松永殿と恋煩い
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蝉の鳴く声がとにかくうるさい。
炎天下、私は蜃気楼に囚われぬように気を引き締める。
さて取り組むのは洗濯物との格闘である。
本格的に梅雨があけ、ようやっと貯めていた大きな衣類を片付ける日が訪れた。
大きな木桶の中に冷たい水を張ってそこに打掛やら着流しなどを放り込む。
私は太ももまで脚を出して、その中で無造作に踊った。
この暑さ、陽射しの中、汚れが浮かぶ度に水を取り替えるのはとても重労働で、辛い。
手も足も参ってしまう。
しかし私以外に久秀さまの下女はおらぬから、やはりいつかはやらねばならない。
やらねばならぬ事があるのは幸せでもあるのだからと思って、一生懸命務める。
強すぎる日の光に頭も参ってしまう前に、何とか片をつけたい気持ちで取り組んでいたら目の前を掠める何か。
「あら……とんぼ」
ちょっとの間静止してその様子を見てみる。
水場を求めて銀色の細長いとんぼが
だが洗い桶には私という邪魔者が先客として居座って、桶の中で豪快に波を立てている。
しばらく彼らは私の周りをぐるぐる回っていたが、その内諦めて尻尾を向けて去った。
一瞬目を離した隙にその姿は消え去っていた。
「せっかちねぇ」と思わず呟いた。
せっかくと言えば、あの宴の日よりまた時が過ぎ、季節は真夏の盛りとなった。
足早に時が過ぎ去って、この記憶からもあの時の興奮や畏怖が薄れていた。
代わりに厚くなったのは久秀さまの執着である。
あの日以来、久秀さまの気が済むまで片時も離れるなと仰せつかっている。
日差しに熱く焦がされて、額から汗が滝のように流れ落ちる。
胸元にも水溜まりが出来て、谷間に挟めた手ぬぐいはびっしょりと汗を吸い取っていた。
あくせく働く私。
それに対して着流し一枚で、―――それさえまともに着用せず着崩して、縁側でごろ寝する久秀さまが私をじっとりと眺めて言った。
扇子を仰ぎながら「暑い、暑い」とぼんやりした口調でぼやき、気怠げな眼差しを向ける。
いつもの獲物を狩るような狙い澄ました視線は今は鳴りを潜めていた。
「なぁ、こま」
「はい」
「我輩を誘っているのかね?そんなに脚を出したら観音様が見えてしまうぞ」
ただしこう言う所は健在だ。
それに対し私は水に晒した脚を見る。
なかなか大胆な姿ではあるがそこまで出ているだろうか。
少しだけ自分の姿に動きを止めた。
照りつける日光により水面がきらきらと輝いている。
反射した煌めきが視界を白く霞ませるので私は少し目を細めた。
「そんなわけないでしょう。意地悪ですね」
「何でそう言い切れる? 褌でもつけているのか?」
「えぇ、あれはとても便利です。腹も冷えませぬし、腰も支えられます。用を足すときは少し不便ですがすぐに慣れまする」
「着けているのか? 道理で色気がない訳だ」
「失礼な」
久秀さまは退屈そうな溜め息をつきながら、今度は大の字で仰向けに寝転んだ。
私は少しばかり、むっとした。
実際のところ褌など着けていないが、色気が無いなどと正面切って言われると女の沽券に関わる気がした。
相変わらず締まりの無い顔つきで団扇を仰ぐ主人に私は促した。
「久秀さま、お暇ならこちらに来てくださいな。涼しいですよ」
「嘘をつけ。そんなに汗をかいてるくせに……」
「でも冷たくて気持ちが良いですよ」
「……暑くて動けん」
日陰に隠れて居るにも関わらず、ぐったりとしおれた草花のように生気を奪われている。
そんな主だが、働く自分をよそにぐだぐだと視界に入られては少し癪である。
ただ猫なで声で呼び寄せて見ると、素直に応じる主人が可愛らしくも思う。
ぼんやりと元気なさげに視線がこちらに向き直った。
恐る恐る足を日向に出した久秀さまの「あちち」というお声が聞こえた。
「日当たりが良すぎる縁側も困りものですね。でも洗濯物は良く乾きます。早く干したいから、手伝ってくださいな」
