松永殿と恋煩い
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眼前の奇人は天女を飼っていた。
主のためにと、僅かな伴と共にこの屋敷を訪れると、挨拶も早々にもてなされ着座する。
まるで夢の中に閉じ込められたかのような時間はこの時から始まった。
楽士達に囲まれた舞台の中央で花が咲く。
絹衣を纏い、少女のようにも艶やかな美姫のようにも舞う御仁は天上に咲く蓮のようである。
自分たち手勢の者はその優雅な姿、舞、そしてその表情に極楽の物語へ誘われて行く気がした。
天女の周りには桃色の光が差し込む。
金沙が舞い、吹雪のように黄金に照らす。
彼女は音に聞く吉祥天女となり、この場を明るく包み込む。
その時は永遠で有るようにも思えるし一瞬であるような気もした。
皆、魂を抜かれたように恍惚とその舞台を眺めていた。
舞台の上からその天女が微笑むとぞわりと鳥肌が立つ。
悲しげに眉を下げるとじゅくじゅくと胸が落ち着かぬ。
魅入られるとはこのことか。
まるで自分はあの世とこの世の狭間で惑う魂のようだ。
理性を溶かして、すべてを投げ打ってその天女に抱かれたいと思ってしまう。
しかし極楽への案内人が見初めたのはこの場に於いてはただ一人。
柔らかな視線が向かう先はただ一人。
「……綺麗ですね」
そう言った主人へ俺は視線を上げる。
我が美しき主人の視線は舞台の天女へと向けられる。
そしてその先の天女もまた主人を見つめ微笑んでいる。
この舞台は、あの人は、我が主人の為だけに微笑んでくれる。
ずっと冷え込んでいた心に灯火が掛かるように、主人のその瞳にも小さな煌めきが灯っていた。
そしてゆっくりとその視線が俺に降りてくる。
美しい主人は俺を見つめ、目を細めて言った。
「大義でした、高虎。ありがとう」
謝辞に背筋が伸びる。
それ以上に胸がぐい、と締め付けられるような気がした。
主人が自分を認めてくれたという感慨にただただ己の熱が上がる。
それが脳天まで駆け巡ると、少し涙腺が熱くなり、涙で視界がぼやけた。
「お市さまの御為ならば、この高虎精一杯働きますゆえ」
気取られぬようにしたが、この主人は、そっと目元に袖を当ててくれた。
それがまた胸を締め付けた。
この場に吉継がいなくて良かった。
そう思ったのは初めてだった。
舞台の上の天女は音楽が鳴り止むと、ゆったりと唐風の礼をする。
そしてお市さまの御前まで侍る。
彼女はその美しい瞳を主人と俺に向けた。
そのまま小間使いの女に盃を準備させた。
優雅な仕草に見惚れてしまう。
「お市様、遠路はるばるお越し頂き、ありがとうございます。此度の再会、幸甚の至りにございます」
そして再会の盃を彼女はお市さまに捧げた。
その盃に視線をやり、その後彼女にも目配せし、少し困ったような、だがとても嬉しそうに破顔して答えた。
「私もまた会えて嬉しいです」
***
松永弾正久秀。
それがこの天女の御主人である。
以前、長政様の客人として招かれた折り、どのような人物かと吉継に尋ねたことがある。
すると友は、あの人は世の三大悪を成した方だと言うから恐れ慄いた。
仏を敵に回すなど、きっと災いの種になる。
長政様は何故このような者を招き入れるのか。
同じ織田の傘下と言えど主君を殺め、将軍を殺め、盧遮那仏を焼くような男である。
到底信用出来ないと思うのは当然であろう。
絶対に主に近づけさせるものか。
そう決したのも束の間。
己の視野の狭さを裏切ったのがその奥方である。
こま様は弾正殿の負の部分など嘘であるかのように親しみやすい方であった。
身分が高いはずなのに、市井の者とも普通に接する。
少し変わり者であるのは否めないが、こんな小姓にも親切に優しく接してくれた。
