恋煩いの短編集
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その景色は夢だとわかっていた。
だけどとても心地よくて離れられない夢。
愛しい人の腕に抱かれ、その温もりに浸る。
この時間が永遠に続けば良いのにと、幸せをそっと噛み締める。
しかし現実とはかくも残酷である。
彼は自分を置いて去っていくのも分かっていた。
もう何度目かも分からない、彼のせりふが夢の中で反芻される。
「さらばだ! また会おう!」
高笑いをしながら炎と煙の中に消えていく久秀に彼女は悪態をつく。
ㅡㅡㅡ久秀さま、そのセリフは聞き飽きましたよ。
しかしぼんやりと視界が開けるとその久秀さえ消えて悪態すら届かぬ。
残るのはぽっかりと穴の空いたような日常と、久秀の夢を見たあとは、未だせき止めることが難しい涙の跡。
久秀が信貴山城で散ってから半年、季節は大分進んだ。
久秀は自分の意思を最後まで曲げることなくこの世から華々しく散った。
それも誰もなし得なかった死に様だった。
その人を知らぬ者共は観劇でも見たかのように口々に話題にするが、なんと気分の悪いことか。
彼の言葉で言えば憎いことである。
今やかつての若さを失い、何かと反論する気も失せる。
かと思えば体だけは一丁前に久秀の温もりを求めるのでここは成長しきれぬのかと自嘲した。
子でもいればまた話は違ってくるのだろうが、ついぞ久秀とこまの間にそれは成されなかった。
あれほど孕ませると大言壮語していたが、それについては久秀も泉下で悔いているであろうとこまは考える。
いつものように庖厨に行き糧を得る。
そしてぼんやりと過ごしていたら今度は誰かが尋ねて来る。
「こまちゃん、起きてる? 」
「宗矩殿、おはようございます」
「あぁ、おはよう」
細い目をさらに細めて宗矩は微笑んだ。
久秀が散ってから宗矩は足繁くここに通うようになった。
というのも久秀が信貴山城で炎に巻かれてからこまは心を病んだ。
久秀の名を日がな一日呼び、涙に明け暮れていた。
宗矩の前で気丈に振舞ってはいたが、ある日忘れ物を取りに戻った宗矩にそれを知られることになる。
「なんだい、松永殿を思って泣いてんの?」
まさかもう帰ったであろう男がまた現れて自分の涙について物申すなど誰が思おうか。
泣いてなどおりません。
気のせいです。
しかしどう繕おうとこの男は引かなかった。
宗矩はこまに詰め寄るとその大きな掌で頬を包み、指先で涙を拭った。
「そんなに目真っ赤にさせて嘘が通じると思う? こまちゃんってさ、相変わらず詰めが甘いよね」
「そんなこと言ったって……」
「あぁ、分かってるよ。旦那を無くした女房はみんなそうだ」
皆まで言わず宗矩はその女の体を抱きしめて閉じ込めた。
あっという間のことであったがこまは足掻かなかった。
宗矩のその温もりが、大きさが今は心地よかった。
「そうやってずっと一人で泣いてたのかい? こんなに近くに、ずっとあんたに惚れてる男がいるってのに」
少しは頼っておくれよ。
そう言う宗矩に優しく髪を撫でられこまは堰き止めていたものが一気に流れ出した。
それでも宗矩は静かにこまを抱き、決して離さなかった。
寂しさを抱えて壊れそうな女と、その女を今の今まで慕って側にいた男が番わないでいられるわけもなかった。
宗矩は言った。
「拙者は松永殿の代わりで良い。悪女みたいに利用して捨てていいよ」
真剣な眼差しのまま彼はこまに言った。
こまの方はと言うと久秀とは違う、宗矩の乱暴だが今までの情が爆発したような愛し方に翻弄されていた。
歳も体格もその性格も久秀とは違う。
だがこまを思い、愛そうと務める姿はとても似ていた。
気を遣る度にこまは久秀の名前を呼んだ。
愛しています、久秀さま。
こまは久秀さまを愛しています。
一緒に死ねなくてごめんなさい。
何度も何度も久秀の名を呼ぶこまに宗矩は胸が短刀で刺されるような痛みを感じた。
しかし宗矩は優しかった。