「お主は我輩を殿と仰ぎながらこき使うのが仕事か?」
「寝て暮らして良いと言うから雇用されたのです。洗濯するだけ感謝してくださいな」
それから手招きして呼び寄せると、久秀さまは重そうな体を起こして、しょうがないとため息をつき下駄を履いてやって来る。
あからさまに面倒そうな表情をする久秀さまの手を掴みとって桶の中に一緒に入った。
大人二人分の重みに桶がみしみしと小さな悲鳴をあげた。
久秀さまは子供のように身震いしてじたばたもがく素振りを見せた。
「ひぃ、冷たい。玉が腹に引っ込むわ」
「そんな事を言わずに足を動かして下さい。ほら」
「まったく。我輩をそんな風に使えるのはお主くらいだぞ」
「片時も離さないのでしょう? 私だって離しませんよ」
「意味を履き違えとる」
そう言いながら、苦い表情のままで足をぺたぺたと動かしていく。
時おり狭い足場の為にお互いの体が擦り合ったりする。
お互いよろけ無いように手を取り合い、視線を交わしながら足下の着物を丹念に足踏みしていく。
そんな様子に思わず笑みが溢れた。
「天下の松永霜台様にお手を取って頂いてこまは幸せ者なのでしょうね」
「今さらだな。最初から我輩はお主に惚れていると何度も言っているのに未だにお触りの一つも許そうとしない」
「勝手にお触りじゃないですか。臀も胸も口も」
「そんな堂々とした反応じゃだめなの。もう少し恥じらってよね、こまちゃん」
口を尖らせる久秀さま。
冷たいと騒ぎ立てた割りに、ひとしきり動いたことで玉の汗が彼の額にも滲んでいた。
そのうち真剣に足を動かしていくと二人とも無言となった。
水の波立つ音と桶が軋む音だけが聞こえた。
―――ちゃぷちゃぷちゃぷ。
―――きいきいきい。
これ以上は頭が暑くて敵わないと思ったところで止まる。
そろそろ干しても良いだろうと彼からも達しが有り、合わせた手をほどく。
久秀さまが「あ」と何か言わんとしたので「何か?」と問いかけた。
「いいや」と、首を振った久秀さまの手のひらがスルスルと背後に回った。
「なんじゃ褌など着けとらんじゃないの」
「着けてるなんて一言も申しておりませんよ」
「む、むむぅ……!」
「騙したな」などと言いながら鷲掴みにしようとするので、さっさとかわした。
桶からするりと脱出すると置いてけぼりの彼も足を上げる。
この炎天下だ。
日光で熱くなった下駄を履いたら濡れた足裏などものの数分で乾いてしまった。
むしろ「熱い」と言って久秀さまはまた日除け用の木の陰に引っ込んだ。
その先には
まだまだ仕事はこれからだと言うのに軟弱である。
私は水気を絞り取り、物干し竿に着物や湯文字、主人の褌をかけていく。
その様子をまた手伝う素振りも見せずにぼんやりと脚を組み、その上で頬杖を付いたまま久秀さまは眺めている。
ようやく仕事を全うする辺りで久秀さまは猫のようにすり寄ってきた。
「なぁ、こまちゃん」
「はい」
皺を取りつつ干している為、そちらを見向きせずに答える。
何かされるな、と思いながらも背後に立たれる事を許した。
案の定、この暑さの中で彼は腰に腕を回しつつ肩に顎など乗せてくる。
剃られていない髭がちくちくと頬に当たり、時々身をよじった。
「あのな、以前、灰被りの姫の話をしただろう?」
記憶を手繰り寄せて見る。
確かにそんな話を聞いたなと思い出し問いかける。
「奇術を使うお婆さんが出てくる話ですか?」
「お〜覚えとったか。偉いのう。そう
そう。実は伴天連の間で奇術が出る話は禁忌らしいのだが……」
そぉっと腕を取られる。
洗濯物を丁度干し終えたのを見計らって掌を合わせる。
蒸し暑い故さっさと日陰に引っ張られ、腰を取られた。
そのまま体をぐいと仰け反るように傾けられる。
「わるつ、とか言ったかな」
「なんでしょう」
「踊りのことだ。知っておるか?」
「いいえ」
すると久秀さまは私の腕を上に上げさせ、器用に回して見せた。
回されるのは癪だが、ふわりと一回転した際に面白い感覚であると思った。
久秀さまがしたり顔で目を細めた。
