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小早川家に養子に出されてから早数年、謀略の限りを尽くして当時の当主と反発する従臣を追い出し、または粛清し、やっと当主の座に落ち着いた隆景はえもしれぬ虚無感を抱えていた。
当主となり家中を仕切って当然の身となったものの今宵も彼の心に平穏が訪れることは無い。
その心のさざなみを引き起こすのはこの家に来て以来、彼の側にずっと仕えている妻に他ならなかった。
この妻と言うのが当時の当主であった繁平の妹である。
夜半、その妻が侍女と共に月など眺めながら微笑むのを見つけ声をかけた。
「お菊」
後に問田の方と呼ばれる隆景の室は白菊のように清楚で可憐な少女であり、隆景とは十以上も年が違う。
あどけない微笑みにはつい周囲の人間も顔が綻んでしまう。
彼女に仕える侍女もまたそうであった。
しかし隆景の声を聞きつけた途端彼女の表情は強張った。
まるで二人の間に氷の膜が張られ、そこに
ぴしり―――という音を隆景は確かに聞いた気がした。
後世では仲睦まじい二人とされているが実際はどうであったかは知れない。
元就と隆景の謀略により、幼い頃から慕っていた兄は追放され病に倒れ、父の代から仕えてくれた譜代の家臣も謀反の疑いで粛清された。
ある者は追放され、ある者は腹を切らされ、ある者は奴隷の身にやつされ一家共々売られた。
残った家臣の中には己の身と家族に火の粉が掛かるのを恐れ、隣国に去るか刀を置いて平民に転じた者もいる。
そんな訳で未だお菊の心には隆景に対するわだかまりは溶けていない。
まして多感な年齢である。
ついこの間髪上げを済ませたばかりの少女は隆景を憎い敵とすら感じていた。
柔らかかった表情は無慈悲な雪女のように強張り、頑ななものとなった。
見かねた侍女が気を利かせ「もう閨に戻る頃ですね」「御殿様もお休み下さいませ」など、あからさまに張り付けた笑顔で困ったように場を宥めた。
月明かりは若く美しい妻を引き立てる。
しかし凍てつくような冷たい視線は隆景を快くは思っておらぬと示唆している。
だが踵を返す妻に隆景は心の内で手を伸ばす。
このようにされても彼はお菊を妻として想っていた。
「……お休み、お菊」
返答は無かった。
ただ侍女が申し訳なさそうに頭を垂れるだけである。
寂しさが胸を通り過ぎ痛んだが、隆景は気にしてはいなかった。
何故ならこの痛み以上に手酷い事を隆景とその父は彼女にしたのだ。
なればこそ、せめてもの贖罪にこの人生を妻に捧げるつもりでいた。
その最もたるものが側室をおかず、この娘の為に身命を賭す覚悟であった。
「…………」
しかしそれにも限度というものがある。
当主であるからここが己が城である筈だが気が緩まることは無かった。
せめて心休まる居処があればこの男の気持ちも紛れよう。
その最たるものが女や趣味であろうに実の父に一番良く似ていると評されるこの男は、良くも悪くも信念に忠実であった。
相変わらずお菊は冷たいが己を慰めるのが当たり前になった隆景はせめて彼女の邪魔にならぬように侍女を通して色々と心を砕いていた。
さて、そんな日々の中で実家の吉田城より父から文が届いた。
彼の父はちょくちょくこうして息子らに手紙を寄越す。
書き出しには必ずと言って良いほど彼等の身を案じる一文が有り、いつまでも父は父であり子供は子供であるのかと隆景はやんわり眉を下げ、代わりに一寸唇を上げた。
「尼子氏との会談を行うのか。私の知恵が借りたいだなんて父上も私に期待してくれてるのかな」
もちろん隆景は出向くつもりである。
何故なら久々に父と語らう絶好の機会である。
隆景は軍略に限らず知識の倉庫と言うに相応しい元就との語らいを幼い頃から楽しみにしていた。
それが彼の側を離れ他家の養子になってからは己の知識欲を満たしてくれる者はなかなか現れずにいた。
現れたとしても隆景の鋭い切込みに耐えられる者は少ない。
どんな知者でもこの賢人の前にはメッキが剥がれた像のようになる。
故に目的があるとは言え隆景は久々の帰省に期待が膨らんだ。
それに少しでもこの家から自分がいなくなれば妻の機嫌を損ねずに済むだろうという思いもあった。
そんな自虐的な思考に最初苦笑したが、いつの間にか隆景は微笑みを消して今度は緩やかに口をへの字に曲げていた。
彼の心に薄い膜を張ったように虚無感がぴったりと忍び寄る。
己の心を砕くことは難しく、どのような人間でも大なり小なり負担となる。
まして相手がいて、その相手に思いが届かなければ徒労感に苛まれるのも仕方なかろう。
畳に大の字に寝転がると彼は一言、天井に向けて呟いた。
「……面白くないな」
出さぬように努めていたが心の内を言ってしまった。
本当に無自覚で一瞬の刹那であった。
しばらくぼんやりしてから隆景はハッとする。
そして「しまった」と自己嫌悪に陥った。
「自らの感情を表に出すものでは無い。誰がその揚げ足を取るか分からないからな」
同じ頃元就も蔵書に目を通していた。
その隣には教育の為に側に置かれてる孫娘とその母がいた。
隆景のいる新高山城にはそろそろ送り出した文が届いた頃だろうかと思案しながら書物の内容に切込みを入れる。
