松永殿と恋煩い
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お市の方を密かに招いての宴は静かな盛況の内に幕を閉じた。
月の光が照らす頃に女同士で語らえばどのような話も一向に尽きず、ただ笑い声のみが響く。
久秀さまと高虎殿が声をかけなければ一晩中語り明かしていたであろう、美しき人。
明朝、今後二度とお会いすることは無いであろう姫君との別れは名残惜しく、何度も手を合わせ互いの安寧を祈った。
眩しいほどに輝く陽の光の下、彼の人は籠に乗り移る間際に手を振った。
姫君が腕を上げて手を振るなどはしたないとお付の小間使いが咎めるも、お市様は構わず続けた。
「こま殿! また、お会いしましょうね」
たまらず手を振り返すと爽やかな微笑みを乗せて彼女は御簾の内側に消えた。
段々と遠ざかる籠に少しだけ物悲しさを感じるも、お市様のお心が晴れて良かったという念が強く、暫し満たされた気持ちになった。
しかしそれを快く思わぬ者が一人いるのを私はすっかり忘れていた。
「久秀さま、あまりくっつかれては動けませぬ……」
「こまちゃん、我輩は今とても嫉妬している。美しき女が二人もいて目の保養には違いないのだが、やはりお主は我輩のもの。久通も宗矩もいなくなったら……良いかね」
「色良い返事しか許さぬあなたが、随分お優しいこと」
意地悪するような口調で答えると久秀さまは、ぐっとお顔を近づけて照れ隠しに偉ぶってみせる。
「ふーんだ、当たり前よ〜。ワガママ娘の為に我輩がどれだけ頑張ったか。それを是非労って貰いたいものだ」
「あらあら……。では感謝の印を心を込めて」
御手を取り、重ねる。
まるで幼子をあやす様にその手の甲をさする。
自分よりも大きい手は皺も深く、かさついているが温かい。
この手が私の願いを叶える為に励んでくれた。
それが愛しいと思わずなんと言う。
しばらく無言でいると久秀さまはそっと私から離れた。
ちら、とお顔を盗み見ると照れくさそうに歯噛みしていた。
それから何日か経ち、お市様から文が届いた。
今のところ生活に変わりは無く、落ち着いているらしい。
だがこちらから戻られてから夫君である長政殿との仲がより一層の深まったと記述があった。
どうやら土産に渡した酒が一役買ったらしい。
戦の話はご法度らしくそのことには触れられてはいなかった。
だが松永家の動きを見るに織田も戦支度に勤しんでいるのは明白である。
攻め手がこうも慌ただしく準備しているのに守り手が何もしていない訳があるまい。
こちら以上に慎重かつ厳重に対処しておられるのだろうと勘を巡らせた。
「なんだ、浅井の奥方からか?」
「そうですよ。また奪い取らないでくださいね」
「うるさいな、分かっとるわい」
しかし久秀さまは不機嫌そうな表情を少しも隠すことなく目の前に居座る。
取り上げはしないがグイグイとにじりよって来て結局中身は筒抜けである。
大した事は何も書かれてはいない故つまらないと欠伸をしていたが、酒の記述に触れて彼は思い出した様ににんまり笑った。
「そう言えばあれはまだ残っていたな」
どうやら昼間から飲もうと言うことらしい。
意図を察して私は庖厨へと下がった。
宴の為に仕入れた酒はその殆どが飲み干されてしまったが、中にはこうやって二人で飲む為に残して置いてる物もある。
楽しげにお酒についてあれこれ講釈を述べる久秀さまを横目に静かに盃を受ける。
話し続ける久秀さまからふと視線をそらすと花が目に映る。
花瓶の中で藤の房が優雅に揺れている。
久秀さまは本気で庭に設えようとなさっていたが結局のところ取りやめた。
戦が始まる前に無駄な出費は少しでも減らしておきたかった。
今思えば部屋の中に彩りを持ち込めて却って良かったとも思える。
花があるとは良い。
それに生けておけば散る前に片付けられる。
綺麗なものを綺麗なまま処分できよう。
「こま、ちゃんと聞いとるか?」
「もちろんですとも」