「気に入ってくれたかね?」
「はい。急にされると目が回りますけど」
「なら良かった。伴天連の輩にあちらの国の踊りを見せてもらったことがあるのだ。驚いたが男女の踊りがとても多いのだ。手を取って、こう男が女を手繰り寄せるように舞う。もしくは密着したまま静かに揺れるように」
そう言うと久秀さまはまた私をしっかり抱き寄せ教授なさる。
日陰であってもこう密着していると暑い。
だが時折吹く風が涼しくて、じりじりとした照りつけから開放される。
それに支えられてゆらゆら揺れていると、しばし眠くなる。
しかし久秀さまは意地悪であるから時折緩急つけて揺さぶって眠気を払い落として行く。
「男女の踊りとは異なことを。宣教師は皆男では」
「だと思うだろう?」
久秀さまはボソボソと呟くように私にだけ教えてくれる。
この場には二人しかいないにも関わらずわざとらしく声を潜める。
「あやつらとて人間だ。やれ衆道はダメだ、男色はダメだとほざきながら女がいなければ勝手に自分の都合の良いように男と番になる。神の前で女を抱きませんと誓いながら、男の尻に突っ込む禿げ頭どもを想像したら笑えるだろう?」
とは言いながら笑みの一つもこぼさない久秀さま。
暑さで額に汗の玉が浮かんでいた。
「まぁ、この日の本で男色はダメだなんて言う自体が理に敵っていないがな」
ようやく、くすくすと微笑む久秀さまは何か思い出したのだろう。
その言いたい事の裏をなんとは無しに察して答える。
どこの世界にも生臭坊主は存在するらしかった。
「ある種高貴な方々の嗜みみたいなものですからね。久秀さまは女人しか抱かないようで何よりですが」
「だってなぁ……男は抱き心地が固いもの」
「その言い分だとご経験があるようで。でも私より蘭丸殿はずっと美しいですよ」
「だとしても嫌」
はっきりと答えた久秀さまの眉間には深い深い皺が寄っていた。
経験した上での話なのだからよっぽど嫌なのだろう。
私としては男色に傾いておられた方が獲物にされずに済んだのだが、今更な気がした。
「で、この踊りが何です?」
「あのな、桶の中で手を合わせたろう。 あれがとても似ていてな」
そう言うと久秀さまはまた手を取り直して合わせた。
だからあの時、物言いたげな顔をしていたのだろうかと合点がいった。
またしても腰を抱いてゆらゆらと左右に体を揺らす。
振り子のようだ。
一応それを食い扶持にしてきた自分が、疑問符を掲げていると私の表情を見た久秀さまが苦笑して目を細めた。
「我輩は下手くそだからそんな顔をしないでくれ」
「いえ。もっと教えて欲しいのです」
「我輩も舞は分からぬよ。我輩が好きなのは茶と城だもの」
「存じてますとも。この前も何かお買い物されてましたものね」
「あぁ。この前は茶入れを買った。茶器にも金をかけたが、我輩の作った城はすごいぞ」
「多聞山城でしたね。今は久通様にお譲りでしょう? そんなに言うなら行ってみたいですわ」
呟くと、久秀さまは少年のように瞳を輝かせて「もちろん」と答えた。
よほど自慢なのだろう。
聞いても居ないのにあれやこれやと喋り始めた。
このように喋り倒すこの御仁を見たのは初めてだった。
私は傍らに腰掛けながら彼の熱弁にひたすら頷いた。
目がキラキラと輝いて少年のようだと思った。
多聞山というのは元々は違う名前であったが、久秀さまが指揮した戦が勝利した折りに改名したらしい。
多聞とは毘沙門天のことである。
今でこそ毘沙門天とは上杉謙信の旗であり戦の神であると有名だが、他にも金銀財宝の悉くを司る神であるのだとか。
なるほどその通りで、松永久秀と言う人は趣味や享楽で人一倍遊んでいても金に困ったことは殆ど無いようだ。
それにもう一つの自慢というのが伴天連の総本山である首都、ダリよりもその城が何倍も抜きん出ているのだという事をも語った。
ルイス・フロイスというイエズス会の使者の手記に多聞山城の事を詳細に記録した記載がある。
後に織田信長により、その一切の形跡を残さず破壊されるまで、恐らく国一番の城塞であり美術品だった。