いわゆる年寄りの独り言である。
その独語に対し隣で孫娘を遊ばせる元就の息子嫁はくすくすと微笑む。
「姫や、御館様が難しい事を仰ってますよ」
母がやんわり微笑むので娘もその柔らかくまん丸い頬をゆるりと上げてきゃっきゃっと笑った。
今日はどうやら機嫌が良いらしい。
元就はその娘の声を聞くと顔にくっついている出っ張りが全て落ちそうだと感じた。
幸せという深い湖に溶けてしまうかのようだった。
孫娘を抱きながら元就は言った。
「あぁ、すまぬ。姫にはまだ難しいだろうなぁ。だが、いずれ必要になる処世術じゃ。時期が来たら叩き込むからな?」
「あら、女人には必要無いのでは?」
「他所は他所じゃ。まぁ、お主には必要無いだろうがな」
髭を撫でながら元就は嫁を見た。
その口調はとても親密な仲であると分かるほど気安い。
その気安さは元就の息子以上であろう。
そして彼の目は挑発的であり、その言葉の裏側が彼女からは見透けてしまい、唇を少し尖らせて他所を向く。
「さぁて、なんの事でしょうか」
「ほらな。姫の母上は誤魔化すのが上手じゃのう」
元就は孫娘に面白い物を見せるようにその母に目配せした。
当の本人には何が面白いのかはまだ理解出来ておらず、祖父の膝下にじゃれついてにこにこと微笑むばかりである。
共有される秘密がそれを暗示している。
しかしそれを知られることはあってはならず、その一端でさえ永遠に掴まれることも許されない。
母親のちぬは少しだけきつく元就を睨みつけた。
「元就さま、どうかそのように仰らないで下さいませ。姫が覚えます」
そして母親の表情に何か察したのかぐずつき始めた娘を元就があやす。
えづく彼女の背を優しくさすって落ち着かせながらその母と視線を合わせる。
「そう怒るな。姫はそなたに似て聡い。……いや、わしかな。どちらにせよ今はわしとそなたの二人だけじゃろう」
おぉ、よしよし。と、元就がこれ見よがしに戯れると姫は少しずつ機嫌を良い方に向けた。
「姫がおります」
しかしちぬは元就の言葉を一刀両断する。
それには元就も分かりやすく困ったように眉を下げて苦笑した。
しかもちぬと来たら母になってから気も強くなり、こうと決めたら頑と動かぬ女傑になりつつあった。
「わかった、わかった。さぁ、姫や、わしと昼寝でもしよう」
しかも謀神と言われる元就でもこの女人にはしばしば逆らえずにいる。
元就は嫁いできたこの美しい女人に弱みを握られていた。
人前では毛利家の実質の支配者として絶対的な存在でいるものの、内に入ればその関係は一転していた。
彼は孫娘を連れて別室へと向かう。
しかしただで従うほど良くできた人間では無いのが彼であろう。
「この子が落ち着いたら二人きりでお主が淹れた茶が飲みたいな」
「あら……邪魔は入らないでしょうか」
元就が言うと女は少し弾んだ声音になった。
元就はちら、と楽しげに視線をちぬに向ける。
「わしの乱破はそこまで無能ではないぞ? 心配なら言いつけておく」
「いいえ、必要ありません。さ、早く寝かしつけて来て下さいませ」
少しぶっきらぼうな口調だが元就は確かに見た。
ちぬの唇もまた、とても楽しそうに弧を描いていた。
瞳は期待して艶めいているようにも見える。
母になってからというものやけに煽情的に思うのは元就が彼女に想いを寄せているからだろう。
頭を振って現実に戻る。
そして元就は年甲斐なく彼女のために幼い子を急いで寝かしつけねばと奮起した。
「できるだけ熱い茶が飲みたいのだが」
「体に障らぬ程度なら」
それを聞いて元就はくすくすと声に出して笑う。
不思議なものを見るような孫娘の視線に少し自重せねばと思ったのはそのすぐ後であった。
「さ、早く行こうか」
数日後のことである。
隆景はまさに今、腹心を連れて吉田城の門を潜ろうとしていた。
彼は皆の前でそう告げると意気揚々と歩みだした。
年に何度も訪れる訳ではないがやはり慣れ親しんだ家は気持ちをほっとさせる。
そう感じるのはやはり自分が当主だとしても小早川という家はまだ他人の家だと感じているからであろう。
いつか慣れる日が来ると待ってはいるが、そのような日は訪れるのだろうかと実際疑問に思う。
そしてこういう時、すぐ上の兄である元春が羨ましく感じてしまうのだ。
彼は養子に出された先の吉川家でうまくやっているらしく、その妻とも仲は悪くない。
舅である吉川氏は母の縁者でもあるし元春と懇意になるのにも時間はそう掛からなかったのであろう。
それに元春は毛利家には珍しく力が自慢の男である。
剛毅な性格は吉川の人間にはすぐ馴染んだに違いない。
それに比べて自分は未だ上手く立ち回れているか分からない。
そしてこんな時でさえ頭を過ぎる妻の顔。
気に入られたい一心が強すぎて妻を思い出させるのか、はたまた罪悪感からか、隆景はせっかくの遠出だというのにまた気が滅入る思いだった。
そのうち彼の前には出迎えの者等が現れた。
そして聞き知った声が彼に問いかけた。
「どうした隆景、暗い顔をして。旅路はそんなに険しかったか?」
「父上!」
まさか元就が自ら彼を迎えに出向くとは思っておらず隆景は目を輝かせてその足元に参じた。
「御無沙汰しておりました。隆景、ただいま馳せ参じました」
「あぁ、息災で何より。立ち話では寛げまい。さぁ、城に参ろう」
