希望
「ん……」
閉めたカーテンの隙間から差し込んだ月の光がフェニモールを照らした。
しばらくまともに眠れていなかったフェニモールは深い眠りに落ちていたが、光がそれを妨げるかのように彼女を目覚めさせた。
フェニモールは目を閉じたまま左手を握る。
しかし、そこにあるはずのぬくもりが感じられなかった。
「…え?」
フェニモールは異変に気付き、急いで身体を起こす。
目の前には誰もいないベッドと、捲られた毛布、まだ微かにぬくもりの残るシーツだけがあった。
「嘘…!ワルターさん…!!」
まだ回復しきっていない状態で歩き回るなど自殺行為だ。
起き上がる事すら辛いはずの身体を動かし、彼はどこへ行ったのか。
それ以前に、何故部屋を出る必要があったのか──
そこまで思考が辿りついた瞬間、フェニモールは部屋を飛び出した。
ワルターが無理をしてまで部屋を出た理由は、フェニモールには一つしか思い当たらなかった。
彼は目覚め、全てを悟ったのだ。
自分がセネル達に負けたこと、大沈下の起こっていない今のこの状況を見て、親衛隊長としての、自分の生きる理由であった、その役目を果たせなかったことに──
フェニモールはしんと静まり返った里を駆ける。
自分の靴音とあがる息がやけに大きく響き、フェニモールの気持ちはどんどん焦っていく。
気持ちに身体が追いつかない。
速く動かそうとすればするほど、フェニモールの足はもつれていった。
「どこに…いるの…、ワルターさん…っ」
ワルターがどこかで倒れているのではないかという心配と、もう既に里の外へ出て二度と帰って来ないのではないかという不安、そして彼が自身をひどく責め、深く傷ついているかと思うと、フェニモールは堪らなく心が痛んで苦しかった。
フェニモールは息を整えると、もう一度探そうと顔を上げる。
──その視線の先に、海に混じる金色を捉えた。
「…!」
フェニモールは迷わず海に飛び込んだ。
ワルターはかなり遠い所にいたが、水の民であるフェニモールにとっては全く苦にならない距離だった。
ワルターの後姿がはっきりと見えた所で、フェニモールは水面に顔を出した。
「何、してるんですか…ワルターさん」
ワルターはフェニモールに見向きもせず、ただじっと空を見上げていた。
雲ひとつない夜空に浮かぶ月。
その月明かりはワルターの綺麗な金色の髪を一層際立たせていた。
しかしそれとは対照的に、ワルターの表情は暗く、憂いに満ちていた。
「ワルターさん、帰りましょう。ただでさえ体調が優れないのに、水に浸かっていたりしたら大変な事になります」
フェニモールの言葉にワルターは何の反応も示さない。
「………、」
フェニモールは手を伸ばし、ワルターの服を両手で掴んで額を背中に当てた。
「…お願い…ワルターさん…心配なんです」
懇願するようにフェニモールは乞う。
「……心配?」
乾いた声が、フェニモールの耳に響いた。
フェニモールは目を見開き、ゆっくりと顔をあげる。
ワルターの表情は見えなかったが、今どんな顔をしているのかを想像するのは容易だった。
「…何を心配する?俺が奴に負けた事か?メルネスが奴の方を選んだ事か?俺の存在意義が無くなった事か?何が心配だ?──お前はただ、俺を憐れんでいるだけだろう!!」
力強く握られた拳が水面を叩く。
弾みでフェニモールの手がワルターの背中から離れた。
激しく揺らぐ水面に、歪んだ月が映る。
今にも消え入りそうなワルターの姿に、フェニモールは身を裂くような思いに駆られた。
その思いをぶつけるように、フェニモールは後ろからワルターを抱きしめた。
「──違います……」
フェニモールは振り絞るように言葉を紡いだ。
「憐れみなんかじゃ、ありません。…あたし、貴方の看病をずっとしていて、気付いたんです」
水滴が一滴、水面に触れた。
フェニモールの頬を濡らす涙が、二滴、三滴と続いて水面に落ちる。
「ワルターさんが何度も生死の境を彷徨った時、あたし心が押し潰されそうでした。貴方がもし、─し、死んでしまったら、そう考えただけで怖くて、…怖くて…ずっと眠れませんでした」
フェニモールは微かに震える指を抑えるようにぐっと握りしめた。
「──ワルターさんに生きてほしいんです。ただ…それだけなんです」
言い終えると、フェニモールは祈るように目を瞑った。
ワルターに想いが届くように、ただただ願った。
水面に映る歪んだ月を眺めたまま、ワルターは何も言わなかった。
ゆっくりと吹く風が二人の頬を掠め、沈黙のまま時間だけが過ぎて行った。