「ならば良い」
久秀さまは少々早く酔いが回ったらしく喉を鳴らして甘えて来られる。
こんなふうにのんびりと時を慈しめる時間は少ないのだろう。
どこへ行っても戦からは逃げられぬ。
乱世など終われば良いとこぼしつつ彼の髪を撫でていく。
しかしこの人はいつまでも乱世が良いとのたまうから苦笑しかできなかった。
「乱世ほど楽しい時間はなかろうよ。権力者が蟻を踏むように力なき者を淘汰していくのだ。平時であれば罪も大なろうが、こと乱世では手を回さずともクソみたいな馬鹿どもを一薙ぎで斬り伏せてしまえる。運命が我輩を見放すまで、せいぜい楽しむよ」
微睡みが彼を覆う。
起きているのか寝言なのか判別が今や難しい。
恐らく私など既に眼中になく、言いたいことをただのたまっているだけなのだろう。
それを間近で聞かされる心境をしらふのこの人はどう考えるのだろうか。
この人の気まぐれで召し上げられた蟻風情に一体何ができるのか。
だが命尽きるその時まで彼は私を手放さず、私も追い縋るのであろう。
隙間から不意に冷たい風が差し込んだ。
う、と身震いし主人に暖かさを求めて覆いかぶさる。
身を縮ませると、途端に近くなるかんばせ。
しばらく眺めていると彼の唇からは涎がうっすら垂れた。
呑気さが少しばかり憎らしくてその無防備な口を奪うが、やはり酒は昼間から呑むものではない。
分かち合う匂いに酔いそうだ。
しかし、こんな時でないとおちおち酔うことも出来ない。
「久秀さま……私は見放しませんよ」
呟いたら大きな
*
明くる日。
いつもと何も変わらない日常とたかを括っていたら、久秀さまが昼餉の仕度をしている私の元に早足でやってきた。
お顔を見るに長くなりそうかと
結論から言うと、案の定であったがそうとは知らぬ私は呼びかけられて居間に正座させられて久秀さまの重い口の中身を覗いた。
「あのな、こま」
「はい。どうなさいました」
「信長からな、岐阜に戻って来いとさっき早馬が来た……」
「はぁ……」
まるでこの世の終わりのような口調で彼は呟き、そして畳に突っ伏した。
そしておいおいと泣く真似などして、いつの間にやら私の膝に額を乗せる。
相当お嫌なようで、額を乗せるに留まらず着物をぎっと拳で握るものだからその部分が皺になってしまった。
しかも鼻水が若干付いて染みになっているでは無いか。
胸から懐紙を取り出して彼の鼻を覆うと、空気に押し出された薄い粘液がそこに張り付いた。
世話の焼ける大人である。
「まぁ……それは災難でございますね」
「我輩はあやつが好かん! しかも戦の前に宴をするからこまを貸せとここには書いてあるし! だぁれが貸すか、クソガキめっ!」
唾を飛ばしながら信長公への恨みをぶつける主人。
それも大した恨みもなさそうなのにわざと大きくしようとする。
好かないのは承知しているが敢えて言葉にして言う。
器の小ささを惜しげも無く披露する主人だが、自分の前だけであるから仕方ないものとした。
「あら別に私は構いませんよ。岐阜なんてすぐじゃ御座いませんか。私はお小遣いが貰えれば嬉しいですよ」
「こま!」
「まぁ、そんな怒っては心臓が持ちませんよ。ちなみに報酬は?」
「……そんなのは知らん」
「またまた〜。前回踊った時は信長様から二百貫貰えるはずでしたよね」
「ちょっとこまちゃん、 お目々が銭になっとるぞ」
「え、そうかしら、おほほほ」
「ったく、油断も隙も無いな」
「でも頑張れば久秀さまの武具や防具も新調出来ますよ。これを機に新しくいたしましょうよ。もっと軽くて動きやすいものに」
前回の金ヶ崎での撤退戦ではたまたま朽木家の助力があったから武装せずとも切り抜けられたが――かと言って殺されない保証はどこにも無い訳だが――丸腰で戦に放り込まれるなど自分に置き換えたらゾッとする所の話ではない。
それなのにこの人と来たら本当に丸腰で敵陣に赴くものだから恐れを通り越して開いた口が塞がらなかった。