隆景は強く頷いた。
家来は下がらせ、各々の荷解きや馬の世話に当たらせた。
久方ぶりの実家であり親子水入らずの時間を誰かに邪魔をされたくは無かった。
この瞬間から鬱々とした気分も少しは晴れ隆景は元就の隣を歩きながら「そういえば」という出だしから次々と話題を広げていた。
隆景は弾む会話にただただ高揚するばかりであった。
「やはり父上以上に話しのわかる方はおりません。吉田の兄上が羨ましい」
「何を言う。お主の言葉を聞いたら隆元が卒倒するぞ。わしはあやつに小言しか言わんでな」
「それは贅沢というものですよ。新高山城にも父上と同じぐらい書を読むものが居れば文句は無いのですが」
元就は苦笑する。
自分以外に本の虫である隆景を満足させられる者など早々おるまい。
そもそもこの時代紙など高級品であるし、竹簡を読むにしてもある程度の知識がなければならない。
その上学問を学ぶにはある程度の家系でなければならないと来たら共に語り合う友人を探すのも一苦労である。
また隆景は自分以上か同等でなければ満足できないというのだから我儘も良いところである。
「お主が見込みの有りそうな者に教えてやれば良い。それだけで文句も多少減るだろうよ」
「見込みが有るものがいないのですから如何とも」
「わしに似て高飛車な男じゃな」
にやりと笑った父。
高飛車な、などと言われたら怒りも湧こうが尊敬する父が自分に似てなどと言おうものならそれは隆景にとっては最高の褒め言葉に他ならなかった。
「しかし父上はつまらないとは思わないのですか」
隆景は唐突に聞いてみた。
元就とて隆景と同じようにその分野について誰かと相談したり語り合いたいと思うはずだ。
そしてこの吉田城に元就と対等に話せる人物も多くはない。
実際隆景は小早川でのそう言った点を不満に感じているから問いかけたのだが、元就はどうやらそうではないらしい。
「わしは今は満足しているな」
「おや。ということは見込みのある者がいると言うことでしょうか」
「まぁ、そういうことだ」
元就は目を細めて小さく微笑んだ。
それには誰かに思いを馳せるような色が滲んでいた。
昔、良く自分や兄たちの将来を楽しみにしていた時の眼差しととても良く似ていた。
であるから隆景は元就をそのような顔にさせる誰かが羨ましくて少々嫉妬した。
「その者は若いので?」
「あぁ、若いな」
「そうですか。今度紹介なさってください。その者と知恵比べをして勝敗を競います」
隆景が少し冗談めかして言うと元就は目を丸くして、それから破顔して言った。
「良かろう。きっと敵うまいよ」
かくして隆景と元就は城までの短い道すがら近況を語り合ったのだ。
そして本来の用事である政治的な相談は間者を恐れて密室で行われた。
家臣、身内と言えども油断せず信用しきらない事が毛利がここまで生き延びた所以である。
生き延びるためには第三者、不特定多数が混在する場所で情報を交換するなど決してしないのが鉄則であった。
本題は尼子氏への奸計をいかに行うか、またそれに伴って大内氏への対応をいかに変えるか。
頭の良いこの親子は今の安芸三家の置かれている状況が決して良いとは思ってはいなかった。
食うか食われるかの話では無い。
蛇どもに食われるのが目に見えていて慈悲で生かされているに過ぎないのが今の毛利家である。
それを何とか役に立つ道具として認識させることで今日まで生き永らえてきたに過ぎない。
そして自由な覇者として羽ばたくにはまだまだ時間がいる。
元就は各国に忍ばせた乱破の情報を繋ぎ合わせたものを隆景に渡した。
「大内氏は病み始めている。家臣の意見に耳を貸さず、財を食いつぶして贅沢にふけっているらしい。貧しい村や町からは病と餓死者も出ている。しかし贅沢に湯水の如く金を使うから税も重くなる。人心は離れ、臣下の信用は薄れいずれ破綻するだろうよ」
元就は隆景にそう言いながらある男を思い浮かべた。
それは大内義隆である。
義隆は毛利家の忠義を尽くす相手ではなくあくまで食われぬ為にごまをする相手でしかなかった。
戦ったとしてもその戦力差は元就が若かりし頃の毛利では到底埋まるものでは無かった。
抗ったところで津波に飲まれる砂利のようなものである。
そして元就の父である弘元はそもそも戦意に欠ける男であった。
よく言えば平和主義者であるが若き元就はそれが許せなかった。
虐げられても粗末にされても耐え忍ぶか黙して俯くしかできぬ父が情けないとすら思った。
そのうち、その父が死に家督を継いだ兄が死に、その順番が自分に巡って来た時に父が直面していたものの大きさを知って愕然とした。
己一人の力の何と小さなことか、と。
故に元就は身内の、特に血縁の繋がりを大事にした。
他人は窮地において裏切らない保障はないが、少なくとも血縁は裏切りはしない。
親子となればそれは絶対だ。
元就にとって子供らは失ってはならない何よりの戦力であり宝であった。
元就は毛利の者が籠の鳥のように永遠に搾取される未来を子孫に与えたくはなかった。
子供らには辛い道を歩ませているのを承知で彼はその大事な宝を他家の人質にやった。
そして長男である隆元は人質として大内義隆の元に送られた。
「あやつのことじゃ。義隆を討つなどと言ったら発狂して怒鳴り散らすであろうな」
