世界が染まる瞬間
「それじゃあワルターさん、おやすみなさい」
「ああ」
夕食と入浴を済ませ、フェニモールは自室へと戻る。
ワルターは本を一冊手に取り、ベッドへ入った。
*
本も中盤に差し掛かった頃、ワルターは切りをつけ、しおりを挟む。
明かりを消そうとベッドから出た時、何か音がした。
『……っ──う……』
「……?」
ワルターは音の聞こえる方へ向かう。どうやらフェニモールの部屋から音はしているようだった。
ワルターはドアに耳を近づけ、様子を窺う。
『……さ……』
フェニモールが何か言っているのが聞こえたが、内容はわからない。
「………」
ワルターは少し迷ったが、ノックをした。
「……フェニモール、何があった」
しかし中から返事はなかった。
ワルターはもう一度ノックしたが、結果は同じだった。
──様子がおかしい。
そう思ったワルターはドアをゆっくりと開ける。
「……フェニモール、入るぞ」
部屋の中は、簡素なベッドと少しの家具が並んでいた。彼女の性格らしく、綺麗に整頓されている。
その片隅に位置するベッドへとワルターは近づいた。
月明かりに照らされたフェニモールの顔は、涙に濡れていた。
「お……かあ、さ……」
亡くした親の夢でも見ているのだろうか。
ワルターはベッドに浅く腰かけた。
フェニモールは気丈な娘だ。
本当は辛いはずなのに、顔には出さずに一生懸命生きている。
だが、こうして見ると、ただの15の少女ではないか──
涙を拭おうとワルターは手を伸ばした。
「……殺さ、い……で」
ワルターの手が止まる。
急に、フェニモールの肩が小刻みに震え出した。
「や……、殺さ……ない、で……!」
苦しそうにうなされる姿を見ていられず、咄嗟にワルターはフェニモールの肩を揺すった。
「フェニモール!」
ビクッと身体が反応したと同時に、フェニモールは目を開けた。
「……え……?」
フェニモールはワルターの姿を捉えると、ゆっくりと起き上がる。
「ワルターさん……?」
名前を呼ぶと同時にフェニモールの瞳から一粒、涙が零れる。
「フェニモール、大丈夫か」
ワルターが心配そうに尋ねる。
「あ……すみません、あたし……」
何となく状況が読めてきて謝罪するが、言葉を続けようとした瞬間、抑えきれなくなった涙がフェニモールの瞳から溢れ出した。
フェニモールは慌てて顔を両手で覆い、俯く。
「ごめ、なさ……、……っ、大丈夫です……から……!」
ワルターの手が、ほとんど無意識にフェニモールへと伸びた。
優しく包むように、彼女を抱き寄せる。
強ばっていたフェニモールの肩の力がふっと緩んだ。
「両親が……、村のみんなが……っ! 目の前で……殺されたんです……!」
ワルターは黙って話を聞く。
フェニモールがひた隠しにしていた、悲痛の叫びを。
「怖かった……、血が……血が、たくさん……流れて……」
フェニモールは覆っていた手を離し、ワルターの服をギュッと掴んだ。
「それなのに……陸の民は……笑ってるの」
フェニモールが静かに零した言葉には、陸の民への憎しみと、怒りと、悔しさが滲み出ていた。
フェニモールに触れるワルターの手が、陸の民への憎悪で力強く握られる。
少しの間時折声を出しながら泣いていたが、やがて落ち着いてきたのか、フェニモールはワルターからゆっくりと離れた。
「あたし……陸の民なんて……大嫌い」
フェニモールの伏せた瞳に残った涙が、月の光に照らされて、より一層彼女の傷ついた心を浮かび上がらせる。
ワルターは眉間に深く皺を刻みながら、その姿を見つめた。
「フェニモール、お前の親の敵は……俺が取る」
ワルターの言葉に、フェニモールの瞳が僅かに開いた。
「だから……そんな顔をするな」
ワルターは宥めるように、フェニモールの涙の痕を指でなぞる。
「……ワルターさんは、やっぱり優しいですね」
涙交じりに少しだけ笑みを浮かべたうフェニモールの姿が、ワルターの目に焼き付く。
「そんなことを言うのは……お前くらいだ」
フェニモールは頬に触れるワルターの指に自分の手を重ね、あたたかさを感じるように静かに目を瞑った。
「すみません、少しだけ……」
「……」
ワルターは和らいでいくフェニモールの表情を見て、安堵した。
「……ごめんなさい、取り乱して。でもワルターさんがいてくれて良かったです」
「……お前は……」
「え?」
ワルターは、不意に彼女が傍にいても嫌ではない、その理由に気付く。
フェニモールは、唯一自分を『親衛隊長』ではなく、『ワルター』として見てくれている。
常日頃感じている息苦しさから、解放してくれるのだ──
「……いや、何でもない」
ワルターは不器用な手つきで、フェニモールの頬をそっと撫でた。
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