恋の魔法薬
コンコン、とフェニモールの家の扉が叩かれた。
いつもならフェニモールが「はい」と返事をするが、今日は何も返って来なかった。
「フェニモール、いないのか」
声の主はワルターだった。
ドアノブを捻ると、抵抗なく扉が開く。鍵が掛かっていない。ワルターは不審に思い、警戒しながら部屋へと入った。
「……フェニモール」
部屋の中は明かりで満たされていた。名を呼ぶが、返事はない。
几帳面な彼女が明かりを付けっぱなしにし、更には鍵もかけずに外出するとは到底思えなかった。
ワルターは更に警戒を強め、歩みを進める。
そしてソファまで辿り着いた時、見慣れた髪色がソファの背面から少し覗いているのに気付き、ワルターは安堵した。
回り込むと、座ったまま眠り込むフェニモールの姿があった。
「フェニモール、風邪を引くぞ」
ワルターは声をかけるが、深く眠っているのかフェニモールが起きる様子はなかった。無理に起こすのも可哀想だと思い、フェニモールを抱き抱えると、ワルターは寝室へと向かう。
フェニモールをベッドへと降ろし、布団をかけようと手を伸ばしたところで、ワルターの腕が唐突に掴まれた。
ワルターは思わず驚いて顔を上げると、いつ起きたのかフェニモールが目をとろんとさせながらワルターを見つめていた。
「起こしたか、すまない」
「…………」
「……フェニモール?」
まだ寝惚けているのかフェニモールからは何も返事がない。
しかしよく見るとフェニモールの顔は少し赤らんでおり、呼吸もやや荒く、何だか様子がおかしいことにワルターは気付いた。
「……熱、か?」
ワルターがフェニモールの額に手を伸ばした瞬間だった。
フェニモールがワルターの首に腕をまわして勢いよく抱きついた。不意を突かれたワルターは、バランスを崩してフェニモールに覆い被さるようにベッドに沈む。
普段の彼女ならありえないような、あまりに突発的な行動にワルターの目が僅かに開いた。
「……フェニモール、何かあったのか」
ベッドに手をついてフェニモールの顔を覗き込みながら冷静にワルターは問うが、相変わらずとろんとした瞳でフェニモールはワルターを見つめるだけだった。
「……?」
ワルターは困惑する。
明らかにフェニモールの様子がおかしいのはわかるが、どう対処すべきなのかを考えていた。
とりあえず一旦体勢を整えようとワルターは動こうとする。
「──ダメっ!」
突然フェニモールに声を荒げられ、ワルターは思わず止まった。
先程まで目をとろんとさせていただけだったのに、今度は眉間に皺を寄せながらフェニモールは怒っていた。ますますワルターは困惑する。
「動いちゃダメれすっ!今日はあたしの言うこと聞いてくらさい」
フェニモールはびしっと指を差すが、呂律がかなり怪しかった。
その様子で何か勘付いたワルターが再び動こうとすると、フェニモールはワルターの腕を掴んで制止した。
「ダメ……ワルターしゃん、行かないで」
怒りの表情から一転、フェニモールは泣きそうな顔でワルターに訴えかける。
目は潤み、息も荒く、顔を上気させて切ない表情をする彼女は図らずとも艶っぽいものとなる。ワルターは視線をフェニモールから外して深くため息をついた。
「……フェニモール」
「ワルターさんが、悪いんれすよ!こいびとなのに、手のひとつも……握って、くれないんだか、ら……」
フェニモールは目に涙を溜めてワルターを非難する。人は酔うと本心を口にすると言うが、それならば今のがフェニモールの本心なのだろうか。ワルターは直接尋ねてみる。
「つまり、俺に触れて欲しい。お前の望んでいることはそういうことか?」
「そうれす……よ」
少し恥じらいがあるのか、フェニモールは頬を赤く染め、口を尖らせて肯定する。
そんな彼女を見てワルターは何を思うか、相変わらず冷静なままの表情からは読み取れない。
「わかった」
「え」
ワルターから了承の言葉が出たかと思えば、フェニモールは驚く間もなく唇を塞がれていた。
一体何が起きているのか、フェニモールのぼんやりとした頭ではとても理解が追いつかない。目の前にあるワルターの睫毛を見て長いな、などと見当違いな感想を抱いていた。
一度唇が離れる。ワルターはフェニモールがまだ正気に戻っていないのを確認してから再び口付けた。