だから弾正殿の見方も彼の奥方越しに変わった。
―――もしや世間でいうほど悪い方ではないのかも。
いや、まだ分からない。
実は腹黒いのは夫婦揃ってかもしれない。
などと疑いの目を向けるも、大事な主人であるお市さまと、弾正殿の奥方さまは意気投合し、夫君達を置き去りにお喋りに花など咲かせていた。
このようにお市さまが楽しそうに笑うのを殆ど初めて見た俺たちはしばらく驚いた。
それと同時にこの奥方、ひいてはその夫君である松永久秀殿も信用に足るのでは無いかと二人で賭けてみた。
多少なりとも疑念はあった。
直接的では無いにしろ、信長という暴君の所業を嘆く長政様の正義感を煽り、焚き付けた。
長政様が義に厚く、朝倉を裏切れないと知っていて戦に追従させた。
あの日弾正殿と密談を行ってから長政様のひた隠しにされていた野心が覗けてしまった。
それが、今回の金ヶ崎の追撃と次に備える戦である。
平穏な日常など、この乱世に於いてありえないと覚悟していたにも関わらず、いざその日が来ると甘いものである。
圧倒的な物量と人員を有する織田の軍が一度敗走したところで朝倉攻めを諦めるとも思えない。
命を粗末にさせる義心とは悪だ。
泥の山を崩して行くように俺の大切な者たちを乗せた主家は滅びに向かって行くのだろう。
聡い吉継が言うのだから、どう足掻こうと予見は覆らぬ。
元はと言えば将軍の名を騙る信長が朝倉に理不尽な服従を求めたことが原因である。
どこぞの馬の骨に所領を奪われると知っていて簡単に頭を下げる愚か者はいない。
ぽっと出の成り上がりにあれこれ指図されては朝倉も立つ瀬がなかろう。
欲に塗れた織田が悪いのか。
それとも大局に従わぬ朝倉が悪いのか。
無二の友である吉継はただ時代の流れとしか言わぬ。
だがそれに食い潰されようとする我らは一体何なのだ。
お市さまは何故悲しまねばならぬのだ。
答えなど出ない。
しかし今だけは途方もない悩みや苦しみから解き放たれる気がした。
ふとお市様が問いかけた。
「甘い香りですね。桃の酒ですか。女人であるわたくしが、酒など頂いてよろしいのでしょうか」
すると目の前の太師は少し呆気にとられた表情をしたあと、ふっ、と目元をほころばせた。
そしてゆったりと頷く。
「この場はお市様の為に設えた宴にございます。飲むも飲まないもお市様の自由。それに……」
言い淀むと同じくして、ちらり、と視線が動く。
彼女の視線は、家来の者達と飲み交わす彼女の主人に向けられた。
彼女は声を潜め、秘密の会話をするような素振りをした。
「ここは悪党の住む家です。俗世の慣わしなど捨ててしまうのが身のためです。でないと」
「でないと?」
お市さまが興味深げに耳を傾ける。
弾正殿の奥方様は身を乗り出してお市様さまの耳元に唇を寄せる。
少しの間と沈黙。
と、その時艶やかな唇が丸くなりそっと息を吹きかけるのを俺は見た。
小さな悲鳴がお市さまから漏れる。
そのかんばせは徐々に赤らみ、困ったように眉を下げていた。
まるで悪戯好きな子供のすることに俺は呆気に取られた。
だが魅惑的な奥方の瞳は少し意地悪そうに、だが楽しげに煌めいた。
「この悪党の手下であるこまがお市様を食べてしまいますよ」
「こんなことをされては困ります……こま殿ったら……」
クスクスと微笑み合うお二人。
そして俺はその二人のやり取りに目を奪われていた。
まるで物語の一部のようであると妙な感動を覚え、持っていた手拭いで手の汗をひたすら拭った。
美しい主人はさることながら、この奥方の仕草といい表情といい何故か心臓がぎゅうと掴まれるようである。
一言で言えば目が離せない。
女人同士の戯れであるとは承知なのだが見ているこっちが恥ずかしくなる。
思わず目を背けると今度は別のものが視界に入る。