「良くも悪くも兄上は義隆様に似ておられますから」
「平時であればそれでも構わぬ。あれの正妻は義隆の娘じゃし義父を慕うのは悪いことでは無い」
しかしそこまで言って元就は言葉を濁した。
今の毛利が生かされているのは大内家の身内がここにいるからだ。
そして人質にやった息子の隆元がその当主を敬愛しているから目溢しを貰っているというに過ぎない。
だがその大内家の力は情勢を見る限り弱まって行き、いずれ傾くであろう。
その時大内義隆に代わって台頭した者が果たして毛利家と手を携えるか支配するために牙を剥くかは分からない。
その時に軍略に深くない隆元がこの国と領民を守りきれるとはとても元就は思えなかった。
父の心の内側が見えるのであろう。
父に最も良く似ていると言われる隆景はくすりと微笑した。
「隆元兄上はお優しいのですよ。昔から争い事は好まれませんでした。人には向き不向きがございますから」
「だとしてもいざという時に役に立たんではのう……悩んでも詮無きことだが」
「それは私たちが支えれば良いこと。現に当主としての務めは果たされているではないですか。末の姫は今年で確か三歳でしたか? 子孫繁栄は良いことですから」
隆景はやんわりと言った。
そしてそこには若干の自嘲が含まれていた。
何故ならいつまでも妻に遠慮して子の一人も為せない自分に比べて、趣味に奔放だとしても最低限、家の為に跡継ぎは産ませているのだ。
実際有事の際に元就が最も頼るのは自分だと自負はしているが、自分や父が斃れた場合に家督を継ぐのは子供らだ。
だからこそ隆景は兄を庇った訳だが元就の顔はと言うと納得する風ではなく、少し困惑気味に苦笑していた。
「……確かにな」
元就は隆景の言葉に少し冷や汗をかいていた。
そして僅かな動揺も見せないように目を閉じて小さく深呼吸した。
隆景はその間密書を読み進め、気が付けば日は傾き始めている。
暗くなれば読むのも一苦労である。
元就と隆景はさすがに一旦下がり、家の者が居るところへと戻った。
隆景はこの吉田城の客室へ、元就はその本城の
一歩部屋の外に踏み出して広間の方へ気配を向けると既に小早川家の者を持て成すための支度が忙しなく行われていた。
「ではわしは戻る。隆景もゆるりと休めよ」
「おや、父上は共に参られないので?」
「わしは疲れた。年は取りたくないな」
元就は白髪交じりの頭部に手を当てて悩ましげに言った。
同じ体勢のまま暫く動かなかったせいか腰も伸び切らずに苦しげに体を揺らす。
そんな父を気遣いながら「お供しますよ」と言って隆景は套までの道を同行した。
套は元就が隆元に家督を譲った際に建てられた。
行くのは隆景も久々である。
整備された林道と舗装された細く長い石畳の道。
だが隆景はこの道を知らなかった。
元就しか通わないから適当で良いと言って最低限の家屋と道であったはずだが舗装されているということはやはり体に負担があったからだろうかと隆景は父の身を案じた。
本人が言うように年であるのは事実である。
「用は無くとも時々来ても良いでしょうか。手土産なら持参しますから」
元就が心配などと言ったら本人は来るなと言いそうであるから当たり障り無く隆景は言った。
元就はそんな気遣いには全く気付かぬまま逆に隆景を心配していた。
「有り難いが奥方はどうする。置いてきたら淋しくするだろう」
「どうでしょうね。私はあまり好かれてないようですし」
寂しそうに笑う息子に元就は若干の罪悪感を感じた。
小早川の姫には兄がいたがそれを追放し反発する譜代の家臣らを粛清したのはほかでもない元就だった。
そうしなければ家中は纏まらないがゆえ仕方なかったとはいえ隆景を辛い境遇に落としてしまったようだ。
「好かれてないか。まぁ……原因を作ったのはわしだからな。苦労をさせる」
「いえいえ。何と言うことはありません」
そうこうしているうちに目の前には家屋が見えてきた。
一応城という名目であるからきちんと門番が控えている。
元就はその門番に帰還を告げると隆景に向き直って微笑む。
「お主がいてくれると助かるな。では、おやすみ」
「はい。おやすみなさい、父上」
吸い込まれるように消える元就を見送って隆景も元来た道を行く。
本城までもう少しというところで隆景はこちらに向かってくる人影に気が付いた。
―――女。
女は隆景に気がつくと少し驚いたように脇に控え頭を下げた。
身なりは悪くは無いが元就付きの側仕えか何かかと思い気にも止めずに通り過ぎた。
どこかで見たことがあるような……としばらくして振り向いて見たがその女はだいぶ進んで行ったようでもう影も見えなくなっていた。
しかしそのうち誰とすれ違ったかなどと言うのはすっかり忘れた。
元就との火急の用も終わったことだが隆景にはまだやることがある。
この城の現当主の隆元に実はまだ会っていない。
元就いわく酒の席には出るだろうとのことだが本人は趣味に忙しい。
弟の存在など忘れているだろう。
「戻られましたか」
家臣の一人が隆景の側について整えられた客間に通した。
そしてそこには兄である隆元が坐して寛いでいた。
どうやら忘れられてはいなかったようだとこの兄を見て口元に手を当てて苦笑した。
「お久しぶりです兄上。元気なようで何よりです」