目利きの達人であり、性格も凝り性なものであるからよほど見た目にはこだわったのだろう、と、見もしないうちから私は関心した。
その上、久秀さまはそのフロイスという者の驚く様や如何と、自慢気に語った。
「あちらの者共は、はなから東の果ての野蛮人と我々を見下しておる。その野蛮人が作った城が己の領分を遥かに凌駕しておれば歯ぎしりしたくもなろう」
それについては頷いてみせる。
誰でも意表を付かれることは必ずあるからだ。
「我輩はとぼけた顔で言ってやったわ。そういえば貴殿らは我らに何を教えに来たのかな? とね」
「まぁ、相変わらず性格がお悪いこと」
話ながら悪党の色を濃くしていく久秀。
まだお喋りは続きそうなので水菓子などを準備してまたその横に腰かける。
水で淹れた茶も勿論忘れずにいる。
「城はな良いぞ。作ってみると楽しい。それにその者の美意識が分かる」
「久秀さまの城なら美しいでしょうね」
「あぁ。美しく作った。まさに絶世の美女だよ」
「城だけに?」
「ま、そういうこと。――言っとくが「城だけに」など、あまり面白くないぞ」
「上方の「ノリ」というものの方が今一つ私には分かりかねまする」
「それもそうだな」
久秀さまはゆっくりと湯呑みに口づける。
溢さぬように配慮した動作だった。
正午を回ったのだろう。
蝉の声があちこちから響いて煩いくらいだった。
「あぁ、うまい」としみじみ頷く彼に私は呟いた。
「我輩はお主の魔法使いであり王子様だからな。我が城に姫を招待してしんぜる」
胸に手を当て、西洋式の礼などしてみせる久秀さま。
しかもご自分で王子様などと言うものだから少しおかしかった。
「王子様というには少し年齢が……」
「こら、笑うな。日本式で言ってもときめかないだろ」
重々承知しているのだろう。
少し久秀さまの頬に赤みが差した。
「今の言葉が南蛮式なら何なのです?」
「さぁ? 魔法などと言う概念がこの国の者に分かるかも不明であるからな。強いて言うなら……変態であり殿様」
「またの名を松永久秀。なるほど」
「むっふふ~、その通り……ってお主は」
つまらないと言われない辺り、これが上方の「ノリ」というものらしい。
怒った素振りを見せるものの、久秀さまの瞳は優しかった。
「信長の近くにいるのも飽いたし、お主と家来一同連れて京に帰っても良いな」
「御意向にしたがいますよ、御屋形さま」
「じゃあ帰ろうかな」
とても陽気に言う彼。
まるでその辺の店に出掛けに行くような軽快な声に私は「はい」と答えた。
そんな折りだ。
玄関口から人が呼ぶ声がした。
「この暑い日に誰だ」
途端に不機嫌になった久秀さまを宥めつつ、私はその声のする方へと向かった。
私は戸口を開ける。
尋ねて来るものなど限られているため、無用心過ぎたのかも知れない。
蝉の声が五月蝿すぎてその声の主が誰か見当も付かなかった。
「どなた」と、声をかけつつその人の顔を見付けて私は驚愕した。
向こうも驚いていたに違いない。
私は後ずさった。
尋ねてきた御仁は手首を掴んで制した。
「……女だったのか」
「あ、あの……」
私はどうすれば良いか分からず、咄嗟に振り払った。
しかし、訪ねて来た者の口許がかすかに上がったのを見逃さなかった。
「何事だ、こま」
喧騒を聞き付けた久秀さまが足早に下駄で駆けて来た。
乱れた着流しが揺れていた。
しかし私の目の前の人物を見ると彼は瞳を大きくした。
そしてそのまま居住まいを正して、平伏した。
「ご機嫌麗しゅうございます。信長様」
「面を上げよ、久秀。余は先日の褒美を取らせに来たにすぎぬ」
「ご厚情、感謝いたしまする。殿にご足労させるとは面目御座いませぬ」
そう言うと、久秀さまは私に客間の準備をするように命じた。
私は直ぐ様、命に従い逃げるように家の中に入り込んだ。
私の心臓は跳ねていた。
恐ろしいほどに早鐘が鳴っていた。
冷や汗が流れる。
あの瞳に食われるかと思った。
準備をしていると久秀さまが背後にいた。