それはこの奥方の主人である弾正殿とその家来である大男であった。
俺と同じくずっとこの二人のやり取りを見守っていたのだろうが、何やら男二人で身悶えていた。
「み、見たか宗矩! うちのこまちゃんが、ふぅって―――あのお市の耳にふぅってしたぞ……!」
「女の子同士って可愛いよねぇ」
「しかもこまちゃんが「悪党の手下」などと言ってるしぃ! なんだこの不意打ちご褒美は! 我輩の心臓が持たん! この久秀こそこまという小悪魔ちゃんの下僕だぞ〜」
「はいはい、松永殿は酔ってるのかなァ?」
「あぁ。もう、うちのこまちゃんの可愛さに酔って酔って―――」
「松永殿は相変わらず気持ち悪いよねー。それにしても、美人が二人戯れてるのってホント尊いねえ……」
うっとりしながら男が呟いた。
知りたくは無かったが、なるほどこの感情は「尊い」というのか。
確かにお市様さまと奥方様のやり取りは、その領域を汚してはならぬと思うほど尊くてうっとりしてしまう。
隣にいると、何故か他人事であるはずなのに胸が悶々として、顔を中心に血液が急速に全身に巡るのだ。
図らずもほう、と感嘆の溜め息をついた時だった。
「なんか可愛いし、楽しそうだねぇ。松永殿、拙者も混ざって来ていい?」
「あ、こら宗矩!」
と、男が立ち上がった。
マズイ。
今この男に来られてはこの神聖なる領域が汚されてしまう。
何とか防がねばならぬ。
だが俺は今、動けぬ。
何とか切り抜ける方法は無いのか。
そう思ったまさにその矢先である。
「あ〜ら、まぁ、素敵なええ男やないのぉ」
「ほんまや~。ねぇっ、お兄さん、私たちと一緒に飲みましょうよぉ」
と、どこからともなくここの女中と思われる女が彼の前に躍り出てその両腕を掴んだ。
彼はいきなりのことに困惑しているようだが胸を押し付けたり、頬を擦り寄せたりする女たちに鼻の下が伸びているから満更では無さそうだ。
「離してくれないかねぇ」
「いやん。せっかく捕まえたのに、冷たくしちゃ、いやぁ」
「そうそう。さ、お兄さん、行きますよ」
「あ、ちょっとお姉さんたち……あーれー」
呑気な声で連れ去られる彼。
ホッと胸を撫で下ろした俺はふとある事に気が付く。
間合いが良すぎる。
もしやと思って目の前の御仁を見ると、誰かに向けて気取られぬように、しかし力強く親指を立てて合図していた。
そしてその先には弾正殿によく似ているがとてもさっぱりとした顔立ちの御人が同じように力強く親指を立てていた。
「久通! いやぁ、ほんと助かったわ。わしの力じゃ宗矩に負けてしまうでな」
「いえ、私はこま殿とお市殿が安心して寛げるようにと配慮したまでです」
「むっふふう。さっすが、気が利くのう!どぉれ、たまには一緒に飲むぞ。可愛いものを愛でながら飲む酒はうんまいぞ~」
「はい、父上」
なるほど彼とは親子の関係か。
それにしてもよく似ている。
そして恐ろしい程気が利く。
俺は久通殿という御仁に弾正殿が行ったように胸の中で力強く親指を立ててみた。
ところでお市さまだが何か吹っ切れたのか奥方が差し出した酒を飲む気になったようだ。
勧められるまま、お市さまはおずおずとその盃に口を寄せた。
一口。
するりと吸い込まれる淡く濁った至福の飲み物。
するとやはり、お市さまは星が降ったかのように驚いて奥方を見た。
「あ……美味しい」
「ふふっ、気に入って頂けてこまも嬉しゅうございます」
「これはどこのものです?」
「これは明国の貿易商から買い付けたものです。そしてご明察の通り桃の果実酒にございます。桃は長寿と安寧の果実。お市さまが心安らかであるようにと主人が特別に仕入れました」
「……色々気を回して頂いてありがとうございます。松永殿にもお礼を述べなくてはなりませんね」
「まぁ、主人が喜びます」