しかし実際久秀さまのお年で余りにも重たい甲冑などは邪魔な上に体を悪くしないわけがない。
これも優しさで言っているわけなのだがこの頑固な年寄りはそれを否と言う。
「……我輩は着けたくないから良い」
むすっとした顔付きで、まるで年端のいかない子供のような振りをするものだからこちらも口元をひきつらせる。
「そんな子供みたいなこと言って。私が着けさせたいから行きますよ。さ、宗矩殿にも言って仕度しなくては」
「あ、こら、こま!」
久秀さまは背後で頭を抱えて唸っておられる。
行かなくてはならないのは決定だが、せめて誰かに「行かなくても良い」と言って欲しかったのであろう。
まさか飼い犬である私に「行けば良い」などと言われて、遂に心の逃げ場すら失ったと久秀さまは愚痴をこぼしておられる。
そしてもう一人の飼い犬である宗矩殿にもそのことについて知らせると以下のような返答であった。
「まぁ、いいんじゃなぁい?」
「良くないわァ!」
主人は咆哮しながら飼い犬に手を上げる。
その飼い犬はただ面倒くさそうに「はいはい」と言いながら主人の顔を押さえつけて攻撃を阻んでいる。
相変わらずの光景ではあるが最近は主人が不憫でしょうがなく思ってしまう。
ただこのように詰め寄られたらきっと宗矩殿と同じようにあしらうのであろうとも思うが。
「たまには織田の方々にご挨拶に伺わねばとは思っておりましたし、調度良いのですよ」
「だがなぁ……あやつらと来たら我輩のことを汚物を見るような目で見てきよるから会いたくない」
歯ぎしりしながら百面相をなさる久秀さまに対し、飼い犬同士で目を合わせる。
「そりゃ松永殿が主家裏切ったり将軍殺したりしたからじゃない」
「ついこの間は信長様を鐘に閉じ込めようとして、自分が失敗して出られなくなってましたしね。自業自得ですよ」
「そうそう拙者が助けたからよかったけど、来なかったらどうするつもりだったの?」
そして恒例の、視線を合わせて小首を傾げながら「ねー?」とお互いに声を揃えて見る。
久秀さまは相変わらず気に食わなさそうに唸り声を出して睨みつけて来た。
「ぐ……! 仲良さげに我輩を馬鹿にしおって。宗矩、次の戦で前線に立たせてやるから覚悟せい」
「えー! 松永殿、鬼畜!」
「ぎゃははは! 飼い主の手を噛むことの愚かさをとくと見ろ!」
にやにやしながら久秀さまは宗矩殿をいじめて楽しむ。
そして次に私に向き直って腕を組む。
悪巧みをする視線に少し戸惑うが負けずに受けて立つ。
「そしてこま、お主は何が良いかな。裸で壁に貼り付けて置くのは風邪を引いてしまうからな……壁に穴でも開けて尻でも突き出して貰うかな」
「……どういうことです?」
不穏な物言いに顰めて首を傾げるとすかさず宗矩殿が答えた。
前線送りになるかもしれないのに呑気ににやにやとしながら話に混ざる。
「松永殿ったら卑猥だなァ。つまり着衣のままお尻だけ丸出しで固定しちゃうって格好だよ」
私を見ながら敢えて卑猥に唇を舌で舐め回すような真似事をする宗矩殿に、悪寒がしてきつく両腕で身体を抱く。
「変態」となじると彼らは満面の笑みで答える。
「そりゃ褒め言葉かね、こまちゃん」
「あっちゃあ、そんな風に言われたら松永殿が止まらなくなっちゃうよ。おじさんもね」
さらに困った大人たちの会話は続く。
「ちなみに拙者も使って良いの?」
「貸すなど言っておらん」
「ちぇ〜、つまんない」
「ちなみにお主にもやらせてやるからな」
「嫌だよ、悪趣味な」
真面目そうな顔してとんでもない事を仰る久秀さまに宗矩殿も青ざめた顔で尻を抑えていた。
そんなことより、と私は彼らに茶など出しながら口を挟む。
「で、いつ行くのです?」
「明後日には出立せねばならぬなぁ。はぁ……面倒臭い」
「まぁまぁ、光秀殿にも会えますし良いのでは?」
「なんでそこで光秀が出てくる」
「あら、お好きなのかと思っておりましたけども」
勘違いだったろうか、などとふと思案すると、すかさず主人は顎に手を当てて間違ってはいないと呟いた。