「久しいな。父上との密会は済んだか?」
「ええ。楽しくて時間を忘れてしまいました」
隆景は本心を述べたつもりだが隆元は少々困惑したように笑うだけだった。
兄は家臣に酒を持つように命じた。
久しぶりに飲み交わそうということだろう。
手招きされたので傍に寄ると大仰な溜息が降ってきた。
「お前は良いよ。父上と気が合うのだから。私はいつでも父の言いなりさ。やれこれをしろ、あれをしろ。うんざりする時もある」
「兄上を思っての事です。当主なのですからね。仮に私が吉田の当主になって兄上が小早川家の元に養子に送られたら嫌でしょう? 長男の自分が何故、と」
受け取った杯に酒を足しつつ答えると兄は少し渋い顔をした。
弟達は自分とは違う苦労が降り掛かっているのであろうことは想像に難くない。
申し訳なさそうにする兄を見て隆景は気にするなと制した。
「兄上に期待しているんですよ」
「あぁ……お前には敵わんな。確かに弟達が家督を継いだらそれはそうなるかもな。だが私は父上にとって至らない当主らしい。色々とな」
「具体的には」
隆景が問いかけると少し酔った兄が私生活の不満を滑らせた。
その多くが既に父から聞かされていることであったので隆景はなべて相槌を打って、時折酌をした。
しかしあるところで隆景も共感せぬ訳にはいかなくなった。
「だがな世継や室の事をとやかく言われるのはさすがに気が重いのだ」
大っぴらには言わぬが家臣達が元就を通して男児の誕生をせっつくのだ。
だが子供など天からの授かりものであるし正妻の腹にもついこの頃まで子がいた。
その子が生まれ順調に育っているだけでも上々であろうに元就や昔からいる家臣は次々と小言を言ってくる。
「私は時折自分が種馬か何かのようだと思ってしまう。役に立たないならせめて子供を作れ。もしかしたらその子が優秀かもしれない。お前は必要無いと言われているようだ」
「それは……」
本格的に酔い始めた隆元は段々と声が大きくなってきた。
そもそも元就の言いつけで飲酒はあまり良いものとされていない。
いつ何時敵が襲いに来るか分からないからだ。
それ故に量もそれほど多くは差配されていないはずだが久々の弟の来訪に隆元は浮かれてしまったのだろうか。
隆景は介抱の為に人を呼び寄せた。
「兄上、お気を確かに」
「お前はどう思う。私は己の責任を果たしていないと思うか? どいつもこいつも父上が良いと言う」
「大丈夫です。兄上は責務を果たしております」
「だが、お前の室はお前を見限るような真似はすまい」
―――大分酔っている。
隆景はあとから来た小間使いにその場を任せるとその場を後にした。
ああいう酔い方をするというのは相当抱えているものがあったのであろう。
知らなかっただけで毛利家の当主というのはそういう所まで干渉されるのかと隆景は気の毒になった。
しかし言われないだけで隆景も妻に慮って未だ一人として子もおらぬ。
言われぬだけましだが、兄に言うということはきっと父も自分に同じことを思っているのだろう。
役に立つから干渉しないだけ、なのかもしれない。
機嫌を損なっては有事に使えなくなるから。
「考えすぎかな……」
隆景は酔いつぶれた兄の言葉にチクリと胸が痛んだ。
そして息子らの悩みの種になりつつある当の父親は僅かな明かりを頼みに書にふけっていた。
その隣には隆元の室のちぬが同じように明かりを分け合って静かに元就の横顔を眺めていた。
元就は最初気にならなかったが、あんまりじっと見られるもので流石に問いかけた。
「ちぬ、わしの顔に何かついているか」
「いいえ」
「じゃあ何か言いたいことでもあるのか」
「特には。ただ、いい加減こちらに来て休まれれば良いのにと思ったまでですよ」
そう言うと褥の上で控えていたちぬは自分のいる隣をトントンと掌で示した。
言われてから首を傾げると、その首がつったように痛んだ。
顰め面をするとちぬはしたり顔でその手を引いた。
「よく見ているな」
「あなたこそよく飽きずに耽られます」
「のめり込んだら止まらんのだ」
痛んだ箇所を庇うようにゆっくりと横になるとちぬが苦笑した。
元就は近くなった体温に寄り添うと、当たり前のようにその温もりを包みこんで離さない。
ちぬの方もそれに甘んじて擦り寄り、ぴったりと体を重ね合わせる。
一拍息を置いてから彼女は問いかけた。
「そういえば昼間隆景さまをお見かけしました。隆景さまは私に気付かれなかったようですけど元就さまも本城に行かれなくて良いのですか?」
すると元就は「おや」とちぬをちらと見て意地悪く返す。
「なんじゃ、あちらに行って欲しいのか?」
するとちぬは勢いよく左右に頭を振って否定した。
「嫌です。行かないで下さい」
「だろう? わしは隠居の身。家臣共には担がれとるが当主はあくまで隆元だ。気にしなくても良い。それよりお主こそ隆元の側にいなくて良いのか?」
眉を少し上げて元就はまたさらにちぬに意地悪な問いかけをする。
共犯者のちょっとした悪戯とも言える言だがちぬは唇を尖らせる。
「もう……元就さまは何故そんな事を言うのですか。最初に手を出したのはそちらなのに」
「そうだったかな。誘いに乗ったのだ。お互い様じゃろう」
「あなたが居なくなると言うからです……。小娘をからかって楽しいですか?」