うふふ、あははとまた和やかで穏やかな空気が二人を包む。
それを前に何事もなく平静を装わなくては行けないのが辛い。
言葉に詰まり、そのやり取りを凝視し続けてしまう。
このような性癖が俺に有ったのかと思うと何やら先行き不安である。
現に手拭いの湿り具合がそれを物語っている。
弾正殿などは人目も憚らずうっとりと頬を染め夢見心地な表情でいるが、見ようによっては酒のせいと言えるから酒とは便利な代物であるとこの時痛感する。
俯き、胸の中で深呼吸する。
ちらりと二人に視線を移すと今度はいつの間にやら俺の方が見られていた。
「高虎? 具合が悪いのですか?」
「あらほんと。少し顔色が悪いですね。ご飯はちゃんと食べれてますか?」
「そういえば私に付きっきりで食事がまだでしたね」
「ならそろそろお腹も限界でしょう。蕎麦の準備は無いですが、当主様の連れて来られた料理人はなかなか腕が立ちますよ」
「ならここは甘えましょう。高虎、私は良いですから何か食べてらっしゃい。それとも私達が食べさせましょうか」
「お市様、それは良いですね。高虎殿、どうします?」
化粧で妖艶さが際立つ瞳が俺を射抜く。
また図らずも顔に熱が集中し、あわあわと慌てふためいてしまいそうになる。
胸の前で掌を振ってみたりして何とかその誘惑から逃げ切る。
想像せぬ訳では無いが、慣れたお市さまだけならば何とか耐えられそうな状況もこの奥方の化粧といい衣装といい、仕草といい、とてもでは無いが理性が罷りならない。
「め、滅相もございません!」
「あら遠慮せずともよろしいですよ。ねぇ、お市様」
「ふふっ、そうですよ高虎」
「きょ、恐縮にございますれば。い、行ってまいります!」
足早に退散し、その場を離れる。
からかわれていたのだろう。
俺の様子に大人の女性二人はくすくすと微笑みあっていた。
しかしそれが嫌では無くて何となく嬉しく夢見心地にさせた。
ただものすごく心臓に悪い。
少し離れて影の方で落ち着こうと深く息を吸った。
そうでなくては色々とまずい。
しかし世の中とはままならぬものである。
「おい、小僧。飯ならこっちだぞ」
「お気遣いありがとうございま―――」
目を剥く。
声をかけて来たのは弾正殿その人であった。
***
怖い。
俺は後ずさったが酔った御仁に首根っこを引っ張られて逃げ出すことも出来ない。
あたふたするも大人の力に勝つことが出来ずそのまま松永家の男衆の中に放り込まれた。
そこにはさっきの大男もいて、ますます逃げ出すのが困難となり青ざめた。
「さぁ、食え小僧。久通の連れてきた料理人のはなかなか行けるぞ」
「は、はあ。……でも、なんで」
恐る恐る問いかけると松永弾正はあっさり答える。
「ん? お主には聞きたいことがあるのよ。まぁ先に飯じゃろ? ゆっくり寛げ。我輩らは生粋の女好きだからお主のことを取って食ったりせんしな。な、宗矩?」
目配せされた大男は女たちに囲まれてほろ酔いで弾正殿に応じる。
女たちを腕に抱えたり、抱き寄せたりしながら大いに楽しんでいるようだ。
「そうねぇ。おじさんはお稚児さんよりお姫様の方が好きだし。ね、久通様」
「え、私は綺麗ならどっちも行けますよ」
それに対ししれっと答えたのが弾正殿のご子息だ。
俺は思わずゾッとしたが彼は舌を出して目配せした。
「安心なさい。私にも好みはあります」
「久通は見る目があるからな」
「父上には及びませんよ。以前お会いした時のこま殿は少し整った顔立ちぐらいの感想でしたのに。まさかあんなに華のある女人だったとは」
「わしが手を掛け、暇を掛け、ついでに金を掛けたからな」
「なるほど」
「というのはこの舞台と衣装ぐらいだ。こまは元々美しい女じゃよ。自分の審美眼があぁコワイ」
含んだ笑みを零しながら弾正殿は酒を啜る。
