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世界が染まる瞬間




 ワルターが初めてフェニモールに会ったのは、毛細水道でメルネスと共にヴァーツラフ軍に追い詰められているところだった。

 ヴァーツラフ軍の人体実験でひどい目に遭い、更には家族、故郷をも失くした彼女は、身も心もボロボロだっただろう。
 ひどく怯えた顔をしていたことを、鮮明に覚えている。

 その後、不覚にもセネル達に助け出されたワルターは、フェニモールを半ば無理矢理引き連れ、水の民の里へと向かった。

 マウリッツに状況報告を済ませ、自室へと戻る。
 メルネスを救出できなかった自分自身に、ワルターはひどく苛立っていた。

 幼い頃からメルネスの親衛隊長を務める者として相応しくなるように、厳しい訓練に耐え抜いてきた。
 しかし肝心のメルネスが見つかったかと思えば、既にセネルにその居場所を奪われていた。

  ──同時にそれはワルターの生きる意味をも奪うことで。


「──クソッ!」


 ガン、と思い切り壁を殴る。

 その衝撃と共に、塞がりかけていた傷が開いたのだろう。肩口に血がじわりと広がる。
 メルネスを助けるためとはいえ、一人であれだけの人数を相手にした。
 ダメージも相当大きかった筈だが、自分の事など、ワルターにはどうでもよかった。

  ──早くメルネスを助けなければ。
 ただその焦燥感だけが彼自身を蝕んでいた。


 その時、コンコン、とドアをノックする音がした。
 最悪のタイミングで現れた訪問者に、ワルターの苛立ちは更に増す。


「誰だ」


 威圧的な声でワルターは問う。


「あの……フェニモールです。今、大丈夫ですか……?」


 ワルターの声色に怯えたのか、フェニモールの声は弱々しかった。


「……入れ」


 ワルターは多少冷静を取り戻し、機械的に入室を促す。
 ガチャリ、とドアのノブが回され、フェニモールがゆっくりとワルターの顔色を窺いながら入ってきた。
 フェニモールに背を向けたまま、ワルターは話す。


「何の用だ」

「あ、あの……きちんとお礼を言ってなかったな、と思っ──!?」


 フェニモールの言葉が不自然に途切れ、不審に思ったワルターが振り向くと同時に、フェニモールが駆け寄って来た。


「ワルターさん! ケガが……!」


 見ると、先程開いた傷口からどんどん血が流れてきていた。
 滴る血が床を赤く染めていく。


「と、とにかく、止血しないと! 包帯とかはどこにあるんですか!?」

「このくらい平気だ。放っておいてくれ」

「何が平気なんですか!! こんなに血が出てるのに……!」

「うるさい。平気だと言っているだろう。礼などいらん、用が済んだのなら出ていってくれ」


 視線ひとつ合わせずにワルターは冷たく言い放つ。
 それは完全な、拒絶だった。


「…………」


 少しの沈黙の後、フェニモールは部屋から出ていった。
 ワルターは息を深く吐き、ベッドに腰かける。

  ──焦ったって状況は何も変わらない。
 そんなことは十分承知している。

 だがこのやり場のない気持ちをどこに向ければいいのかわからなかった。


 肩が針を刺されたように鋭く痛む。ワルターの顔が僅かに歪んだ。
 一旦止血をしなければさすがにまずいか。

 ワルターがちっと舌打ちをひとつ鳴らした瞬間、バタン! とものすごい音を立ててドアが勢いよく開かれた。
 ワルターは驚き、反射的にそちらを見ると、帰ったはずのフェニモールが包帯や消毒液やらを手に抱えて立っていた。


「何を無理してるのかは知りませんけど、それとケガとは別の話です!」


 フェニモールは大きな歩幅でズカズカとワルターの元へ歩み寄り、抱えていたものをベッドに広げる。
 先程の弱々しさはどこへやら、眉をきりっと上げた凛々しい表情の彼女はワルターに詰め寄る。


「何してるんですか、早く上着脱いでください」


 フェニモールは袋からガーゼを取り出す。


「……」


 ワルターは少なからずこの状況に動揺していた。

 あれだけ冷たい言葉を放ったのに、なぜこの女はまたここに戻ってきた。
 大抵の人間は、あんな態度を取れば、必要事項以外は話しかけようとせず、一定の距離を取るはずだ。

 ……実際、ワルターとほとんどの水の民とは、そういう関係である。


「……なぜ、戻ってきた」


 ワルターの問いに、フェニモールの手がぴたりと止まった。


「別に、理由なんてありませんよ。ただケガが心配だっただけです」

「……」

「かなり染みるかもしれないですけど、我慢してくださいね」


 ワルターは、それ以上何も言わなかった。
 ただ、純粋に手当てをするフェニモールに対して突き放す気は削がれてしまった。



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