「……まぁ、あの面子の中では一番マシだなというだけよ。 実際我輩の馬鹿話を真面目に聞いてる顔は可愛いしな」
「大の大人の男を捕まえて可愛いとは……ご本人が聞いたら卒倒してしまうのでは?」
「それならそれで見物よ」
「意地の悪いお方」
ゆっくりと彼は口元をあげる。
宗矩殿はそんな主人をつまらなそうに眺め、あくびをした。
男の話など、この男にはほとんど無用な情報であるらしい。
これが女の話になったならこの身でなくとも鼻の下を伸ばして尻を追いかけ回すだろうに。
「さて、また旅支度か。近江に行った時のように楽しい気分がつゆ程も起こらないのが残念でならないわ」
肩を回しながら面倒臭げに文机に向かい始める主人。
大方、久通様にこの面倒な依頼の下準備でもさせる気であろう。
踏ん反り返るお父上の為に身を粉にして働く現当主様の苦労やいかに。
しかし当主とは忙しくて当たり前とこの御隠居は御子息を遠慮なしに使われる。
「ひどいお父上ですね」
「息子に取っての父親なんてこんなもんだろうよ」
「そんなこと知りませんよ。
「おやおや、その言い草だとこまは我輩との子が欲しいと聞こえる。安心せい、お主との子だったら死ぬほど甘やかしてやるわ」
喉を鳴らしながら愉快そうに静かに笑う主人。
何を勘違いされておられるのか筆の進みも滑らかでご機嫌である。
飲みかけの茶を片付けながら私は「そうではない」と唇を尖らせて微かな溜息をついた。
そこにまた違う溜息が被さる。
宗矩殿が鼻をほじりながら面白くなさそうに突っ掛かる。
「あ~あ、仲良さそうに見せつけてくれるねぇ。おじさんは愛だの恋だの゙出来る相手もないってのに。毎晩さみしく商売女を抱く拙者の゙気持ちを考えてよ」
まるで被害者の゙ようにのたまう男。
そんな男の言い分を理解できる女がどれほどいようか。
近場にこのような事を言いやる輩の性根にほとほと虫唾のようなざわめきが走る。
言葉に出せずとも後にのけぞると私の視線に何か感じとったのだろう宗矩殿が言った。
「あ、こまちゃん。おじさんの゙こと軽蔑したでしょ」
「はい。気持ち悪いです」
「酷いなぁ。松永殿ならわかってくれるでしょ」
「ん〜? そんなの゙知らんな。お主が言う通り我輩はこまちゃんと愛だの恋だので他の女に目ぇくれる余裕など無いのでな」
久秀さまは飼い犬のぼやきをいなすようにご機嫌で筆を走らせている。
ところが宗矩殿がそれに対して面白くなさそうに小さく息を吐く。
それから「羨ましいこと」と呟いて私の尻を軽く叩いた。
急なことに上擦った声が出てしまう。
「ひっ! どさくさに紛れておやめ下さい!」
「ごめーん。松永殿が機嫌良さそうだと腹立つんだよねェ」
「だからって何故私の尻を毎回毎回……! 久秀さまが大人しい日に限ってあなたはどうして久秀さまみたいな事をなさるんですか……」
いつもの事とは言え宗矩殿の手癖の悪さにはほとほと辟易してしまう。
主が久秀さまであるなら致し方が無いのであろうが、私以外の貴女に手を出そうものならと考えぬ訳でもなかろうに。
「だって詰まんないんだもん」
しかし宗矩殿はあっけらかんとただでさえ細い目を更に細めて笑う。
と、今までご機嫌だった久秀さまの筆がついに止まる。
さすがに久秀さまを引き合いに出して文句を言ったのはまずかっただろうか。
細かく肩が震えている。
これは口出しせずに関わらない方が良さそうだ。
面倒になる前にさっさと退散するのが相場と決まっている。
この後起こるであろう顛末を予想し私はそっとその部屋を後にした。
文机を激しく叩く音がした。
「宗矩ぃ! 今日と言う今日は手打ちにしてくれる。 というか仕事の邪魔するんじゃねーわ! したくもない仕事させられる隠居ジジイの気持ちを少しは汲み取らんか、馬鹿者! 」
「そんなに怒らないでよォ。だって目の前でいちゃつかれたら気に障るじゃん。さっさとぶっ飛べジジィって思うじゃん? それに少しはおこぼれ頂戴よぉ 」