彼は動揺している私に「落ち着け」と一言添えてさらに命じた。
「着流しでは礼に欠ける。狩衣と合わせて着付けてくれ」
私は急いで、久秀さまの長持を開ける。
いつもの調子でてきぱきと出来ているだろうかと心配になったがどうやら大丈夫そうだ。
耳元で彼が囁いた。
「安心しろ。奴なら取り次ぎで待たせておる」
「はい」
「腕を握られていたな」
頷くと頭上から舌打ちが聞こえた。
どうやら琴線に触れるものがあったらしい。
私はそれ以上語らず彼の身なりを整えた。
「なぁ、こま」
「はい」
「しばらく外に出ておれ。家臣団の屋敷にいろ」
「ですが……」
「若造の相手くらい一人で出来るわ」
そう言うと、彼はつまらなそうに欠伸をした。
準備が済むと、私は取り次ぎで待つ織田家の当主を客間に促した。
「お待たせ致しました。主人の支度が出来ましたので、こちらへどうぞ」
「分かった」
簡易に答えたその人はもの珍しげにこの家の内装を見ていた。
柳生殿ほどの背丈は無いにしろ、低い天井は手を伸ばせば届いてしまうだろう。
平服のこの人は一目見ただけではただの町人にしか見えない。
玄関で声をかけたのもこの人だとしたら普段の姿はこちらなのかとさえも思う。
さらに私は、この方はお一人でここまでいらしたのだろうか、などと考えていた。
御自分の領内であるから共も連れずにふらふら出来るのかと呆れもした。
しかし仮にも久秀さまの主君である。
下克上の世の中でころころと主君が変わると言えども先程礼を欠いたのはとても痛い失敗であった。
その心中を知ってか知らずか、信長様がさきに口を開いた。
「生駒……と、もう一人の者が言っていたが、さっき久秀はこまと言っていたな」
「はい。それが何か」
「いや」
武士であれば主君に名を覚えられるというのは大変な誉れであろう。
何せそれによって、一生分の食い扶持が出来るのだから。
それ故、武士はその本分以上の働きを常に気構えし、戦に駆り出される百姓は武士に負けぬ功を競い落武者狩りなども平然と行う。
だが、あいにく私は女であるし武士の栄華など興味は無い。
「お連れ致しました」
さほど長くもない廊下を渡り主人へとと伝える。
小さな茶室にも変わるその部屋では、茶釜が火鉢にくべられている所であった。
出迎えた久秀さまの表情は年の功とやらで柔らかな笑みを湛えていた。
対峙する者によって仮面を上手に使い分けられるのは流石であると思った。
「信長様、お待たせ致しました。お入りください」
呼びかけられた信長公はゆっくりと頷いて、久秀さまと同じ空間へと足を踏み出した。
するともうそこは主人の支配する領域である。
「こまは下がってよい」
「畏まりました」
「それと、御使いを頼まれてくれ。茶菓子が足りなくてな」
「はい」
そのまま短く答えて客間をあとにした。
信長公が客間に入るのを見届けると、静かに家を出て柳生殿のいる家臣団の屋敷に走った。
*
一方、久秀と御客人のやり取りは静かに行われていた。
「わざわざ尋ねて来られるなど驚きました。それほどあの娘が気に入りましたかな」
「やはり女である、か。うぬの趣味で女の成りをさせているのかと思ったが」
「えぇ。器量良し故大人数の人前ではあの成りで出させました。そういえば、信長様の御子息様から、あの者への求婚の手紙が届きました」
「であるか。子供には男も女も無いようだ。本質を見抜いておる」
「えぇ」
煮立った湯を抹茶に注いで行く。
鮮やかな緑を更に濾して口当たりを柔らかくさせる。
あら熱が冷めるまで優しく溶かせば、さらに美しい春の新緑のような色になる。
今は真夏であるが、この部屋は風が通るから涼しい。
木陰を通り抜け、厳つさを失った柔らかな風が二人の静けさの中に微かな音をもたらした。
さきに口を開いたのは久秀だった。
出来上がった茶を差し出して、外の景色を眺めながら。
「信長様、我輩と家臣団は京へ帰ろうと思うのです。元々あちらの水に慣れているものですから、そろそろ恋しくなりました」