優しく触れるキス。唇から伝わる甘い感触に、フェニモールの意識がだんだんとはっきりしてくる。
フェニモールの身体がぴくりと反応したことに気付いてワルターは唇を離した。
「あ……」
ワルターによって『恋の魔法薬』の効果が吹っ飛んでしまったフェニモールは、自分のしてしまった大胆な行動と今のこの状況に対して猛烈に恥ずかしくなり、これ以上ないほど顔を真っ赤にする。
「ご、ごめんなさ……!」
「別に謝る必要はない。お前の本心には違いないのだろう?」
ワルターの指摘は正しく、フェニモールは目を逸らしながら小さく頷いた。
「ただ、酒の力を借りるのは駄目だろう。俺に何か言いたいことがあるなら遠慮せずに言え」
「え……。お酒……?」
何のことかとフェニモールは目を丸くする。その反応で、フェニモールは自ら酒を飲んだのではないとワルターは気付いて一気に険しい顔になった。
「……フェニモール。一体誰に唆された?」
「え?誰にって──」
「フェモちゃん!あれただのお酒だったわ!!もう飲んじゃっ……」
突然バンッと勢いよく扉が開く。しかし開けた本人は目の前の状態を見て固まった。
怪しい出店で『恋の魔法薬』の試供品を貰った人は多く、あれはただの酒と噂を聞いたノーマが慌ててフェニモールに伝えようと戻って来たのだ。
しかし戻ってみればワルターがベッドでフェニモールの上に跨っており、一見すれば今から致そうとしている恋人同士にしか見えなかった。もちろん勘違いしたノーマは口を大きく開けたままフリーズしてしまう。
「まっ、まままま、真っ最中にごめんね!?お邪魔しました~!!」
何とか気力でフリーズから復帰したノーマは顔を赤くしながら慌ててドアを閉める。しかし急ぎすぎたせいでドアに思い切り足をぶつけてしまった。
扉の向こうから「痛ったぁ!!」と間抜けな声が響く。
「…………」
フェニモールを唆した犯人を見つけたワルターは殺意を全身に纏いながらゆらりと立ち上がると、間抜けな邪魔者を粛清しに向かう。
「奴を消してから戻る」
「えっワルターさ……」
そう言い残してワルターは行ってしまった。一人残されたフェニモールは何となく虚無感を覚えながらも、じわじわと先程のキスの名残が効いてきて、恥ずかしさの余り顔を枕に埋めてしばらくの間悶絶したのだった。
一方、ノーマはぶつけた足の痛みを我慢しながら疾走していた。
しかし彼女を追う殺意を持った黒い翼が、あっという間に目の前に舞い降りた。
「げっ!それはずるいっての!」
ノーマは顔を青くしながら間合いを取るために後退する。
敵同士だった時と同じように凄んでくる相手に「やっばぁ~……」とワルターに聞こえないようにノーマは呟いた。
後衛タイプのノーマは、前衛タイプのワルターと一対一では圧倒的に不利だ。これは戦うより説得だ、と彼女はすぐに判断した。
「ま、待ってよワルちん!邪魔しちゃったのは本当に謝るけど、二人が甘~い雰囲気になったのは、多分アタシのおかげなんだってば!」
ノーマの言葉に、ワルターは目だけで殺しそうな鋭い視線を向けたまま一旦攻撃の構えを解く。話を聞いてやるということだろう。
「フェモちゃん、ずっとワルちんとイチャイチャ出来ないって悩んでたんだよ。だから背中を押してあげようと、手に入れた『恋の魔法薬』をプレゼントしたんだよね。……まあ中身はただのお酒だったわけだけど」
ノーマはぽりぽりと頬を掻く。
「だ、だからさ~、二人がおっぱじめ……ラブラブになったのって、流れはよくわかんないけど、結局はアタシのおかげなわけでしょ?ね?見逃してくんない?」
ノーマは軽く手を合わせながらお願い、と首を傾ける。
ワルターは暫し黙り、ノーマをじろりと睨みつけながら思考する。
その沈黙の時間が妙に長く感じ、ノーマはごくりと喉を鳴らした。その額には汗が滲んでいく。
そしてついに沈黙は破られ、ワルターの判決が下る。
「そんな得体の知れんものをフェニモールに渡した罪は重い。許せん」
有罪だった。
ノーマは相手の構えを見て顔を引き攣らせる。
「ちょっ!必殺技はダメだって──」
ぎゃあああ!!とノーマの断末魔は水の民の里中に響き、木霊するのだった……。
2/2ページ