「何がおこぼれだァ! だったら少しはこまの為に家事の一つもやっておけとこの前言ったろうが!」
「だって、こまちゃんは邪魔だからしなくて良いって言うんだもん」
「邪魔にならんように気ぃ使って手伝えんのか木偶の坊め!」
「えー、ひどーい!」
「酷いと思うことを言わせるな、ボケナスめがぁ!」
戸を一つ隔てて向こう側、この世の平穏とは己次第であるとつくづく思う。
久秀さまに追い立てられて勢い良く宗矩殿が縁側を駆け抜けていく。
しかしよく見ると久秀さまの右手には護身用の真剣が握られており、このままでは宗矩殿の首と胴が離れ離れの恐れさえあった。
が、久秀さまの言う通り、信長公という嫌な仕事相手のご機嫌取りの為にわざわざ気持ちの舵を切り替えて励んでいたのに、その最中に茶茶を入れられてはたまったものではあるまい。
今回ばかりは久秀さまに同情し、しかし流血沙汰は何としても避けたくて仕方無しに「もし」と背後から声がける。
「久秀さま、その辺りになさって下さいな。宗矩殿が死んだら力仕事の
「そうそう。だからその物騒なの仕舞っとくれよ」
ヘラヘラしながら宗矩殿は交渉する。
ところが抜いた刀が鞘に収まらぬように久秀さまの怒りも収まらず、珍しく若者のように暴走されておられる。
しかしそこは年の功か。
ふー、ふー、と肩で息をされて平静をなんとか取り戻そうと立ち止まっている。
頭を抱えて、およそ上に立つもののセリフとは思えぬ罵詈雑言を吐き捨ててから右手の刀は庭に投げ捨てて地団駄を踏んだ。
「宗矩!」
「はいはい、なんだい」
「その刀は後で拾っておけ!」
「あいよー」
「それからこまを出汁に仕事の邪魔をするな!」
「へーい」
冷や汗をかきながら笑顔を貼り付けて宗矩殿は返事する。
そして久秀さまの視線が背後の私に向けられる。
主人の目元に少し疲れが見えて苦笑した。
溜息をつきながらこちらに歩みを寄せられる久秀さまが訝しげに問う。
「……何故笑う」
「久秀さま、そう心に波風を立てては身が持ちませんよ。さぁ、お昼寝でもしましょ。後でお食事も持ってきます。それにそんなんじゃ信長様の寝首はかけません」
「……我輩みたいな事を言うなよ」
「仕方ないでしょう? 不思議なことにこのこまには久秀さまの気持ちが透けて見えてしまうのです」
「そうか。なら分かるだろう? もう疲れた……」
「案ずるより産むが易しと言うではないですか。今は緩やかに参りましょ」
微笑してみせると剣呑とした久秀さまも少し気が抜けたようであった。
私の脇をするりと通り過ぎるとそのまま部屋に戻られた。
静かになったところで私はほっと息をつく宗矩殿のもとに腰を下ろす。
困ったように眉を下げて彼は言った。
「ごめんよォ、こまちゃん。騒がしかったね〜」
のんびりと頭をかきつつ従者は言った。
私は刀を回収しようと庭に下り立つ彼に、呆れながら極力小声で問うてみる。
「あなたという人は……なんだってあんな久秀さまの気が張ってる時におふざけになられたんです? 」
「えー?」
刃こぼれなどないかと一応確認しながら彼は片目で考える素振りをする。
唇をすぼめて、少しの間が現れたあとまたしても器用に、今度は口元が緩やかにほんのり上がる。
「いやぁ? 別に拙者には関係ないけど、あんな根詰めた松永殿は松永殿らしくないでしょ。なんか無理矢理元気出してさぁ、好きでも無いやつのために奮っちゃって馬鹿っぽいなぁってさ」
「でも久秀さまなりに私たちの為に頑張ってるんですよ」
「そこよそこ。そんなのはおじさん達、悪の手下は望んで無いんだよ」
くすくすと自嘲気味に肩を揺らす彼。
大きな体が悠然と伸びをする。
「松永殿の良い所は良くも悪くもぶっ飛んでる所。自分に正直で欲心に忠実なのが良いンだよ。だからおじさんみたいな半端者でも居心地良いんだよね。なんつうんだい? 火に群れる虫ってのかな。危ないんだけどその強い光に吸い寄せられる。火傷するのはしょうがない。でも丁度良い距離だと火って暖かいだろう?」