「松永殿の名前もっと呼んでいいんだよ。きっとこんなことしてたら怒って出てくると思うけど」
宗矩の言葉は甘い蜜のようだった。
それこそこまにとっては本望である。
もう一度、一目で良いから会いに来てくれるなら何度でも罪を犯して、彼に取っての悪い女となろう。
怒り狂ってこの身を裂かれても甘んじて受け入れよう。
「久秀さま、何故お一人で逝かれたのですか」
「そりゃあ、あんたを愛していたから、だよ」
あぁ……。
こまの口からは憂いとも悲しみともつかない嘆息が漏れた。
その日そのまま、こまは宗矩の胸に抱かれて眠りに落ちた。
そして宗矩はこまが目を覚ますまでずっと側にいて甲斐甲斐しく世話などした。
申し訳ないと彼女は言ったが宗矩は楽しげに言った。
「拙者さ、ずっとこまちゃんのお世話がしたかったんだよね。松永殿が幸せそうにこまちゃんの話する
だから今やっと夢が叶ったよ、と彼は笑う。
その言葉にこまはまた久秀を思い出したのと、目の前の男の優しさに胸が締め付けられるほど熱くなった。
その日からこまは宗矩の熱を久秀の代わりとした。
宗矩は喜んでその役目に甘んじた。
決して心から愛されることはないと分かっていても、こまを抱きその温もりを一番側で感じられるならそれで良かった。
心地よく風が吹き、こまと宗矩の間を過ぎ去る。
宗矩がこまを見る目は今日も変わらず柔らかい。
「機嫌、悪くないかい?」
「お陰様で。なかなか久秀さまは祟りに来ないのが残念ですけど」
「おやァ、そりゃあとっても残念だね」
くすくす微笑む宗矩の腕がゆっくりとこまの肩に回される。
もはやこれは日課である。
ゆったりとお互いの熱を感じ合う。
こまにも既に罪悪感らしきものはなく、ただ宗矩の抱擁に身を任せている。
「何か考えていた?」
「まさか」
「松永殿のこと考えてたんじゃないの? 拙者は松永殿の代わりなんだから、胸の内を言ってごらん」
「……私も歳を取ったなと」
「それを言うなら拙者もだよ」
「それに久秀さまは随分お子を成したいと言っていましたが私が不甲斐ないせいで……」
「松永殿は年だったからこまちゃんのせいじゃないよ」
「そうかしら」
「そうさ」
腕に抱く女が小さな声で問いかけるが全て宗矩は受容する。
宗矩の言葉を聞いてこまは小さく微笑む。
そして彼から離れるとサッと住まいに目を向ける。
「だとしてもこの屋敷に一人は寂しいので」
良く整頓されたこの部屋のあちこちにはこまの持ち物以上に久秀の物が溢れている。
宗矩はこまが言わんとしていることを何となく察した。
なるほど、ここには思い出が多すぎるのだ。
今は自分がいるから良いものの、こまにとってはそれがまだ苦しいのだろう。
いつか帰ってくるのではという淡い夢を抱きながら住むのも、別の場所に移って生活するのも胸を締め付ける。
せめて忙しくいたい。
こまが呟いた。
「なら拙者の子でも孕むかい」
「それは……」
「いや冗談さ」
少し困惑したこまを遮って宗矩は宙を仰ぐ。
こまは少し寂しそうにする宗矩を背に閨に褥を引いた。
誘うのも誘われるのも、ついこの前では考えられないほど簡単になった。
袖を引っ張ってこまはそこに男を引き摺り込む。
自ら食い物にされるのを厭わず宗矩はこまを抱いた。
意識が白く霞む中、こまは宗矩の言葉を考えていた。
そして後日宗矩は珍しい客人を連れてきた。
こまの言葉を気にしてかどうかは知らないが宗矩の側にはまだあどけない少年が控えていた。
その姿と言ったら宗矩ほど細目ではないが、雰囲気や顔の作りが良く似ていた。
こまは宗矩を凝視する。
バツが悪そうに頭を搔く宗矩であったが今更である。
こまが目で問いかけるとその通りだと彼は頷いた。
こまは視線を幼子に移し、よく観察しながら男に問いかける。
「いつの間にか子などもうけてらしたのですね」
「女が押しかけてきて……最近知った」
「詰めが甘いのはお互い様ということでしょうか」
ふふふ、と微笑むこまはとても楽しげである。
そんな様子を幼子は不思議そうに眺めて言った。
「おばちゃん、だあれ」
