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それを体験したのは十五の年です。
私は地方の田舎の出です。
文明が進んでいるのかおよそ疑わしい、田園ばかりの風景に私はいつも都会への憧れを抱いておりました。
早く大人になってこの田舎から出ていきたい。
できれば素敵な男性にこの手をとって貰い、夢に出てくるお姫様のように連れ去って欲しい。
そう思っていました。
*
女学校の帰り道。
夏の昼下がり。
艶やかな緑色の景色に負けず、少女たちの活気のある声と、日焼けなど意に介さないほど露出された肌が眩しい季節。
私の家と学校の行き来する間には、随分昔からある古い神社がございました。
昔は縁日などがあれば御輿なども出し、祭も行われましたが、普段は寂れた田舎の一風景に過ぎません。
そこの顔であるはずの鳥居などは朱色がすっかり剥げて、どう見ても薄い橙色になっておりますし、階段を形作る石は手入れもされて無いような雰囲気です。
しかし、それもいつもの風景です。
気にも止めなかったのです。
青空が広がり入道雲なども見えておりましたから、不安や何か悪い前兆を感じることも全くと言って良いほど無かったのです。
ただ、そこで声を掛けられるまでは。
「もし」
男の声でした。
私はその時、自分に掛けられたものだとは思わず振り向きもしなかったのです。
私の知らない声でしたので、振り返るまでもなかったのです。
しかし、男の声は「もし」とまた呼びますので、私はちらりと目線だけで振り返りました。
背後には男が一人おり、他の人の姿は見えません。
一体私に何の用が有って呼び掛けるのだろう。
田舎ですから、よそ者に対しての警戒心は殊更です。
しかし、それを打ち壊すほどに驚きました。
振り向いた先の男はとても美しかったのです。
こんな鄙びたところに相応しくないほどに垢抜けて、洗練された雰囲気を持つ殿方を、私は今まで見たことが無かったのです。
私は目を奪われて、動けずにいました。
こんなことは初めてです。
いくら女学校といえども、男の人がいないわけではありません。
先生もおりますし、小学校から知っている男子学生もおります。
近所の青年団の方だって知っています。
それなのに、言葉を失うほどにその男は美しかったのです。
ただ、この熱気を孕む真夏の空の下、その男はとても白かったのです。
来ている衣服では無く、まるで纏う雰囲気が真冬の極寒の中にいるようなそんな気配でした。
「どうかなさいましたか」
私は問いかけました。
しかし、男は呼び掛けておきながら全く反応いたしません。
ただ無言で、こちらを射抜くような舐めるような、表現し難い視線を私に向けるのです。
その間、私はその男に品定めをされているような異様な圧迫感を感じておりました。
綺麗ですが、これほど不快な印象を持ったのも初めてでした。
私はついに怖くなって、その場から逃げ出しました。
追いかけてくる気配はありませんでした。
家に帰ると、私はその話を母にしました。
「ねぇ、お母さん。さっき変な人に会ったの」
「どんな人?」
「この熱いのに真っ白けな他所の人。
綺麗な顔をしていたのだけど、無表情で「もし」としか言わないの」
「あんたはその人に何かされたの?」
「いいえ。まさか。すぐに逃げ帰ってきたよ」
「そうかい。でも用心に越したことは無いから、明日の行き帰りは父さんの車に乗ってお行き」
母の言い付け通り、次の日は珍しく父の車で学校まで行きました。
夏の暑さも、緑の濃さも爽やかさもいつもと変わりません。
勿論、あの神社もです。
しかしいつもと何かが違うのです。
何かは分かりません。
ただ、――ぞわり、と背筋が震え、身の毛がよだつようなそんな気配でした。
父と向かう学校までの道のりは何事もありませんでした。
いつもと変わらずに全てが順調でした。
しかし窓の外を指差して、ある時誰かが言ったのです。
「蛇が死んでる」
一つ声が上がると、それが意識に上るものです。
一人の声を切っ掛けに、その声を中心に、校内のあちこちでそう生徒が言うのが聞こえました。
私も見つけました。
まるで悪い汚れを纏ったような黒い蛇が干からびて死んでいました。
しかし元々、回りは田圃や畑しか無いような寂れた場所です。
のどかと呼ばれるのが精々の、田舎では蛇の一匹や二匹が死んでいるのを見ても何も思いません。
今日は暑いから、水場を求めて藪から出てきたんだろう。
年寄りの先生は仰います。
百姓ばかりの地域ですからみんなが納得いたしました。
ですが、私はとても嫌な気配を感じました。
知らぬ間に、冷たい刃が首筋に這い寄るような、そんな気配でした。
*
昨日と今朝の快晴が嘘のように午後は土砂降りでした。
父の迎えのみならず、他の父兄もおりました。
父は私を見つけると手を振っておりました。
「えらい降ってきたな」
父が言いました。
天気予報では確かに晴れでしたのに、こんなことも有るのかと親子揃って溜め息を吐いておりました。