先程よりお市さまたちと離れた位置に座しているせいか、誰に遠慮することなく二人の戯れを見つめ目尻を垂らしていた。
そんな
「ところで君がこま殿に文をよこしたのだろう? なぜこの不安定な時期に、それも我が松永の手の者に文を出したのかな?」
「俺は……いえ、私は別に何か悪いことをしようと思ってはいません。奥方様といてお市様が笑顔になれれば良いと思って、友と考えた末、文を出したまでのことです。浅はかだと思うのも承知しています」
「はは、確かに浅はかかもね。でもそう言うの嫌いじゃないよ。私も父も、この宗矩も。寄ってたかって君を追い詰める趣味は無いしね」
くすくすと微笑む久通殿。
弾正殿も宗矩という男も久通殿の言を聞いてふっと小さく笑う。
とは言うものの、こんな場違いな所に座して洋々と寛げる訳もなく、引き攣った笑みしか出来なかった。
だが、幸か不幸か今しかこの方たちと接する機会は無いのも事実であった。
「私たちの為にこのように色々と準備して下さってありがとうございました。本当に、素晴らしい宴でお市さまはとても喜んでおりました。最初は私のわがままでしたが、まさかお会いすることを叶えて貰えるとは思っていなかったので、嬉しいです……」
しどろもどろになりながら今の気持ちを伝えると、ここの主人たちはキョトンとした視線を向けた。
そしてどっと笑った。
その上、弾正殿はドカッと目の前に美味そうな食べ物を並べると「食え食え」と遠慮なしに口にそれを突っ込まれた。
「小僧の癖にあれこれ考えおって。いいんじゃよ、うちのこまちゃんもお主の所のご主人様に会いたいと言っとったからな。お主よりワガママな姫がうちにはいるんで慣れっこよ」
「いやほんとねぇ。こまちゃんって意外と頑固だから松永殿ってばしばらく構って貰えなくてオドオドしてたもんね」
「全くですよ。そのせいで私まで駆り出されて、代筆だのなんだのさせられるのですから。父上の方がそう言うのはお得意でしょうに」
「あぁ! うるさい。我輩は大悪党だぞ。たまには親分らしくさせろ。小僧もそう思うだろ」
「はぁ……」
―――知るか、そんなこと。
とはさすがにいえず。
さらに言うと口の中の美食が邪魔をして呼吸が苦しい。
むせ込むと「ほら水だよ」と宗矩殿が盃を差し出してくれた。
ありがたく頂戴して一気に飲み干すと、今度は喉の奥がカッと熱くなって頭がぐらぐらし始め、きちんと座ってられなくなった。
ついに倒れてしまうと、弾正殿も久通殿もゲラゲラ笑った。
宗矩殿の側にいた女人が膝を貸してくれた。
俺は目を白黒させて動転する視界に吐き気を催しながら問い質した。
「……何ですか。これは」
すると彼はこともなげに言った。
「おじさんのお酒だけど?」
「水って言ったじゃないですか……」
「おじさんにとっては水みたいなもんだしねぇ」
―――クソ、騙された。
しかし全く悪気など無いのだろう。
彼はぐびぐびと俺に飲ませたのと同じものをすすっている。
それを見て女たちが口々に褒めたたえているようだ。
俺はそれを横目に吐きそうになる口元を抑えるのに必死であった。
「可哀想に。宗矩にしてやられたね。父上、どうしましょう」
「少し横になれば良くなる。それにこやつはこまのお気に入りらしいからな。ちょっと悔しいから放っておけ」
「小さいとはいえ一応客人ですよ。今水を準備させるから少し待ってなさい」
俺は目を閉じて小さく頷く。
枕をしてくれる女中の膝はいつの間にやら本物の枕となっていた。
敢えてこちらを見て弾正殿が口元を上げた。
久通殿が頭を抱えて溜息をついていた。
この父親の下に生まれた久通殿の苦労が少し透けて見えた。
暗転する意識の狭間、つまみに手を伸ばしながら弾正殿が何か呟いた。
