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世界が染まる瞬間





 フェニモールが水の民の里へ来てからしばらく経った頃。

 マウリッツの命令により、少しの間庵へと移住することになった。
 移住の理由は、メルネス救出のためレクサリア皇国と水の民の同盟交渉を行うためだ。

 今は準備段階の過程で、マウリッツの庵へと移る。
 フェニモールは同盟が組まれるまでの間、ワルターの身の回りの世話を頼まれていた。

 マウリッツの庵は水の民の拠点であるが、陸の民に遺跡船を追われてからは放棄された場所であり、現在はメルネス誕生の噂を聞きつけた水の民が移住している。
 しかし移住してきたのはごく少数の水の民であるため、大人数の生活ができるようにはなっていない。

 そんな訳で今、ドア一枚挟んだ隣にワルターの部屋、という場所がフェニモールの部屋である。

 もちろん部屋が足りなかったという理由が一番だが、ワルターの世話係としてもその方がいいだろうというのがマウリッツの意見だった。
 フェニモールが献身的にワルターの手当てをしていたことを、どこからか聞いたのだろう。


「……ふう。こんなもんかな」


 フェニモールは、部屋の掃除を念入りにしていた。
 必要なものは初めから大体揃っていたので移住といっても荷物はほとんど無く、引越し自体はすぐに終わってしまった。
 代わりに、長年使われていなかったために、どの部屋も埃が積もりに積もった状態で、掃除にかなりの時間を要した。


「ちょっと頑張りすぎたわね。もう夕方じゃない」


 自分の部屋もワルターの部屋も掃除し終えたフェニモールは、大きく息を吐きながら自室のベッドに寝転んだ。

 見慣れない天井に、何気なく手を翳す。
 袖が捲れて、忌々しい傷がフェニモールの視界に広がった。

 フェニモールがヴァーツラフ軍に捕まっていた間に受けた拷問。
 その傷跡は体中に残り、一生消えない。

  ──心の傷も、だ。


「……ダメ、思い出しちゃ」


 フェニモールは言い聞かせるように呟いて顔を覆う。現実から目を逸らすように。

 その時、ガチャリ、と隣の部屋から玄関の扉の開く音がした。
 フェニモールは急いで起き上がり、髪の毛を手早く整え、コンコン、とドアをノックした。


「フェニモールか」


 扉の向こうからそう聞こえると、フェニモールはそっと押し開ける。
 ワルターは外套を手に持ち、フェニモールの方に視線を移した。


「はい。少しの間、よろしくお願いします。何かあったらすぐに呼んでください」


 フェニモールはぺこ、と頭を下げると、それじゃあお買いものに行ってきますと言って、自分の部屋へと引っ込んだ。
 すぐにドアは開き、カバンを持ったフェニモールが現れる。


「ワルターさん、何か食べたいものとかありますか?」

「……特にない」

「そうですか? じゃあメニューはあたしが決めちゃいますよ」


 ふふ、と楽しそうに笑ってフェニモールは出かけて行った。
 それを見送ってからワルターは外套を壁に掛け、椅子に腰かける。


 マウリッツからフェニモールと部屋を共有することを頼まれた時、すんなりと彼の口から「構わない」という言葉が出た。

 普段の彼だったら、他人の存在など疎ましいだけであり、断固拒否したはずだ。


 だが、フェニモールは。


 フェニモールが傍にいることが嫌ではない自分がいる。その事実をワルターは否めない。


 今までになかった感情に、ワルター自身ひどく困惑していた。



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