「私はこまです。父上さまのお友達ですよ。坊やのお名前は?」
こまが問うと幼子は宗矩の顔を見て、もじもじと答えた。
「おいらは、むねのり」
「え? 宗矩殿は父上さまでは」
「むねのりはおいら。おとぅは、むねよし」
こまが首を傾げていると宗矩は諦め気味にこちらも答えた。
坊の頭を撫でながら彼は申し訳なさそうにこまを見た。
それは親に叱られるのを恐れる子のような顔である。
「えっと……松永殿ってめちゃくちゃ敵多かったじゃない。だから拙者も死なないように偽名名乗ってたんだけど……押しかけた女は子供に拙者の名をつけてたんだよね」
「はぁ……それで」
「でも松永殿はもういないし、これからは偽名で生きる意味も無くなったし。改めて、拙者は柳生宗厳。こまちゃん、これからも息子共々よろしくね」
困り顔で息子をあやす宗矩改め宗厳の言に戸惑い、呆れつつもこまは頷くしかなかった。
なぜなら小さい宗矩が腹が減ったと父親の袖を引っ張って今にも泣きそうであるから。
行きずりとはいえ、父親らしく振る舞う宗厳に視線を奪われる。
こまはそれが何故かとても微笑ましくて心が暖かくなった。
一一一もし久秀さまとの子がいたならこんな感じだったのだろうか。
こまは黄泉の主人に問いかけて見た。
当然答えは無い。
しかしそんな無意味な思考より今は目の前の子供が優先であった。
「今からご飯にするところだったんです。宗矩殿、ぜひ食べて行ってくださいね」
ピタリと坊のぐずりが止まった。
調子が良いのは父子そっくりであった。
こまがそう言うと、二人の宗矩はとても嬉しそうに顔を見合わせた。
「おばちゃん、ありがと〜」
頭を下げろと父に言われた息子が花のように破顔して微笑む。
笑った顔がそっくりだな、と父と息子を見比べて思った。
それからこまは小さな宗矩を息子同様に可愛がった。
度々遊びに来る小さな坊にいつの間にか情が湧いたし、彼も彼女を慕った。
それが宗厳の計算だったのかどうかは知らないが、その後こま自身も宗厳の子を授かった。
息子であった。
それの父は「でかした」と言ってこまを労い、しばらく息子を離さなかった。
しばし穏やかな時がこの屋敷に流れた。
しかし子を産んだあとの肥立ちが悪く、その後こまは宗厳の腕の中でゆっくりと衰弱していった。
朧な意識の中、こまはぼんやりと久秀を見た気がした。
涙声の宗厳が問いかけた。
「こまちゃん……あんたも逝っちゃうのかい?」
「えぇ。すぐそこに久秀さまが来ているみたいです」
かつての張りのある肌は今は痩せこけて、目は落窪んでいる。
こんな姿では久秀さまに嫌われるだろうか、とこまが言うと宗厳は首を振った。
「そんな訳ないだろう。どんなこまちゃんだって綺麗だよ」
優しい抱擁にこまは胸がじいんとする。
それからこまはゆっくりと自らの子を抱き寄せた。
穏やかに眠る我が子のなんと愛しいことか。
だがすぐに目眩が襲う。
我が子の可愛い
「宗厳殿、最後に私に幸せな瞬間をありがとう」
今生の別れを述べ、こまは涙する。
幸せだった。
満たされていた。
これ以上何が私に必要であろう。
宗厳は微笑むこまから力が抜けていくのを感じた。
ゆっくりと魂が召し上げられる。
その感覚に彼は「あぁ…」と力無く声を絞り出し、次の瞬間地も震えるような大声で男泣きに泣いた。
久秀が信貴山城で散ってから三年後のことだった。
***
重い体が宙に舞い、そこは真っ白な空間である。
この場所は一体なんぞ、と思考を巡らせるも無知な自分にはさっぱりであった。
せめて手引きでも有れば良いのに、と思った矢先。
「おぉ、おぉ! お主もついにこっちに来たのか! 待っとったぞ、こま!」
ふと聞き知った声に目を向けると楽しそうにゲラゲラと笑う久秀がいた。
ㅡㅡㅡということは私は死んだのか。
ㅡㅡㅡいやまだ夢かもしれない。
死んだと思ったが実はドッキリでした〜とか言う夢をこまは何度も見ている。
だが、宗厳の寂しげな顔を見送ってからの久秀のこのおちゃらけた顔である。