「あぁ。楽しいな。母になってもいつまでも初々しくて目が離せぬ」
言いながら元就はちぬの着物の合わせ目に冷えた掌を差し込んだ。
ちぬは一瞬その冷たさに身をすくめたが元就は続きをやめなかった。
女がそれを拒まないのだからしめたものである。
「それにやっとお主の体が落ち着いて来たからな。……やっと姫からお主を返して貰えたのだ。楽しまねばもったいなかろう」
ちぬは呆れていたが元就には実際その通りである。
孕むに至るまでは若造のように貪っていたが、自分の子を宿した女を気遣い自分なりに自制していたのだ。
年寄りになったから欲に踊らされることは少なくなったがそれでも抑えが利かない時はある。
ちぬは拒まないし喜んで自分を受け入れるが痛みを訴えられれば無理はさせられない。
さらに産んでからは医者の言いつけで禁止される期間を設けられるし、子が乳を吸っているのを見たら「これは今や俺のでは無い」と乳房に触れるのも憚られる気がした。
それが娘が乳離れをするようになってようやく己の好きに出来るようになったのだ。
楽しまねばもったいない。
元就の言い分にちぬは苦笑したが本人には死活問題に等しかったのだ。
何せ他の女では良くないのだから。
「それにお主は気付いていないだろうが前よりもずっと抱き心地も良い。尻に肉が付いたからだろうな。食べろ食べろとここの女どもが食わせたのが良かったな」
「そんなに違いますか」
「それだけでは無いがな」
昼間抱いたにも関わらず元就はこの艶と張りのある体に溺れた。
自分の皺の目立つ体を飲み込む精気溢れる肉体。
支配しているようで支配されているような感覚に高揚する。
自分が何もかも上であるはずなのだがこの時ばかりは下僕のように小娘の為に尽くすのを厭わない自分に高揚した。
「元就さま、愛しております」
そしてちぬが褒美の言葉をくれると宙に浮くような気持ちになり役目を果たしたのだと満足して眠りにつく。
そうやって夜はふけて朝が来る。
つまり元就は息子たち以上に私生活においては充実していた。
そうとは知らぬ隆景は隆元の言葉にいまだ悶々と小さなわだかまりを抱えていた。
というのも隆元の言った「室が自分を見限る」という台詞にであるが。
隆景はそこでまたお菊を思い出す。
新高山城に残してきたお菊との確執は今に始まったことでは無いしその原因もはっきりしている。
何かしたからと言って一朝一夕に良好になる関係でもない。
しかし隆元はどうであろう。
少なくとも本妻との関係は良好に見えるし子供だっている。
室が見限るとはどう言う意味なのか。
あのように出来た奥方がいながら何を悩んでいるのか。
その上既に昨夜のことを隆元は「すまないな。何を喋ったのかさっぱり覚えていないんだ」と困った様に謝って来たから本人に聞くのもおかしな話である。
悶々としながら父と碁でも打とうとそちらの方に気持ちを向けて、そして今に至る。
南蛮から届いたという煙管を試しふかしながら元就が隅に石を置くのを隆景は見送って次の手を迷わず打つ。
「兄上はやはり贅沢であると思うのです。奥方は随分しっかりしているのにまだ何か文句があるようだ。袖にされないだけましなのに感謝もしないとは」
「いや違う。その話の流れからするとあれの正妻の話では無くて側室の話だろう」
「側室……」
言って隆景は首を傾げた。
元就はその間も確実な場所に石を置いて行く。
燻る灰を壺に落としながら、終わったらまた新しい煙草を入れていく。
隆景がきょとんと元就を見るので思わずくつくつと笑った。
「人の家庭のことが気になるなんて、お前も女々しいな」
「そりゃそうですよ。兄上は子がいる。私にはいない。その上奥方の文句ときた。私に無いものをひけらかして、その上まだ足りないというのだからまるで嫌味では無いですか」
「そうかそうか」
少しむくれる隆景に元就は微笑む。
好々爺な表情ではあるが盤上では容赦なく追い立てていつの間にか隆景の石が置ける場所は狭まって来ていた。
気付いた時には渋い顔で「参りました」と言わされていた。
……負けた。と、肩を落としたところで元就は煙管を置いて人を呼んだ。
屈強ではあるが表情を口布で隠した男が音もなく現れた。
おそらく乱破だろう。
元就は昔から小間使いや位を持った侍従より乱破を重用していた。
「お呼びですか、御館様」
「あぁ。隆景がちぬに会いたいそうだ。呼んでくれるか」
「承知しました」
そこでまた隆景は首を傾げる訳だが元就が「例の側室だ」と言ったので彼が大層驚いたのは言うまでもない。
いくらなんでも急では無いか。
そして呼んですぐ来れるものなのかと疑問に思った。
「孫姫がここに住んどるんでな。母親も一緒にいてもおかしくなかろう」
「普通夫のところにいるものでは無いのですか」
「わしが勿体ないと思うから側に置いている」
勿体ないとは、と言いかけたその時である。
女の声がして襖が開いた。
その女を一目見て隆景は思わず息を飲んだ。
何故か目が離せない。
何故か懐かしいものを感じるのだ。
そしてあの時道ですれ違った女が隆元の側室であったかと今思い出した。
「お主も一度は会っているはずなんだがな……」
側に寄るようにと言われた側室の女は元就の隣に腰を下ろした。