きらりと刀身が日に照らされて光る。
反射して私の目を眩ませた。
「だけどさ、信長公のことになるとその火が心許無くなるような気がおじさんはするんだよね。どんなに近付いても揺らいでしまっては意味が無い。火を強くするには薪を焚べてやらないとね」
「あれで焚き付けたつもりですか?」
「こまちゃんのお尻はあくまでもきっかけさ。大陸の華佗って医者知ってる? 怒らせて病を跳ね除けるって逸話。あれに近いかな」
「ご自身を医者と称するとは随分傲慢ですね」
「そんなつもりはないけどさ〜、傲慢じゃなきゃ松永殿の相手は務まらないよ。でしょ?」
片目を瞑って合図する宗矩殿。
それはお前とて同じだろうと言われた気がした。
彼が薙ぐとひゅんと裂く音がした。
どうやら刃こぼれは無さそうだ。
「それに外様の松永殿がいくら頑張ったって信長公が評価してくれる訳ないじゃないの。それをわかっていながら無理しちゃってさぁ。見てられないよね」
「そうだとしても久秀さまのご機嫌を削ぐのはお止めください。面倒くさいんですから」
「そりゃ悪いことしたねェ。でもそれはもう知ってるよ」
くすりと小馬鹿にしたようにまた微笑む彼。
なんだかんだ言っても私以上に久秀さまと付き合いが長い宗矩殿のやることである。
考えあっての事であろうとその真意に理解の及ばぬ私はその場をゆっくりと離れた。
ところで久秀さまと言うとあの後もしばらく仕事の事を考えていたのであろう。
文机の上には新しい墨が摺られていた。
だが宗矩殿の言ったように根を詰めていた様で、今は静かに目を閉じている。
少し遅い昼餉をどうするか聞こうと思っていたら彼が小声で私を呼んだ。
「なぁ、こま」
「はい、ここに」
薄目が開き瞳が私を探していた。
ポツポツと呟く久秀さまの言葉を静かに聞く。
そのまま手招きされたので側に拠ると手を繋いでしまわれた。
「我輩は情けない男だよ。信長の前にお主を晒したくないが、保身の為にそうせざるのを得ない我が身がな。だがお主が進んで晒し者になると聞き、少し安堵してしまった。安堵した後、今まで有った力が無くなっていくのを感じて大事な女一人守れぬ器になったのかとがっかりしたのよ」
虚ろになった瞳が書きかけの書状を眺めている。
もはや、から元気すら億劫になったのだろう。
彼は寄る辺を探すように私の肩にもたれた。
「良いのですよ。守られるだけの女になるつもりはございません。私もたまには久秀さまの盾になって守って差し上げたいのですから」
「だとしても盾になどさせぬよ……我輩の矜持が許さん」
「では何になりましょう」
「そうだな」
少し自嘲気味に薄ら笑う主人はそっと私を引き寄せて胸に仕舞う。
「とりあえず今はこのまま布団になっててくれれば良いさ」
「そんな事を言われたら、なんだか眠くなって来ました」
「なら寝てしまえ」
「そう言うわけには。お食事を知らせに来たんですもの」
「そうか……なら行かないとな」
「宗矩殿もお待ちかねですよ」
「あやつと来たらまだいたんか」
飼い犬の名を聞くと少し不機嫌を示したが頭を掻いて「しょうがない」と立ち上がる。
どうやら先程の事を引きずってはいないようだ。
そのことに私は少しほっとして久秀さまの後に付いていく。
縁側を゙渡りながら彼がふと思い出したようにまた言葉を投げかけた。
「こまちゃん」
「はい」
「愛しておるよ。お主の様な良い女が側にいてくれる我輩は果報者だな」
久秀さまは何の気無しに呟いたのであろう。
何事も無くそのままスタスタと歩を進める。
しかし私は数秒その場に立ち尽くした。
まるで不意打ちで放たれた愛の囁きに後から顔の火照りと心臓の強い鼓動を感じた。
―――いきなりなんて卑怯だわ。
「……果報者はむしろ私の方です」
その後、平静を取り戻すのにしばらく時間が必要だった。
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