何故かすんなり「あぁ、死んだな」と思えた。
するとどういう訳か生きている間の苦しみなど徒労に思えて、こまはため息混じりに笑っていた。
「あぁ、久秀さまがいる……変なの」
そのセリフが癪に障ったのか久秀はこまの前にずいっと前のめりになって視界を遮った。
「変とはなんだ、変とは。我輩はお主が死ぬまでずーっと待っとんだんだぞ。それなのにお主と来たら宗矩と……いや宗厳か? と、イチャイチャして子までもうけおって。あ〜悔しいったら。先にお釈迦様の前に行ってやろうかと思ったわい」
この不貞腐れた態度。
この面倒な物言い。
聞けば聞くほど久秀本人である。
久秀はと言えば下界で冷たいこまの体を抱いて大泣きしている宗厳を忌々しそうに眺めている。
「あまりそのように仰らないで下さいな。私も宗厳殿もあなたがいない間大変だったんですから」
「うぐぐぐ……我輩だってお主を抱けなくて寂しかったもんね」
「それを言うなら何故信長公に反抗したんですか。それが無ければ今も私達は生きてたかもしれませんよ」
「ん~、そんなこと今更言ったってなぁ……」
いじけている久秀の隣にそっと寄り添いこまはその手を取った。
夢に見た瞬間にこまはただただ時を忘れて握りしめた。
触れられる。
そして温かい。
匂いまでも久秀のものである。
失ってからずっと恋焦がれていた男が目の前にいる。
一一一夢ならば、もう覚めるな。
こまは久秀の名前を呼んだ。
「久秀さま、ずっとお会いしたかった」
涙で声が掠れたが、やっと視線が合わさった。
それがとても嬉しかった。
久秀の方は少し申し訳なさそうに目を伏せ口を噤んた。
そしてしばらく見つめあったあと久秀も゙こまを抱き寄せて呟いた。
彼の感情がこまの内側になだれ込んで来るようだった。
「済まなかった」
久秀の腕に力が籠った。
こまはそれに少し驚いたが、もう過ぎたことであると告げ、彼を抱き返した。
久秀が側にいるだけでこまにとっては十分だった。
「もう二度と離さないでくださいね」
「あぁ……もう二度と離さぬよ」
目を閉じると主人の匂いに包まれた。
久秀も゙同じ様にこまの髪に鼻腔を埋め深く呼吸した。
全てが満ち足りたその瞬間、視界の靄が晴れ、まるで雲海の上にいるように美しい景色が広がった。
ㅡㅡㅡあぁ、これが天上か。
こまが感嘆とともに目を輝かせたと対照的に久秀が小さな声で悪態をつく。
「ちっ、もう成仏しても良いかなァなんて思ったらこれか。我輩の感情など神にはバレバレってか」
そんなセリフにこまは大層驚いたあと、急に面白くなって今までないほど声をあげて笑った。
それと同時にいつ会えるともしれない自分を待っていてくれたのだなと思うと、どうしようも無い愛しさに包まれた。
きっと久秀さまを待っていた魂もあったろう。
それを振り切って今彼は自分の前にいるのだから、それだけで女冥利に尽きる。
悔いなど無い。
「良いでは無いですか。次は戦などない平穏な世に生まれたいですね」
「それはそれでつまらんような気もするがな」
「人間五十年と言わず百まで生きる世が良いですよ。もちろん久秀さまと一緒に」
年甲斐なく片目を瞑ってこまは言った。
しかしそこは天上である。
年など関係なく、久秀の目の前にいる女は出会った当初のきらきらした少女に見えていた。
自らの腕を引いて道無き道を行く少女に久秀もまた今までのことを思い出し、溢れんばかりの愛おしさと感慨に包まれた。
一一一この娘に会えて良かった。
ただそれを思った。
「あぁ、次の世もお主と一緒に生きたいものよ。今度は出来るだけ長く、な」
そう言った久秀にこまは「えぇ」と頷いた。
一迅の風が吹き、柔らかな光が降り注ぐ。
雲海の上を歩く二人は、いつの間にかその光と共に輝くきらめきの一部となった。
そして、それを見送る一つの人影。
「良い旅、どしたなぁ」
天上から降り注ぐ光を慈しむように目を細めたのは出雲の巫女。
全てを見透すかのように巫女は柔らかく微笑み、艶やかに舞い、揺蕩う光を見送った。
2023/10/22