普通は不敬と言われる距離なのだろうが、元就曰く孫をあやす内に慣れたとのことらしい。
しかも兄の正妻と違ってこの側室は元就を本当の父のように慕っているというから本人も実の娘のように可愛く思うらしい。
その上この側室は吉川氏から嫁いできた。
吉川家は母、妙玖の生家だ。
母を心から愛していた父を知っているからその思い入れも強いのだろうかと隆景は察した。
そして生家が母と同じと聞いて先程感じた懐かしさに何となしに納得した。
嫁と舅の良好な関係を見たところで碁盤を片付けながら隆景は問い掛けた。
「ところで何故私とこの方を会わせたのです?」
「何故ってお主が会いたいと言うからだろう。紹介しろとか知恵比べだとか言って」
「ということはこの方が……」
自分と同じかそれ以上の相当な知恵者なのだろうか、と隆景は若干後ずさった。
元就にして「敵うまい」などと言わしむ者である。
自分でも気付かない嫉妬心を顕に彼女を凝視していると鈴のような声で彼女が言った。
「御館様が何か言ったのならそれは冗談です。私などが隆景様の知恵や見識に勝つことなどないのですから」
「わしは何も言っておらんよ」
「隆景様が物凄い顔でいるんですもの。御館様が何かよからぬ事を吹き込んだのは目に見えております」
ころころと微笑みながら彼女は言った。
元就は隆景の反応を伺いながら自分の持つおもちゃをひけらかす子供のようにちぬがどう言う女かと楽しそうに教えた。
本人は微笑みつつも困惑しているようであったが。
「ほら隆景、ちぬはわしに物怖じしないじゃろ。しかも女の勘も相まっていて時折鋭い事を言う。こういう所が敵わない」
楽しげに笑う父を見て、この側室といる時は充足しているのだと隆景は瞬時に理解した。
元就は基本的に家族以外の他人に心を開かない。
しかしこの女にはその帳が開けてある。
それは兄の子供を産んだ娘だからだろう。
身内になったから、であろうか。
いやそんな簡単なものでない気がする。
「ちぬさんは何故こちらに?」
「何故、とは」
「兄上があなたを恋しがっているのを昨日聞いてしまったので、何故兄上のところには行かず父の元におられるのかと思ったのです」
「まぁ……隆元様がですか? 珍しいこともあるものですね」
心底驚いたあと、彼女は自嘲気味にふふっ、と吐息を漏らした。
そして元就の方を見て「本当ですか?」と再度確かめていた。
元就も「さあな」と片手を上げた。
隆景はこのやり取りに若干の違和感を感じた。
そもそも元就も何故側室を兄の元に戻そうとしないのか。
こうなった経緯を知らないので自分は何の口も挟めないし挟んだところで夫婦の事情に突っ込む無粋な輩だと言われて終わりだ。
だが昨日の兄の態度とこのあっけらかんとした父と側室に悶々とするのも抑えられない。
女々しいと言われた後であるから余計に。
だがちぬはそんな隆景の百面相をじっと見ていた。
元就によく似た男だと聞いたが内側で今頃あれこれ考えているのだろう。
この男は頭が良い。
この男の有能さを戦や治世ではなく兄の為にか―――このような些事に思い悩ますのも可哀想だと思ってちぬはさらりと周知の事実を述べた。
「私は嫁いだ頃から今も変わらず隆元さまを当主様として慕っております。しかしながら私は隆元のお眼鏡には適わなかったのです。しかし吉川の家やこちらの家臣の皆様は世継を望まれます。なので元就さまの命で閨を共にし、姫を授かりました。しかし隆元さまの態度は変わらず、哀れに思った元就さまが姫の後見となって下さいました。それで私もこちらに世話になっているのですよ」
ここに仕えている者なら誰もが知っている事実を敢えて簡潔に伝えたなら、あとは勝手に解釈して納得するだろう。
その上隣に元就がいてその通りだと頷いているのだ。
これ以上何を詮索する必要がある。
「元就さまがお呼びになるから何かと思えば……私は下がらせて頂いてもよろしいですか?」
「お待ちを。では兄が戻れと言ったら戻るのですか?」
「そもそも女の私に何の決定権があるのでしょう。命は聞きますとも。ですが元就さまがおらねば、今頃私達母子は吉田城の隅に追いやられていたか女腹は吉川に帰れと言われる運命でした。隆元様がなんと仰ったかは分かりかねますが、私など隆元様にとってただの側室という名の器です。それは揺るがないのではないでしょうか。その後は言わずとも分かりますね」
ここまで言えば愚鈍な者でも察するであろう。
命令によって番う戦国の夫婦とは得てしてこのようなものだ。
元就や妙玖のようにお互いに想い合う夫婦である方がむしろ珍しく、子供を成すためだけに売られるように嫁ぐ女の方が圧倒的に多い。
しかし女とて意思はある。
体の自由は奪われても、役に立たぬ男であると見切りを付け、その気になればいつだって男の根首を取れる気概はある。
男とてそうだ。献上された女は政略の道具で所詮器でしかない。生殺与奪は自分にあるのだ。女の気持ちなど瑣末なものと割り切っている。
愛を持って接するとは一体何であるか。
百姓でもないのに豚か牛に愛情を感じるかと言われたらきっと感じまい。
聡い隆景は俯いた視線に少し慌てた。
「すみません、もう良いです」
「いいえ。毛利の方は皆ご存知ですから。ですが今は幸せですよ」
「そうですか」