ざあ、ざあ……と永遠に鳴りやまないかと思うほどに激しい雨に、時々車は横に倒れるのではと不安に思う時がありました。
畦道ばかりですから尚更です。
しかし、あの神社に差し掛かった辺りで急に音が鳴り止んだのです。
そこだけまるで、音が消えたので不思議に思う程でした。
そこで父が何かに気がついたのです。
「真っ赤だなぁ。いつの間に改修したんだァ?」
私もそこに目をやります。
私も驚きました。
今朝まで薄橙にしか見えなかった鳥居が、火柱が立っているかのように燃える赤に染まっているのです。
良く見ると石段さえ改修されているようでした。
父はよほど驚いたのか車を止めて良く見ようと硝子に顔を近づけました。
しかし、その時です。
静けさの中に突如、切り裂くような、何かに杭を打ち付けるようなほどの轟音が響きました。
私はぎゅっと目を閉じました。
耳も、これでもかと言うほど掌に力を込めて塞ぎました。
それほどまでに恐ろしく響き渡る落雷を私は知りませんでした。
しかし、そんな轟音の中で声がするのです。
「もし」
私ははっと致しました。
そして目を開けるのです。
せめて恐ろしいものを見ないようにうつむいたままに。
隣には父がおります。
私は父の腕を取り、すがるのです。
しかし、父は私の震えなど全く気付かぬかのように鳥居の方ばかりを見つめております。
「赤いな。とても赤い」
父の声はまるで呪文のようでした。
助けて、お父さん――私は叫びました。
どうか気付いて欲しい。
しかしそれは叶いませんでした。
「もし」
今度は耳元で聞こえました。
防ぎようが無いほど近くにいるのだと思いました。
私の背中は毛穴の全てを盛り上げたように粟立っておりました。
何か得体の知れないものが側にある。
この世ならざる者が側にある。
固まったまま動けずにいると、突然バタバタと車の下で跳ねているような音がしたのです。
次第にバタバタと言う跳ねる音から、バンバンと蹴り挙げるような音に変わりました。
恐ろしかった。
呼吸が止まるかと思いました。
いや、実際止まっていたのではないかとも思いました。
そして、そんな私がすがることが出来るのは、相変わらず「赤い」と呟きながら隣に座る父のみでした。
父の腕にしがみ付こうと面をあげました。
しかしその時見てしまったのです。
いや、その者は待っていたのでしょう。
私が恐怖を染み込ませたまま、そちらの方を垣間見るのを。
ちらりと、見てはいけないものを見たいと願う好奇心と言う隙を、その者は狙っていたに違いありません。
「あぁ」
その者は笑っておりました。
あの時の美しい男でした。
口許だけで笑い、この蒸し暑い中、まるで血の気を全て抜き取ったような白い面立ちでした。
それが、硝子一枚隔てた先におりました。
私は声なき声で叫びました。
表情だけではなく、その者は体が異様でした。
まず手足がございません。
首から下はまるで、蛇のような鰻のような……滑らかな、軟かな、そして細長い管のような形をしていました。
それが笑いながら、私と父のいる車に尾ひれを思いきり叩きつけるのです。
「もし、もし」
何度も、何度もそう言いながら。
私は泣きながら、許しを乞いました。
「ごめんなさい」と。
ですが、いつか終わりが来るのだと私は気構えていたのです。
しかし、虚しくもついに硝子が割れました。
「ひいい!」
ひきつったような叫びは滑稽とも言えました。
その異形は私を近くで見ると満ち足りたような、恍惚なような表情を浮かべました。
危険であると分かっておりながら逃げ仰せることは叶いません。
そして私は泣き喚き、つんざくような叫びを上げたあと気を失いました。
*
気付いた時、父は相変わらず涼しい顔で運転していました。
私が驚いて回りを見渡すとどこも壊れておりません。
勿論硝子もです。
「神社は通りすぎたの?」
問いかけると父は「あの神社か?」と答えます。
父は言いました。
「あぁ、過ぎたよ。相変わらずの寂れ具合だった」
そしてさらに笑いながら言いました。
私は聞いてはいけないものを聞いたような気がしました。
「何故かあそこだけ蛇がやたら多くてな、父さん、面白がってびちびち轢いちまった」
けらけらと、笑う父を私は凝視しました。
どうしてか分かりませんが、とても恐れ多かったのです。
後で分かったことですか、この地域は元々水神を祀る風習があったようです。
あの蛇のような異形は神なのか、悪鬼なのかいまだに分かりません。
連れ去られずに済んだ。
今や殆ど覚えて居ませんが、そのことだけが頭に残っております。
しかしあの神社は薄橙の鳥居を構えて、今もひっそりと田圃の隅に佇んでいる。
その事実は変わりありません。
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20180706
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