「いきなりだな。何故」
「さぁ……殿より二回りも年ですからな。世間で言うならもう老人です。若い頃より死を身近に感じるのですよ。妻とのふとした会話にも己の衰えを感じます」
「……妻」
信長の呟きに、久秀はゆっくりと視線を落とす。
自嘲気味に言うと己の分の茶を客人よりも雑に適当に拵える。
殆ど水のような茶を入れた器は信長のよりも小さくて寂れていた。
「えぇ。あれは我輩の妻です」
「であるか。俺よりも若いな」
「年甲斐もなく、自分の方から惚れましてな」
そこには梟雄と言われた面影は殆どなく、好々爺のゆるりとした雰囲気が漂う。
張り詰めては緩むこの空気が信長は嫌いではなかった。
その上、風流好みの久秀がこの茶室という特別な空間を貶すことは無いという確信を抱いていた。
個性の強い似た者同士で憎み合うというのはざらだが、似た者同士であると言うよりも、信長にとって久秀とはひとつの憧れである。
憧れが作り出す空間を無下に出来ようもなかったし、己にへつらう者らには決して出せぬ居心地の良さを感じていた。
要するに信長は久秀を好いていた。
久秀の小ぶりな茶器に目を奪われて言った。
「うぬの目利きは動かぬ物ばかりに留まらぬのだな」
「自慢では無いですが、あれは良い女です。この年寄りに良く尽くします。望むものは何でも叶えてやりたいが、本人は何も言わぬのですよ」
「だから帰るのか」
「まぁ、男のわがままに付き合えば女
にやりと面白そうに笑った久秀に信長は「なるほど」と頷いた。
実際濃姫などは元来の優しさを置き去りに魔王の妻を見事に演じ、今やそれが馴染みつつもあった。
心を閉ざしているともとれたが、あれは自分への当て付けとも最後の抵抗とも取れなくもない。
濃姫のたおやかさや淑やかさに、人をいたぶって楽しむ等という残虐な思考は本来は似つかわしくないと感じつつ、それを望んだ自分がいた。
魔王の横にはそれに相応しい残酷さが必要だと思っていた。
馴れ初めの頃のあどけない少女は今やいない。
懐かしんでも、きっと戻れないだろうと信長は思った。
自分のぎこちない愛情を素直に受け入れてくれた優しさを思いながら、信長はそれを強制した自分に苦笑した。
「箍を外すか……」
「えぇ。しかし女は愛されて花を咲かせますが、男は愛してこその花です。愛すべき者が居なければ何になりましょう。栄華を極めようと、天下に名を馳せようとすべては泡沫。諸行無常です」
まるで平家物語だ。
目の前の久秀は肌身で感じていても良く分からぬ「感覚」というものをいとも容易く言葉に置き換えて表現して見せる。
それは己の未経験の境地を先に越した者が出来る事だと思えた。
実際久秀のよく知る三好長慶や足利幕府の者共は栄華を極め事実上の天下人であった。
しかしそれももはや無い。
「殿はまだお若い。女遊びを慎めと言う輩は多いでしょうが大いに楽しんだ方が良いですぞ」
「……その言、分かりかねる」
「身を持って分かれば良いのですよ。女は素直で可愛い。しかし欲深い。愛しただけ自分が大事にされるが、裏切れば死よりも恐ろしい制裁が待っている。あぁ、これは我輩の死んだ妻の話です。若い頃は苦労しましたよ」
さらりと自らの体験を聞かせ、暗に苦労しろと宣う久秀に信長は小気味良さを感じた。
この嫌味な老人には参る。
「余は濃や他の側室らで手一杯だ」
「ほう……愛妻家で結構ですな」
「……」
久秀の妻とやらはとても魅力的である。
稚児姿で、優雅な天女のようにも荒れ狂う獣のようにも舞うその者に心が囚われた。
故にそれが欲しい。
あの宴の席で衝動が差し込んだから、かような暴挙に出たのだ。
それは男だろうが女だろうがもはや関係なかった。
今回も褒美を取らせるという名目を出しておいて久秀から九十九髪茄子よろしく掠め取ろうと言う浅はかな魂胆もあった。
あれほど分かりやすく挑発したのだから久秀とて分かってはいる。
しかし、室に通され、この者が作り出す空間に居座り茶など啜っている自分はもはやその事など、どうでも良くなっていることに気がついた。