ふうわりと頬を緩めたちぬは隣にいた元就と視線を交わした。
我が子のことを他者から言われるのは流石に堪えるのか少しばかり困惑した風に元就は笑った。
本人にとっては息子が不甲斐ないお陰でやもめとは無縁になった訳だがそうとは知らぬ隆景は兄の言葉がまるで自分のことのように引っかかっているのだからしょうがない。
隆景はちぬの言い分を聞きながら自分は兄とは違うと思いたかった。
だが経緯は違えどお菊もこの側室と同じ気持ちでいるから自分に冷たく接するのだろうか。
そして自分もまた器としてしか見ていなかったとでも……思ってなくてもお菊はそう感じているのかも。
「……もし何か言いたい事が有るのでしたら弟を遣わすのでなく隆元様ご自身が言いに来られるでしょう」
聞けば彼女と兄は会話など殆どなく時々他者から世継を望まれた時にのみ相対する他人なのだろう。
男が愛情を感じぬ女を抱く時の気持ちなどただの自己処理以外の何ものでもない。
そこに憐れみの一欠片でも有れば良いが兄のあの態度とこの側室の怜悧さを見るにそれは期待できないものなのだろうと察する。
「隆景様は奥方を大層大事にされていると聞きました。どうか私のような気持ちにさせないでくださいませ」
では、と言ってちぬは軽やかに引き下がる。
引き止めようとする元就をさらりと笑顔で一蹴してちぬは行ってしまった。
父に忖度しないだけでも一筋縄では無いのだろうと思う。
それに去り際に彼女はお菊のことを言っていた。
普通側室ごときが他家の女房などに関心を寄せるだろうか。
隆景は元就をじろりと見た。
だが元就は振られたその手を名残りおしげにしつつも楽しげに目を細める。
「わしは何も喋っていない。だがあの娘は聡い。良く見聞きし覚えているし、考える頭もある。親しくないお主にあれこれ言われて怒ってはいたようだがな」
くすくすと笑う元就だったが、そんなふうに仕向けたのもまた元就だ。
ずけずけ踏み込んだのも認めぬ訳には行かぬがわざわざ呼び立てて波を立てようとする父の性根に少々気が重くなった。
「やはり怒ってましたか」
「まぁ普通は怒るだろう。しかしこれであの娘の賢さも分かったろう。あまり構ってやるな」
「えぇ。背筋の冷や汗が止まりません……不甲斐なさを断罪されるような気持ちになるので私も下がります」
「それが良かろう。―――お前は奥方とよく話せ。わしからの助言はそれだけだ」
こうして隆景は吉田城を沈痛な気持ちで去った訳だが、兄のことを反面教師にして新高山城に戻ってからは妻との時間を作るようにした。
最初こそすげなくされ、拒まれたが何度も何度も誠意を見せ話し合いを望むと、ある日お付の女御が明るい声音で言った。
「御殿様! お菊様がお会いになっても良いと!」
「まことか」
「えぇ。ようございましたね」
にっこりと微笑んだ女御に付き従うとそこには近くて遠い存在であった妻が、本当にすぐ側―――隆景から見て二歩ほどの距離に佇んでいる。
まだあどけない面持ちであるがいつもならもう少しきつい眼差しである。
それが今日はない。
しばらく無言のまま時が過ぎる。
焦れったくなり隆景が何か言おうかと頭をかいたその時である。
「隆景様は私を弑したりしないのですか」
唐突にそう言われて背筋が凍った。
だがせっかく得た機会に失敗など出来ない。
隆景は首を振った。そんなことは絶対にありえない。
彼は強く否定した。
「……私は誰も殺さないし殺したくなどない。まして愛しいお前をこの手で殺すなど考えるだけで恐ろしい。お前を手に掛けるくらいなら私は自死を選ぶ」
するとお菊はゆっくりと隆景の側に近付いてその手を取った。
不意をつかれて隆景は少々仰け反った。
しかし殆ど初めて触れたお菊の温もりに隆景は胸の内がじんわり解けて行くような気がした。
彼女の視線が隆景と交わり、気圧されそうだと思った。
何を言われるのだろうかと気色ばんだ隆景だがある時優しく口元が綻ぶ。
「どうやら私はあなた様を誤解していたようですね」
「菊……」
「あなたもあなたの父も許した訳ではありません。ですが、あなたを恨む時間が今は惜しいだけです。あなたは小早川の為に尽くしてくださいますか」
「そんなこと、当たり前だ……」
その言を聞くと、微笑んだお菊。
とは対照的に隆景はこの姫よりずっと年長だと言うのも忘れて、感極まってすすり泣いた。
少し呆れた妻がその頬を袖で拭う。
「あら……しょうがないですね」
そう呟いた菊もこの夫の情けない顔を見て、少しばかり意地を張っていた自分を省みた。
だが妻のふとした優しい仕草が隆景には沁みた。
先程よりも更に近くなった妻の身をおずおずと引き寄せる。
お菊は拒まなかった。
それどころかやんわりと抱き返して慰める。
―――あぁ……。
隆景は言いようもない安らぎを感じた。
小早川家に来てから初めての気持ちであった。
この女人のために一生をかけて力を尽くそう。
この温もりを得るためならどんな労も厭うまい。
隆景は誓った。
そしてこの日を境に隆景とお菊は閨を共にすることとなった。
この日初めて彼らは互いをかけがえのない夫婦と認めたのだった。
20240124
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