルターは何の反応も見せず、ただフェニモールの話に耳を傾ける。
フェニモールは勇気を振り絞って言葉を続けた。
「あたしはワルターさんに生きて欲しい。親衛隊長じゃなくたって、何だっていいんです。ただあなたがいてくれれば、それだけで……」
フェニモールは願うように両手で指を組む。
「…あたしの我儘です。今だけでいいんです。ワルターさんが生きる理由を見つけるまで……どうかそれまでは、あたしの為に生きてくれませんか」
フェニモールは言い終えると、静かに目を瞑った。
目を閉じるフェニモールの表情には、心から願う気持ちと、ワルターから拒絶されるかもしれないことへの恐怖が入り混じっていた。
ふわりと、風が揺れた。
フェニモールが目を開けると、ワルターの姿がすぐ目の前にあった。
冷たい水に反する、あたたかい温度。
背中に回された優しい指の感触で、ようやくフェニモールはワルターに抱き締められていることを自覚した。
「………」
今の状況を把握するのが精一杯で、フェニモールは何も言葉が出てこなかった。
不器用に自分に触れるワルターの手が、助けを求めているかのように思え、フェニモールは胸が苦しくなる。
フェニモールは言葉を探すが、今何を言っても全て気休めにしか思えず、紡ぐことが出来ない。
「………、」
フェニモールは躊躇いがちに、ゆっくりとワルターの背中に手を伸ばす 。
フェニモールは自分の思いを汲んでくれたワルターの気持ちに触れたかった。
その指が背中に触れた瞬間、二人の周囲の水が突然輝きだした。
「えっ…!?」
「……!」
フェニモールとワルターは思わず顔を見合わせる。
「…これって、まさか……」
「…水舞の儀式のようだな」
水舞の儀式、そう聞いたフェニモールは顔をサッと赤らめ、頬を両手で覆った。
「ご、ご、ごめんなさい!あた、あたしそんなつもりじゃ…!あ、いえ!これはナシです!だから、その…」
水舞の儀式は水の民が行う求婚の儀のことだ。
この儀式には決まった手順があるが、たまたまフェニモール達が取った行動と儀式の形式が重なってしまった。
そして海の祝福を受け、めでたく儀式終了…だが、本来は愛し合っている者達で行うものだ。
その大事な機会を図らずも自分が受けてしまったことに、フェニモールはひどく焦る。
「……嫌か?」
謝るフェニモールに、ワルターは静かに尋ねた。
フェニモールは驚き、ワルターの方を向くが、いつもと変わらない冷静な表情がそこにあった。
聞き間違いかと思うが、確かに耳を通り抜けたその言葉に、やはり聞き間違いではないと思い直す。
言葉の真意を測るより前に、言葉が口から衝いて出た。
「…嫌じゃ、ありません…」
むしろ、と続きそうになった言葉の先を、フェニモールは呑み込んだ。
「…そうか。なら、いい」
ワルターはフェニモールの手を引き、水中へと沈む。
水の中を進んでいくワルターの表情は、フェニモールからは見えなかった。
しかし、優しく握られた手から伝わるあたたかさに、フェニモールの不安は消えていった。
フェニモールはワルターの手をゆっくりと握り返す。
水の民の里へと泳ぐ二人を、海の輝きが優しく包んでいた。
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