(俺はこの男のものだと思ったから欲しいと思ったのか。欲しいと思ったのは果たして女だったのか、それとも目の前の男か)
男色の根強いこの時代においてそれ自体は悪いことでも何でもないのは先に述べた通りだ。
しかし腑に落ちないのは自分の欲心に対してであった。
何が欲しいのか分からぬというのは、この男にとって少なからず衝撃であった。
漠然と天下が欲しいともがいた若かりし時と、望めば全てが手に入る今、確りと欲しいものとは何であろうか。
それに答えるように久秀が答えた。
「欲しがらぬというのも良いことです。女ならなお。それは自分が愛とかいうもので満たされているという証でも有りますからな。満たされたなら次は壊すか、磨くのです」
ふわり、雪のように降りてきた言葉を咀嚼する。
それは蒸し暑さに冒された脳髄をひんやりと冷やして行くようだった。
その台詞は天下について考えていたこととも丁度通じるのではなかろうか、と。
「私めはあの妻を壊すなど到底無理な話ですけども」
くすりと微笑んだ久秀。
そして、この男をしてここまで言わせるあの女とはいかような才があるのか俄然気になった。
丁度自分が蘭丸を愛でるように、久秀が手を掛けて納得するまで磨いたならばもう他の男の手には負えないのでは無いか。
二杯目の茶はどうかと久秀が問いかけた。
この得心を与えた人物をやはり留めおきたい衝動がうなじまで差し掛かった。
しかしおくびにも出さずゆっくりと手の中の茶器を差し出した。
久秀は信長が何を考えているかなど微塵も興味が無いように、当たり前ながら茶器を受けとり無心に丁寧に茶を点てた。
「久秀」
「はい」
「許す」
「何をでございましょうか」
応えるものの、久秀は信長に視線をよこさず器の中の茶に集中している。
信長も窓の外の青々とした景色を眺めた。
風が草木を揺らす。
「うぬは京に帰るのだろう。信長はそれを許そう」
惜しいと思った。
が言ってしまってから「やはりダメだ」とは言えぬ。
いっそのこと久秀も久秀の女も手に入らないのなら燃やしてしまおうかとさえも脳裏に過った。
久秀は信長の言葉が聞こえなかったかのようにただ黙々と手を動かすばかりだ。
返事が無いのは焦れったい。
信長は更に付け加えた。
「餞別よ。宴の席での五百は多いと恒興に叱られたゆえ、百貫を褒美で取らす」
信長は溜め息を零す。
---何故かはめられた気分だ。
そこまで言って目の前の久秀は漸く手を止めた。
それでも無表情のままだ。
少しでも動じればよいのにこの年寄りは出し惜しむ。
夏の暑さも相まって、蒸して頭がおかしくなってしまいそうだ。
その間に鮮やかな色合いの茶が器に出来上がった。
差し出された茶器に添えられた指先。
ふと見ると、久秀はまるで困ったようにくすくすと微笑んでいた。
「左様ですか。ありがたき幸せ」
突然の許可に心臓が早鐘を打っている。
しかしここで表情を崩さば思うつぼであろう。
久秀は目の前の行いを終結させることを優先した。
平静を装う久秀、信長はその目元の緩やかさにしばし見入る。
食えぬのはお互い様だが久秀の含んだような、困惑したようなその笑みに思わず顔が熱くなるのを感じた。
開け放した茶室に良い風が吹き、幸いにもそれを紛らわせたが今度は胸の鼓動を否が応でも感じた。
出来たばかりの茶を一気に煽り、飲み干した。
信長の胸中など知らぬ久秀はいつ難癖つけられて撫で斬りにされるかと、冷や汗が止まらぬ。
しばし無言。
久秀を睨みつける視線を受け止めていると、ようやく「美味い茶であった」であったとの呟きが聞こえた。
「それは……嬉しいことですな」
「また来よう。見送りは不要、ぞ」
無表情で茶室を去る暴君。
少しすると外の門扉が開く気配がし、久秀はやっと肩の荷が降り安堵していた。
「ったく、わざわざ来なくたって良いんだぞ」
そして深い溜息は脱力に変わり、久秀は大の字に寝転がって胃の痛さを感じた。
20180219
20231115