「ガキの癖に感謝など不要よ。それに我輩は情だけで動く小悪党では無いからな。せいぜいお主の飼い主には役立って貰うさ」
不敵に笑んだ彼は視線をお市さまに向けた。
その顔の邪悪なこと。
何とかお守りしなければと思うも体は動かぬ。
この人は悪党。
やはり信用は出来ないのだろう。
しかし表情の印象が強く、何を呟いたかなどは聞こえて来なかった。
「高虎」
次に目覚めた時、俺はお市さまの腕の中にいた。
俺は飛び起きると、そこはもう弾正殿の屋敷ではなく籠の中であった。
近江へ向かう街道を行く我ら。
日は高く、既に正午を過ぎている。
本来なら
まだずきずきする頭を抱えて居直るとお市さまが微笑んだ。
「昨夜は夢のような一時でしたね。あのように気兼ねなくおしゃべり出来たのなんて何年ぶりでしょう」
「それは良かったです」
「あなたも松永殿に気に入られたようですね。良かったです」
「はぁ」
無邪気に笑うお市さまはことの真相など知るまい。
気に入るというより、ていの良い玩具にされた気がするが、そんな不満を言っても栓のないことである。
「吉継にも良い土産話が出来ましたね」
「そうですね」
少しぶっきらぼうに答えてしまったが、お市さまは楽しげである。
あの時の歌曲など鼻歌いながら、景色を眺めておいでだ。
ここに来る前の儚げで壊れそうな彼女の鳴りは今は潜んでいる。
「それにしても本当に面白かった。それにこま殿ったら帰りがけにコレをくれたんですよ」
「なんですか、それ」
「ふふふ。高虎にだけ教えますね」
そっと傍らから取り出したのは唐物の美しい小さな壺である。
うきうきしながらお市さまは言った。
首を傾げると彼女は蓋を開ける。
噎せ返るような甘ったるい酒の匂いが満ちた。
「あの時勧められたお酒ですよ。寝る前に長政様と楽しむつもりです」
「……悪妻と言われますよ」
「他人に見せる訳でも無いのですから良いのですよ。なんせ私のお友達は悪党の手下なのですから」
くすりと笑ったお市さまの表情はいつもと少し違って艶めいていた。
まるであの悪党の奥方が乗り移ったようである。
「お市さまの変わりよう、きっと長政様が驚くでしょう」
「女も強くあらねばと思っただけですよ。あなた達を守りたいですから」
主人の柔らかな掌が俺を撫でる。
差し込んだ光にかんばせが照らされてまるで仏か天女のようである。
少し照れくさくて目を逸らした。
「……痛飲なさらないで下さいね」
「身をもっての忠告ですか?」
「からかわないで下さい」
このような言われよう、本当に吉継がいなくて良かった。
小谷城に帰還すると長政様が心配そうな面持ちで出迎えた。
出発前のお市さまの様子をご覧になってのことだろう。
しかし籠を降りたお市さまの、彩りを差したような艶めいた笑顔を見た瞬間―――長政様は不意打ちで豆鉄砲を食らった鳩のように、表情を崩し―――人目も憚らずその御身をお抱きになった。
「市、おかえり」
「長政様」
破顔して、妻を
そしてお市さまの際立つ美相。
後に控えていた吉継が「何があった」と問い質しに来た。
「松永様の屋敷で何かあったのか」
「……何も」
「この流れからしたら嘘だな」
「……後で話すから待っておけ」
お役目を終えた夜、俺は吉継にことの詳細を語った。
いつに無く目を輝かせながら聞き入る友に俺は少しだけ誇らしい気持ちになる。
もちろん情けない出来事は伏せたが。
美しい天女と可憐な我が主の物語のような一部始終。
それと小癪ではあるが松永弾正の洒落た持て成しの数々。
「俺もこま様に会いたかったな……」
「いつか会えるさ」
呟いた吉継。
しかし悪党の屋敷には二度と行くことはあるまい。
ただ俺がそこで見た景色は二度と忘れないだろう。
近い将来この平穏が崩れ去ったとしても。
20231125